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涙と蝶  作者:
1章 Mai 緑の都市
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 誰かが来た。

 そう思うまもなく、足音がはっきりと聞こえて来る。

 存在を潜める気が全く無いらしい、自己主張の激しい踵を打ち付ける軍靴の音だ。

 何と無く誰が近付いてきたのか気付いて、盥の前で身支度を整えしゃがみ込んだままだったエルケの背中側で扉が大きく開く。

「おい、飯が――……」

 既に乾いたエルケの赤金の髪がその風に煽られ、軽く浮き上がって落ちた。

 扉を振り返ったエルケは余程可笑しな表情をしていたのだろうか。彼はエルケを見て一瞬足を止め、口を噤む。

(この人にはきっと扉を開ける前に声を掛けるとか、扉をノックするという気遣いをする気が無いんだろうな……)

 ヤンは直ぐに気を取り直した。古く軋む床が悲鳴を上げる大きな足音が正面に回ってくる。

 エルケはただ見上げることしか出来なかった。

 背が高いのか。威圧感か。随分と大男に見える。見上げると首が痛くなった。

 見下ろしてくるヤンの瞳は初夏の空の色をしたカヤの瞳よりももっと深く、暮れなずむ青だ。

 長く伸びたままの前髪の間からあまり感情の読めない顔がこちらを向いている。それに無精ひげ。整った顔つきをしているのに、どこか華の無い顔だった。

 外で馬と共に洗って来たのか、濡れたままの髪は括ることなく背中に下ろしている。

 シャツの袖を捲り上げ、前もだらしなく腹の下、臍の辺りまで開いていた。

 エルケには余り耐性のない、筋肉質な胸と腹が見える。

(その、目の遣り場的な意味で……何かどこを見たらいいのか分からなくて気拙い……)

 慌てて視線をシャツに移した。耳が熱くなる。

 与えられた男物の服を着崩すことなくしっかり着込んでいたエルケは、その堅苦しい恰好が気になり少し襟元を引っ張り開けてみた。

 男性とは通常こういう着こなし方をするべきなのかもしれない。納得させるように小さく頷く。

 ただ少々ヤンの着こなしは目に余るものがあったが。

「飯は……食えそうか?」

(食べたいよ!)

 自分が追われている事も忘れ緊張感無く即座に反応しかけたエルケは、そのまま前に突っ伏しそうになるのを耐える。

 先程から空き過ぎた腹に申し訳ない程旨そうな匂いが扉向こうから流れ入って来るのに気付いていた。

 腹は猛烈に空いている。

 とはいえ怪しいエルケを本気で匿い世話を焼いてくれるのかも判断に苦しむところだし、ろくに食事を取っていなかったエルケの腹に突然そんなものを流し込んでいいのかも分からない。

(……食べたい。凄く食べたいけれども)

 考えるだけで零れてくる唾を飲み込んで、エルケは泣く泣く首を振った。

 まだ彼らが信用出来るかどうかなど分からないのだ。

 薬を入れていない、とは限らない。

「そうか」

 言葉通りただ納得しただけの相槌を打つと、深緑色をした異臭漂う盥を軽々とヤンは肩に持ち上げた。

 その中身を小さな窓から、一気に外へ捨てる。

 日差し差し込む床に、盥から洩れた水滴の輪だけが残った。

 臭く汚い緑色の滝――しかも少し粘り気もある。窓下で餌を啄ばんでいたらしい数羽の小鳥が、激しい羽音を立て抗議しながら空に飛んで行った。

 あの水を頭から被って、鳥達もとんだ被害者だ。

(ごめんね……臭かったよね……)

 空の盥を床に転がし、空いたエルケの前にヤンはしゃがみ込んだ。

 ヤンをずっとめで追っていたエルケの視線の高さが合う。

 誠実な瞳だ。彼のことは何も知らない筈なのに、そう思った。

「お前を売り物で巻いて、カヤに箒で叩かれた」

 エルケはヤンの視線を微かに逸らし、首を傾げた。

(……箒で? 凄い。彼女なら巻いた絨毯で殴りそうなものなのに)

 脳裏を過る出会ったばかりの彼女に抱いてしまった物騒な先入観を、エルケは頭を振って揉み消す。

 ヤンの話の内容は冗談らしく聞こえていても、彼の口調にふざけた色は感じられなかった。どうやら、本当に箒で叩かれたらしい。

(あの綺麗な絨緞が汚れた所為だよね……やっぱり売り物だったんだ……)

 エルケは小さく頭を項垂れ、眉を寄せる。

 声が出ないエルケが謝罪の意味で頭を小さく下げると、ヤンは僅かにも表情を変えることなく突然エルケの頭に大きな手の平を置いた。

 ヤンはエルケを何歳だと思ってるのだろうか。それはまるで子供にする仕草だった。

 手の重さでエルケの首が悲鳴を上げる。

「お前は気にしなくていい。俺が勝手にしたことだからな」

 落ち込んでいるエルケに気を使っている慰めでは無い。本当にヤンはあの絨緞を汚したことについてはどうでもいいらしい。

(でも……あれだけ精密な絨緞を廃棄処分にするのならば、一体どれだけの損失になるんだろう?)

 気にしなくていいというヤンを見上げ――しゃがみ込んでいても十分エルケの視線より高い。申し訳なさで一杯になった。

 何か謝罪の意を伝えたくともエルケの咽喉はまだ本調子ではない。

 声を絞り出し何とか話そうとも、潰れた咽喉が猛烈に痛むのだ。

 辛うじて声を出そうともしわがれた老婆の様な声でたどたどしく意味不明な言葉を話すことしか出来ないのであれば、今はまだ諦めた方がいい。

 何か考え事をしている時の癖で、爪で引っ掻く手の甲に巻かれていた布は真新しい。流石に今まで使っていたものは勿論巻くことは出来なかった。

 湯で体を洗う前に用意されたリンネルの布を先に裂いておき、着替えた後で丁寧に巻き付けたのだ。

 なかなかしっくりいかず何度も巻き直したが、思ったよりもずっと綺麗に巻けている。当分の間はこれで安心だろう。

「馬鹿。何、恰好つけてんだか」

 背中側の扉辺りに音もなくカヤが来ていた。

「俺が勝手にしたことだ、ははん」

 小さな舌打ちの後で彼女は、ヤンの声真似をする――決して上手とは言えないが非常に低い声だ。

 カヤは足を踏みならし部屋の中に入ってきた。

 向き合うヤンとエルケの間に割って入り、床に零れた汚れた水を手にした雑巾で拭う。

(……これって絶対にヤンを邪魔者扱いしている……よね?)

 エルケの頭が、離れるヤンの腕に引っ張られ下に押し付けられた。

 エルケの見上げる正面のヤンの表情に僅かにも判別可能な不機嫌が混ざり、彼は小さく吐息つくとやっとエルケの頭から大きく重い手を下ろした。

 苦しかった首が楽になり、一気に軽くなる。

 立ち上がり一歩。

 床を這い回るカヤに舌打ちされ、二歩三歩とヤンがエルケから離れると、ようやく出来た隙間にカヤがしゃがみ込んだ。

 カヤは、先程の新緑色のスカート上に愛らしい白のエプロンを付けている。近くに寄った彼女から旨そうな煮込み料理の匂いがした。

 エルケの腹が鳴り響く。

 膝の前に両手を付き、鼻先がくっつきそうな程顔を近付けられた。仰け反る暇は無い。

「自分で出来たのね、残念だわ」

 残念だという割に、彼女は嬉しそうな表情をしていた。

 間近で見たカヤの瞳はそれは綺麗で、エルケは呆然と見詰め返す。

 唇を早業で何かが掠め「まだ少し臭いわね」という吐息に似た声もエルケの唇に触れた。呆気に取られ彼女を見る。

 悪戯っぽい笑みが視界一杯に広がっていた。

(……今のって……様子を見ただけだよ……ね?)

 エルケは口元を隠すように深く俯いた。

「おい」

 カヤの首筋を片手で掴んだヤンが、カヤをそのまま遠慮なく後ろに引き摺り倒し――女性に対する遠慮は微塵も感じられなかった。新緑色のスカートの中身を隠す事無く真後ろにカヤが転がる。

 白い下着だった。

 反射的に目を覆ったエルケの手の平に唇が触れる。

(……今、もしかして……この人僕にキスをした……?)

 転がせたヤンの軍靴をカヤは苛立ち紛れに拳で殴り付けた。

「ちょっと、女性に対する態度じゃないでしょそれは」

「……お前もほぼ初対面の人間にする事じゃないだろう」

「……細かい男」

 彼女は歪んだ表情を変え、エルケに向き直る。

 素性も知らない見知らぬ二人の視線が今、エルケの方を向いていた。

(……あ、何か聞かれるのかもしれない……)

 途端に自分は城からの逃亡者であった事を思い出した。

 思わず烙印のある手の甲を背中に隠し、視線を落ち着きなく彷徨わせる。

 そんな行動が何かを隠している怪しさを思わせる事も知っているけれど、でもそれを上手に隠せるほどエルケはまだ世間に慣れていなかった。

 こんな時につい城でされた事を思い出してしまう。

 女なのだと気付かれていなかった分、汚されず体はまだまっさらなままだった。

 それでも何度も殴られ蹴られ、意識を失うと申し訳程度の薬を投げ込まれ放置された。

 幼いエルケはまだいい方だ。共に連れて来られた人間達は何処に行ったのかすらわからない。覚えているのは連れて行かれる時の叫びと抗い泣き狂う声だけだった。

 もう嫌だ、と全てを諦め投げ出したのはつい先程のこと。

 帰りたい、とそれでもただ今はそう思う。このまま死にたくはなかった。

 エルケは姉に会いたかった。全てを懺悔し、泣いて謝罪したかった。

 見上げたエルケの頬に涙が零れ落ちる。

(……このまま城の兵士に突き出されるのかな? 折角ここまで逃げ通したのに……この優しそうに見える人たちも僕を突き出して、蔑んでる兵士からお金を貰うのかもしれない)

 鼻がすん、と鳴る。

 しゃくりあげる様にエルケの細い背中と肩が揺れた。

 歪んだ視界で見上げるヤンはどこか暗い影を表情に浮かべ、目の前のカヤはあくまでも慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。

 仕方ないわねぇ、とでも聞こえて来そうな表情だった。

 そんな表情に泣きたくなる。

(もう……期待なんてしたくなかったのに……)

 もし声が出て言い訳しようにも、こんな胡散臭い逃亡者の作り話等誰が信じてくれるのか。

 男でも女でも無い様に見せかけた偽りのエルケの話を、誰が信じてくれるというのか。

 ぽろり、落ちた涙が膝に零れ落ち借りたズボンの太腿を濡らした。

 一度落ちると涙は滝の様に流れてくる。

「……馬鹿ねぇ」

 カヤが言った。

 親指でエルケの流れた涙を拭ってくれる。その言い方はまるで姉の様だ。

 馬鹿ねぇ、自信が持てず直ぐに自己嫌悪に陥ったエルケにいつも姉はそう言った。貴女は貴方、私は私でしょう? 自分らしくありなさい。そう言って涙を少し乱暴に拭ってくれるのだ。

(……姉さま……会いたいよ)

 エルケの頬を取り留めなく涙が零れ落ちる。

「この時代に訳ありなんてよくあることでしょうに」

 この大陸は狂っている。狂った竜がさながら全てを飲み込む様に戦乱はとめどなく続いているのだ。

 頬を伝う涙。巻き込まれた子供達はエルケと同じ様に途方に暮れ、街や村を浮浪者となって歩いていた。それを人身売買の市場で奴隷として売る。そんな事が黙認された時代。

 まだ少し臭うエルケの薄い体をカヤは他意無く抱き締め、背中を柔らかく二度叩いた。

 エルケが視線を窓向こうに向けると、こちらを見ようともしないヤンの横に小鳥が一羽飛び入って来る。

 少し濡れている床を小鳥は何かを探しながら啄ばみ、小さく鳴くとヤンの肩に飛び乗った。慣れているのだ。

「幸運な事にこちらも若干訳ありよ。同じ訳あり同士、仲良くしましょう?」

 その隠している訳を告げずに、カヤは悪戯っぽく片目を閉じて見せた。

 互いに腹の中を見せずにいようと言っているのだ。

(……他意のない善意だって……受け取っていいのかな)

 涙をまた親指で乱暴に拭われ、エルケは目を強く瞑った。

 向こうでぎしり、音がする。包み込んでいた温もりが離れていった。少し寂しく感じてしまう。

「ひとまず」

 区切りを付ける様なカヤの声。エルケが目を開けるとヤンがこちらに歩み寄って来ていた。

 何事かとうろたえるエルケの目の前でヤンは跪き、エルケの体に腕を回す。

 靴に体重を掛け床が歪む音。

 先ほどとは違う硬い腕と胸がエルケの体を包み、難なく持ち上げた。

 床が離れた。

(体が、腕が、顔が近いし、床が遠いよ……! 怖い!)

 エルケは口の中で聞こえない悲鳴を上げる。

「食事にしましょ、毒なんてめんどくさい真似はしないわよ」

 仁王立ちしたカヤが妙な事で威張っていた。確かに、カヤなら毒なんてものを使わなくても素手で一撃必殺に違いない。

 エルケはひとまず喜んでいいものか、それとも緊張感をまだ保ち続けるべきか。ヤンの腕の中で小さく縮こまった。

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