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「あの子、今はまだ立ち上がれないのよ」
エルケには聞こえないようにカヤが言った。やはりか、とヤンは何も言い返さずにただ納得する。
扉を開けた時に振り返った表情はあどけなく、ヤンには透き通った空気を纏う薄幸の少女に見えて、思わず足を止めた。てっきり少年だと思い込んで連れてきたというのに少女と知って、らしく無く僅かに動揺したのだ。服装を見て直ぐに我を取り戻した、やっぱり男だった。
小屋に倒れている細すぎる体を抱き上げた時に見えた小さな足の裏。細かく鋭い石の欠片が足裏一面を傷付け、あちこち膿んでいた。手の平もそうだ。見えている限りで傷が無いのは顔くらいだった。
売り物だった筈の絨緞で巻いた汚れ傷だらけの体。襤褸布みたいな服の間から抜き出ていた手足は筋肉どころか骨しかなく、よくぞこの足でどこかから逃げてこられたものだと半ば呆れながら称賛した。
今、歩く事が出来ないのは至極当たり前のことだ。今まで歩けたことすらかなりの意地だったに違いないのだ。
ヤンは食堂から少し離れた壁に背中を預け、咳き込んだ背中をさすり甲斐甲斐しく世話しているカヤと、食事に夢中で世話されている事に気付いていないエルケを眺める。
傍に寄ると飯が不味くなる。そうカヤに威嚇されたからなのだが、離れたものの何と無く手持無沙汰で、カヤから見えない場所を選んで二人を眺めていた。自分が傍にいると飯が不味くなる理由はよく分からない。
エルケが匙に唇を付けるのに躊躇していたのは最初だけだった。
不安げに揺れていた大きな瞳。一度小さな舌を出し、匙の中を舐めたかと思うと一気にその速度を上げる。匙を咽喉の奥に勢いよく入れ過ぎて一度咽た。間髪入れずカヤがテーブルに置いた並々と注がれた水のコップを掴み、一気に咽喉へ流し込んでいる。また咽た。余程腹が減っていたらしい。
ヤンは脆過ぎる警戒心とその食いっぷりに感嘆していた。
ハーブが付け合わされた肉に、蜂蜜を練り込んだパン。
チーズと果物。滅多に見れるものではないアーモンドと牛乳のプディング。干しぶどうの入ったカスタードクリームが添えられたタルト。
カヤの趣味で用意された赤い模様のクロスが掛かったテーブルの上を、沢山の料理が並んでいる。食堂の隣にある台所にはまだ調理途中の料理が残っていた。
これだけの料理を全て病み上がりの病人に食べさせる気なのか、迷惑極まりない。腹を壊すだろう。むしろこれだけの短時間で、よくここまで用意出来たものだ。
柔らかく栄養のあるものを煮込んだというカヤ特製の胃に優しいスープはエルケの口に合ったらしく、匙を口に運ぶ度に青く血色の悪かった頬にはほんのり赤味が戻って来ていた。
子鼠みたく忙しなくテーブルの上を右往左往するエルケの半開きの口元に、カヤはまるで恋人のように得意料理を運び、その度エルケは唇を硬く結び頬を赤らめ俯き、観念して小さく口を開ける。エルケの方はまるで雛鳥の様だ。
エルケの仕草が、よりカヤのなけなしの母性本能を刺激するのか。カヤは食堂に入ってから一瞬たりともエルケの傍を離れようとしなかった。同時にヤンをエルケに近付けようともしない、結構迷惑な母性本能だ。いや、独占欲か。
ヤンは先程カヤから飯だと渡された硬く平たいパンを口に運び、顎を駆使して噛み切った。硬く、不味い。水で塊を無理やり流し込む。
窓からの日差しを浴び柔らかく揺れるエルケの赤金の髪は、無造作に首根元で切られている。
伸ばせばまるで女の様に可愛らしく見えるだろうに。自分で引き千切った様な不格好で揃わない髪の間から、細い首が僅かに見え隠れしていた。
まだ発展途上らしい細身の体は、これまでの栄養状態の所為か。何処となく中性的に見える。それを気にしているのだろうか。エルケは貧弱な体を隠す様にしっかりと隙なく服を着こんでいた。
シャツの一番上だけを少し開けているとはいえ、そんな首元が苦しそうに見える。
十五歳ならばこの貧弱さでもまだ仕方ないだろう。これから食べるものを食べれば、それなりに男らしく見えてもくるに違いない。
自分の十五のだった頃を思い出そうとはしたが随分と昔の所為か、ヤンには曖昧で思い出すことは難しかった。
ヤンはパン屑の付いた両手を見、エルケを抱き上げた感触を思い出す。骨の所為か硬く、ただ軽かった。納戸から食堂まで抱き上げ運ぶ間、エルケは腕の中で目を白黒させていた。
絶対に落すなと睨みつけるカヤに、だったらお前が運べばいいだろうとヤンは言ったがどうやらそれは駄目らしい。力的には可能だが、気分的な問題の様だ。本当にカヤの考える事は難しい。
胸によしかからせて抱き上げると顔の近くで揺れていた赤金の髪が顔に触れると柔らかい。触れようとも両手は塞がれているので、ヤンは顔を埋めて臭いを嗅いでみた。何故か尻にカヤの鋭い蹴りが入る。
髪先の臭いは大分薄くなっていた。ならば奥の方がどうだ? 蹴りを気にせず鼻で掻き分けて嗅いでみるとまだ根元の方は濡れ、小屋の汚泥らしき異臭はそう簡単には取れていなかった。
「まだ臭ぇな」
小さく呟くと、びくつく腕の中の体。
やはりルッツに乗せるのはまだ無理らしい。無理に乗せようとしたらヤンは次には水溜まりに倒されるどころか、後ろ足で蹴られるに違いない。カヤと同じ反応だ。
了承無く近付いたのに驚いたのか、腕の中で暴れたエルケが両手を小さく振り回しヤンの胸を弱々しく押した。髪に埋めた鼻が少し離れる。
押す力に力強さは感じられない。エルケには筋肉を付ける事よりも、まず体力を付けることの方を重視した方がいいのかもしれない。小さな反応には動じず、ヤンはこれからのエルケの鍛え方を考えながらその軽すぎる身体を目的地に下ろした。
椅子に小さく腰かけたエルケを見下ろした。エルケは怯えた表情を浮かべ、俯き手の甲に巻かれた布切れを爪で引っ掻いている。おどおどと視線を逸らした。
恐らく、この弱さではきっと遅くは無い内にカヤの強引さに押し負けるだろう。これからの事を考えれば早めにカヤには近づかないよう――特に夜、言っておかなくては。ルッツよりもカヤはずっと面倒な暴れ馬だ。
「名前は?」
と、暴れる体を下ろした椅子の横を陣取りカヤが聞いた。
腰掛けた姿勢のまま膝に両手を行儀よく置いたエルケは声を出す事がまだ難しいのか、少し躊躇してから俯くと唇だけの動きで「エリク」と答えた。
何処にでもある様なありふれた名前だ。それを言うと自分のヤン――Janという名前もなかなかにありふれた名前だから咎める事はしない。互いに腹に何か隠し持ちながらなのだ、無理に探って火傷をするのは好ましくない。
「歳は?」
と、聞くとやはり少し躊躇してく唇だけで十五だと答えた。その年の割には細く頼りない身体だがそれも人それぞれだ。指摘はしないでおこうとカヤと目配せをする。腹を探られて痛いのはエルケだけでは無い、恐らくこちらもそうなのだから。
「いい歳ね、十分射程範囲だわ」
ほくそ笑むカヤを離れて見詰めながら、逆に射程範囲では無い年齢はいくつなんだ、とヤンは呆れながらカップの水を飲み干した。
少しばかり他人に固執し過ぎるこの仕事仲間は喜怒哀楽の幅が激しく、何かに付けて暴力を振るいたがる。見かけこそ子供が好みそうな愛らしい少女然としているが、物騒な仕事を手に掛けているだけあってその中身はがめつくあくどい。
仕事で緑の都市ビューローに入ったのはつい最近の事だった。大口の仕事を抱え個別で足を踏み入れた銅山を抱く都市ビューローは花祭りの準備で忙しないせいか、活気に溢れ道行く市民にも珍しく笑顔が多かった。
寒さ厳しい時期をやっと過ぎ野山には緑が生い茂り、市場には香しい匂いを立ち昇らせた焼き立てのパンや、イチジクに葡萄やオレンジなどの果物も溢れ返っていた。
都市ビューローは市場を潤わせる職人や商売を目的とする商人を幅広く受け入れる開放された門戸とは反面、枯渇寸前の鉱脈を抱きその威信に陰り見えてきた領主が市民の財産を取り上げようとする権力の横暴さが目立つ秩序無い混沌とした都市だ。
近年、新しい銀鉱脈や銅鉱脈が次々と発見されているだけあって、懐を潤わす資源の発掘に忙しい。より高く売れ、より長く儲ける事が出来る資源を探しこの辺りでは諸侯や騎士の間で戦争が絶えなかった。
地域に根付き店を持つ商人と違い、ヤンやカヤなどの遠隔地を旅してルートを作り交易しながら商売をする商人が売るのは食料や衣服などでは無い。
主に兜や刀剣、甲冑などの軍用製品に高価な金銀細工。そしてたまに情報。
取引先と揉めると途端に険悪になるこの商売は、客である相手方よりも有益な情報や高価なものを取引する側の商人にどちらと言えば分があり引く手数多の客を選ぶ商人側から取引を反故にすることも多い。今回も多分に漏れず交渉役がちょっと揉めるなり姿を消すと、途端に力技に転じた客側からの物言いでカヤの堪忍袋が切れ取引は反故になった。
揉めた時には姿を消すに限る。
いくつかの高価な取引商品を持ち出し姿を消した仕事仲間を、早めにビューローを出る為探し歩いていたのは昨夜のこと。市場に持ち込んだ旅をするには重たすぎる今回の取引の一部だった絨緞が高価過ぎて取引にならず、持ち返りながらヤンはありとあらゆる場所を探し回っていたのだ。
取引相手に唯一顔が割れている奴が、目立ち人混みが多い場所にいるとは思えなかった。かと言って追手を撒き、ほとぼりが冷めるまで大人しくどこかに潜伏しているとも思えなかった。
探し回りふと見つけた小屋の中で汚泥に蹲る影。暴力沙汰になったとして遅れをとる玉とは思わなかったが、念には念を入れて覗き込み溜息を付いた。
探している姿では無かった。汚れた体に傷だらけの手足、どこかの屋敷に買われた奴隷が辛すぎる労働に耐え兼ね逃げて来たんだろうと思った。埃と汗でまだらになっている頬を一筋だけ涙が流れた跡がある。こんな子供でも今は簡単に死んでいく時代だ。どこか冷めているヤンの心の奥で、仕方ないという声が聞こえた。
寝ているというよりも意識を失ってるらしいやせ細った体は、このままヤンが見離せば夜明けを迎える頃には寒さでその息を止めるだろう。もし今、起してやったとしても面倒事を引き受ける程気がいい訳でもなく、聖人になりたい訳でもないのだ。
頑丈で気に入っている軍靴の底についた腐った草の汚泥を見下ろすと、背中側で重過ぎる荷物を長時間持たされているルッツが激しい鼻息で抗議した。主がなけなしの良心で悩んでいると思ったらしい。
ヤンは表情無く汚れた足を小屋端の乾いた藁で拭い、死に掛けの少年に背を向けた。
すん、鼻を鳴らす音が聞こえ足を止める。振り返ってもまだ意識が戻った訳では無かった。弱々しく片手が少し上がり何かを掴もうとして抱えた足に落ちる。膝を滑り落ち手の平は僅かな指の動きを止めて床に溜まった泥水の中に落ちた。
怪我をしていたというのか。手の甲に巻きついていた襤褸布が膝から落ちる時にずれて何かが見えている。
ヤンは体を向き直った。少しの好奇心でその何かを覗き込み――――舌打ちしながら、水溜まりを蹴り飛ばした。
「やっと落ち着いた所悪いけど、そろそろここを引き払いましょうか」
カヤの声で考え事に没頭していたヤンが顔を上げると、テーブルの上は綺麗に片づけられエルケは先程座らされたままの状態で食事を終えて不思議そうに首を傾げている所だった。
足が付きやすいい宿屋では無く、期間を決めて借りている小さな民家の契約期間には少し早いが確かにそろそろ潮時の様だ。
移動させる荷物は無く、全てが旅先で現地調達と決めてあるので移動を決断すると行動が早い。台所には食べ残された料理が山になっていても今晩にはやって来るだろう新しい借主が喜んで処分するに違いない。そういう契約になっていた。
カヤは荷台の付いた馬車を調達しに歩けないエルケを置いて足早に小屋を出ていく――エリクに近づくなという忠告をヤンに残して、ヤンは椅子に腰かけたエルケと期せずして二人きりになる。
少し離れた場所に立つヤンをエルケは全身全霊で警戒し、俯いたままヤンを見るどころか顔を上げようともしなかった。シャツの袖で隠された手の甲には真新しい布切れが巻き付けられている。しっかりと結ばれ絶対に外れることは無いだろう。
その強張った肩を見ながら、ヤンは空のカップを持ってエルケの腰掛けたテーブルに歩み寄る。重い軍靴の音が軋む床を踏みつける度に、細い背中が丸くより小さくなって行くのが見えた。
怖がらなくていい。探しに来られても突き出したりはしないから。
そう言ったとしても、きっとこの幼い少年は信じようとはしないだろう。深い事情は分からなくとも決して安易な考えで逃亡者となった訳ではないエルケは、精一杯考えて逃げ出したのだ。
小さな物音を立ててテーブルにカップを置くと、既に正面のエルケは俯き過ぎて頭の天辺しか見えなかった。木綿のシャツは小さめとカヤに言われ用意した物だったが、それでも少し大きかった。ズボンも腰の辺りが大きくだぶついている。十五歳と言っていたが、正直もう少し下なのだと思っていた。それほどまでに華奢だったのだ。
ヤンは俯いたエルケの頭に手を伸ばし、猫や犬にする様に髪を掻きまわしたい衝動に駆られた。
ヤンがそろそろと手を伸ばし、エルケがその長すぎる沈黙に顔を上げた時―――
「いや、俺の所為で本当にごめんね! 反省してます!」
騒がし過ぎる声が沈黙を破ったのだ。




