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エルケは分厚い革の手袋を頬へと押し付けた。乾燥して荒れた頬ががさりと鳴る。
「……今日は特に寒いせいかな。頬の感覚がないや。やっぱり冬が近いんだね」
返事は横を歩く連れ合いの鼻息だけだ。
ワルゼ城を飛び出して、既に十日はとうに過ぎていた。十日を過ぎた辺りからエルケは数えるのを止めている。一人になった時を数えたとしても、何の意味も無いからだ。
少なかった路銀は、たまに行き過ぎる商人の持っている宝石を鑑定して何とか底を付くのを防いでいた。本来ならば鑑定士に見て貰うのにも金が掛かる。いくつか試しに見せて貰った石を、何度も試験的に鑑定して信用を得た。
子供の小遣い程度で鑑定をするなどと言い出したエルケを見て、最初は小馬鹿にした何人かの商人も小さな露天に置かれた石のうんちくを説明すると少し対応を改める。
偽物贋作の行き交う昨今、商人たちには面倒なガキだと思われているのは良く分かっていた。それでも捨て石から必死に探して宝石の欠片を見つけた時だけは、彼らも手の平返して褒めてくれたのだ。
その商人には懇願して鑑定に信用が出来る旨の文言を一筆書いて貰った。後はそれを手に次の商人を探す。
商人の行き交いが多い村辺りだとまだいい。半分小馬鹿にしながら、冗談半分で道端の石の様なものを鑑定しろと言われても、結局は苦笑交じりに小銭を落として行ってくれる。
街や村の無い荒れ果てた街道では路銀が尽きていくのをただ耐えるしかなかった。それでもビューローの城から逃げ出した時の方がずっと辛い。
(いや、違う。ビューローの時は苦しかったけれど、死に掛けた時にヤンが来てくれた。今はどこまで行っても最後まで一人だ)
小銭だとしても自分で金を稼ぎ、ゆっくりとした足取りでも確実にゼークトへと向かうことが出来ている。誰かに背負われて生きているよりも今の方がずっとましだ。そう、虚しくなる度に自分へ何度も言い聞かせるしかない。
冬が近づいているこの大陸は、夜を越す度に空気が澄み、雪の降る準備を整えていく。空が低く、重たげな灰色の雲が近付いて来ていた。もうそろそろ雪が降るのかもしれない。
たった一人の旅は、いくら安全と速度を優先したとはいえアンゲリカの足を毎日酷使する訳にもいかず、乗っては降り乗っては降りの繰り返しとなった。覚悟していたこととはいえ、慣れない旅は次第に体力を奪っていく。
それでも昨日は、民家の馬小屋を寝床として借り受けることが出来た。特に冷え込む朝方の冷気を、アンゲリカの腹に擦り寄って誤魔化し何とか乗り越える事が出来たからまだ幸運だった。
男装をしているとはいえ、顔からして少女然とした可憐な容姿は一人旅には不利だとずっと思っていた。実際、一人になって気付かされたのは知らない人間の優しさだ。苦しく険しい旅になるだろうと覚悟していたのに、出会った内の数少ない何人かの人間はエルケに優しかった。それが救いだ。
強盗をしそうも無い優男だと思われたのか、それとも甲斐性のない若輩者と思われたのか。何も言わなくても破れた外套を繕い、使い古しとはいえまだ充分に使える冬用のブーツをくれる年配の女性がいた。
日々高く女性らしい優しげな声になっていく所為で、敢えて口を噤んでいたのが功を奏したのか。胡椒と香草の入った温かなワインで、もてなしてくれた老婆もいた。もしかして口が聞けない可哀想な男だと同情されたのかもしれないけれど。
ライゼガングからエーゲルまでの道は戦の歴史がまだ色濃く残っている。
武の大国ザクセン宮中伯領、領境が近い未だ安定しないマルプルク公国。教会の権威で盤石の地位だと見せ掛けて、商人を特に重視する昨今の情勢では次第にその地位も揺らぎつつあるブラル大司教領。血を血で洗う諍いはまだ大きな戦にならないとはいえ、戦火は未だ各地で燻っている。
エルケが敢えて人通りの少ない街道を選んだのは、誰にも見咎められたくはなかっただけが理由ではない。
ヨープやエーゲルに直接向かう主街道は行きかう馬車や商人が多過ぎる。一見、安全に見える人通りが止まった場所で夜盗や盗賊に襲われるのだ。安全な街道を通る商人は金目の物を持っているから。それ程にブラル大司教領も治安が著しく悪化している。
慎重に選んだ街道辺りは確かに遠回りだったものの、どこか閑散としている道のりは夜盗を退ける腕に覚えのないエルケにとっては充分な選択だった。
一本、道が主道から逸れただけなのに街並みはよく言えば長閑で、実に寂しげだ。戦で崩されたままの城壁や石造りの小屋。吹きっ晒しの野原に残されているやせ細った牛が目立つ。
この辺りは、どうやら戦に駆り出された息子や夫を無くした未亡人が多いらしい。訳ありげなエルケに優しくしてくれる人間が多かったのはその為だ。意図したわけではないとはいえ、騙しているようで気が引けるがこちらもなかなかに大変な時期だ。好意は黙って受け取ることにする。
温かい食べ物でもあげれたらいいんだけどね、とやせ細った老婆がエルケに渇いたパンを差し出した。流石にそれは断わったとはいえ結局、外套の胸に無理やり押し付けられる。困惑しながらも受け取らざるを得なかった。
小麦の量が極端に少ない固いパンだ。あの三人と旅を始めて、今まで恵まれた場所と状況で旅をしてきたエルケは、食べ物にも寝床にも正直困ったことは無かった。今、改めてこの時期の旅が困難な事を思い知らされる。齧ったパンの皮は何故か塩辛く、埃っぽかった。
今年は特に実りが悪い。極端に少ない降雨、早い冬の訪れ。大司教領も多分に漏れずその影響を受け、国庫はどこも困窮している。ここまで冬の足取りが早いとなると、これから迎える冬の恐ろしさを想定して、恐らく戦況も一度停滞するだろう。兵を養うには兵糧が必要だから。
次の戦は恐らく四月前後、冬の苦しさを乗り越えて一斉に緑が芽吹きだす頃だ。何とかそれまでに出来ることの全てをエルケは終わらせなくてはいけない。
「寒いね。アンゲリカ」
心も懐も纏めて全部寒い。
急激に伸びた髪は腰の辺りにまで達し、邪魔になった。一度は腰に佩いた剣で真ん中から切ってしまおうかと考えたものの、一瞬躊躇して今は止めることにした。布を引き裂いた紐で器用に一つに括り、背中に隠してしまう。
茶色よりも一層赤の目立つ珍しい長い髪。特に著しく体の成長が目立つ最近はその眩しい程の赤さが目立つようになった。
剥き出しにすれば、その色は街中で見た誰もへ強い印象を残すのだろう。今はまだ外套に隠されているから誰も気づかない。今のエルケは一見、ただの薄汚い成長途中の少年だ。
ぜークトが近くなったら、思い切って頭から外套を外してしまおうか。そして、誰かの口からあの三人に伝わるといい。ゼークトへ無事到着したかどうか、きっと気にしているのだろう。もしかすると怒って、既にエルケに兵を差し向けているのかもしれない。
捕えたエルケに再び旗を持たせ、戦の先頭へと立たせるつもりなのかもしれない。
「……戦の中心人物が自分勝手に逃げ出したんだもんね。誰かしら追ってはくるよね」
一人になってしまった、優しくしてくれた人間を裏切ってしまった。その切なさと哀しさに泣いていたのはたった一日だった。ただアンゲリカにしがみ付いたままで咽び泣いて、二日目の夜には泣き止んだ。
泣いたって仕方ない。この道を選び取ったのは誰でもない自分だ。
自分のいない戦にはもう大義名分が消えて、正当性がなくなるだろう。誰かを救う為の戦いなのだと兵の士気を鼓舞していた筈だ。故郷を失った哀れな少年がいなくなったら、戦争を続ける意味はない。そこで、ブラル大司教領も諦めてくれたのなら物事はスムーズに行くのだけれど、恐らくそう上手くはいかない。
戦火は止まらないのだ。誰かがそこに水をかけなくては。
誰かの荷物になって自分の領域ではない場所で奮戦するよりも、エルケだけが出来ることをするのが一番重要だ。エルケにとって当面の敵は『蝶』。暗躍する『蝶』の動きさえ封じれば、危なげな政局を不安定なままとはいえ引き止めることが出来るだろう。曲者であるあの『蝶』を、上手く誘導することさえ出来たら、の話だけれど。
考え込んだエルケの頬に、アンゲリカが鼻面を寄せて来た。温かく少し湿っぽいその鼻を笑いながら避けて、エルケは首を振る。
「結局、戦がしたいだけの人間の言い訳を僕がいちいち考えても埒が明かないね」
そうだ。考えるだけ時間の無駄だ。
エルケはただのきっかけだった。『蝶』が戦火を芽吹かせ、欲を煽り政局を掻き交ぜた。人魚のいる村は無限の富の倉庫なのだと、ビューローに噴き込んで全てを壊した。
自らの中に眠る『人魚』の血。何も変化も無く人魚の記憶がほとんど戻らない今は、自分が人間ではないという事実にいまいち実感が湧かない。
それでもゼークトに着いてさえしまえばユッタの守り隠した『人魚の涙』がある。炎の色を思わせる激しい赤の石に封じ込められた人魚の想いが、エルケを呼んでいるのだ。
エルケは貰ったばかりでまだ履き慣れない靴を踏みしめて、前に進む。足の裏からきしりと聞こえて、土が凍っている事を知った。
天を仰ぐ。今にも雪が降りそうな澱んだ空だった。
これからするべき事はひとつ。
「……僕は『蝶』を罠に賭ける」
エルケが決めた全ての終結の場はゼークトの村。
「急がなくてはならないね。アンゲリ―――うわ!」
話しかけながら横を振り返ると、視界一杯に月毛の色が広がった。仰け反ってその大きな顔の正面衝突を避ける。
手にした手綱をアンゲリカは噛んで引っ張り、鼻面でエルケを後ろへと追いやろうとしてきた。優しい目がエルケに訴えて来る。言っていることは何と無く分かった。
「……乗れって、言ってるの?」
本当に利口な馬だ。
アンゲリカが促してくるのには素直に従って、エルケはその馬上へと飛び乗った。寒さの所為か、最近はまだましだったというのに痛めた足に自由が利かなくなっているのを気付かれているらしい。
アンゲリカをまだ休めてあげたいとは思うエルケの心を知っているのだろう。それでも、たまに彼女はこんな女性らしい気遣いも見せてくれる。彼女の考えも知らず、強制的にアンゲリカをワルゼから連れてくる事になったとはいえ、短い間で何とか良い主従関係は築けているらしい。
誰もいない訳じゃない。たった一人というわけじゃない。道連れは心強い友人だ。
「……だからさ、頑張らなくちゃね。エーゲルまであと少しだから。頼んだよ、アンゲリカ」
激しい鼻息がその声に応えた。




