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涙と蝶  作者:
7章 November 藍の騎士
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 赤いものを取り分ける。光を当てればより一層光を抱き込み、燃えるように輝く石達。

 春の新緑を思わせる生き生きと芽ぐむ眩しい緑。深く深く落ちていく海の底を思わせる奥行きのある青。涙が出て来るほどに懐かしい暮れていく夕陽の橙。

 柔らかいビロードの上に転がった石達を愛おしい眼差しで見下ろしながら、エルケは終りの未だ見えない仕事を続けていく。

 遊色の存在が重要なオパール。透明感の必要なクリスタル。色の濃さが求められるスマラクトにアメテュスト。湖の色にも似たアクヴァマリーン。今でも取引されている珍しくない色のベルンシュタイン。

 自己主張もしないのに高価で希少な小さな石、存在感はあれど磨いてもこれ以上価値も上がらない大きな石。見ても見てもその山は減りもしない。

「……量だけは無駄にあるんだけどな」

 呟きながら、エルケは足に絡んでくる華美なドレスの裾をテーブルの下で蹴りつけた。

 仕事には何の意味も無いこの服装は、雇い主たっての願いだ。花弁を思わせる薄いピンクの布地は、似合うか似合わないかは別としても趣味だけは悪くない。

 長く背中からソファーの背凭れへ流れる真紅の髪は、つい先日まで男装をして過酷な旅を続けていたとは思えない程にしっくりとドレスに馴染み、押さえていたというのに随分と成長していた胸と細くもなだらかな曲線の腰を際立たせている。

 集中していた所為で、傍のティーテーブルに紅茶が置かれていたことにも気付かなかった。

 既にカップからは湯気が立ち昇らない所を見ると、かなり前に置かれていたのだろう。集中すると何も見えなくなるなんて久し振りのことかもしれない。

 柔らかく繊細な石を傷付けないように手の平へ乗せた柔らかい保護布をテーブルに下ろすと、エルケは真紅のビロードが布張りされたやたらと華美なソファーから立ち上がった。それは猫足のゴールドとビロードの真紅で、ソファーだというのにまるで巨大な指輪の様だ。

 かなり朝早くからこの作業をしていたつもりだったというのに、窓から見える空はもう既に高く昇ってしまっていた。昼も過ぎ、そろそろ次の茶でも用意される頃か。

 いや。それとも――――――――

「やあやあ、エルケ君。作業は順調に進んでいるだろうか?」

 予測をしたのが悪かったのだろうか? いずこの宮殿かの如く薔薇と蔦を繊細に彫刻している両開きの扉が開き、物語の登場人物にも似た出で立ちで男が部屋へと入ってきた。

 入室の合図も無く入ってきた男をつい睨みかけたエルケは、思い直して軽く膝を折って見せる。

 そんな内心不穏なエルケを眩しそうに見つめると、エーゲルの役人であるフロリアン・バプティスト・ヨナタン・フォルクマール・シュタイベルトはどうにもならないと言った風に小さく首を振った。それから、手袋を付けたまま下ろしていたエルケの指先を、まるで宝石にでも触れるかの如く慎重に手に取る。

 そんな仕草までがことごとく芝居染みている。馬鹿げたその仕草が一見、優雅に見えてしまう程には。

「疲れたのならいつでも休んでいいのだよ! その美しい顔が、疲労に曇るのは私だって見たくは無いのだから」

「いいえ、フロリアン様」

 反射的とはいえやんわりとその手を振り払うと、エルケはぎこちなく微笑みながら首を傾げた。手袋を指先で摘まんで脱ぎ捨てると、ソファーの背凭れに置く。

 ここ数日の問答でエルケが習得した技だ。

 彼には優しい顔を見せてはいけない。嫌な時ははっきりと拒絶し、明確な意思を示さなくてはいけない。但し雇い主としての尊厳は保ちつつ、だが。

「ご心配には及びません。自分の体と限度は私が一番良く分かっていますので」

 床を掃除するかというのかという程に長いドレスの裾を翻し、エルケの背よりももっと高く両腕を広げたよりも大きな細工窓の近くへと滑り逃げた。

 ここ数日、フロリアンとの攻防戦は何度も繰り広げられていた。手の届く近くにはいない方がいい。対応は事務的に、行動はなるべく俊敏に避難だ。

 好色な彼の手に掛かってしまえばきっと『今後の仕事』は安定するだろうが、『今後の行動』に支障が出る。エーゲルを最終目的地にして、ここで立ち止まってしまう訳にはいかなかった。

 そうなるとはっきりとした主従の線を引いてしまうに限る。

「石は私にお任せ下さい。フロリアン様のお気に召すような希少な石は、必ず見つけ出して見せます」

 要は「仕事の邪魔をするな。とっととこの場を去って仕事に集中させろ」と言いたい。が、慣れない気取った物言いが難しい。言いたいことをはっきり相手に告げる物言いは品が悪く、貴族には疎まれてしまうからだ。

 考えるそのままに何もかもを口に出していた頃が懐かしくなる。クルトやヤンが今の自分を見たら、一体何というのだろうか? それよりもこんなどこかの貴婦人の様な恰好をしているエルケを、簡単に見つけ出す事は難しいだろう。それが安心する様な、哀しく切ない気もする。

 今のエルケは、見かけからしても正真正銘の女だ。名前も『エルケ』と本名を名乗っている。エリクの名が知れ渡っている今、これも全てを欺く為だ。仕方ない。

 時間はかかったが何事も無くエーゲルに到着出来て良かった。

 これまでの努力を考えればこんな布の一枚や二枚、気にしなければいいのに。前にエーゲルに来た時はあんなに羨ましかった美しいドレスが、ワルゼ騎士団の軍衣と同じ位重く苦しい鎧に見えていた。望んで女に戻った訳ではない。これからのやるべき戦いに、薄汚い少年の姿では立ち向かうことが出来ないからだ。だからこんな美しい姿も、血生臭い鎧に思えてしまうのだろう。

 今はこんな姿をしていても、エーゲルに入る寸前まではあの汚い少年姿の『エリク』だった。ヤン達と商人として幾度か城壁や門を抜けたことのあるエルケは、手頃な商人と数日間行動を共にして信用を得てから同業人として問題なくエーゲルの街にある門を潜り抜けたのだ。

 一応、ブラル大司教からの追手が掛かることを想定しての行動だったが、そこまで慎重にならなくても良かったらしい。まさかひとまずエーゲルに向かうとは向こうも思っていなかったようだ。

 街に入って、エルケがまず一番最初にしたことはリリーを探すことだ。

 今は亡き祖母の家である丘の中腹に立つ小屋へ向かい、彼女との接点を持つ。掃除は毎日、もしくは数日おきにしているのだとリリーは言っていたのをエルケは覚えていた。玄関先に背を預け、干し肉を噛みながらアンゲリカと待ったのは二日。

 可能な限り無駄な行動を控え、そろそろリリーと会えなかった場合を想定し始めようとしていた矢先、彼女はやっと現れたのだ。

 女性物の服もリリーに借りた。

 言い出した時は流石に驚かれたが、語尾を濁しながら説明に困っていると何と無く聞いてはいけない事情があることを察したようだ。目立たず地味な服という希望に沿った普段着を、聡いリリーは食事と共に持って来てくれた。

 何も説明しようとはしないエルケを信じてくれたリリーには、何度感謝しても感謝しきれない。この恩は、必ず返そう。あの美しくも残酷な炎の石を取り戻すことで。

 と、頃合いを読まない無粋な声が、思案中のエルケを我に戻させる。

「どんなに希少な石が見つかったとしても、君の内側から漏れ出す輝かしさには敵わないよ。エルケ君」

「……はぁ」

 漏れ出すのは輝きではなく、付け焼刃の社交辞令での襤褸だ。貧しいゼークトの暮らし以降、あとは生きるか死ぬかの生活をしてきたエルケにとって礼儀作法が一番難しい。

「美しき天使から希望の果実を受け取ることが出来るのなら、どんな宝石も宝物も惜しくは無いだろうに!」

「どうも……感謝します」

 どんなに雇い主だからと割り切ろうとしていても、たまにはフロリアンの台詞に呆れて絶句してしまう。

 毎日毎日、美辞麗句を並びたてよくぞ言葉のボキャブラリーが尽きないものだ。未だに女性の物言いに慣れないエルケにもその人を煽てる術を伝授して欲しい。

 嫌がっている素振りを恥じらっていると勘違いしているのか。遠慮なく近付いてくるフロリアンを忙しなく避けながら、エルケはベルベットのベッドに転がった石達へ視線を向けた。

(こんな馬鹿そうに見えるのに……抑える所はきちんと抑えているんだもんな)

 ビロードのベッドの上にエルケが探しているリリーの祖母の物だったベルンシュタインは見当たらない。

 エルケと懇意の仲であるリリーの存在を、案外切れ者らしいフロリアンは忘れていないのだろう。こんな慣れ慣れしく話しかけていても、エルケのことを完全に信用してはいないのだ。

 女の姿に戻って訪れたフロリアンの館で、エルケはワルゼ騎士団の使者、といった形をとった。こんな時の為に忘れず取っておいたワルゼの軍旗を刺繍した軍衣を手にし、敢えて総長であるクルトの名前を出した。

 数カ月前、監禁しかけたこの城から連れ出してくれたのはワルゼ騎士団の総長であるクルトであり、彼がブラル大司教の次男であることは今更周知の事実だろう。但しブラル大司教への使者が立たないよう、エルケも予防線を張った。それが今のこの仕事だ。

 戦を避ける為に作られた偽造金貨。恐らく今回の停戦の為にビューローへと流れたエーゲルの偽造金貨の件を、フロリアンもヨープへ知らされるのは不本意だろう。鉱脈がない所為で財政が不安定なエーゲルは、闇市にも近い商人とのやり取りでしか金を流通できない。

 そこを衝く。

「私が蝶と取引して、ここエーゲルを幻の石であるベルンシュタインの流通経路にして見せます。ビューローに抗う術のないエーゲルの苦しみをクルト様は気に病んでいました。ヨープにいます神の手がここまで届かないのなら、是非助けになりたいのだと」

 偽造金貨を見逃したワルゼ騎士団の存在を、エーゲルは無下にしないだろう。

 いつか戦になった時、ヨープの薄情な父親の手が伸びないワルゼ騎士団の助けになってくれさえすればいい。親の鎖を振り切ることが出来ないクルトへ、それがせめてもの恩返しになれば。

(僕がクルトに出来るのはこれだけだから)

 上に立つ人間に何かを返すのが難しいとは初めて知った。貧しく苦しんでいる人間ならば、ほんの少しの施しでも助けになり生きる糧となるだろう。何もかも手中にある人間は、その限られた手に入らないものに渇望し苦しんでいる。

「おおお、君はやはり私に神が遣わされた天使だ! この美しくも哀しいエーゲルを憎き魔の手から救ってくれるというのだから」

 魔の手は果たしてマルプルク公国だろうか。それともエーゲルを見限ろうとしたブラル大司教領なのだろうか。

 ぶつかりあおうとする拮抗する全ての力を止める為には、劇的な結末が必要だ。舞台に乗る登場人物をどれだけ早く集めることが出来るか。今はそれだけを考えなくてはいけない。

 寂しくて、心細くて、夜が眠れなくてもそれだけを考えて進む。ヤンの大きな手に縋りつきたくても、クルトの甘い棘に包まれたくても一人で我慢して、いつかこれが誰かの救いになるなら、と。

 どんな美辞麗句にも反応を返さないエルケに飽きたのか、フロリアンは強過ぎる薔薇の臭いを残して部屋を出ていったらしい。もしかしたら腹が減っていると勘違いして、何か用意するように侍女にでも言いに行ったのかもしれない。

 窓に指先を触れて覗き込むと、元修道院だった名残の丸い屋根が見える。

 あの天井に描かれた双子の天使を懐かしいと思ったのは胸の奥に眠るヤンの弟、エーリヒの記憶だ。混在するエルケとエーリヒの記憶の中に、今はもう一つ。人魚の記憶がある。

 美しくも残酷な人魚は、純粋なばかりに初めて知った恋の感情の求めるまま同族を手に掛けた。喜んでくれる王子の姿が見たくて、血に濡れる事も厭わなかった。

 あの人の傍にいたい。傍に立つことが許されないのなら、せめて彼の力となりたい。人魚の物語は最後に自らを石にして王子へ捧げた事で終りとなっている。

 でも、エルケの僅かに戻っている記憶では『人魚の記憶』はそこで途切れていなかった。

 激しくも一途な『人魚の恋』何もかもを捧げてしまう狂気の恋。

「貴方を想う度にこの心は炎となり全てを焼き捨てて、貴方を想う度にこの心は水となり貴方を癒していく。か」

 この激しさが人魚の物だというなら、エルケもきっと人魚の血が流れているのだろう。これからしようとしている恐ろしい結末を本能で導き出したその呪われた血を恐ろしく思う。

「人魚は恋をしただけなのにね」

 ただ、傍にいたかっただけだ。

 王子が誰のものでも構わなかった。幸せな王子の傍に、どんな時もいたかっただけだ。悩み苦しむ時は癒し、怒り狂う時は共に野を駆けたかった。それでも陸と水の隔たりは大き過ぎて、いつしか引き裂かれていく。

 女の姿に戻って、分かったことがある。

 幼いエルケを導いてくれたヤンとクルトの存在は、今のエルケに取って決して保護者では無かった。もう二度と会うことは無いのだと知っていても、それでも傍にいたいのだと切望してしまう。足元が揺らぐこの不安定な場所で手を繋ぎ背を支え、傍にいてくれたのなら。

 自分から離れてしまったのに、手は伸びていたのに。それなのに振り払ってしまった。

「……会……いたい、よ」

 勝手だと知っているけど、それでも心が叫ぶ。離れたくないのだと、このまま海に戻ってしまったら消えていくだけの人魚の命なのにそれなのに。

 追いかけて来て欲しい。切望して、必死に追いかけて来て求めて欲しい。このまま離れてくれたら、全ては丸く収まるのだと分かっている。それでも願ってしまう。

 似合わない化粧と香水を纏った頬に涙が流れた。窓の外は、あれだけ眩しい程の日射しを照らしていたというのに厚い雲が急速に空を覆っていく。

 追わないで、追って。見つけないで、見つけて。

 結末を知った彼らが、エルケをそのまま手離すとは到底思えない。再び出会えば、またこんな苦しい思いをして彼らの手を振り払ってしまうのだろう。これしかもう方法は残されていない。

 窓を開ければ、涙も覆い隠す程に激しく叩きつける雨粒が美しいドレスを濡らしていった。

 エルケは懐かしい水の匂いにゼークトを想う。あと少しであの愛おしい始まりの場所へ戻れる。燃える石を一人で抱くロッタの元へ、やっと辿りつける。

「……姉さま」

 雨は次第に強くなっていった。声も何も聞こえない程に。

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