10
「確かに」
ゼークトが侵略された顛末を聞かされると、パウルゼン騎士団の総長であるフリーデグント伯は、敢えてそこで言葉を途切らせた。
「確かに、君の村は不幸であったと言える。ゼークトに攻め込んだビューローは私利私欲の為に侵略したのであって、攻め込む道理を持っていない」
最もらしい言い方をされたが、つまりは道理という『攻め込まれる理由』がある場所には戦争を仕掛けてもいいのだと彼は暗に言っている。
道理の無い場所へ攻め込むのが『侵略』で、理由さえあれば『必要な戦争』だ。
彼の言っているのは、そういう事だった。
それはまるで歩いていた足元に転がっていた虫を、誤って踏み付けた時の言い訳にも似ている。
踏むつもりは無かった、そこに存在していたのが悪かった。しかし行く路を塞いでいたのであれば、虫けらを殺す道理に叶っているのだ。
(僕らは……殺されるべくして虫けらのように殺されたのか……)
彼の口調には憐憫も、同情も見えてはこない。
エルケは膝部分の外套を握り、怒りに震え奥歯を噛み締めた。
「……つまりはゼークトが攻め込まれるべくして、攻め込まれた。貴方は、そう言いたいのですか?」
体中が炎になって飛び出して来そうになるのと同時に、得も言われぬ哀しみも感じる。
大きく頷きながらフリーデグント伯の向かい側に腰掛けていた男が口を開く。色も白く、瞬きが異常に多い。
額の汗を拭いながら唾を飛ばし、彼はテーブルに片手の平を置いた。
「いやしかし、エリクの言う通り、確かに彼らの仕打ちは十分に責められるものですぞ。命を悪戯に扱うなどとはとても赦される事ではない」
芝居染みた口調で言ったのは、ブラル修道院長だ。
ふざけた口調だったが、フリーデグント伯の上手い言い訳よりもまだ彼の言葉の方が同意できた。
しかし、椅子に深く腰掛けたエルケを指し、彼が次の台詞さえ吐かなければだったのだが。
「十分に、民人の涙を誘うでしょうな。故郷を穢された悲劇の主人公として」
ブラル修道院長は胸に手を押し当て、祈る仕草をして見せた。
(……っ! この手に剣を持っていれば、すぐにでも切り捨ててやるのに!)
指先まで一気に冷たくなった。
エルケは衝動的に叫ぶ。
「……僕はっ! 僕は別に同情を訴えたくて、ここに来た訳ではありません! 知るべく事を知って……僕は今をどうにかしたかったんです」
エルケがこの場に自ら赴いたのは、貶されたり品定めされる訳ではないのだ。
(……こいつら、話にならないよ)
そんな同情に訴える様なブラル大司教の馬鹿げた姿を見て、エルケは椅子を蹴倒し今にもこの部屋を飛び出したくなった。
今日は知るべき事を知りに来たのだ。こんな田舎芝居を少しでも見ている時間はなかった。
「まぁ、その話は順を追う事としよう」
エルケが立ち上がろうとする寸前、やんわりと止まらない二人の声へ制止が入った。
ゼークトの顛末を黙ったまま聞いていた、ブラル大司教だ。
苦笑しながらもブラル大司教は両手を上げると、絶え間ない屈辱の会話は終焉の時を迎えた。
(……これからが話の本番だ……!)
会話の流れに付いて行かなくてはいけない。エルケが必要な情報も仕入れる事も出来ずにいると、折角の機会は水の泡となってしまうのだ。
彼が肘を付いてこちらを見ると、エルケは思わず姿勢を正した。
「君はゼークトの伝え話を知っているかな? ああ、あの強欲でなどという俗に塗れた話ではなく、石の発端となった話の方だよ」
「……はい。姉に昔聞きました。人魚の命が石になるのだという……?」
エルケは素直に応じる。
「そうだ。その話だよ」
彼はその返事を聞いて、満足そうに頷いた。
不思議だ、ブラル大司教と話していると、彼の求める階段を一つ上る度に認められた様な気がしてしまう。まるで子供が初めて服を自分一人で着られた時の様に、彼に頷かれるたびにエルケは僅かな高揚を感じた。
しかし、それこそがきっと彼の意のままなのだ。
「私も、人伝に聞いた話なのだけどね」
ここで一度、話は途切れた。
エルケがその件について何も追求しないでいると、ブラル大司教は話を続ける。
「これはゼークトの職人だった女性の話だ。彼女は美しいベルンシュタインの指輪を付けていた。人魚が裏に彫られた少し女性の指には無骨な指輪だった。しかし話を聞いたのもかなり前の話になるし、彼女は既にエーゲルに居を移したと私は聞いている。その伝え話ではゼークトの人魚は血族を殺し、それを石に変えたのだったね」
「はい。王子に渡す為に……残酷なお伽話ですが……」
「それに関しては、我々人間も十分に思い知っている事だよ。欲という感情の前には命は何の枷にもならない。君も身を持って知っているのだろう?」
「……はい」
顔を醜く歪め、エルケは頷いた。
(僕の村は、その欲でもって滅ぼされた……)
欲にも色々なものがある。
彼はまた満足そうに頷いた。
「人魚、敢えて理解し易いように彼女と呼ぶことにしよう。彼女は恋情を抱いた王子へ捧げる為に、血族を殺し魂を石へと変えた。そして、彼女自らも命を絶って人魚の涙と呼ばれる宝石になった。それが、君の村で大切にされていたベルンシュタインの逸話だ」
「……はい」
「しかし他の鉱脈と違って、真紅の人魚の涙と呼ばれる石の流通数は非常に少ない。知っていたかな?」
確かに鉱脈や鉱山を持つ宝石に比べ、人魚の涙は非常に流通数が少ない。
緑や黄色、橙の石は多く市場に回り比較的安価で取引されているのに、赤く光る人魚の涙と呼称されるベルンシュタインは滅多に流通しないのだ。
その希少価値ゆえ、石は王族や貴族に闇ルートで流通し、結果『蝶』の様な商人を引き寄せる。
「確かに、あまり市場で見る事は無いのかもしれません。とはいえ、僕も実際に色んな市場を回った訳ではないのではっきりした事は言えないのですが……ごめんなさい」
エーゲルの市場で見たベルンシュタインは全て屑石か色違いだった。
この旅で見た美しいベルンシュタインはたった二つ、一つはワルゼ城の石。もう一つはリリーの祖母の物だ。
「人魚の涙が市場に回る事は、ほぼ皆無に近いのだよ。その私の知っている職人がゼークトにいた時は、実際人魚の涙が『海辺に打ち上げられる事は無かった』のだと言っていた」
(……え? そうだったかな……? 僕が村にいる時は比較的いつも石は打ち上げられていたけれど……)
エルケが村にいた時は比較的皆、真紅のベルンシュタインを大なり小なり細工し、手にしていた。工房も忙しく、エルケは嵐や海の荒れた夜の後に海へと潜り、砂浜まで辿り付けなかった石を集めたりもしたのだ。
あの時、ゼークトは活気に満ち溢れていた。石の様に空が赤く染まるあの日までは。
「……話を変えようか? 君は、自分の親の名前が言えるかな?」
宣言通り、話が全く違う所へと飛んだ。
凄惨な戦の思い出に浸っていたエルケは、一瞬自分の居場所を見失ってしまう。
(は? 親の名前……?)
慌てて顔を上げブラル大司教を見ると、彼は慈愛に満ちた微笑みを浮かべているかに見えた。
両脇でフリーデグント伯は腕を組んだまま瞼を閉じ、ブラル修道院長は早く返事をしろと視線でエルケを促してくる。
躊躇しながら、口を開いた。
だが今、エルケにはその話をされると一番自信がない。
「……いえ。幼い頃に姉と外部からゼークトへやってきたのだと、僕は聞いていました」
「聞いていた、とは? 覚えていないのかな?」
「はい。幼い頃だったので記憶が、あの、あまり無くて……」
最後は聞こえない程の小声になってしまった。
エルケは手の甲の布切れを掴み俯くと、瞼を強く閉じる。
望まれたことを流暢に説明できない羞恥に耳が熱くなり、細かく指が震えて来た。
「姉の名前は? 覚えているかな?」
「……ユッタです。ユッタ・ライシガー。姉とはゼークトの戦火の中ではぐれました。僕はそのまま、捕虜としてビューローの軍隊に捕われたので……姉のその後は……分からないです」
「そうか、それは残念だ。是非、話を聞いてみたかったのだけれどね。彼女……ユッタから、君の子供の頃の話を聞いた事はあったかな?」
大きな部屋は、今やブラル大司教の独壇場だった。
扉の脇に控える家令らしき人間はまるで人形の様に微動だもせず、テーブルに付いている先程まであんなに口うるさくしていた二人も黙って、事の顛末を見守っている。
全てを聞きただそうとするブラル大司教の前から逃げ出したくとも、聞きたい事を聞く為には、この話の流れを途切らせる訳には行かないのもエルケには良く分かっていた。
(ブラル大司教との会話は……まるで暴れ馬に乗っているみたいだ)
エルケは会話の流れに振り落とされないよう、ただ必死だ。
「子供の頃の話は……あまり。姉もあまり話そうとはしませんでした」
「そうか、幼い頃は君もきっと愛らしい子供だったに違いない。今も、それほどまでに少女然とした容姿だしね」
(褒められている気がしない……)
暗に女なのではないかと言われている様なそんな気もして、エルケはより強く手の甲を握り締めた。
「時に、その髪は地色かな?」
「……はい、子供の頃から赤金の髪です。染めた事は無いです」
(髪の色が、今の話の流れに何の関係があるんだ……?)
エルケは不思議に思いながらも、正直に頷いた。この髪は姉と唯一似ている部分なのだ。
そう思い、エルケは心の中に感じた違和感に首を傾げる。
夢の中で涙を流す姉は、確か褐色の髪だった筈だ。しかし、その髪はいつも修道服で隠していた筈だ。
(あれ……? 僕はいつ、姉さまの髪を見たんだっけ……?)
何度、エルケが思い返しても明確な記憶は見つからなかった。
宙を見つめるエルケの目の前で、満足そうに頷いたブラル大司教が見える。
彼の横でフリーデグント伯が組んでいた腕を解き「ほぼ決定ですね」と言った。
次いだブラル修道院長の前で、フリーデグント伯が大きな口を開けて笑う。
エルケは嫌な予感がして、体を大きく身じろがせた。
「フェーデは、もっともらしい同情を引くものがいいでしょうな。蹴り返した時に、十分自分を貶めるものとなる」
「自らの首を自らの行動が締める訳ですか。何ともブラル修道院長も人が悪い」
話が全く分からないまま、進んで行く。
恐怖に怯え、エルケは唇が震えるままに口を挟んだ。
「……あの! 言ってる意味が、よく……分からないのですが!」
立ち上がった拍子に美しい彫刻のなされた椅子が、後方に引っ繰り返った。
床に叩き付けられた椅子はその見た目に反して重い音を立て、エルケはその音に体を竦ませる。
エルケはすぐにテーブルに手を叩き付け、意味ありげに微笑むフリーデグント伯とブラル修道院長の顔を交互に見る。
彼らは、まるで珍しい宝石でも見るかのようにエルケを見ていた。
その視線を受け止めると、エルケのの背中に恐怖が込み上げてきた。
(こいつらは、僕を利用する気なんだ……!)
でも今現在ではそれだけしか分からなかった。
(僕は軽率だった……そんな簡単に教えて欲しいことだけを教えて貰える筈なんてないのに……!)
ブラル大司教が、立ち上がったままのエルケに腰掛けるよう促した。
蹴倒した椅子は、扉の前からいつの間にか移動してきていた家令の手に寄って元通りになっていた。
「あの……僕」
「どうぞ」
椅子の背もたれに手を掛けて、家令の男もエルケの着席を促してくる。
(駄目だ……今は逃げられない)
脱力して、腰掛けた。
テーブルの上に拳を握り締めて、三人を睨み付けた。
(……このまま、流されるだけになんてさせてなるものか!)
ブラル大司教が腰掛けたエルケに満足し、口を開く。
「ゼークトのベルンシュタイン『人魚の涙』は人魚の導きで現れる。君は自分が気付いていないだけで、その体には十分な価値があるのだよ。私の知っている職人がゼークトにいた頃、君はまだその村に存在していなかった。人魚のいない村に『涙の導き手』はいない。ここ数年前までずっと、人魚の涙が海辺に現れる事は無かった。それがここ数年で『人魚の涙』と呼ばれる真紅のベルンシュタインが市場に流通していない大きな理由だ」
全く意味が分からない。
「あの、大変申し訳ないんですが、僕には難しくてすぐに理解できないんですが……」
理解不能になったエルケの不安げな声に、フリーデグント伯が一番先に身を乗り出した。
彼は非常に嬉しそうだ。まるで市場で掘り出し物を見つけた様に頬を紅潮させ、生き生きとしている。
吐き気がする。
だが、彼の口にしたその内容はエルケの想像を絶するものだった。
「君は、人を模した人魚なのだよ!」
一瞬、呆気に取られた。
でも、直ぐに我へと返る。
余りに馬鹿げた話に笑い声が漏れ出た。
「……なんだよ。そんな夢物語みたいな話、信じる訳ないじゃないか! 僕は本当のことが知りたいんだ」
エルケはテーブルに額を叩き付けると、苛立ち紛れに大声で叫んだ。
冷静な声が少し遠くから降ってくる。
「では、逆に聞こう。エリク、君はどうしてビューローの軍隊に鉢合わせした時に命を落とさなかったのかな?」
「……それは、職人の人達が僕を殺さないで欲しいって懇願したからで」
「あれだけの村人が惨殺され、連行されている。女は犯されてから殺され、男は家ともに焼かれた。職人は連行され、子供は海に投げ込まれた。君がこの場に立っている事が出来る理由を、上手く説明できるのかな?」
「……だから……それは……っ!」
混濁したエルケの記憶に何かが少しずつ戻ってきていた。
額にテーブルの冷たい感触を感じながら、エルケは瞼の奥に仕舞い込んだままの涙を落とさない様に、唇を噛む。
(僕は……赤い泥の中を転がった。空は赤く燃えて、家も炎に呑まれてた……)
空の赤を映し出した水溜まりだと思って、突っ込んだエルケの手はどろりとした何かに汚れたのだ。
姉の背中を追う為だけに、その時エルケはただ必死だった。
(……あの時……連れて行かれる職人のおじさん達の前に転がり出た時……僕は兵士の剣でもう殺されるのだと覚悟していたんだ)
強く眼を瞑り、エルケは体を縮こまし強張らせる。
(確か……あの時はおじさん達がが必死に何か叫んでた……そうだよ、何を言ったんだっけ? あの時、僕を殺さないでくれと、皆叫んでた。頼む、って何度も兵士にしがみ付いて……)
『この子を殺したら、二度と石は手に入らないぞ……! この子の存在が宝石なんだ!』
エルケは渇いた唇を開いた。
(……ち、違う! 僕は)
エルケは逆上して、無言でエルケを見詰めるブラル大司教に噛みついた。
「僕は……僕はただの村人だ! ゼークトを滅ぼされたのを、ただ見ていることしか出来なかった普通の人間なんだ!」
「地位があるからと言って、滅びて逝く物を留めゆく事は難しいのだよ」
エルケは大きく首を振る。
(なんだよ! それじゃあ、僕の所為で村は滅んだってことじゃないか……!)
ブラル大司教が、興奮しているエルケを宥めるようとしているのか、それとももっと追い詰めようとしているのか、ただ淡々と言葉を吐く。
「それは普通の人間なら勿論の事、たった数年前に生み出されたばかりの人魚なら当たり前のことだ」
「……違う! 僕は人間だ。人魚なんかじゃない……!」
後ろ髪を束ねていた紐が解け、床にはらりと落ちた。
赤金の長い髪が肩を伝って、顎の横まで落ちてくる。
堪えていた涙が床に一滴落ちた。
エルケは気付いてしまった、姉の言葉の意味に。
(姉さんはいつも僕を見て泣いてた……)
いつも、苦しい恋に胸を焦がしながら『どうして、私は人魚じゃないの?』とエルケの前で泣いていたのだ。
(……姉さんは知っていたんだ。僕が人間じゃないって……僕が人魚なんだって……)
だからあの夜、姉はエルケを連れて行こうとはしなかった。小屋の奥に置いて、隠れるようにきつく言い聞かせてから彼女は小屋を出て行ったのだ。
(……僕は何にでも無かった……姉さんの大事な妹でも、大切にされていた村の小さな子供でも……それに人ですら無かったんだ)
「君が、君の生い立ちを受け止めるか受け止めないかはまず置いておくとして、我々はゼークトのエリクに話があるのだよ」
「……ゼークトの……僕?」
ブラル大司教の口調が変わり、エルケはゆっくり涙と鼻水塗れの顔を上げた。
「そうだ。君と取引をしようと、我々は言っているのだ」
その声を最後に、口を噤んだ彼の横でフリーデグント伯が姿勢を正し、テーブル上に大きな地図を広げる。
その地図には各所に赤い印がつけられていた。
黒い線は曲線となり、各所へと広がっている。
「我ブラル大司教領は今現在財政難に加え、干ばつによる飢饉の恐れと戦争という未曾有の危機に直面している。まず、マルプルク公国が二か月前に我領土のエーゲル近郊に侵攻した。戦火は広がらずビューロー軍は撤退したが、今も軍隊の活発な動きは報告されている」
エーゲルの件に関しては、クルトが教えてくれた事とほぼ同じだ。
エルケは袖で顔を拭うと、唇を噛んで声無くしゃくりあげた。
(今は何も考えたくないのに……)
鼻が小さく、すんと鳴り、慌てて咳払いをして誤魔化す。このまま何も聞かずに何処かに消えてしまいたいとエルケは思っていても、話はまだ終わらないようだった。
エルケの取り乱した姿は何も気にもしていないらしく、ブラル修道院長が地図の一部を指差す。
「北部は比較的、天候的にも安定しているようですな。ザクセンの北部にアロイス地方辺りは気候にも変化が無いと聞いている」
「どちらにせよ、マルプルク公国が何処かに攻め込む前には一度我領とも刃を合わせる事になるでしょうな」
フリーデグント伯が頷いた。
領民がこれから干ばつで苦しむのが分かっているのに、戦で金を出すと知ったら恐らく暴動が起きるだろう。
短い干ばつは所領が潤ってさえいれば、何とか蓄えで乗り切る事が出来る。それなのに軍を出し、蓄えを糧秣に回すと分かれば流石に黙っている訳にもいかない。戦争は金が掛かるのだ。
先に手を出した方が、この場合悪者になる。
時と場合をわきまえず、喧嘩を吹っ掛けたという認識をされるのだ。
この場合、エーゲル近郊で起きた小競り合いは大きな戦争の引き金にはならない。もっと立派な大義名分が必要になるのだ。
宗教から発足した慈愛と清廉のブラル大司教領が、戦争を決意するにふさわしい前振りが。
(……そうか。読めたぞ……)
エルケは奥歯を噛み締めた。
「……僕を、大義名分にするおつもりですね……?」
正解なのだとブラル大司教は微笑んだ。
(畜生……! くそったれ!)
正解を当てても何も嬉しくはなく、気持ちも高揚しなかった。思い付くありとあらゆる罵詈雑言を心の奥で浴びせる。
エルケはテーブルに手の平を叩き付けて、三人を順に睨み付けた。
「別に僕は、誰かに復讐して貰おうなんて思ってない! 僕がもし『ゼークトの人魚』でそれが戦争の引き金になるんなら、ビューローにもなんでも僕を引き渡せばいいじゃないか! その為に、また戦争が起きるなんて……絶対に嫌だ!」
「それだと、我々が困るのだよ」
フリーデグント伯が、叫ぶエルケの声に畳み掛けた。
「プラウゼンに『貴重な資源』を連れて行かれる訳にはいかないのだ。そして偶像のいる戦争がどれだけ軍へ覇気を与えるか、君は考えた事があるかね? その扇動する悲劇の声の主が美しければ美しい程に、戦争も正当化され勝機も高まるのだ」
(こいつら……狂ってる!)
エルケはブラル大司教の方を向く。
彼の視線を真っ向に受け止めた。
(いいの? それは自分の子供を戦の前線に突き出すってことなのに……!)
悲しい様な苦しい様な複雑な瞳。
それは自らの鎖を完全に投げだす事が出来ないのだと吐き捨てたクルトの瞳と全く同じだった。澄み渡るアクヴァマリーンの瞳。
クルトのことを思うと、その瞳が殺してやりたいほど憎くなる。
「だからって、皆を戦争に駆り出すと言うの!」
興奮の余りに叫んでから、エルケは大きく咳き込んでしまう。
「小さな火で済んでいる間に火を消し止めねば、大木は倒れてしまうのだよ」
「クルトや騎士団は、貴方がたの城壁じゃない!」
頭を両手で抱えた。どうしたらこの事態を回避できるのか、エルケにも分からなくなったのだ。
(……短い間だったけれど、ワルゼ騎士団は優しくしてくれたんだ。それを……僕の復讐の為に駆り出すなんて……!)
何度も首を振る。
髪が乱れるなんて、この際全く考えなかった。
「君へは戦が終わった後に、エーゲルの地を贈ろう。我々はこれから先のエーゲルの平和を約束するよ」
「……そんなの……!」
その後に続く言葉は、エルケの口から出ては来なかった。
(だって、そこには誰もいないのに!)
平和なエーゲルが戻ってきても、決して皆が元通りになる事はない。誰もいない廃墟の村に、ただ一人、エルケが取り残されるだけだ。
戦が終わるとエルケはヨープの為に石を導く人魚となって飼われるのだ。
(……おかしくなりそうだ)
クルトやヤンを戦争に駆り出して、ヨープの城壁にさせる。ほんの少しの犠牲で中央の大人数を守る事が出来ればいいのだと、彼等は冷淡に言いのけた。
「もし、断わったのなら?」
エルケは震える声の向こう側に逃げ場を求めた。
しかしそれは裏切られるのだ、ブラル大司教の一声に寄って。
「何も変わらないよ。君が先頭にいない戦争が始まるだけだ」
エルケは瞼を強く閉じた。




