7
雨音がうるさくて頭が痛い。
走って逃げてしまいたくても、動きを僅かに封じられたまま未だに元には戻らない足が疼く。込み上げる震えを抑えようと抱き締める自分の腕が痛かった。
体を縛り付ける鎖。心を締め付ける呪縛。まるで人魚の物語のように自由を奪うその全てに嫌気がさした。
「姉さま。会いたいの、姉さま」
ふらついたまま軍議の部屋を飛び出す。そのまま階段を下りて高城を抜け出した。暗雲に浮かびあがる二つの塔、最初来たときとは全く違う姿に見える。
ここもまた、ビューローの牢屋のようだ。エルケだけではない。クルトや他の騎士団の面々をブラル大司教領へと縛り付ける檻。いつか戦場に連れ出されるまで生かされ、働かされる牢獄。
クルトは旅を続けながらずっとこれに抗っていた。エルケがこの場に引き摺り出してしまうその時まで。意図せず『戦う意義』を与えてしまったのは本当に良かったのか、もう分からない。
高城の廊下の屋根は教会にも似ている。静謐な空気を保つ柩だ。もう、今はそれにしか見えなかった。
「もう嫌なの。ゼークトに帰りたい。姉さまと一緒に眠ってしまいたい」
誰もいない宙へ言いながら、ふと疑問に思ってしまう。
果たして姉はあの懐かしい海でエルケを待っているのだろうか。エルケはユッタの妹などでは無かった。愛されていたのはこの身に封じられていたヤンの弟であるエーリヒへの愛情だったのかもしれない。もしくは焦がれて、なりかわりたくともなれなかった人魚の血を守りたかったのかもしれない。
(駄目だ。こんなこと、思っちゃいけない。思ったって何も変わらない。姉さまもヤンも皆僕を大切にしてくれた、その事実は確かにあるのに。それなのに、僕は)
誰かを責めるしか出来ない自分の弱さを呪う。
頼りしがみ付くことしか出来ない弱い自分は、より強く求めてくれる人を探してまた逃げるだけだ。ユッタの後にヤンやクルト、それにカヤ。愛されない理由を何か違うことの所為にして、逃げて閉じ籠る。
仕方ない。こんな状況になってしまったのは仕方ない。こんな自分なんだから仕方ない。そうやって簡単に諦める事が出来るように、誰も心底信じようとはしないで壁を作る。
中城への回廊を一人、声を潜め滑るように歩いても、回廊を壊そうという程強く叩きつけて来る雨の中で訓練を続ける物好きいないらしく誰もエルケを咎めようとはしなかった。
中庭は雨に塗れ、既に湖かという程に巨大な水溜まりになっている。夕暮れになり松明も灯されていた筈なのに、激しい雨に押し流されたのか。回廊にも城門にも灯りは見えない。辛うじて、騎士団の居住区になっている中城のいくつかの部屋におぼろげな灯りが見えるだけだ。
どこに行こうというのだろう。一体、どこへ逃げようというのだろう。どこにもいく所は無いというのに。
ふらふらと辿りついた先は前に逃げ出した時と一緒だ。
壊れそうな程の激しい風と雨に軋みながら厩舎はそこに存在していて、懐かしい顔と共に先日初陣を手伝ってくれた顔が並んでいる。エルケを気遣う嘶きと、蹄鉄が柵を蹴る姿に安堵した。
「……ルッツ。アンゲリカ」
屋根の無い中庭を突き抜けてきたせいで漆黒の軍衣は水を吸い、エルケのおぼつかない足取りは更に危なげになっている。
震える体に残った力を振り絞ってアンゲリカの柵を外すと、アンゲリカがその顔をエルケの頬へと擦りつけた。心を映す穏やかな瞳。馬は決して信頼を置いた人間を攻撃することは無い。
情けなくも涙を溢したエルケの心を読み取ったのか。アンゲリカは濡れたエルケの体を厭う事も無く、その鼻面を軍衣に押し付けた。
その姿を見て、ルッツが激しく柵を蹴り付ける。
「ごめん、ルッツ。君は連れていけないよ」
鞍も乗っていないアンゲリカの剥き出しの背中に飛び乗ると、意外にも鞍が乗っていた時よりもしっくりきた。誰かに抱えられなくてはアンゲリカの背中にも乗れなかった筈なのに、容易に乗れる。
「……アンゲリカ。君が手伝ってくれたの?」
返事は勿論無かった。首を振りたてがみに付いた水滴を振るい落とすと、アンゲリカはまるでエルケにはしっかり掴まっていろとでも言うようにその月毛の足を泥水へ突き出す。
どこに行こうというのだろう。一体、どこへ逃げようというのだろう。本当に、行くべき場所はどこにもないんだろうか? 本当に、今の自分では何も出来ないんだろうか?
冷たい筈の雨は懐かしい故郷の匂い。
あの激しい嵐を思い出す度に引き摺り出されるのは、ゼークトの赤い炎だ。燃やされて殺されていく愛おしい人達をただ眺めて、震え泣きだすしかなかった幼い頃。守られて、のうのうと生き残り、今はただこの身を利用されようとしている。
姉がこの場にいたら何と言うだろうか。例え、彼女が本当の姉ではなくこの身の内に隠したヤンの弟を慈しみ愛していたのだとしても、こんな所で利用され恐怖に震え怯える為だけの為にエルケを生き残らせた訳ではない筈だ。
きっと叱咤される。あの優しくも悲しげな美しい顔で。エルケの笑顔に魔力があるのだといつも言っていた。だからいつも笑っていなくては駄目なのだと、泣きそうな顔をして抱き締めてくれた。
今のエルケは苦しんで、ただ何も出来ないのだと諦めているだけだ。
「そうだ。僕は……人魚なんだから。あの『涙』をどうにかしなくては」
振り返る城からは誰も追ってくる気配は無かった。それを安堵して見上げながら、反対に少し悲しいと思う。こんな状態であの二人から離れてしまうとは思いもしなかった。
傍にいて共に戦場へと向かうつもりだったのに。人魚の切実な願いを、今エルケは裏切ろうとしている。
(人魚の夢を諦めようとしているから、だからこんなにも胸が苦しいのかな)
苦しい。苦しい。傍を離れてしまうのが悲しくて、ただ切ない。
瞼を伏せれば簡単に甦るクルトの金の畝。正面を向いて感情を吐露してくれたクルトを戦いの場へ引き摺り出して、それなのに今エルケはこの場から逃げ出そうとしている。
エルケが離れてどう思うだろうか? 囲もうとした優しい腕から強引に抜け出して、戦の渦中に置き去りにしてしまうエルケに裏切られたのだと思うのだろうか。
聞こえないように耳を抑えても、耳へ滑り込む低く掠れたヤンの声。感情を押し殺すのは、誰よりも激しい感情を内に秘めているからだ。
一瞬、ヤンに全てを話して付いて来て貰おうか、とも考えた。でもそんな甘い考えはすぐに捨てた。マルプルク公国にはビューローの小隊からエルケがワルゼ騎士団と共に行動しているのがばれている。
そして、これからの戦場となるミュンヒ騎士団の元にその身を預ける事も全て筒抜けに違いない。
それならば、動くのは今だ。プラウゼン騎士団の配備しているゼークトまで一人の足で向かうことが出来たのなら、ゼークトの海にまではもう一人で行ける。エルケがまさか一人で行動をしていると思ってもいない『蝶』を含め、ビューローの兵は生きたままエルケを捕獲する為にミュンヒ騎士団とアロイスの戦場へ兵を向けるに違いない。
(……僕はあの涙と共に、全て終えてから姿を消してしまいさえしたらいい)
あの海に眠る姉と共に誰も気づかれない秘密の場所へ隠した『人魚の涙』を守り、そのまま眠りつけばいい。誰に利用されることも無く、これからの諍いの元を全て隠して狂った蝶の執着の元を絶つ。
狂った『蝶』マルセルを共に海へと引き摺りこんでしまえばいい。人魚であるエルケならきっとできる。
「これが、僕にしか出来ないことだから」
雨の降らないマルプルク公国には既に備蓄の作物が少ないと聞く。飢えた領民は、馬鹿げた戦争を始めた領主達を見てどう思っているのだろうか。
エルケが存在するにしても、存在していないにしても結局は戦争は起きたのだろう。あの燃える様な赤が発端とはいえ、領内の綻びはもう限度を迎えている。もう動き出した情勢は変えようも無く、どちらかが消えてなくなるまで戦は続くのか。まだ何か出来る事があるんじゃないのだろうか。
ルッツを振り返り、エルケは心配げなその瞳を見て苦笑した。
「どうしたの! その姿」
「……うん。ちょっとカヤに挨拶だけはしたくて」
城の麓にあるノルベルト副総長の自宅扉を叩いたずぶ濡れの姿を見て、カヤは小さな悲鳴を上げた。
外套を羽織らずに雨の中走り抜けた所為で軍衣は完全に水を吸い、体に張り付いている。顔は蒼白、唇は紫色で震えも止まらない。
雨に濡れているのか、涙で頬が濡れているのか。最早、区別もつかない程だった。
「とにかく入って! このままだと風邪をひくじゃない」
水の滴り落ちる腕をカヤは強引に掴み、部屋へと引き摺りこもうとする。エルケはその腕をやんわりと押し戻して、首を振った。
顔を上げた先に恰幅のいい女性の姿が見える。彼女がノルベルト副総長の奥方であるフィネだ。訳ありげなエルケの訪れを動揺せずに迎える姿に、騎士団副総長の妻としての気概を感じる。エルケは何も言わず、ただ小さく頭を下げた。
「ごめん、カヤ。時間が無いんだ。僕はもう行かなくちゃ」
「だって、どこに行くっていうの?」
カヤに聞かれて、思わず苦笑する。
「僕が出来ることをする場所へ。だから行かなくちゃ」
「無理よ。一人でなんてどこにも行ける筈がないじゃない。ヤンやクルトには言ってあるの? 彼らは一人で行動するのを許したっていうの?」
「ううん、何も言ってない。戦に巻き込んでおいて、僕がこんなことを言うのはおかしいと思うけど僕はここで何も出来ないから」
「でもあなたが決めた戦争じゃないでしょう!」
カヤの金切り声。
言うことを聞かない子供に言い聞かせるように、カヤはエルケの肩を両手で掴み揺らす。首を振り、濡れるのも構わずにじり寄る彼女の姿を見て、ここに来てしまったのはやはり失敗だったのかと思った。
(でも、カヤにだけは何も言わないでいなくなるのは駄目だ)
エルケが隠した部分を全て一人で受け止めて、彼女は何も言わずに今日まで来てくれた。だからこそ、エルケもきちんとお別れはしたかった。このままもう二度と会うことが叶わなくとも、カヤの幸せを祈っていたかった。
「カヤ、大好きだよ。愛してくれてうれしかった。ずっと、姉さまみたく思ってた」
「エリク、止めて。もう城へ帰りましょう? 私も一緒に付いて行ってあげる。クルトやヤンが怒ったら、私だって一緒に謝ってあげるから。あの人たちに守られて、今この戦争を乗り切ってしまえばきっともっといい事がたくさんあるわ。あなたが女でも人魚でも、構わず愛してくれる人だって沢山いるわ」
「……カヤ。僕、行かなきゃ」
「行かせない! 今のあなたには生きる気力も何も見えないもの!」
泣きながら抱きつく腕は強く、まるで子供と親の立場が逆転したかのようだ。
エルケは震えるカヤの背中を数度落ち着かせるように軽く叩き、その茶色の髪に顔を埋める。柔らかいカヤの体。そのぬくもりを全て自分の身の中に取り込むかのように、エルケも強く抱き締める。
「カヤ、ヤンに伝言を頼みたいんだ」
「嫌よ、自分で言いなさい。絶対に言わないんだから!」
ああ、本当に子供みたいだ。初めて見たなりふり構わないカヤの姿に、より一層愛しさが込み上げる。
何も持っていない愛されていないなんて嘘だ。自分だってこれだけ愛されている。誰かの代わりでも無く、きっとエルケとして。
「全て落ち着いたら、ヤンにゼークトの村へと来て欲しいと伝えて。ヤンの弟のエーリヒはそこで魂になって待ってるからって。いつか会える日が来るまで、僕が責任持ってエーリヒを預かっているからって」
「何よ、それ。全然分からない!」
叫ぶカヤの胸を押して、体を離した。呆気なく離れるカヤの顔が大きく歪んでいる。後ろからフィネがカヤの体を抱いて、片手を上げた。早く行け、そう言っているのだ。
いつの間にか足元には中身が詰められた大きな袋が置かれていた。畳まれた外套は分厚い防寒用の物で、揃えて乗せられた手袋もまた暖かそうな革で出来ている。手にした大きな乾いた布でフィネは滴り落ちる水滴を拭い、エルケの赤茶の頭を撫でた。
「行きなさい。もう間もなく追手は来るからあなたには時間は無い筈でしょう」
優しく促すフィネの声。騎士団に黙っていなくなろうとしているエルケを咎める訳でもなく、かと言ってこれから一人旅立つエルケを応援している訳でもない。ただ出来の悪い子供を一人、ここから旅立たせようとしているみたいだ。
無性にまた泣きたくなって、エルケは頭を下げた。
「ごめんなさい」
拭いた筈なのに、温かな滴がまた頬を濡らしていく。
「騎士団の皆さんを巻き込んでしまって、ごめんなさい」
返事は無かった。エルケは濡れた軍衣を脱ぎ捨てると上から外套を着込む。顔が見えないように深く頭から被ると、足元に転がった袋を背中に担ぎ上げた。何が入っているのか、物凄く重かった。
顔を手の平で隠したカヤを一度、振り返る。
「カヤ」
でも首を振るだけで何も返事をしてくれなかった。それでもただ別れの挨拶が出来たことだけに満足して、背を向ける。
吹き荒れる嵐は鎮まるどころかその威力を増して、まるでワルゼ城からの追手を拒んでいるようだ。早くしろと促しているのか。激しく嘶くアンゲリカへいつの間にか付けられていた持ち手を掴み、エルケは体を一気に馬上へと持ち上げる。
「行ってきます」
誰もいない扉の前にそう声を掛けた。
アンゲリカの首を軽く叩き、エルケはうっそうと茂る森を睨み付ける。目指すは南、青の街エーゲル。戦が軍隊の独壇場なら、違う戦場を目指して。
傍で戦い、癒すことは出来なくても、それでも。
人魚は恋をしました。初めての恋でした。
人魚は恋をしました。最後の恋でした。




