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涙と蝶  作者:
6章 Oktober 紫の石
52/73

 手綱に繋がれたエルケの馬は月毛だ。薄い黄色の月毛は、水面に照らされた金色にも見える。

 名はアンゲリカ、牝馬だった。

 ワルゼ城に入って直ぐにエルケは、これからの相棒となる彼女の手綱を手渡されたのだ。エルケは彼女の美しさに一気に魅せられた。

 美しいアンゲリカの首に、エルケは躊躇することなく指を伸ばす。

 優しげな眼をした彼女は、不安が入り雑じりながら伸ばすエルケの指に、優しく鼻面を擦り寄せてくる。

 彼女には美しい鞍が乗せられていた。エルケの身に付けた軍衣と同じ真紅の鞍だ。

 手に力を入れて鞍に尻を上げれば、高い場所から山の周辺を一気に見下ろす事が出来る。

 崖下から吹き上げてくる風が赤金の髪を揺らし、エルケは眼を細めた。その微かに物騒な臭いの含む風を受け止める。

 体を動かす度に鳴るのは鎖帷子だ。ぎこちないエルケの体を柔らかく包み、見た目の割には意外にも軽く作られている。それでも、エルケの為に極力重さを抑えてつくられたそれは、僅かに胸回りがきついのだ。その部分が成長に伴って重力を増している事なんて、誰も知らない。

 それでも体を守る分には遜色ないだろう。

(まぁ。布で胸を押さえることを考えたら気にしなくていい分、気も楽だよね……)

 この軽さは、職人の努力の結晶だとザシャが笑った。

「流石に、旗騎士を一番最初に取られてしまう訳にはいかないからな。重さは抑えても、耐久性には自信ありだとさ」

「とは言っても、何度も耐えうる訳ではないですからね。戦闘が始まったら、速やかに後方へ下って下さいよ」

 アヒムがアンゲリカの手綱を持ち、馬上のエルケを睨みつける。

「え? 後方にいてもいいの?」

 エルケは素っ頓狂な声を上げた。

(先陣切って、戦の前線にいるもんだと思ってた!)

 今更の質問をしてきたエルケに、アヒムは顔を引き攣らせる。

「……貴方は……!」

 小刻みに震えるアヒムの唇が見えた。

「ご、ごめんなさい! 僕、ちょっと理解できていなかった……みたいで……前に出て一緒に戦うもんだとてっきり」

 エルケは衝動的にまず謝ってしまう。

 腰に佩いた剣の柄に、エルケは手を伸ばした。

 混戦になると上手に剣を抜けるのか、実はずっと心配だったのだ。剣で人を殺し、自分の命を守る。そんな難しいことを同時に出来る自信など、エルケには皆無だった。

 なにせ、エルケの剣の腕は他の団の人間に比べ付け焼刃でしかないのだ。

「貴方は、昨日の作戦会議を聞いてました?」

 目を見開いたエルケに、アヒムがあからさまな溜息をついて見せた。肩を呆れたように上下させるおまけも付いている。

「今回の戦闘は、平原の会戦とは少し具合が違うんです。アロイス地方で軍を張っているミュンヒに向かう前に、何とか相手の戦力を削ぐのが今回の戦闘なんですよ! 本来は貴方がいるべき戦闘ではない。ただ『黙って』旗でも持っていればいいんです!」

(黙って、を強調された! しかも軍旗を、旗でも、って言った!)

 エルケは俯き、小さく「はい」と答えた。

 この件に関しては、アヒムに逆らわない方がよさそうだ。エルケが言い返せることなど勿論何もない。

 言い返せば何倍にもなって戻ってくるだろう。

「貴方が今ここにいるのは偶然が引き起こした産物に過ぎません。さっさとミュンヒと合流して頂かないと、戦の矢面に立つのはいつまでもこのワルゼなんですからね。戦に参加するのは、今回で最後、なんてふざけた事になるのだけは避けて下さいよ」

「……分かったよ。僕は自分の出来ることだけをしたらいいんだね」

「ええ、余計なことは考えずそれだけに集中して下さい」

 了承の意を込めてエルケは大きく頷き、周囲を見た。

 傍に控えるザシャとアヒムは、漆黒の団服の上に漆黒の軍衣を着ている。

 アンゲリカに跨るエルケの横で馬上の人となっているヤンもまた、漆黒に橙の紋章の団服と軍衣。彼が腰に佩いた剣は二本だ。

 ヤンは先程からエルケと付かず離れずの距離を保っているが、例えエルケが振り返っても頑なにこちらを見ようとはしない。

(……ヤンは戦の前には、こういう緊張感のない会話は好まないのかもしれない……)

 エルケは今の会話の流れが、戦を軽く考えているように取られてしまわないか考えて、突然恥ずかしくなった。

 作戦会議を聞いていなかった訳では無かったのに、話の内容が難しく噛み砕き理解をすることが出来なった。作戦の流れを追うのに必死で、自分の役割を確認することを怠っていたのだ。

 本来、エルケはミュンヒ騎士団と行動を共にする筈であり、この作戦にエルケが加わる予定はなかった。

 しかしミュンヒから使者は即ヨープを引き返したにも拘わらず、現在もまだワルゼ城に到着したエルケ達とかなりの差を付けて遅れ、未だ到着の話はない。

 干ばつの所為で頻発している夜盗に野宿中、襲われたのだとヤンが教えてくれた。装備は奪われ、命だけは助かったものの逃げるのがやっとだったらしい。

 その報告を聞いたクルトは「寝食惜しんで駆け付ければ良かったのに、急ぎの任務で休憩などを取るからだよ。自業自得じゃない?」と、冷酷に吐き捨てた。確かにそうだ。エルケもその件に関しては同意する。

 本陣からの使者も、唯一の通路となるライゼガング近辺にビューローの小隊が潜伏しているとなればそう簡単にエルケを連れ出す訳にもいかなかった。

 エルケの初陣は、実のところ、フェーデを付きつけてから初めての戦闘である『アロイス』の予定だった。顔も知らない騎士団の中にエルケは一人入り、戦に出る予定だった。

 しかしこの場合は、ノルベルト副総長の策が功を奏したのか。

 帰城を急いだだけあって、エルケは戦闘前にワルゼ騎士団と合流し、ミュンヒ騎士団の本陣へと向かう前に小規模の戦闘が起きたのだ。

(初めての戦闘がクルト達と一緒で良かった……)

 エルケは胸を撫で下ろしていた。

 もし、当初の予定通りに戦闘が起きたら。そんなことを考えると凄く恐ろしくなる。

 きっと知らない人間の中でどうにもならなくなり、エルケは無様な姿を見せつけていただろう。

 不安げな視線を辺りに漂わせるたエルケを、アヒムが三白眼気味に睨みつけて来た。

「今回の戦の煽動者がそんなことでは困りますね。士気が下がります」

「は、はい!」

 エルケは唾を飲み込むと、手にした軍旗を抱き締めた。

 ヤンを背に乗せたルッツが冷酷な口調を改めないアヒムを責めるように、鼻息荒く前足元をかく。落ち込んでいるエルケを気にしているのだろうか。

(……仕方ないよ、本当のことだもの)

 エルケは視線でルッツに言い聞かせた。

 本当に優しい馬なのだ。初めて会った時にあれだけ馬鹿にされたのもいい思い出だった。

 ルッツに促されたか、ヤンが重い口をやっと開く。 

「戦闘が始まったら、お前はそのままそこを動くな。後は、俺達が前へ出る」

「……うん」

 エルケは少し返事を濁す。

(……それはヤンとか他の人たちを僕の盾にするってことにはならないんだろうか? 騎士団を戦の壁にさせたブラル大司教とは違うのかな……?)

 旗騎士を討たれると士気に係わるから守らなくてはならない、ということはよくエルケも理解していた。

 本来、旗を持つのは主君ある貴族でありエルケの様な一介の人間。しかも実は人間ですらない様な存在が持つべきものではないのだ。

 アヒムが冷やかに返す。

「止めても出て行くでしょうね、主にうちの隊長ですが」

「まぁ、エリクは死なない程度に頑張ってくれりゃいいってことだ」

「……はい」

 散々な言われようのザシャは全く気にしてない風に笑った。

(それが一番問題なんだけどな……)

 既に初めての戦だと思うと体中が震え、呼吸が荒くなってくる。

 これが戦の興奮が原因なのなら十分だが、きっと怖がっているのだろう。エルケには分かっていた。

 人の命を簡単に左右する戦が近付いてくるということが、ただ怖くて仕方ないのだ。

 エルケはアンゲリカのたてがみに指を這わせた。

(僕は……覚悟が足りない)

 彼女はエルケの指を拒絶することなく、大人しくされるがままだった。

 それでもアンゲリカはその美しく可憐な見た目に反し、戦時は獰猛に首を振りながら駆け抜けるらしい。その話を聞いた時、エルケはカヤみたいだ、と思った。

 可憐で獰猛な人間のカヤは、現在後方の支援に当たっている。

 ノルベルト副総長の妻であるフィネも一緒だ。

 カヤが馬に乗る事は許されなかった。女である事が口惜しい、とカヤは吐き捨てた。

 共に駆け共に戦う事が出来るのなら、と舌を鳴らすカヤを見ると、本来は女の身でありながらもそれを隠せば、鎧を纏うことのできるこの運命も少しは誇らしく思えてくる。

(僕は何も出来ないんだ……ただ馬鹿な失敗で命を失う事だけはしない様にしよう)

 共に行けるのならば、無駄な過大評価は止めた方がいいのだ。

「僕、頑張ります」

 一言一言、噛み締めるように言った。

 大人で戦に慣れている目の前の男達が、緊張に震えるエルケを見て笑う。

「まぁ、そう気張るな。ヤンが守ってくれるだろうさ。俺等は総長とエリクを兼務だからな」

 ザシャがエルケの強張った肩を叩いた。

 凄い衝撃に馬から落ちそうになったのは、ご愛嬌だ。

「前方は専任に任せた。その代りと言っちゃあ何だが、後方は他の団員に任せろ」

「ああ、分かった」

 ザシャの言葉に、ヤンはこちらを見ないまま頷く。

 エルケは少しだけ前に進んだヤンの背中を見詰めた。

(この人から、絶対に離れない様にしなくちゃ……)

 守られるべきして横に立つ人間にならなくていけない。全てはそれから始まるのだ。

 エルケは一瞬軍靴を見下ろし、顔を上げた。

 小さく深呼吸し、眼を瞑る。

 アンゲリカから落馬してしまったら、エルケの力では槍や剣の猛攻から逃げ切る事は出来ないだろう。

 勿論、この不自由な足では走って逃げる事も叶わない。

 手綱と足だけは絶対に手放せないのだ。アンゲリカを信じて、エルケはただしがみ付く。それが唯一の生きる道だった。

 汗ばんだ手の平を軍服で擦る。

 漆黒の団服の中に、異質な真紅の軍服。

 月毛のアンゲリカと、赤金の髪をしたエルケは遠目から見ても目立つ。戦が始まれば、これに首元を守る鎖帷子と兜を被る。

 兜には真紅の飾り、髪の毛は兜と鎖帷子で隠れてもエルケが分かるようにだ。

 エルケは周りに集った勇壮な騎士たちを見渡した。

 赤金の髪を括る紐は、今日外している。

 兜を取った時に風に靡く髪は印象深い、括るのを止める様にクルトから指示されたのだ。

 女にしか見えない薄い手の甲には鋼鉄製の鉄甲が付いている。

 腰に佩いた剣は手入れも欠かさず、切れ味も良好だ。これからこれを使って誰かを殺すかもしれない、なんて数ヶ月前には考えもしなかった。

 ビューローの城から必死に逃げ出して生きるのを諦めかけた時、ヤンとクルトとカヤに出会って旅を始めた。

 ずっと何の疑いを持っていなかった出生が実は人間じゃないのかもと知らされて、エルケを支えてくれた何もかもがあっという間に揺らいだ。

 姉もゼークトも全て、発作の様に見る夢かも知れない、と疑った時もあったのだ。

(……そう言えば、ブラル大司教に僕の正体を教えられてから発作も起きなくなったし、あの酷い夢も見なくなった……)

 今、たまに見る夢は昔よく見ていたゼークトで姉と過ごす夢だけだ。夢の中で繰り返し聞かされるのは、物悲しく激しい人魚の物語。

 今となっては人魚の苦しみも悲しみも理解出来る。勿論、姉の苦しみもエルケには分かっていた。

 エルケは少し前方で待機するヤンの大きな背中を見詰めた。

(もし僕が物語の人魚なら……足を切っても腕を切っても、共に歩く事を望むんだろうな)

 共に駆ける為に、エルケは例え怖くても女である事を偽って剣を振るう事を選んだのだ。

 蠢く黒の一帯の中で一際、鮮烈に輝く金色の畝はクルトの髪だ。

 漆黒の団服に彼の髪は良く映える。

 誰より強そうに見えて、脆いその心を守ろうとエルケは心に誓っていた。

 クルトが幼さの残る不安げな表情を浮かべて振り向いた時に、エルケはその悲しみを癒したいと強く思うのだ。

 エルケの横に栗毛の馬が近付いてきた。

 その馬に跨っているのは、トニだ。彼は少し躊躇してから、トニが近付いてきたのに気付き振り返ったエルケに決意も新たに話しかけて来る。

「……エリク、俺も責任持って守るから」

 エルケは微笑んだ。

「うん。ありがとう、トニ。宜しくね」

 どうしてもおろそかになるエルケの横を、今回の不始末の処罰として命を賭けて守る事になったのはトニだった。

 身を呈しても守れ、というのがクルトの命令だが、実際騎士団がトニを処罰するつもりではなかった事をエルケは分かっていた。

 実際一番命の危険があるこの場所を、処罰としてトニに務めて貰う。

 そう言い出したフォルカーの案を聞いて、皆一様に安堵した表情になったのはエルケにも意外だった。

 それはきっと入団してからずっとその日まで地道に積み上げて来たトニの人となりがなせた技だろう。長年、共に戦ってきた人間を痛めつけるなんてこと、本当は誰もしたくは無かったのだ。

 甘いと言われても、誰もが同じ気持ちかもしれない。

 マルセルは現在もまだ行方不明だった。ワルゼ騎士団から数名の追手が探しているそうだが、見つかっていない。

 いつ何処に現れてもおかしくはない今の状況では、エルケから眼を離す事は出来なかった。戦の混乱に紛れて、何をされてもおかしくはないのだ。それにクルトは仇討ちをしようとしているエルケの覚悟を知っている。

 兵士の中にマルセルを見つけたとしたら……?

(僕は……冷静さを保てるだろうか……?)

 クルトとヤンとでエルケを守るのが最善なのだが、この小人数では精鋭部隊は出来るだけ前線に回したい。

 クルトには背負うものがたくさんある。それにエルケという重い荷物も上乗せしたくはなかった。

 クルト自身も守られなくてはならない大切な存在なのだ。

 手に持った軍旗が、強くなりつつある風に煽られた。

 じわりじわりと闇が近付いてくる。

 とうとう戦いが始まるのだ。エルケは前を睨みつけた。

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