間章
これ程までに、水に沈んだこの下半身を疎ましいと思った事があっただろうか。
どんなにこの水から出てしまいたくても、この体は海から離れると生きてはいけないのだ。
見える景色も、移り変わる季節も全て海から見る事は出来るのに、この水を愛した体は、彼と共に駆ける事も、横に立ち並ぶ事も出来ない。
水に浮かぶ赤い髪が日射しをはね返すと、それはまるで宝石の様だと彼は愛おしげに笑った。
濡れた石に体を預け手を伸ばし、その頬に触れる。
滑らかな肌。
美しい造形。
彼の顎と頬。
なんて愛おしいのだろう、故郷の海すら霞む程までに。
そんな彼の髪は、まるで金の畝。
決して見る事も叶わぬ小麦の畑。
美しい絵画を見て思いを馳せ、その金の畝に指を這わせる。
もっと近くに、もっと傍に行きたい。この胸を過り、焦がす想いを、伝える為には何をしたらいいのか。
愛の言葉を囁く彼の声は、まるで天の唄。
胸を締め付ける残酷な神の声。
水を愛すこの身を陸に打ち上げ、終りへ導いていく。
声を聞かせて欲しい、もっと長くずっとそばで。叶わぬ事を知っていても、諦めは付かなかった。
これが愛おしいと思う事なのだ。
胸の中に吹き荒ぶ吹雪か、荒れてうねる嵐かと思う程の感情に翻弄され、全てを求めて引き裂かれる心にもまた翻弄された。
慈愛の微笑みと、猛毒の声。
自分を掻き抱く彼の腕と、濡れた唇にも熱く狂おしい唇。
共に逝く事の出来ない悲しみと、刹那の時だけを共に生きる事の出来る喜びに心満たされる。
彼はいつか去って行く。
この水の滴る岩場から体を起こし、緑眩しいあの場所や、自分が見る事も叶わぬあの大きな宮殿や、血が溢れ出る凄惨な戦場へと。
もしこの尾ひれが二本の足ならば、共に戦場を駆けて彼の代わりに全てを手に入れる為の炎となろう。
もしこの腕が水に濡れず彼の元に辿りつけるのならば、悲しむ彼を抱き締めて癒す為の水となろう。
それでも自分の足は水から離れる事も赦されず、この腕は水に濡れぬまま彼を抱く事も、水から上がり傍に行く事も赦されないのだ。
美しい石は姉の命。
愛おしさに狂い、剣を握るこの手は血に塗れ、穢れている。
泣き叫び、怨嗟の声に塗れる声を殺し、命を糧に神へと乞うた。
もし共に歩けるのならばこの細い腕を切り、魚の様な足を切り、記憶を失っても構わない。
傍に行きたい。
触れあいたい。
その切実な思いは神の元へ。
神の悪戯で私はまた生まれた。
人魚は恋をしました 初めての恋でした
月の映る水面を抜けて 逢いに行きました
星の流れる水面を滑り 逢いに行きました
貴方に会えるのならば この足など捨てましょう
貴方に会えるのならば この腕など切りましょう
貴方のその髪は金の畝 貴方のその声は天の唄
聴く度に私の胸は震え その全ては呪縛となる
見る度に私の眼は潤み その全ては鎖となる
貴方を想う度に この心は炎となり全てを焼き捨てて
貴方を想う度に この心は水となり貴方を癒していく
止まらない涙は石となり 水面を辿り貴方の元へ
止まらない涙は水に消え 水面を辿り貴方の元へ
人魚は恋をしました 最後の恋でした
赤い波間に目覚めると、泡が沢山見えた。
渦が激しく、体が持って行かれる。
もっと下はずっと穏やかなのに、沈まずに浮かばなくてはいけない様な気がしていた。
足を伸ばし、手をかいてうねる波間へ向かう。
(こんなに私は泳ぐのが下手だったろうか……?)
手はこんなにも脆く、足もこんなにおぼつかない。
いつまでたっても先は見えずに、そろそろ疲れて来た頃にやっと灰色の波飛沫の中から、空が見えた。
(ああ、空もまたいつもと同じ色をしているのだ)
見上げた空から、白く小さなものが数多く降ってきた。
荒れ狂う水の上で仰け反り口を開けると、唇に雪が落ちた。
咽喉が渇いた、そう突然思った。
波に押し流された体は、水に促されるままに砂浜へ辿りつく。
手指の間に入る細かい砂。
おぼつかない足裏で冷たい砂の上に立つとふらつき、背中からまた海に逆戻りしてしまった。
指で辿った腰から下が、滑らかな曲線を描き、その先が二つに分かれている。
(……これが、足……)
初めての足を見た時は、嬉しい様な悲しい様な不思議な気持ちになった。
どうしてそう思ったのかは分からない。
(……上手く歩けない……)
ふらつきながらも立ち上がった。
生まれたばかりの体はまだ幼くて、物の道理というものをよく理解していないのだ。
水から出たばかりのこの体では、まだ声を発する事も出来なかった。
灰色の空の下は、一面銀色だ。足裏が濡れて、指の間に冷たさで僅かな痛みが走るのを不思議そうに見下ろした。
激しい感情を求めて、彷徨い歩く。
海辺の近くの感情は穏やか過ぎて、そして皆家の中に閉じ籠ってしまっている。
もっと激しく、もっと切なく、生まれたばかりの体を『この姿』に呪縛するものが欲しかった。それは、決してもう二度と海へと戻らないように呪縛する鎖となる。
激しいものは自分を引きつける。
激しさを愛していた。
いつも嵐の海でこの体は生まれるのだ。
それでも、またこの人魚の姿に生まれてしまったのだと、人にはなれないのだと、何度生まれても海の中で嘆くのだ。
眼の前で何が起きても、魚の足では救う術を持たなかった。
戦も生死も、また恋も自分達が海から出た世界をどれだけ神に乞うても、その二つの世界は交り合う事なく、互いを真っ直ぐ進んで行くだけだ。
そしてまた石に戻る、次に出会う為に。
自分の手の平を自らの血で染めて、また石へと戻って行く。
でも今は念願の足があった。長い間、眠っていた所為でこの体はまだおぼつかないけれど、それでも足は土を踏み陸を進む事が出来る。
それは、夢だった。
長い間、切実に願って来た『私達』の夢だった。
赤い血に塗れ、怨嗟に埋もれようとも、願って来た夢だった。
共に生きたい。
共に駆けたい。
共に戦いたい。
貴方と愛しあいたい。
この姿は『私達』の夢だった。
激しい嘆きの声と叫び声の後に一際激しく引き寄せる声を見つけ、引き寄せられる。
その穏やかでも狂おしい悲しみに心が掻き立てられた。
死にたくない、ごめんなさい。でももう言えない、もう会えない。
(……ああ、なんて懐かしい哀しみなの?)
もう遥か昔に置いて来てしまった、生まれる為の糧となったその激しい記憶がほんの僅かでも呼び起こされる。
雪に埋もれて行く姿を見つけ、草むらの中で立ち止った。
生まれたばかりのこの姿はまだ誰にも見えていないのか。その場にいる人間が、近付く姿に気付いた様子はなかった。
泣いている。雪に半分消えかけた少年の横で、細い体を大きな布で覆った女が泣き叫んだ。
「お願い、置いて行かないで」
声はまだ出て来ない。
だから心の中で彼女に応えた。
(……その少年はもう無理なの。彼は既に動けない)
命の灯は既に消えかけ、どんなにその温かい涙を流したとしても彼の魂がまたその器へと戻る事は無いのだ。
(そんなに泣かないで……)
傍に屈み、女の頬を撫でた。
この指はまだこの姿に馴染まずに、彼女の頬を拭う事も出来なかった。
たまに激しく吹き付ける風が触れたとでも思ったのかもしれない。顔も上げずに、女は泣き叫んでいる。
「もう一度笑って、お願いよ……!」
転がった彼の器の横で、少年が自分の体と女を見下ろしている。
哀しそうに微笑む少年の顔。魂が体から既に出てしまったことに気付き、呆然としている。
微笑むなんて、無理な話だ。彼はもう指一本すら動かす力を持たない。
悲しい、寂しい、苦しい、切ない。せめてもう少し、せめてもうちょっと、また会えるまでこの地に立っていたかった。
魂だけの彼の声は、まるで静かな慟哭だった。
息絶える前のささやかな悔恨。決して報われることのない最後の囁き。
そして、その想いに『私達』の想いを重ねてしまう。
どんなに願っても、既に潰えた命の灯が消えて行く事を止める事は出来ないのだ。
冷え切った雪塗れの少年の頬に一筋の涙が零れて、雪に消える瞬間に思わずその涙を指で受け取った。
人の涙は熱い想い。
雪のように冷たく滑り落ちてくる事も無い。
その熱さを愛し『私達』は永遠にそれを求めてしまう。
涙から沢山の想いが導き出されてくる。温かい思い出、愛おしい思い出。それは全て笑い、守られて、安堵しているものだった。
(……なんて温かい思い出なんだろう)
それに魅せられて 身の内に彼の魂の欠片を導く。
「時が来るまで私の中で眠り、その時を待てばいい」
彼の魂と短い旅路を共に歩く事を誓った。
「私は貴方の悲しみを少しでも癒すように努力しましょう」
ほんの少しの時間、それは自分の体が成熟するまでの約束。
「貴方が言い残したその大切な言葉を私は抱いて、導いてあげましょう」
それまでその小さな体の雛型を借り受けることを誓う。
成熟し、本当の体を取り戻すまで幼いその体は陸地に心を留める枷となる。
「貴方の苦しみは、私の苦しみ。いつかそれが浄化するまで、この私達の記憶は遥か先まで封印し眠りに付かせましょう。再び、目覚めるときが来るまでこの身の内で眠るといい。そして目覚めた時は本当のお別れの時、天へ召されるその姿を私は共に見送りましょう。眠りなさい、エーリヒ」
彼の冷たい体を抱き締めた。
このおぼつかない体でも、魂だけなら十分温める事が出来た。
包み込みながら魂を抱き締めると、海の匂いがした。
赤金の波が何度も打ち寄せて、引いてはまた混ざり込む。涙が雪と同化するように、ゆっくりとそれは同化していく。
強く握るのは赤の結晶。命を閉じ込めた人魚の涙。
混ざり合う、融け合う体。
目の前を赤い涙が、押し寄せては逃げて行く。
鮮烈に彩られた赤い海。
(こんなに恐ろしい海の色なのに……それでも愛おしくて切ない)
馴染んだ体に、ゆっくりと目を開けた。
エーリヒの目が開いたのか、それとも違うのか。もう何も分からなかった。しっかりと握り締めた指を開き、宙へ伸ばす。誰かへ向けて。
「……やっと共に行ける……!」
次こそは貴方と共に駆けて、貴方の悲しみを癒したい。
私はその為だけに、人となった。




