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涙と蝶  作者:
5章 September 白の都
48/73

11

「報告致します」

「構わん、続けてくれ」

 ノルベルト副総長は、机の上に山となった決済待ちの書類に視線を落とした。

 比較的健康体の彼の顔にも流石に疲労の色は色濃く現れ、髪はらしくなく乱れている。

 団服の襟元から見えるシャツは大きく着崩されており、彼の奥方が恐らくその姿を見れば確実に頭へ洗濯物を叩き付けてくるに違いない。

 家庭持ちの彼も、ここ数日は城の麓にある自宅には戻っていなかった。よって、彼の奥方にこの惨状をばれてはいないのが幸いともいえるかもしれない。

 この激務も総長であるクルトが全責任をノルベルト副総長に押し付けているからだが、彼は然程その件に対して不満は持っていなかった。むしろ若い内に苦労はするものだ、総長に関してはそう静観している。

 だがヨープとライゼガングから日を置かず届けられる報告は、日増しにその数を増していた。

 嘆願、依頼、要請など多種だが、主に彼をここ最近悩ませているのがワルゼ城の間者の存在だった。

 ノルベルト副総長は飴色の自机に肘を付け、考える素振りを見せる。

「絞り込めたか?」

「いえ、まだです」

 昨日夜遅くにエーゲルから帰還したばかりのワルゼ騎士団八隊、フォルカー・クレマースが言った。

 報告するべき事が無いという事に、彼が申し訳なさを感じている様子は見えない。

 事実、これまで「絞り込めた」という報告を上げた騎士団員はいないのだ。

 フォルカーは中肉中背で、褐色の髪に青い瞳という外見は至って普通の外見を青年だ。しかし彼には責任感があり、仕事に関しては普通に突出して有能だった。

 反面、異常に時間に細かく、ノルベルト副総長が書類を一枚書き上げる時間を計測し、終わると予測された時間を見計らってやって来る。

 彼は騎士団の中で『時計のフォルカー』と恐れられている。主に、書類の決裁の遅いノルベルト副総長にだが。

「そろそろ、書類の決済が終わる頃だと思っていましたが?」

「……お前な…年寄りを大切にしないと駄目だと教わらなかったか」

「いえ。仕事の有能な上司は最大限利用せよ、と厳しく躾けられてきました」

「……とんでもない親だ」

「自慢の親です」

 ノルベルト副総長はフォルカーとその件に関して談義するのを諦め、手元に置かれたフォルカーの持ち込んだ数枚の羊皮紙に視線を落とした。

 読み易い流麗な文字は、今ライゼガングで駐留している六隊の書記によるものだ。

 羊皮紙には今現在変化がないことと、隊長であるザシャへの文句が延々と綴られている。

 ワルゼ騎士団は、総勢百人程。

 任務に付いている団員を抜かせば七十名程が城には常駐している。

 騎士団は七隊に分けられ、隊にはそれぞれ十人程が所属。残りの団員は兵器、風紀、炊事、蹄鉄の係に分けられている。隊の上には隊長の名が与えられていた。

 今現在ライゼガングの任務に当たっている六隊は、現在城で待機中の四・五隊と合わせ軽騎兵で構成されているのだが、六隊隊長が軽騎兵隊長であるザシャ・バーデだ。

 騎士団内では『樽持ちのザシャ』と呼ばれている。名の如し、かなりの酒豪だ。

 その『樽持ち』軽騎兵隊長は役場に『常駐』し『ワルゼ騎士団及びブラル大司教への心像を急激に改善する為』尽力しているらしい。

 時折、その任務が行き過ぎてベッドに『常駐』する事も書かれている。

 これだけを見れば、まるで日記の様な稚拙さだ。ノルベルト副総長は、俯き込み上げてくる笑いを堪えるのが精一杯だった。

 勿論、報告はこれだけでは無い。

「鉱脈の裏に動きあり、か」

 ライゼガング金山は閉山の危機に直面している。

 限りある資源が枯渇するのは許容するべき事だとは言え、金鉱の裏手の山にはマルプルク公国の領境が広がっており、金鉱が見つかった二十余年程前に所有権を主張して小競り合いというには少し語弊がある程の中規模な戦が勃発した。

 その数度の戦でワルゼ騎士団は二十数名の死傷者を出し、ライゼガングの鉱夫と貴重な山師――鉱脈を探索する、にも死傷者を出したのだ。

 ライゼガングの裏には手を付けないという暗黙の了解で戦火は下火となり、張り詰めた糸の如く微妙な均衡は保たれてはいたのだが、枯渇が深刻化したライゼガングの山師は結論として、今回その裏手にまで探索の手を伸ばしたらしい。

 そしてワルゼ騎士団六隊の警備の元、向かった先にはマルプルク公国の兵士の姿が散見した。

「……そろそろ、総長にはお戻り頂いた方が良さそうだ」

「馬を走らせましょうか?」

「いや、もう少し待とうか。ヨープからの報告も間もなく来るだろう。それに持たせればいい」

「はい」

 一年ぶりに会ったクルトは随分とその様相を変えていた。

 相変わらずの甘え下手で、父親に似た可愛げのない口調だが、幼い頃からクルトを見て来たノルベルト副総長には微笑ましくて仕方がない。

 ワルゼ騎士団総長として、クルトがこの地へ任務に付いたのはマルプルク公国との戦を終えた二十余年前。

 マルプルク公国との戦で先代の総長を失い、失意に陥った時だった。

 クルトはその時まだ歳が十歳にも満たず、僅か五歳。前代未聞の幼い総長であった。

 首都を追い出された幼い第二王子は自分に起きた事を許容し得ず、一方失意のワルゼ城は幼い総長を許容し得なかった。

 総長室に幼子を置く訳にもいかず、ノルベルト副総長は当時二人目の子供が出来たばかりの我が家へクルトを預けたのだ。

 第二王子を預けられた彼の奥方であるフィネは名前の儚さに反して、豪胆な性格であった。

 自らよりもずっと身分の高いクルトを朝から箒で文字通り叩き起こし、洗濯や炊事までを叩き込んだ。

 少しでも泣こうとする素振りを見せれば、眼の前にしゃがみ込み、より長くより激しく泣く様にせっついた。

 勿論、それで泣く意欲を駆りたてられる人間はいない。

 城を出たばかりは小さなことでも泣いていたクルトは程なくして、泣くのを止めた。

 剣を持たされたクルトは、同時期にノルベルト副総長の家に預けられていた少年達と剣を交え遊ぶようになる。

 マルプルク公国の戦で命を失った二隊隊長のイェフ・ルートガー・リュッタースの息子、ヤンとエーリヒだ。

 一回り体格の違うヤンとクルトだったが、時を待つことなく互角に戦えるようになった。

 エーリヒはまだ幼く、その小さな手を叩き見守るだけだったが兄と兄の友人――という認識だった。二人の剣技に日々喝采を贈っていた。

 穏やかな日々が続くかと思われた十数年後、剣の才覚を見せるヤンの腕がヨープからの使者の眼に止まり、首都ヨープにヤンは呼び寄せられる。

 当時ノルベルト副総長宅では奥方のフィネが第三子を妊娠中で、ヤンはヨープに発つ時エーリヒを伴って行った。

 フィネのエーリヒを置いて行けという制止をがんとして受け入れず、ヨープに向かう前にヤンはエーゲルの孤児院にエーリヒを預けたのだという。

 当時ヤンは十七。

 ブラル大聖堂で行われた騎士叙任式で、ブラル大司教の手に寄って騎士に叙された。

(……そういや、ヤンもまた可愛げのない子供時代だったな……)

 ノルベルト副総長は懐古する。

(思えば、あいつは幼い頃から笑わない子供だった)

 幼いエーリヒを置いて母親は流行病で命を落とし、程なくして父親も亡くした。

 妻帯を許されていない団員の中でも例外はあり、イェフ・ディーデリヒ・リュッタースの様に巡礼者を警備する任務の無い通信係や炊事係にはそれが許されている。

 後は総長と副総長は例外として認められているのだ。これは恐らく、前線に出て命を落とす可能性を慮っての事だろう。

 幼い肩へ一気に責任を背負ったヤンは、その幼さを思わせない程の礼儀正しさだった。

 エーリヒの世話は勿論の事、炊事洗濯を黙々とこなし、奥方であるフィネは逆にその払拭された子供臭さを取り戻す為に尽力する羽目となった。

 そこで会ったのが、クルトだ。

 子供同士の関係は程なくして主従となり、そのまま継続していく。

 成長しても、ヤンもまた何も変わらない。表情の乏しい姿は幼い頃を思わせ、隠し持った激情は感情の裏にその息を潜めてしまっている。

 幼い頃に感じた悲しみに耐える為には、感情を仕舞い込むしか術が無かったのだ。

「……あのままにしておきたい気も、するんだがな……」

 ノルベルト副総長は、報告書を指で抓んで独り言ちた。

「は、何か言いましたか?」

「いや、何でもない。各隊長に出兵の準備を整える様に言ってくれ。総長が戻り次第、出兵するぞ!」

「……了解しました」

 何か言いたげな素振りで、フォルカーは部屋を出て行った。

 扉を閉める前に「くれぐれも決済をお待ちしております」と言い残す事も忘れない所が『時計のフォルカー』足る所以だ。

 恐らく彼は遅くは無い時期に再び扉を開けるだろう。

 ノルベルト副総長は机に上がった一枚の書類を手にした。

 ワルゼ城に保管されていた宝石、ベルンシュタインについての報告書だ。担当者にはエリクのサインがある。

 十年振りに現れたヤンは、儚げな風貌の少年を連れていた。

 エーリヒと同じ程の歳嵩だ。

 その少年がエリクだった。

 十五なのだという割に体には筋肉どころかむしろ付くべき肉も無く、剣を持てば折れてしまう様な細い腕だった。

 赤金の髪は、鑑定したベルンシュタインそのものに見える。

 ただ奥に闇を隠し持った瞳は意志の強さを感じさせた。逆を返せば頑固とも言える。

 きっと鍛えれば、いい兵士になるに違いない。ああいった手前は負けず嫌いで、打たれ強いのだ。

 しかし見かけは、一見まるで少女の様だった。

 小さく細い指をヤンの腕に絡ませて、不安げな顔をしている。

 それを見下ろすヤンの顔にノルベルト副総長は苦笑したのだ。隠し持っていた筈の感情が、上手く隠しきれずに漏れ出てしまっているのが妙におかしかった。

 数日後、嵐の夜ヤンに伴われてやってきたクルトにも同じような印象を持った。

 大の大人が二人して、少女然とした少年に骨抜きになっているのは正直道化そのもので、それでも気に入った玩具を取り合う子供臭さを見せた二人に、少し安堵もしていた。

 せめて、エリクが『女』だったならば。

 どちらかが娶り、戻るべき場所を見つければ何かが変わるのかもしれないとノルベルト副総長は埒も明かない想像をしてしまう。

 今や、ワルゼ城の騎士団総長と都市ヨープの騎士とまで成長した愛すべき血の繋がらない息子達の、何かしらの変化が欲しいと、彼はつい願ってしまうのだ。

 クルトは現在の位置を容認できるきっかけを、ヤンは自らが導いた弟への悲劇を受け入れるきっかけを、未だ見つける事が出来ず暗闇の中を迷走している。

 行く先はまた険しく許容でき得ないとしても、背を向けているままでは何も変わらないのは明白だろう。

「……本当に……面倒な馬鹿息子共だ」

 息子より面倒な仮の父親は、悩ましげに頭を掻き回した。

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