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涙と蝶  作者:
6章 Oktober 紫の石
53/73

 暮れていく空に向けて放たれた戦いの口火は、足場の悪い川沿いを進むビューローの隊を横から叩く形で切られた。

 ビューローの隊は、横に長く伸びる蛇の様な隊列で二百。

 地に利があるとはいえ、数の利はなかなか覆せるものではない。

 それぞれが精鋭とはいえ、ワルゼ側の兵力は半分以下。取れる手段は、最初に分断した隊列をもっと細かく分断させて包囲する個別撃破だけだ。

 しかしその無駄に多く、そして長いビューローの隊列がこの場合は不利となった。

 中央の歩兵と後方の歩兵を攻撃し、先頭を行く軽騎兵含む小隊が本隊へ合流する前に潰す。それが今回の作戦だ。

 森の中で弓兵が使えないのも、騎士団側へ優位に働いた。

 長い隊列を真ん中から引き裂く先陣を、総長であるクルトとノルベルト副総長率いる一隊。

 その一隊の援護を、歩兵隊である八隊隊長のゲアハルトが隊を率いて当たる。

 先陣でまず二つに切り裂かれた長い蛇の胴体側を、尾の方から次陣が攻めるのだ。

 後方の歩兵を攻撃する任務は、フォルカーの隊と四隊と五隊のそれぞれの副総長を率いる形でアヒムが当たった。

 あとは、八隊のフォルカーが作戦会議で説明した通りだ。

 ワルゼ騎士団を圧倒するその兵力は、最初の攻撃で薄闇と視界の悪い森の中、細かく区切られてしまう。ワルゼ城の騎士団は少数とはいえ、二十年前からのライゼガングの戦いで地理を細かく把握しているのだ。

 あくまで通過点として通ったビューローの兵隊とは、行動を起こす速度が格段に違う。

 エルケは先程、鬨の声を揚げ臆することなく森へと突っ込んで行った騎士団の姿を思い返した。

 寸前まで慣れた様子で過ごしていた彼らは、個々で見ても決して弱い訳ではない。

(それでも……白兵戦に入れば、勝率は五分)

 その余りにも現実感溢れた勝率に震えがくる。

 戦が始まるという恐怖に怯えた時間の割に、あっさりとその戦いは始まった。

 オレンジ色に染まりゆく空の向こう側が、次第に深く暗い色に塗り潰されていく。

 その様子はまるでゼークトが攻め込まれなす術も無く殺され消えていった時のことをエルケに思い出させて胸を締め付けた。

 耳を塞いでも微かに聞こえる森のざわめきとは違う喧噪に、エルケは咽喉に溜まった唾を飲み込む。

 一度も振り返ること無く消えていったクルトの背中を思うと、この場に留まっている自分を責め急かす声が聞こえて来るような気がしていた。

 怯え、震えている情けないエルケの手首を、掴み持ちあげようとする強い意志の力が湧き起こる。

 アンゲリカがそんなエルケの内心を読んでか、足を進めようと片足を上げた。

「……駄目だよ。まだ、駄目なんだ」

 聞きわけのないアンゲリカに語りかけるように、エルケは自分に言い聞かす。

 それでも心の奥は、共に駆けろと言うのだ。

 一人で行かせてはいけないと誰かが何度も訴えてくる。

(……分かっているんだ)

 エルケは奥歯を噛み締め、もう姿どころか土埃も見えない向こう側を睨みつけた。

 戦になると、消えていった人間が必ず戻るとは限らない。だからこそ、追いかけたくなる。

 でも、この場でエルケがクルトの後を追いかけて、それが彼の助けになるとは思えなかった。むしろ、それはクルトと騎士団の足を引っ張る事になるのだろう。

 震える体と噛み合わない歯がそれを物語っている。こんな怯えて、立っているのもやっとの人間が助けに行きたいとは、なんて偉そうなのだろう。

 前を向いたまま微動だにしないヤンの背中を見て、エルケはやっと正気を保っている状態なのに。

(僕は、報告を待たなくてはいけない。動く時を、間違っちゃいけないんだ……)

 今、エルケは行動することで戦局を優位にもその真逆にも導いてしまう。

 この戦いが長く続こうと、あっさりどちらかの勝利で幕を閉じようとエルケは終演までは見届けなくてはいけないのだ。

 何度もエルケは自分に言い聞かせた。

 クルト達の先陣がビューローの隊列を真ん中から切り裂いて始まった戦いは、互いに軽騎兵が役に立ったとはいえ結局森の中で馬を乗りこなし進めることができず、結局は馬から降り薄闇に紛れ戦う白兵戦となった。

 騎士然とした戦闘であったのも最初だけだ。

 剣が斬るという仕事を終えたのも早かった。乱立する木や血に汚れ歯こぼれした剣は、棍棒の様に馬の脚や兵士の首を折るのに使われる。

 戦略や謀略でいかにして損失を出さずに勝ち得るかではなく、血生臭い消耗戦となったのは明らかだった。長いビューローの隊列は前に進む事も、かと言って後退する事も出来ないのだ。

 可能な限り、兵力をここで削り取る。

 その宣言通り、ライゼガングの山は膨大な血を吸っていく。

 闇に紛れた黒い軍服のワルゼ騎士団の姿は、未だ戦い及ばない高みにいるエルケの目には目視出来ない。

 それでもときたま聞こえる叫び声や怒声に、エルケは震えて来る体から意識を逸らそうと必至だった。

 少しずつ大きくなる声に怯え、エルケはアンゲリカの手綱を強く握り締める。

(……いつの間にか、こんな大きく声が聞こえる)

 つい先程まで、ヤンとトニの他にここには六隊隊長であるザシャと六隊の軽騎隊が控えていた。

 しかし、今はもう彼の姿はない。ザシャは先程、戦いの波に突っ込んで行ってしまったのだ。

 アンゲリカの上で少しずつ背を丸めていくエルケの姿が見ていられないのか、トニが明るく声を掛けた。

 彼はエルケの真横に立っている。

 馬は穏やかそうな目をした栗毛だ。アンゲリカよりも僅かに体が大きい。

「……エリク、大丈夫だよ。俺が絶対に守るからさ」

「ごめん……トニ。少し緊張してるみたいなんだ。震えが止まらない」

「まぁ、初陣で緊張しない奴なんていないって」

「……そう……かな?」

 エルケは唇の端を無理に持ち上げて笑って見せる。

 気を抜くと、その場で吐いてしまいそうだった。

 傍にヤンとトニ。それに六隊が控えているとはいえ、それでもこの恐怖の中でザシャの存在は重かった。何と無く、隙間の開いた小屋に押し込まれた様な心細い感覚が先程からずっとエルケを襲っている。

 だが、あくまで戦争はまだ序盤だ。間もなくこの場所も戦場となる。

「目を閉じないで、とにかく手綱を掴んでろ。あとは俺が守る」

 ヤンが背を向けたまま、そう言った。

「……ありがとう」

「だから俺もいますってば……」

 トニが兜の頭を掻きながら小声で呟く。

 エルケはそんな戦場らしからぬ会話に安堵して微かに笑ってみせると、震えながら深呼吸をした。

 瞼を閉じ、頭の中でカヤの言葉を繰り返す。

(体を捩じらずに、アンゲリカに任せる。剣を抜くのは本当に危ない時……)

 腰に佩いた剣とは別に持たされた短剣を、エルケは柄の上から指で触れた。

 身に付けた短剣は敵は勿論、味方の命を奪うことにも使用される。重傷を負った味方に最後の一撃を加えるのがこの剣だった。

 それでもエルケは、短剣すら抜きたくないと思ってしまう。

 とにかく戦うのではなく、身を守ることに徹しろとカヤには口酸っぱく言われていた。それが結局は周囲を守る事にも繋がるのだ。

 エルケは守って貰う事に慣れなくてはいけないのだった。しかし決して守って貰う事に安心はせず、守ってくれる人間を信頼しなくてはいけない。

 槍に付いた軍旗を見上げ、エルケは奥歯を噛み締める、

 最初の突撃から時間はかなり過ぎていた。

 先程までオレンジ色をしていた空は既に暮れ、その殆んどを闇に塗り潰されようとしている。

 剣戟に驚いたのか、鳥が飛び立って行った。

 作戦では中央部分を撃破次第、クルトの隊に付いているノルベルト副団長と共にクルトの隊は引く手筈になっている。

 しかし――未だ見えないその姿が、エルケの心をざわめかせた。

「……遅いな」

 エルケの横に立つヤンが、小さく呟く。

 その声を聞いて、心臓が飛び跳ねた。

 確かに本来はもうクルトの隊が戻ってきていい頃だった。通信兵から最初の作戦が成功したと報告も受けているのだ。

 しかし先陣を切ったクルトの隊は誰ひとり戻ってくる様子が無い。報告する通信兵も先程の成功だという報告を最後に連絡を断っていた。

(……何もないよね……? 大丈夫だよね? クルト)

 エルケは心の中で、背を向けた金の畝を思い出す。

 少しずつ近づいてくる戦の陰に、エルケは持った槍を細かく震える指で握り締めた。

 薄闇の中でも見える土埃。

 耳をつんざく、剣と剣のぶつかるかん高い衝突音。

 一瞬、ヤンが振り返った気がした。

 息を飲む。

「エリク、来るぞ……!」

 心臓を飛び上がらせる鋭い声の後、目の前に飛び出してきた黒い塊に驚いてエルケは思わず手綱を握っていた手を振り回した。

 アンゲリカが首を上げると、剣がこちらを向いたその眩しさに呼吸を忘れる。

 見上げたまばらに星の見える空には、いつの間にか月が出ていた。

「動くな!」

 場を切り裂く低いヤンの声。

 首を竦めたエルケが返事をする前に、一閃。

 熱い何かが右横から飛んでくる。

 馬の激しい嘶きにエルケはぎこちなく首を右横に向けると、いつの間にか剣を抜いていたトニが笑ったようだった。

 ごとり、重い音が耳に障る。

 右半身を汚し零れ落ちるどろりとした液体に、エルケは上手く反応出来ずに滑る槍を持ち直した。

 助けて貰った筈なのに、謝辞が言えない。足元に転がる捻じれた上半身がエルケを訴えている様な気がして、唇を戦慄かせた。

 兜被っている筈なのに頬に熱い何かが流れてきて、叫ぶのを必死で堪える。伝うのは涙、だった。

 足元に転がるもう息をしていない人間は、暗闇のお陰でよくは見えない。それを良かった、と思ってしまう自分があまりにも馬鹿みたいで、情けなくなった。

 聞こえて来る肉を押し潰すような嫌な音と、くぐもった叫び声が全てゼークトを思い出させる。

(ヤンが心配してくれた通りだ。僕は分かって無かったんだ!)

 赤、赤、赤、赤、赤。

 血の赤。空の赤。燃える赤。噴き出す赤。

「お前が動けないのは想定済みだ」

 近付く兵士をまた一人、軍靴で蹴り倒して躊躇する事なく息の根を止めたヤンが吐き捨てた。

 また物体が転がり落ちる重い音。それなのに、また誰かが近付いてくる。

 剣が舞う度に、周囲の温度が高くなる気がしていた。

 何故か、下から温かい風が吹いた。甘くどろりとした臭いと共に立ち昇る。

 槍を脇に挟み片手で持つと、エルケは短剣を抜いた。滑る金属音の後にまだ綺麗なままの剣が剥き出しになった。

 最初の攻撃を境に、一気に場は戦場となった。

 アンゲリカが首を振り回す。

 さっさと戦おうと、エルケを促しているようだ。ヤンが、トニが、残された六隊の軽騎隊がこの場で戦っている。

 聞こえる激しい戦闘音に少しずつエルケとアンゲリカは後ろに押し出され、たった一人守られていた。

「……アンゲリカ……落ち着いて……」

 エルケは震えているアンゲリカの首を、短剣を握る指先だけで撫でた。

 彼女は勿論、怯えている訳ではない。怯え怖がっているだけのエルケとは違う、戦い慣れているのだ。

 怖い。逃げ出したい、と歯が鳴った。

「……ア、アンゲリカ……」

 エルケは呪文のように名前を呼び続ける。

 見える景色は、赤。

 姉が燃える家々の間をぬって、走り去る姿を思い出した。

 項垂れたままで繋がれ兵士に連れて行かれるのは職人の姿。助けようと駆け出した足を自由を奪い取るのは、赤黒く汚れた泥と血溜まり。

 抵抗できずに殺されていく村人の姿を見ていることしか出来なかった。人間ではなく不思議な力を持つと言われる人魚なのに。

 エルケは人魚なのだと誰もが知って、大切にしてくれていたのだ。それなのに。

 何も知らないエルケにそれを告げる事も無く、ただ普通の子供としてエルケをずっと見守ってくれた。

 少しずつ後ろに追いやられるエルケの前方を血飛沫舞う中でヤンが、横をトニが応戦している。

 一瞬、光が見えた。

 張られた沢山の線を擦り抜けて、一気に目の前に迫った敵兵の姿にエルケは目を見開いた。

 ビューローの軍衣が緑なのだと分かる頃には、既にもう剣が間近に迫っている。

(……短剣を……!)

 震える指が手綱を取り落とした。

 目を瞑る寸前に黒い軍衣が翻って、その敵を横から殴り付ける。

 誰かが助けに来てくれたのだ。エルケはその目の前に現れた姿を見上げた。

 大きな馬に乗った背中だった。

 黒地に橙、重なる剣と楯の紋章。大きな逆三角形の団旗。黒い軍衣。

 目の前にいるのは誰かは知らないけれど、味方だ。安心してもいい筈なのに、エルケの心はそれを拒んだ。

 手綱を離してしまったのも忘れ、短剣を強く握り締める。

 恐怖と怒りで、体が戦慄いた。

「久し振りですね、エリク」

 表面向きは優しく気遣いも忘れない聞いたことのある声が、エルケの名前を呼ぶ。

「ちょっと聞き忘れたことがあって、聞きに来たんです」

 強く噛み締めた歯が、頬の裏側を噛み破った。口内に広がる鉄の味に顔を顰め、エルケはそのまま剣を振り被る。

「……マルセル……!」

 周りから見れば、味方に剣を向け狂ったのかと思われただろう。エルケは少し離れた場所で、エルケの名前を呼ぶトニの声を聞いた気がした。

 手綱を手離していた所為で、簡単に体がアンゲリカから転がり落ちた。

 槍を持ったまま、肩を強打してエルケは草むらを転がる。一瞬、息が止まった。

 それでも膝を突いたまま、どこからかくる攻撃に備えて短剣を向ける。馬に乗ったマルセルを見上げると、何処か懐かしい景色がその姿に重なった。

 その景色は森の中の戦場ではない。

 白い景色。

(……これは、いつの記憶なんだ……?)

 白く、覆うのは雪だ。

 降り続く大粒の雪の中、軍衣を着たマルセルが団旗を持ってエルケを見下ろしていた。

 立ち竦むエルケの横に、蹲る姉の姿。

 転がる小さな体を見詰め、抱き締めたまま泣いている。

 ゆっくりと広げるエルケの指はまだ小さい。姉が抱き締めた小さな少年の体と同じ位の歳だ。剥き出しの肩にどんどん落ちて来る雪が冷たくて、エルケは小さくくしゃみをした。

 その時だ。

 馬上のマルセルと、蹲った姉がエルケに気付いたのは。

「……いつから……ここにいたの……?」

 姉は、まるで今までエルケがここにいたのを全く気付いて無かったように聞いてきた。

 頬を伝うその涙が凍っていくのが可哀想で、エルケは裸の膝を雪積もる中に置いて、彼女を抱き締める。

 寒い。そう思える事もまた人間なのだ、と何処か安心しながら。


「泣かないで。とてもいいものをあげるから」

 微笑んでからエルケが海を見ると、まるで戻って来いと鳴いている様に波が高くなった。

 雪の吹きすさぶ嵐の夜や、波の高い荒れた夜は『涙』を呼び寄せる。

 人魚は『涙』を呼び寄せる。

 その時、エルケは確かに赤い涙を呼び寄せたのだ。何よりも大きな石だった。それは『人魚の涙』と呼ばれる素晴らしい奇跡。

 その『涙』の気高さと神秘さに魅せられた『蝶』がいた。

 それが始まり。

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