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涙と蝶  作者:
5章 September 白の都
45/73

 都市と呼ばれる中でも、人口三万人を越える都市はザクセン宮中伯領の主都のみだ。

 次いで、ブラル大司教領の都市ヨープ。

 約二万人を下る人口を市壁へ常に収容し、過去に市壁を二度建て替えた。人口の増加に対するその拡張工事は、十数年経った今でもヨープの経済を著しく圧迫している。

 対するのは、商業自由都市レノーレ。

 一万五千の人口はその半数が商人で、商館の運営や税金で全ての都市機能は賄われている。ここ数年で台頭する発展の目覚ましさが目を引くが、新興都市である故か軍事に不安が残り、常にザクセン宮中伯領の脅威に脅かされていた。

 人口一万人前後の都市は僅か七箇所。その内四箇所が自由都市と呼ばれる領邦と同地位の都市であり、残りの三箇所の内、マルプルク公国の都市ビューローが人口一万人以上の都市だ。

 現在ブラル大司教領の都市ヨープには、三千人の修道士と修道女が暮らしていると言われている。大なり小なりを含めて二百の教会、それの中央に位置するのがブラル大聖堂なのだ。

 エルケはその大司教領の頂点に立つ男の顔を、小さな体をより小さくして上目遣いで見上げた。

 

 宮殿の二階奥に位置する大広間前の通路に通されると、扉中へ入る前に腰に佩いていたエルケの細い剣は取り上げられた。クルトも慣れた素振りで剣を手渡す。

 ヤンは大広間の中でも帯剣を許されているらしい、漆黒の軍衣の腰に剣を佩いたまま、彼は大広間へ足を踏み入れた。

 広く高い天井だ。宮殿と呼ばれているだけあって、城と言われても違和感のない内装だった。

 柱の一つ一つに彫刻がなされ、蔦が絡まりながら天へと昇って行く。天井には美しい女性と天使が描かれ、女性は遥か遠くを見ていた。

 伸ばした手は、大広間前方へ向けられているのか、それとも壁を越えて、もっと遠くを望んでいるのか。

 大広間上方に大きな窓が並ぶ。大広間正面に美しい椅子があった。椅子の後方には真紅の織物で造られている緞帳が垂れている。

 椅子は無人では無かった。その主を迎えて悠々と存在していた。

 思わず、大広間の真ん中で立ち竦む。膝の裏にマルガとデリアがぶつかった衝動があった。

 膝を付く様にクルトに言われて、慌ててしゃがみ込むと膝には固い床が当たり冷たさが直に伝わって来る。後ろ手でマルガとデリアの小さな手を握り締めると、小刻みに震えていた。それはエルケも全く同じだ。

 闇を人が怖がるのは、何かが周りにあるのだと妄想するからだ。暗闇の中に自分の知らない空間があって、見知らぬ何かがいるのではと妄想してしまう。でもそれは何も暗闇だからだけじゃない。全く言った事のない場所、見知らぬ人間の傍にいる時も、暗闇の中にいる時と同じ様に不安定になってしまうのだ。

 今こそ、まるで暗闇に立っているようだった。まるで闇の中に光が一つしかない様に周りの目が全て自分の方を向き、咎めている様な気がしてしまう。ここにいる事を許されていない様な気すらしてしまうのだ。

 実際、一人この場にそぐわない恰好をしているエルケを少し訝しげな顔をして、数人の使用人が見ているじゃないか。それは妄想ではなく、多分事実だ。

 クルトが何か話しているのを、夢見心地で聞いていた。少し堅苦しい自己紹介だ。クルトに促されるままに、エルケは顔を上げる。

「エリクです」

 とだけ名乗ると、満足そうに頷くブラル大司教の姿が見えた。何に満足したのかは分からない。

 ブラル大司教は白地に地模様の入っている長いガウンを羽織り、白い帽子を被っている。帽子の隙間から見える髪は白髪が混じっているのか、それともごく薄い色の金髪なのかはこの距離では判別できなかった。

 眼は微笑んでいる様に見える。でも、常に感じる威圧感からそういう訳でもないようだった。足先から頭の先まで品定めされている様に感じる。自分の知らない奥底までを覗かれている気分だ。それもまた、見知らぬ場所に立つ恐怖から来ているのかもしれないけれど。

 そうか、大司教が宮殿に来ている所為で今日の宮殿門は物々しい警備だったのだ。そして、門前で別れる筈だったエルケがいつもの恰好から外衣だけでもと着替えさせられた意味がやっと解った。元々、エルケは宿屋を出る前からこの場所に通される事が決まっていたに違いない。

 大司教の膝には、七歳になったばかりという少年がしがみ付いていた。少年の名は、クラウス。好奇心旺盛に輝く大きな瞳を持つ活発な少年だ。

 異母兄弟なのだと、クルトに教えて貰った。にしては、ぱっと見、余り似ていない。

 クルトがどちらというと芸術品並みの端正な顔立ちなのに比べ、クラウスの方は利発そうな空気を漂わせながらも愛嬌があるし、悪く言えば俗な顔立ちだ。髪の色もクルトは透き通る黄金の金髪なのに対し、クラウスは赤味がかった金髪だった。

 ブラル大司教はその息子――クルトに言わせると三男、を非常に可愛がっている様に見えた。一時たりとも眼を放す時は無く、微笑みながら一挙一動を見守っている。

 その姿をクルトがどう思ってるのか、見える背中だけでは計り知れなかった。

 横に並ぶ使用人の人数は、唯一行った事のある貴族の居邸であるフロリアンの邸と桁が違う。

 あちらは所詮は地方役人であって、大司教の居城とは全く存在の意味が異なる。何人いるのか数えようとして、流石に諦めた。散らばり隠れている使用人や兵士を探すのは、まるで間違い探しの様で時間の無駄だ。

 まるで像の様に、ヤンは大司教の隣に位置している。

 息子である筈のクルトが頭を下げているのに、ヤンはいつでも剣を抜ける体制でその視線をエルケ達に向けていた。それをするのが義務の様に。

 その様子は、いつものヤンとは少し違う。公式の謁見ではないにせよ、カーテン横には兵士の姿も見えたし、警備は万全だ。それなのに、ヤンはその威圧感ある態度を崩そうとはしなかった。

 エルケ達は勿論、使用人や兵士の誰しもが大司教の第一声を待っているかに見える。彼は皆が息を潜める中、少し呆れたように口を開いた。

「クルト、もういい。今日はそういう話をしに来たのではないよ」

 初老の男の声が響く。それでも十分に張りがあって、声は響き、朗々としていた。

「はい、申し訳ございません」

 クルトが短く返事をして、顔を上げる。

「息子の可愛らしい遊び友達が来たのだと聞いていたのに、こんな堅苦しい大人ばかりではクラウスも疲れてしまうだろう。ほら、可愛らしい遊び友達を紹介して貰うといい。これからこの宮殿に住む事になるのだから」

「はい、父上」

 そうか、マルガとデリアはクラウスの遊び相手としてこの宮殿に迎い入れられるのだ。恐らく、身の回りの世話兼、遊び相手になるのだろう。それはそれで随分と大司教も豪胆な決断だ。クルトの口利きがなければ実現しなかったことに違いない。

 飄々とした大司教の口調は、クルトの父親なのだと明言している様なものだ。正式な礼に則っているこちらを敢えて責める口調は、つまりはいつも通りに顔を上げろと言っている。そんな、回りくどい話し方も本当に似ている。

 前で頭を上げているクルトの後頭部を見詰めた。きっと、確実に年を取ったらクルトもあんな感じになるに決まってる。少し面倒な大人に。

「マルガ、デリア」

 マルガとデリアが前へ呼ばれた。震える足で立った二人は、クルトの横までふらつきながら進む。

 カヤに教えられた通りに双子が並んで深々と宮廷式のお辞儀をして見せると、ブラル大司教の顔にも笑みが浮かんだ。

 見繕って来た若草色のドレスは、きっと彼女達の愛らしさを最大限にひきたてていた。服飾担当として、大満足の出来だと自負している。

「マルガです。クラウス様、どうぞお見知りおき下さい」

「デリアです。クラウス様、どうぞお見知りおき下さい」

 同じ声で同じ顔。

 瞳に宿る光が、明るさなのか知的なのかだけ違いの双子を見て、クラウスはブラル大司教の膝を離れ駆け寄ってきた。

「うわぁ、こんにちは! 僕と仲良くしてくれる?」

 まだ幼い少年の声。彼はクルトの横にしゃがみ込むと、若草色のドレスを着た双子を嬉しそうに眺める。

 二人はまだ躊躇の色を色濃くしながら、小さく頷いた。

「クラウス、双子に庭を案内してあげるといいよ」

 そのクルトの一声で、クラウスはより眼を輝かせる。 

「うん、そうするよ! マルガ、デリア、おいでよ。僕の大好きな噴水と内緒の場所を見せてあげるよ」

 こちらを一瞬見たクラウスの瞳と、エルケの視線がぶつかった。

 クラウスの瞳は初夏の空の色、見覚えのあるその爽やかな色合いに浮かぶ誰かの顔を直ぐに思い出せなくて、エルケは少し眉を寄せる。

 でも視線を背けることなくエルケにも笑い掛けてくるクラウスを見ると、頭で思い浮かんだ何かは霧散してしまった。その愛嬌のある笑い顔に思わず、エルケの頬も緩んでしまうのだ。

「父上、行ってきます」

 マルガとデリアの手を引いて大広間を出て行くクラウスの背中を見送って、クルトが顔を上げた。

「ヤン」

 ヤンが剣を揺らし、大司教の傍から離れる。

「分かっている」

 黒い軍衣を身に付けたヤンが横を擦り抜けて、大広間を出て行った。屈んだままのエルケには眼もくれず、高らかな軍靴の踵を床に叩きつけた音は離れて行く。

 大司教の騎士なのだと思っていたけれど、もしかしたら違うかもしれない。

 本当は、こんなヤンは嫌いだ。いつもの旅をしている少しぶっきらぼうなヤンの方が何倍もいい。そう思いながらも、彼もまた総長であり大司教の次男という立場を捨てることの出来ないクルトと同じ様に、騎士という立場は捨てる事が出来ないのだろうとも思い知らされる。

「さて」

 椅子に深く腰掛けたブラル大司教が両手を組み合わせると、横に並んでいた使用人たちが静かに頭を下げながら大広間を出て行った。

 一人、二人と背中が大きな扉向こうに消えて行くと静かな大広間に大司教とクルト、それにエルケだけが残される。

 人払いをしたのだ。体が、緊張で一気に強張るのが分かった。

 咳払いの後、ブラル大司教の視線が、真っすぐエルケに注がれた。 

「報告は聞いているよ、ゼークトのエリク。ゼークトの村は確か、百人のビューロー軍に攻め込まれてなすすべも無く滅んだのだと聞いているけれど、それは事実かな?」

 強欲で滅ぼされた村ゼークト、それが村周辺の村や街に広がる伝え話だ。

 エーゲルの商人も言っていた通りに、蝶に滅ぼされた村の二の舞を踏まない為の自戒として広げた伝え話の意味もある。

 蝶に全てを見せてしまうのは命取りなのだ。彼らに全てを見せてしまうと、蝶は貪欲に蜜を吸い尽くし花は枯れてしまう。それを愚かにも実践したゼークトの最後を彼等は伝え話にして流し、嘲っているのだ。

 燃える赤、流れる赤、広がる赤を沢山見て来た。夢であればどんなによかったか。夢であればいいとも、何度も願った。でも、あれが全て夢の筈はない。全部、見て来た筈だ。そして、何よりもこの身に刻まれている。

 手の甲と背中に、屈辱の証が。

 甲に巻かれた布を久し振りに握り締めた。随分と久し振りの様な気がしていた。余りに旅が楽しくて、嬉しい事も苦しい事も切ない事も色々な事があり過ぎて、この手に縋るのを忘れていた。乾いた唇を開く。

「はい、大司教様。僕は確かにゼークトの出で、僕の村のゼークトは滅ぼされました」

 でも今は正直自分が全てを証言できるかと言ったら、それは定かではないんです。

 ゼークトのエルケという存在は本当にいたのかすら分からない。だから、ゼークトに探しに行くんです。

 姉さまの抱いている人魚の涙なら全てを知っている。あれが存在の証だから、確かにゼークトに存在していた証だから。

 そんなこと勿論、言わなかった。他人からしてみると、夢の話はあくまで夢であって現ではない。正直に言ったとしても、エルケの正気を疑われるだけだろう。それは容易に予想できた。

「ビューローの軍隊によって、マルプルク公国の都市ビューローに捕虜として連行されたのだったね」

「はい、そうです」

「ワルゼ城からのヤンの報告で、ゼークトの生き残りがビューローの捕虜だった『らしい』という証言があった話は聞いているよ。ビューローの郊外でヤンが君を助けた時には、城から逃げ出して力尽きた時だった」

「……はい、そうです」

 ああ、そこまで報告されていたのだ。彼等は決して好意と同情だけで助けたのではなかった。あくまで最初は互いに疑いながらの旅だった。だから、何と無く今は報告された意味も分かる。でも、今はそれも少しずつ変化したのだと思いたい。

 エルケはブラル大司教に応えながら、向けられた背中を見詰める。クルトはこちらを向かない。自分が少し悲しい気持ちでいる事を、気付いているのかもしれないと思った。

 応じる言葉を濁せば、もしかしたら直ぐに何か邪推されてしまうかもしれない。そう思うと、短い返事しか出来ない。

 ブラル大司教はエルケに事実を確認したいだけであって、ヨープの実情を一介の平民に漏らし、情報の取引をしたい訳ではないのだ。

「ライゼガングからのクルトの報告には、君がビューローの捕虜であるのを『明言』されていた。その言葉の変化は何故か」

 傍目にも見える動揺を、クルトは見せた。金色の髪を揺らし、彼は何かを咎める様にブラウ大司教へとその顔を向ける。

 そんなクルトの様子を見て、少し苦しくなった。でも仕方ないじゃないか、彼はあくまでワルゼ城を預かっている大司教の次男でその職務は決して手放せない。

 個人でエリクを信じてくれていたのだと過信していても、もしもの事を考えて報告は欠かさない筈だ。ねぇ、クルト。そうでしょ? 背中に無言で問い掛ける。

 クルトの変化を冷やかな瞳で見下ろし、ブラル大司教は続けた。

「ビューローから逃げ通す事が出来た意味を、深く考えた事はあるかな?」

 エルケが大司教の言葉を噛み砕き理解する前に、彼は既に違う話を始めてしまう。理解できない人間には、会話に付いてくる価値は無いのだとでも思われている様だった。

 今の話の前に強調した部分の意味を考える余裕も無く、彼はエルケにそのアクヴァマリーンの瞳を向ける。クルトとよく似ている眼だと思った。

「いえ、偶然が重なったのだと……それしか考えませんでした」

「こうとも考えられないかな? 偶然も重なると必然となる。君は、わざと逃がされたのではないかな?」

 床に付いたままの拳を固く握りしめた。

「そんな筈は――」

「無い、と言い切れるかな? で、その根拠は」

 いや、その根拠こそなかった。

 ビューローの城の牢に閉じ込められて、職人とは別の拷問を受けた。他の職人たちは拷問と尋問の上に皆殺されてしまったのに、エルケは数カ月死にかける程に衰弱をしても殺される程までに拷問を受ける事も無かった。

 牢の中に投げ付けられた安い傷薬、死ぬ程でも無い程の少量の食事。忘れていた記憶が、戻って来る。

 確かにあの日、いくら花祭りに浮かれ酒に酔っていたからと言って、あんな失敗を幾つも犯すだろうか? あの時は神の思し召しなのだと思った。

 指が震えて、前に見える白い軍衣を思わず掴んだ。クルトが振り返る。

 責めるアクヴァマリーンの瞳と、気遣うアクヴァマリーンの瞳。救いを求めようとしたのは誰か? 混乱した。

「根拠はない、です」

 口の中が乾き、水を飲みたいと思った。この場所を逃げ出してしまいたくなる。

「君を逃がせば、手っ取り早く石の元に向かうのだと思ったのだろう」

「向かおうと思っていました、逃げた時は。でも、出来なかった」

「出来無かった理由は?」

 エルケの年齢が単身で旅を出来る程、この地は安心できない。辻馬車に乗るのにも金が掛かるし、傭兵を雇うにも金が掛かる。足は動かないし、体は衰弱していた。あのまま、ヤンに助けて貰っていなかったらエルケはあの襤褸小屋で確実に死んでいただろう。

「……体が、動かなかったから」

 大司教の問い掛けに応えながら、どうしてこんなに口が円滑に動くのか不思議に思っていた。決して無理強いされている訳ではないのに、気付くと色々と話している。

 今まで感じなかったのに、突然恐怖を感じた。一体何処まで知っていて、一体何処からが虚妄なんだろう?

 指が震えて、顔を手の平で覆った。何かを大きな声で叫びたくなった。

「誰かが、助けに来る予定ではなかったのかな?」

 違う、誰もいなかった。助けになんて来てくれなかった。ずっと、牢の中で傷だらけの体を抱いて狂った様な叫び声と泣き声と怒鳴り声を聞いていた。

 誰か助けに来てくれたのなら、もっと早く逃げ出していた。誰でもいい、職人を逃がしたかった。あんなに優しくしてくれたのに、皆あんなに温かかったのに。それなのに、誰も救えなかった。自分、一人だけが生き残った。

 姉さま、嘘じゃないよね。そう問いかける。ここに存在していて、あの時も確かに存在していた。

「守りながら、君を確実にゼークトへ連れて行ける存在がいたのではないかな?」

「そんな――!」

 背中後ろで扉が乱暴に開いた。高らかな軍靴の音、それに続く少し小さな音。

 俯いたエルケにはその姿は見えなくて、極端に少ない呼吸を何とか続けるので精一杯だった。肩を柔らかい何かが抱いて、強く抱き締めてくれるのが分かる。

 耳元に声が聞こえた。

「もう、大丈夫よ。私がしっかりと守ってあげる」

 眼の前に漆黒の軍靴と軍衣が見える。剣を佩いたままのヤンは、エルケの肩を抱くカヤを守る様に大司教との間に立っていた。

「大広間は、人払いをしたはずだけれどね」

 まるでクルトの様だ。そんな飄々とした口調でブラル大司教は言う。カヤを見下ろして少し眉を寄せると彼は、随分と懐かしい顔が来たものだ、と継いだ。

「全く会う気は無かったけれど、お招き頂いて感謝しております」

「相変わらず、手厳しいね」

 カヤはその慈愛の微笑みを最大限に発揮して、首を傾げる。言っている意味が心底分からない、といった様子だ。その笑顔もまた可憐だった。

 ブラル大司教の鋭い視線がヤンに向く。ヤンもまた然程その視線には動じていない。

「ヤンには確か、クラウスの護衛を頼んだ筈だったけれど」

「クラウス様の護衛にはカヤ様の護衛を兼ねていると、六年前に拝命しております」

 ヤンの大きな漆黒の背中を見上げた。彼はこちらを向く気配はない、それでも背中はカヤとエルケを守ってくれている。剣を向けている訳ではないのに、それよりも剣呑に感じた。ヤンはカヤの騎士だ。そして、クラウスの騎士だった。

 何かもが繋がる。クルトの異母兄弟、体調を崩したカヤにあの時の昔話。クラウスはカヤとブラル大司教の子供なんだ。カヤは子供を奪われている。クルトがカヤと共に旅をしているのは贖罪なのだとカヤは言った。自分の罪ではないのに、クルトは贖罪を続けているのだと。

 美しい天使と女性の天井画の下で彼は苦笑しながら、そうだったね、と背凭れに体を預けた。

「来た早々申し訳ないのですけど、帰らせて頂きます」

 立ち上がったカヤの腕の中でエルケは、少し離れた場所でこちらを見るクルトと視線を預けた。暗く、悲しげな表情をしている。守ることのできなかった自分を責めているのかもしれない。

「クラウスに会っては行かないのかな?」

「ここから出して頂けた時に、ゆっくり会わせて頂きます」

「じゃあ、まだ掛かるかもしれないね」

「あらまぁ、そろそろ子供離れした方が宜しいんじゃないかしら」

 ヤン、とカヤが大司教から眼を離さないままで呼んだ。ヤンは返事もせずに、しゃがんでカヤの腕にしがみ付いたままのエルケを抱き上げ、動かないクルトに背を向ける。

 腰に回った手に力が入って、思わずヤンの首に両腕を回した。

 カヤがクルトを振り返る。

「クルト、戻るわよ。座り込んでないで、さっさと案内なさいな」

 彼女は革靴の底を大広間の床に叩き付けて、クルトの前に立った。

 ブラル大司教と、その息子にこんな大きい態度が出来るのはきっとカヤぐらいなのだと思う。しかも大司教はそんなカヤを不快に思ってる様子も見せず、あくまで楽しそうに眺めているのだ。

「奥方様に宜しくお伝え下さいませ」

「勿論、伝えておくよ」

 互いに化かし合いだ。勢いよくクルトの腕を掴み上げると、カヤは引き摺りながら大広間の扉に向かっていった。ヤンがその後ろへ続く。

 大広間の扉向こうには、余りのカヤの迫力に入室する事を咎める事が出来なかったのか。使用人と兵士が山となしていた。もしかしたら事前に大司教にはカヤの事を言われていたのかもしれない。

「いつでも私が必要になれば言ってくれ、ゼークトの人魚ひ――」

 扉は、ブラル大司教の最後の言葉を聞き終える前に完全に閉じた。

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