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涙と蝶  作者:
6章 Oktober 紫の石
50/73

1

「馬鹿か、お前は」

 前線に立つのだ、そう主張したエルケへの二人の反応は全く正反対だった。

 移動の為に自分の荷物を袋に押し込みながら、ヤンは聞えよがしに大きな溜息を付いた。それは広い背中ごと大きく上下して、とても深呼吸にも似ている。

「そんな弱々しい体で、前線に立ってどうする? 自分の剣の腕をよく理解してから言え」

 そこまで言われると、特に引き下がる訳にはいかない。大体、これは決定事項だ。

 エルケも自分の袋へ部屋に広げた物を突っ込みながら、背中を向けたヤンに反論した。

「僕の情けない剣の腕は、勿論僕自身が誰よりも分かってるよ! でも……この戦がゼークトの為に始まる以上、僕は誰かの背中に隠れるなんて卑怯な真似は出来ないんだ!」

 ヤンに対してなのに、思わず声を少し荒げてしまった。そして、振り返ったヤンの鋭い視線に射抜かれる。

「そうして、真っ先に殺されるってか」

 視線で分かる。ヤンの苛立ちは最高潮に達しているのだ。物凄く怖い。身の危険を感じる程だ。聞き分けのない子供を諭すようないつもの口調は見えず、エルケが少し弱気を見せたら箱にでも押し込まれてしまいそうだ。

 腰に佩いたヤンの剣が床の上で鎮座している。

 ヤンはこれで人を殺す。ヤンの言葉の重みは戦に出た事のある恐怖から出てくるものだから仕方がないのかもしれない。

 本当は深く考えると尻ごみしてしまいそうだった。

(でも僕だって……今ここで逃げる訳にはいかない)

 気持ちを必死に奮い立たせる、無駄な足掻きで。

「僕も殺されない様に、出来るだけの努力はするよ」

 ヤンの視線を真っ向に受けると、彼は呆れた表情をして立ち上がり手に持った外套を投げ付けて来た。

 汗と埃臭い、男の人の臭い。決していい匂いだとは言えないけれど、何処か安心する臭いだと思ってしまうエルケもかなり旅に染まってきている。

 見上げた先にぶつかる剣呑な視線。今回は絶対に引く訳にはいかない。意を決して睨みかえした。

 その視線は何倍にもなってエルケに突き刺さってくるけれど。

「……甘えんな、戦争だぞ。子供の遊びじゃねぇんだ」

 身が竦んだ。

「綺麗ごとだってのは分かってる! でも、ゼークトの名前で始まる戦に騎士団が駆り出されて、その後ろでぬくぬくとしているのは嫌だ! それに、もうこれは決定事項なんだよ!」

 エルケとブラル大司教との話し合いの後、早急にマルプルク公国ビューローへ送り付けられたヨープからの書簡は、封蝋に沈み彫りが捺された公式文書だった。

 ビューローに送り付けられたフェーデと呼ばれる宣戦布告にも近い和解交渉の一部はこうだ。


『私、ブラル大司教は知らしめる。

 私は良き平和の為に、双方を仲裁し、以下のように両者の和解を取り決めた。

 マルプルク公国ビューロー城主は、百人の騎士と兵士を伴ってゼークト村へ赴き、赦しを請い、自身の償いを受け入れるよう、謙譲に希う』


 それは、一見ゼークトとビューローの『穏便な和解』を推奨するものだった。

 しかしその文言のあとに、到底用意する事が出来ない程の贖罪金の支払いと、和解以降はゼークトへの手出しは一切無用であるという文言が付け加えられている。

 和解申し立て者のサインはエルケだった。

 ゼークトの生存者であるエルケが救援を乞い、ブラル大司教領はビューローとの仲裁を依頼された事になっている。

 文書の中には、エルケや村人が受けた屈辱的な仕打ちや数々の拷問の内容が箇条書きされ、勿論エルケの生い立ちなどは伏せられていた。

 今回のフェーデは、ブラル大司教領が大なり小なり軍事行動に出る前の最後の砦の様なものだ。和解の条件を全て飲まなければ最後の手段となる戦もやむを得ず、と宣言しているに他ならない。

 勿論それは、ビューローが早々飲める条件ではないのを見越して出され、早々に何処かへ進撃を加えるのも想定上だ。

 そして、戦いの扇動者であるエルケを最前線に送り込むというのは、現在パウルゼン騎士団を一部ゼークト付近へと送っているフリーデグント伯の案だった。

 エルケが戦を先導するというのは、戦いの正当性を明らかにする為にも有効らしい。

 勿論、兵士の士気を上げる目的もある。その為、当初エルケの身柄はひとまずの戦場になるだろうと予測されるパウルゼン騎士団に移される事となっていた。

 しかし予定よりも早くライゼガング金鉱の裏山で起きた小規模な戦闘――被害者は奇跡的にいなかった。その報告がワルゼ騎士団から届き、ブラル大司教領はその戦いの場をゼークト付近から大幅に変更する羽目となったのだ。

 目下の戦場は、ライゼガングの山を越えたアロイス地方。

 丁度、領境に属する平原だった。

 ビューローの小隊がライゼガングに張られたワルゼ騎士団の戦線を突破する前に、エルケはミュンヒ騎士団と平原で合流しなくてはいけない。

 エルケはなかなか折れようとはしないヤンに業を煮やし、乱暴に吐き捨てた。

「ヤンが駄目だって言うなら、騎士団に頼むよ!」

「俺はいいよ」

 そんな投遣りなエルケの声に、部屋唯一の出口である扉に背中を預けクルトが了承の片手を上げた。

「……おい」

 そんなクルトの反応を見て、眼の前でヤンが歯ぎしりをする。

 エルケに向けられていた剣呑な視線をクルトに向けて、地を這う様な低音の脅しをかけた。

「……無理に決まってんだろうが。こいつを殺してぇのか」

 中身のぎっちり詰まった袋をヤンはベッドへと投げ付ける。

 手早く外套を身に付け、ヤンはエルケを振り返った。

 ヤンの視線は苛立ちと微かな悲しみが混ざり合っている。言う事を聞いてくれ、頼む。そんな声が今にも聞こえて来そうだった。

(ごめん、ヤン。でもそんな事、勿論聞き入れられる筈も無いんだよ)

 ここで引いたらブラル大司教と話した意味が無くなってしまうのだ。

 エルケが先導しなくても、どうせ皆が戦いに巻き込まれるのなら、せめて前線で共に駆けたい。

 ヤンの言い合いの相手はエルケからクルトに移った様だった。ヤンの視線だけはエルケに留めたまま、ヤンはクルトと話し始める。

「ただの兵士じゃねぇんだ。こいつは旗持ちだぞ?」

 軍旗は、戦場で全軍で一番位の高い人間に預けられる。この戦ではエルケが旗騎士だ。

 軍旗が見える以上エルケは危機に陥る事も無く無事であり、指揮系統が無事であると確認できる。どんなに敗戦濃厚であろうとも、軍旗が地に付いていない以上は遁走も降伏もあり得ないのだ。

 逆を言うと旗が地に付けば、士気と指揮に係わる。

「でも放っておけば、俺達じゃない誰かの後ろで死ぬだけだろ? 戦は始まるんだ。エリクはゼークトの生き残りとしてその先陣に立つ。それは決まっている事だよ。それとも――」

 ヤンが乱暴に髪を掻き、ベッドの足を蹴り付けた。そんなヤンを見て、クルトが苦笑する。

「そんなに嫌なら、ヤンがエリクを連れて逃げるかい? 俺はそれでも構わないよ。どうせ、戦を始めたがっているのは俺の父親だからね、幕引きは俺や兄の役目でしょ」

 悪い冗談にもならないクルトの台詞を聞いて、史上最悪最長の溜息をヤンはついた。胸の中の空気が全部出て行ってしまっているのではないかと、エルケが心配してしまう程に長く重い溜息だ。

 クルトはそんなヤンを責めもしないでただ見守っている。まるで本当にヤンがエルケを連れて逃げてくれるのを望んでいる様だ。エルケ自身の希望を全く度外視の上で。

(勝手な提案しないでよ! 僕は逃げたいんじゃない。一緒に戦いたいのに!)

 埒が明かない。エルケは自分の肩に外套を付け、立ちあがった。

 唇を噛んで、銘々思惑の錯綜する二人の姿を見渡す。出来るだけ低い声を出そうと咽喉の奥を振り絞った。そうじゃなくてはまるで女みたいな悲鳴になってしまう。

「僕は何を言われても絶対に行くよ」

 拳を握り締める。意志を見せなくてはいけない。ヤンには特に強固な意志を見せつけなくては。

「ヤンが付いて来なくても僕は絶対に引くつもりはない! 蝶の出方も知りたいし、ゼークトに辿り着く目的の前にビューローが立ち塞がるなら僕の方だって戦を逆に利用させて貰う」

 クルトに視線を流す。飄々としたいつも彼には闇も逡巡も見えない。だから引き摺りこむ。

「クルトの事だって……勿論、利用するよ」

 偉そうなエルケの口調を聞いて、クルトが噴き出した。アクヴァマリーンの瞳が嬉しそうに揺れている。一通り笑うと、艶めかしく吐息を一つついた。

「……いいよ。喜んで利用されてあげるよ。お前が俺を戦に駆り出すのなら、本望だ」

 ふざけた声色でも、クルトの台詞は本気だ。

 見詰め返す視線が熱く見られた部分が燃えそうで、エルケは思わず合っていた筈の視線をずらしてしまった。

(これが、クルトの『動く意義』?)

 クルトはゼークトを取り戻す為に動く。ここに誰もいないのなら、クルトはきっとエルケを滅茶苦茶になる程強く抱き締めて、エルケの小さな抵抗をものともせずあちこちに唇を落としたに違いない。それ程までに、クルトの視線は激しい感情の籠った視線だった。

 でも、今はこの部屋にヤンがいるのだ。ヤンの存在に少し救われた。クルトのその感情には、今流される訳にはいかない。

 そもそも人間でも無い人魚である自分が、そんな感情を受ける資格があるのか。エルケの心の奥で微かに何かが揺れる。

 姉に言われ、エルケは幼い頃からずっと少年の姿をして過ごしてきた。姉と別れてからは体を守る為に、城を逃げ出してからは旅を安全に続ける為に、ビューローの追手にはゼークトの生き残りだと気付かれない様に、女である事を捨て男であろうとしてきた。

 そして、エルケは今、戦を扇動し前線に立とうとする為に男であろうとしている。

 いつかその激しい感情にエルケが押し流されるのであれば、きっと全て終わった後だろう。

 男の姿を捨て女に戻り、人魚であるエルケがささやかな幸せを求める。そんな事が本当に出来るのだろうか? 勿論、答えは無かった。

 とはいえゼークトを取り戻すどころか、戦もまだ始まっていない今では、そんな事を考えても栓無き事だ。

 愛用の細い剣を腰に佩き、エルケはクルトが背を預けた扉へと一歩足を踏み出した。ベッドの脇で窓枠に腰を預けたヤンを、エルケは振り返る。

(本当は、あなたと離れたくないんだ。ヤン)

 心の中の叫びを無視することも出来ず、そのまま部屋から出てしまえばいいのに思い切ることが出来ない。

 エルケは重い口を開く。

「……ヤン」

 この部屋にもし誰もいなかったのならエルケはヤンに駆け寄って、その不器用な優しさを愛おしく思いながら謝罪するだろう。そして我儘だと言われても涙を流して、共に駆けさせて欲しいとエルケは懇願してしまうに違いない。

 ヤンはきっとそんな軽慮なエルケに心底苛立ちながら、それでも完全に手を放す事が出来ないのだ。それはエルケにもよく分かっていた。

(そんな子供みたいなこと、もう出来ないんだよね……)

 戦を扇動するのであれば、そんな弱々しいままのエルケではヤンどころか誰しもが付いてくるのを不安に思うだろう。

 エルケはもう一度、動こうとはしないヤンを言葉で促す。指に扉の取っ手が触れている。

「……ヤン、行くよ」

 ヤンは俯き。険しい表情を浮かべたままだ。

 所属団のない彼はミュンヒでもワルゼでもパウルゼンでも戦線を選ぶ事が出来る。勿論、このヨープに残る選択肢もある。

 クルトがヤンを連れて行く、と言ってくれていたから勝手に安心していた。でも、ヤンがそれを選ぶとは限らない。クルトは動かないヤンを見ても無言のままで、こういう時にこそ行使して欲しい権限を使う気は全く無い様だ。無理やり連れて行くことの出来ない事に落胆しながら、同時にヤンの自由がまだ残されているようで安堵した。

 ヤンはまだ動かない。エルケの唇が少し震えてきた。

 彼が反応を見せないことに動揺して、意図せず声が掠れてしまう。

「ヤン、行くからね」

 ――ああ、動かない。

 お願い、ヤン。一緒に行こうよ。一度涙を流せば、情けなくもそんな泣き言を溢してしまうそうだ。

 出会ったばかりの頃、こんな思いをした事があるのだとエルケが記憶を辿れば、それはエーゲルのあの小屋の前だった。

 あの時、エルケは置いて行かれるのかと泣きそうになっていた。それでも結局、彼らに付いて行けたのはクルトが抱き上げてくれたからだ。その時も、エルケ自ら動く事が出来なかった。

 唇を噛む。ヤン一人がどんなに頑なにエルケが戦に出る事を拒んでも、結局それは無理なのだ。もう動き出してしまった。

(……ごめんね、許して)

 エルケは心の中でヤンに謝罪した。

 流石に取り乱して説得することは出来ないけれど、どんな手段を使ってもヤンを離したくは無い。

 とはいえ、このまま扉を開けてヤンに選択を任せても付いて来てくれる可能性は低いだろう。

 諦めるか? ――いや、それよりも。

 扉の取っ手を放し、エルケはヤンの方へ身を翻した。意を決してエルケよりもずっと大きなヤンの手を躊躇なく掴むと、ヤンがゆっくり顔を上げる。

 暗く沈んだ瞳。

 元々感情豊かな方ではないヤンだったが、それでも見てとれる程に彼はエルケを心配している。ヤンは不安なのだ。

 戦いに慣れた彼がそう思うという事は、きっとこれからエルケは苦しみ嘆く事があるに違いない。村を失い生死を間近で見て、苦しんでいたエルケを彼は気遣ってくれていた。

(……ごめん、ヤン。本当に心配掛けてごめんね。でも、やっぱり引く訳にはいかないんだ)

 謝罪は、結局声には出せなかった。

「ヤン、僕と一緒に行こう。僕はヤンの力が欲しいんだ」

(本当、なんて自分勝手な口説き文句なんだろう……?)

 そう、内心苦笑しながらもエルケの口は止まらない。

「僕の近くでヤンには剣を持って欲しい。そして、凄く頼りないけれど僕だってヤンとクルトの剣になりたいんだ」

 口説いているエルケの背後で、突然クルトが噴き出した。

 そりゃあ、クルトみたいに誰かを口説くのに慣れているわけじゃない。たどたどしい台詞はやっぱり少し的外れだったのかもしれない。それでも、今のエルケには精一杯だった。

 ――笑い声が邪魔だ。エルケはヤンの手を放さないままで、後ろを振り返る。肩をまだ揺らしているクルトを睨み付けると、後頭部から来た大きな手の平が乗った。

 その重さに耐えきれず、首が軋む。その手の平に阻害されて、ヤンの方を振り返る事は出来なかった。

「……仕方ねぇな」

 大きな溜息が聞こえる。

 ヤンは頭に手の平を乗せたまま、体を窓枠から離した様だった。ヤンの片手を握った手を放そうとしてエルケが手を浮かせると、それを拒む様に握り締められた。

 低い声が頭上で聞こえてくる。

「分かった……俺は、盾になろう」

 そう言い残し、ヤンは全ての手をエルケから離した。

 何かを言おうとエルケが言葉を見つける前に、ヤンはベッドに放り投げていた袋を掴みエルケの横を擦り抜ける。

 ヤンはただ無言で、扉の取っ手を掴んだ。

 扉を開け、部屋を出る前にクルトが意味ありげに微笑むのが見えた。

 それこそ、意地の悪そうな笑みを浮かべている。

「……大幅な戦力増だね。ワルゼ騎士団の総長として、エリクに感謝しなくちゃ」

「勝手にしろ」

 大きな風を伴って、扉は乱暴に閉められた。

 向こう側から聞こえた壮絶な音に肩を竦ませれば、クルトが「あれは流石に修理代を請求されるだろうね」と苦笑する。

 宿屋の廊下には、軍靴で開けられた大きな穴が鎮座ましているに違いない。

 ヤンを手に入れた。

 エルケはその圧倒的な安堵に胸を撫で下ろす。



 マルガとデリアを当分安全な首都ヨープへ残し、エルケは目下の戦場となるアロイス地方付近に布陣しつつあるミュンヒ騎士団ではなく、ワルゼ騎士団との合流を決断した。

 エルケを安全にミュンヒ騎士団の元へ移動させる為向かっていたミュンヒの小隊がヨープに到着する前に、ライゼガングの報告を携えたワルゼ騎士団の使者が到着していたからだ。

 市壁の外、小作人が美しく整えた畝の見える畑の向こう側に、彼らは立っていた。

 しかし彼らの風貌は「報告の使者」と呼ぶには随分な語弊がある。

 クルトが急遽ワルゼに戻る事になるのを、もしかしてノルベルト副総長は既に読んでいたのではないのだろうか。

「使者」とは言っても、結局はエルケ達の警備に当たる事になったのは、豪胆な性格で寸前までライゼガングの警備に当たっていた軽騎兵隊長ザシャ・バーデ率いるワルゼ騎士団六隊だった。

 勿論、使者として遣われる様な隊ではない。

「エリクです。宜しくお願いします」

 ライゼガング近郊の小規模な戦は、今の所なりを潜めているらしい。

 早急で安全な総長の帰団を望む、とノルベルト副総長からの伝言を携えたザシャは、頭を下げたエルケの顔を見るなり後頭部を掻いた。

「こりゃまた、えらい小さく可愛らしい騎士だな。馬に乗ったら見えなくなりそうだ。鞍に乗せるより、袋かなんかに詰めて、馬の首にでも括りつけておくのはどうだ?」

「そうなると、軍旗も馬の首に固定しておくんですか? 貴方は何をまた馬鹿な事を考えてるんですか」

 二人は立ち止まるエルケの前で、軽口を叩き合っている。

 濃い褐色の短い髪に無精ひげの男の方が先に、エルケの顔を覗き込んだ。

 ヤンにも見劣りしない体の大きさと、少し多過ぎる程の男臭さにエルケも思わず一歩後ろに下ってしまう。

「俺はザシャだ。ワルゼまでは少し急がにゃならんぞ。覚悟しろよ、小僧」

  エルケの前で屈んだザシャの後頭部を冷やかに見下し、もう一人の男が口を開く。

「僕はアヒムと申します。総長他をワルゼまで警備させていただく任務を副総長から仰せつかりました」

 アヒムはザシャとは全く正反対の容姿をした青年だ。薄い金色の髪に鋭く細い目をしている。

 ザシャが斧なら、アヒムは鋭く尖った剣先だ。

(……馬に乗ったら見えなくなりそう、とか、袋に詰める、とかには誰も突っ込んでくれないんだ……僕って結構な言われようだよね)

 見え透いた世辞を言おうとはしない彼らの口調に、エルケは思わず苦笑してしまう。

 しかし、そんな軽口をエルケに叩いた彼らもクルトの姿を確認すると急に姿勢を正した。

 ザシャは、アヒムと共にヤンが話していた。

 畑の横で一人取り残されたエルケの後ろから、カヤが話し掛けて来る。

「一気に、見た目からして臭くなったわね」

「あはは、まぁね」

 騎士団六隊は七人構成だ。

 ザシャとアヒムの他に、隊員は五名。勿論、皆男。

 カヤはこの旅団の中で紅一点――実際は二点なのだが。カヤとエルケは幌馬車に乗る手筈になっていた。

 ザシャとアヒム以外の団員は用意された二台の幌馬車の準備を忙しなく始めている。前に二騎、二台の幌馬車の間に二騎。後続した幌馬車の後ろに二騎の警備が付くことになっていた。

 当初、後ろの幌馬車にはクルトが乗る事になっていたらしい。

 しかし、本人の強い希望で警備に回る事となった。寄って、後ろの幌馬車は無人だ。

 そのことをヤンが指摘すると「賊に襲われた時に置いて逃げればいいんだ」と、ザシャが豪快に笑った。

 彼はする事も考える事も豪快な人間だ。

「……ちょっと、早まったかしら」

 男だらけの旅団を睨みながら、カヤが可憐に溜息をついた。

 ヨープへ残る為の手筈をブラル大司教に先立って整えられていたカヤはそれを拒否し、結局ワルゼ城のノルベルト副総長の家へとひとまず向かう事になったのだ。

 ノルベルト副総長の奥方とカヤは知己の仲らしい。

「カヤ、いいの? ヨープを出ても」

 クラウスはまだ、ブラル大司教の籠から出る事を許されなかった。カヤが彼と会う為には、カヤもまた籠に入らなくてはいけないのだ。

 今回用意された美しく堅固に守る籠の中へ入る事は、カヤ自身が拒絶した。

 しかも悪口雑言の並びたてた手紙も付けて、ブラル大司教からの使者をカヤは乱暴に追い返したのだ。

「いいのよ、あの発情期が治まるまで少し距離を置かないと駄目ね。人の顔を見ると直ぐに閉じ込めようとするんだから」

 ブラル大司教はきっとあんな悪口雑言の書かれたカヤの手紙を見ても、まるで子供の悪戯を見ている様な顔をして甘受してしまうのだろう。

(……あれだけ冷酷で冷徹な人間をそこまでにしてしまうカヤの存在も、実は凄いよね)

「もしかしてカヤがお願いしたら、ブラル大司教も戦争を止めるんじゃない?」

 エルケが眉を寄せながら呟くと、カヤが眼を見開いた。

 次いで首を振る。

 黒い団服の固まりを呆れた表情で眺めながら、口を開いた。

「無理ね。あいつらは馬鹿だから、血気盛んな感情を発散する場所が無いとおかしくなってしまうのよ。剣でも斧でも振ってないと、監禁とか狂乱とかろくな事にならないんだわ。巻き込まれるこっちの迷惑返り見ず、人の言う事の半分だって耳には入っていないのよ」

 それでも完全に見限る事が出来ないの、とカヤは自嘲気味に言った。

 少し遠くで話を終えたクルトが呼んでいる。

 その姿を見るカヤの眼には、きっとクルトの向こう側にブラル大司教が見えているのだとエルケは知っていた。

(ここまでされてもカヤはやはりまだ、ブラル大司教を愛しているんだろうなぁ……)

 カヤの繊細な心は離れてしまった事で苦しんでいるままなのだろう。悪ぶった口調一つ一つに切なさが滲みて来るような気がする。

「……本当に愚かな男」

 それでも、吐き捨てた声には本当に容赦がなかった。

(まぁ、それがカヤのいいところなんだけど)

 背を向けて幌馬車へ向かうカヤは、そんな愚かな男の手駒となって動く選択しかないエルケ達を心底から不安に思い、苦しんでいる。

 だから彼女は、より一層クラウスの傍に一人のうのうと残る選択肢を蹴ったに違いない。

「私も、男なら良かったのに。置いて行かれるなんて、屈辱だわ」

 カヤは悔しそうに言った。

(……そうだね。たかが女だってだけで置いて行かれるなんて本当に嫌だと思うよ)

 エルケも心の中で呟いた。

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