7
「エリク、何か考え事?」
ずっと考え込んでいた事に気付かれた。たまに黙り込んでしまうのはいつもの事だったのに、やっぱりカヤは凄く心の機微に敏感なのだ。
マルガに新しい服を着せながら、カヤが聞いてくる。
服の中で蠢いていたマルガは、自分の装飾がたっぷりされた洋服を見下ろし、顔を輝かせていた。
どうやらエルケの選んだ服は気に入ったみたいだった。少し可愛らしいものを選び過ぎただろうか、心配していたエルケは胸を撫で下ろす。
「何でもないよ。カヤは、大丈夫?」
デリアに服を被せながら、カヤの晴れない顔を覗き込む。
カヤは今さっき、起きたばかりの様な顔をしている。余り大丈夫そうではない顔で微笑んでいるカヤを見て、エルケは物凄く心配になってしまう。あんなに眠った筈なのに、まだ顔色が悪いから。
やっぱり、この場所がカヤには壊滅的に合わないのかもしれない。
マルガと同じ様に、ギャザーを取る為に少し多めに使われた布の波からデリアが顔を出した。照れ臭そうに自分の腰周りのスカートを指で抓んでいる。
マルガとは正反対の反応だった。微笑ましくて思わずエルケの顔がほころんでしまう。
「気に入らなかった?」
悪戯っぽくその小さな肩越しにわざと顔を出して聞けば、頬を赤らめてデリアは首を振ってくれた。
指で黄色いリボンを突いて、デリアは花が綻ぶ様に笑う。
少し恥ずかしいだけだ。今回の買い物は大成功かもしれない。胸のリボンを丁寧に結び直して、エルケは優しくデリアの頭を撫でた。
マルガはその一張羅のまま、ベッドの上で飛び回っている。服が柔らかく浮かんでは、また落ちるのが楽しくて仕方がないみたいだ。
「凄いのよ、ふわふわよぅ!」
カヤが今まで着ていた服を畳みながら、苦笑する。
「マルガ、破らないようにね」
「はぁい!」
その日はマルガとデリアを預ける邸に、挨拶に行く予定だった。
時間になったら迎えに来るから用意して待っている様に、と屋根裏部屋で去り際にクルトは言伝を残した。クルトだけで双子を連れて行くのは酷だろう、邸の門前まではエルケも同行する事に何と無くなってしまった。
だから、急いで用意をしなくてはいけない筈だ。それなのに、直ぐに手は止まってしまう。
指をゆっくりと自分の唇に触れると、そこは随分と乾燥している。こんなガサガサの部分にクルトの唇が重なったなんて。そんな事を考えると耳の奥が熱を持って、延焼するように眼の周辺までが熱くなった。
慌ててデリアの服をかき集めると、その日向の匂いのする服を抱き締め、布に顔を押し付けた。
胸の奥で心臓が飛び出しそうな程、高鳴っている。ここ数日、考えないようにずっとしてるのにそんなの無理だ。初めてのその行為は、どうしても体と心に焼き付いて離れない。
一度、記憶の紐を持つと、その前にヤンに抱き締められた事までが紐に繋がり引き摺り出されて、ヤンの行為までも邪推してしまいそうだった。
ヤンだって、そんな事をしようとした訳じゃないのに。全部、クルトの所為だ。本当に最悪だ。
「僕、用意してくるよ」
カヤの何か言いたげな視線を振り切ってドアを開けた。
ヨープに入ってから早数日、ヤンはエルケが部屋で寝入ってからもっと遅くに部屋に戻って来ているようだった。エルケが目覚めた時には既に横のベッドには人影も温度も無くて、少し眠りに付いたような上掛けの乱れだけがいつも残されている。
何か、声を掛けてくれてもいいのに、と少し不服に思いながらも、あれだけの事があっても毎日しっかり眠る事が出来る自分の豪胆さに呆れた。長い馬車生活で、精神面は図太く成長し切ったらしい。
眠れる時は寝る。あれだけ発作みたいに眠っているのに、まだ眠る事が出来るとは思いもしない。
あの日の朝、目覚めた時には秋の陽はすっかり昇っていて、だらしなく閉じたカーテンの隙間から残暑の日射しが線となって見えた。何もかもが夢なのだ、そう思うには余りに鮮烈過ぎて朝からベッドで悶絶した。それからここ数日ずっとその感触と感覚は自分の中から消えて無くならない。
深く考えずに自室のドアを開けると、そこにいるべきではない姿があって時が止まった。小さく間抜けな声が唇から洩れて、その声に彼は振り返る。数日ぶりに見たその姿は、子供の絵本に出てくる王子様みたいだった。
今日のクルトはいつもより随分と眩しく見える、そう不思議に思いながらクルトを眺めた。
彼の服装はいつもの外套姿じゃない。今日は、白い軍衣を羽織っているのだ。中に見えるリンネルのシャツも白。腰に佩いた剣とベルトだけがその中で異彩を放っていた。
随分と実用性の無い軍衣だな、とぼんやり見ながら思った。だって、血飛沫を浴びたらすぐに真っ赤じゃないか。行軍用ではないのかもしれない、そう思うと安心する。これはきっとヨープでのクルトの正装だ、だって紋章がワルゼ騎士団の物ではなくヨープの紋章だから。
「えっと、ここにいたんだね」
久し振りだね、なんて厭味な事は言わずにぎこちなく笑って、ぎくしゃくと自分のベッドに近付いた。
無言のまま窓際で立っているクルトの視線が苦しくて、呼吸が止まってしまいそうだ。見ないで、と叫んで逃げてしまいそうになった。それなのに、同時に無性に柔らかいクルトの髪を撫でたくもなった。
そんな置いて行かれた犬とか猫とかみたいな顔しないでよ、あんなことする癖に。心で責めながら、背中を向けて準備を始める。
クルトと違って、エルケには全身の着替えは必要なかった。とはいっても、流石にこのままの薄汚れた外套を付けて付いて行く訳にもいかずカヤに言って外衣を上から羽織る事にした。少し大きいのはベルトで調節したら、何とか見られるようにはなる。貴族には見えないけれど、傍仕えの使用人くらいには見えるかもしれない。
しゃがみ込んで磨かれた軍靴を横目にいつもの革靴の紐を結べば、耳が熱くなってきた。視線が頭に落ちているのか、頭から火が出そうだ。
「前みたいに、今回は俺から逃げないんだ?」
自嘲気味な声の後、エルケの視界から軍靴が消えた。少し離れたみたいだった。
片足の紐を少し強めに締めて、もう片方を緩める。靴紐を結び終えたら、次は一体何をして時間稼ぎをしたらいいのか。何も思い付かなかった。
逃げたのは、離れたら何とかなると思ってたからだよ。でももう無理だって知ってる。クルトもヤンも絶対にもう離せない。
頭の中でどうやって二人共を傍に置いたままでいられるか、そんな姑息な事までずっと考えていた。
「……逃げたからって、どうにもならないのが分かったからね」
少し投遣りに答えると、横で彼は笑った。ヤンのベッドに腰掛けているらしい。俯いた視界の向こうで揺れる金色の畝が見える。
「俺を、受け止めてくれるの?」
今にも前の夜みたいにまた唇を重ねそうだ。何も感触がある訳じゃないのに、口元が熱くなった。
(また重ねて欲しい? まさか……! そんなこと思ってない!)
でも、思わずそんな馬鹿げたことを考えた自分が本当に信じられなかった。熱くなった部分をわざと歯で思い切り噛むと、変な味がした。血の味だ。
頭の中で言葉を選ぶ。そんな言葉がクルトに枷を付けるなんて思ってもいないけれど。わざとらしく、エルケは深く溜息をついた。
「クルト、僕は男だよ」
ベッドの上で、クルトの腰に履いた剣が軍靴に当たって軽い音を立てた。
随分と離れた部屋なのに、静かにしていると外の喧騒に混ざってマルガとデリアの笑い声が聞こえてくる。
そうこうしている内に、もう片方の靴も出発準備が出来てしまった。顔を上げるべきか、でも上げる事なんて出来ない。
そんな葛藤が見えているのか、クルトはベッドから立ち上がった。木枠の軋む音、同時に心も軋むのが分かる。
「知ってるよ」
そう呟くと、下で待ってる、と言い残してクルトは部屋を出て行った。
エルケは頭を抱えて、床にしゃがみ込む。どうしたらいいのか、本当に分からない。
悪い報告といい報告。ライゼガングを救う事が出来ないのは、多分悪い報告だろう。だとしたらいい報告とは一体何なのか、見当もつかなかった。どちらにしてもクルトには酷な状況になるのは仕方が無いらしい。
ヤンはここ数日、ヨープの軍用武器庫に朝から夜遅くまで詰めているのだと、クルトが言った。軍用武器庫、と聞いて体が竦む。戦争の準備を始めているのかもしれないと、体中が強張った。
双子は荷台の後ろで大人しくしている。かなり緊張しているようだ。エルケは後ろを覗き込むと笑って見せた。強張っていた二人の顔が少し綻ぶ。
抱き締めてあげたいけれど、今は止めた方がいいとクルトにきつく言われていたから、傍に寄る事も出来なかった。
エルケが彼女たちの傍にいて、これから保護者になる訳ではない。
今、新天地に向かうマルガとデリアをここで甘やかせば彼女達が歩きだす事が出来ない。と言うのがクルトの考えだ。 半分理解できても、半分納得は出来なかった。だって、彼女達はまだ子供じゃないか。
でも、大人になる事を二人は願ったんだよ、と冷静に返された。それを聞くと、何も言い返せずにエルケは黙り込むしかない。クルトに言い返す上手い言葉も無かった。仕事を持つ、とはそういうことだ。子供であっても、仕事を持つ事によって責任を負う。彼女達はもう立派な大人だ。
厩舎と軍用武器庫が立ち並ぶ場所に馬車は止まる。ヤンと合流の上で、邸に向かうらしい。
どうしてヤンと? と、聞いたエルケにクルトは前を向いたままで、
「ヤンが騎士だからだよ。城の外で主に謁見する時は、傍にいなくてはいけないだろう?」
と答えた。
そうか、ヤンは騎士なんだ。主を誰にしているのか、まだ分からなかったけれどエルケには何と無く予想は付いていた。 ヤンは盾だ。これから謁見する人間――予想が当たっているのであれば大司教、の騎士なんだ。
見慣れたルッツの傍に立つ漆黒の影を見て、エルケは眉を寄せる。クルトが白い軍衣を纏っているのと同じように、彼もまた黒い軍衣を纏っている。
ヤンの漆黒の軍衣は血飛沫を浴びても大丈夫そうだ。血飛沫と断末魔の叫びを共にその軍衣に吸い込み、きっと闇に葬ってしまうだろう。そんな姿は見たくないけれど。
ヤンとクルトが横に並べば、まるで光と闇の様だった。共に戦いの場に駆り出されるのは間近かもしれない。
置いて行かれないようにするのは一体何をしたらいいのか。考え始めると、頭の中が色々な事を処理できずに指が震えてきた。
ゼークトで姉さま、人魚の涙を狙う蝶、止まらない夢の続き、クルトへの感情、ヤンへの感情。カヤの優しさ。それに戦が加わるともう頭の中が飽和状態だ。
マルガとデリアに荷台で待つように言うと、エルケは荷台から降りる。今回は、クルトが腕を貸してくれた。触らないで、なんてもう今更我儘なんて言わなかった。
正式に邸に入る日は今日決まるらしい。迎える側にも準備が必要で、今回は面接みたいなものだ。邸の中に向かうマルガとデリアとは、ここで別れなくてはいけない。
何か言わなくちゃ、そう思いながら荷台を覗いても上滑りの応援くらいしか出て来なかった。僕は宿屋で待ってるからね、きちんといい子にしてるんだよ。
それだけを言った。
後ろでヤンの声が聞こえて、エルケは後ろ髪を引かれながらも荷台に背を向ける。
「クルト、こちらは問題ない」
そう言いながらも、ヤンは近付いて行ったエルケの頭に大きな手の平を置いた。目線はクルトに向けたままだ。
双子を手放す事に不安そうな顔をしていたのがヤンには気付かれたのか、どちらにしても大きくて温かな手の平から洩れ出てくる優しさに泣きそうになった。
彼はエルケの言いたかった事を、可能な限りで実践してくれようとしている。その不器用さが苦しくて、愛おしかった。
「ライゼガングとワルゼからの報告は?」
「ない。あったとしてもここでは報告しないぞ、俺は」
「確かに。そんな騎士なら放免するよ、俺も」
話している二人に、先日の夜の姿は重ならない。
ヤンを睨んだ時の今にも剣を抜きそうなクルトの激情も、それを受け止めながら何かを仕舞い込んだヤンの葛藤も何も、嘘のように主従という幕で覆い隠されてこっちの方が戸惑う位だった。
入っていけない、少し疎外感を感じる。
「僕、ここで帰るよ」
思わず口にした。
マルガとデリアが働く場所となる邸は、ヨープに入った当日に見た宮殿だった。華やかで繊細な宮殿には似つかわしくない無骨な宮殿門はすぐそこだ。牢にも似た重い金属門が、今にも開くのを待っている。
しかも前回来た時に比べて今回は随分と物々しい警備体制だった。クルトもヤンも正装だ、それに比べてエルケの服装なんてまるで普段着みたいなものじゃないか。
兵士と騎士が半々に門周りを固め、少し離れた門前にいる馬車を監視しているのが分かった。
正装しているクルトとヤンがいるから何も咎められる事は無いけれど、きっとエルケだけなのなら即追い返されるに違いない。それでも、兵士にとってエルケはきっと迷い込んだ子供位の扱いだとは思うけれど。
「いいよ、戻らなくても。カヤには詳しい事を言ってある。ちょっと、エリクに会わせたい人もいるからね」
クルトが軍衣を翻して、兵士が連れていきた馬に跨った。
ルッツの手綱を持ったヤンが、エルケの腰を抱いてエリクを鞍に乗せると、ルッツは応じるように頭を軽く振る。その艶やかな首筋に指を這わせた。
行くべきか、背を向けるべきか。でも、今は背を向けても何も変わらない。
「分かった、行くよ」
小さな声で同意するとその声を待っていたかのように、一足先に門内へ入って行くクルトの後をルッツは追って歩き出した。
固く組合わさった石畳をルッツの足は軽快に踏んで行く。何もエルケが指示しなくて、ルッツは自らの判断で進んでくれるのだ。ごめんね、少し乗せてね。手綱を持つ手に力を入れた。
近付くクルトを迎い入れるかのように、門が軋んだ金属音を立てて開いて行く。兵士も騎士も勿論疑いの目などを向ける事は無い。
大きな檻にも似たその堅牢な門は、馬車と馬を飲み込んで再び静かに閉じた。きっと歩いていたのなら、その威圧感でエルケは立ち止っていただろう。
ルッツに乗せて貰っていて良かった。そう思った。




