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マルプルク公国を覆う暗雲は、次第に周辺を覆い尽くす嵐雲となった。
ザクセン宮中伯領、ブラル大司教領の合間を縫って、アロイス地方へマルプルク公国がその領土を蚕食しようと目論んでいることなど知る由も無く、その進軍方向にライゼガングの山が一部入っている事も勿論未だ誰も知り得ぬ事だ。
ただ虫の知らせとでも言うべきか、同時期に勃発したミュンヒ付近の小競り合い――またそれも干ばつによる被害で気がたった農民の起こした小さなものであったが、の為にミュンヒ近くに駐留している総団員二百余りのミュンヒ騎士団はライゼガングとヨープ、それにワルゼ騎士団との距離を僅かに縮め、その眼の届く範囲を狭めていた。
一方、ワルゼ騎士団と言えば総長不在の中、ビューロー子飼いの蝶が出入りし、情報がビューローに漏れていた事もあり間者の絞り出しが急務となった。
現在ヨープに滞在する総長へ仔細な連絡を入れる度に、ライゼガングで探索の続けられている鉱脈の報告が頻繁にクルトへと届けられる。
本来、互いに干渉するのを由とせず、長期に渡ってその距離を保ち続けていたミュンヒ騎士団とワルゼ騎士団はこうやって都市ヨープのブラル大司教の目の届く範囲に拠点を移す事となり、他にも騎士団を抱く海沿いのパウルゼンがブラル大司教の指示で僅かな動きを見せた。
パウルゼン騎士団は少数精鋭を前衛隊としてまずブラル大司教領内の海側へ秘密裏に進軍させ、マルプルク公国都市ビューローによって滅ぼされた村ゼークトのほぼ真横に位置する形でその足を止めた。
エルケが目指している三人と離別する予定だった目的地が藍の街と呼ばれるパウルゼンだ。そこであればブラル大司教領内を通過し、比較的安全にゼークトの近くへ辿りつく事が可能だ。ただ、パウルゼンに辿りつく為にはいくつかの山や峠を越えなくてはならず、現在の進行状況では目的地に入るのには冬が近くなるのが避けられなかった。
次第に水面下で動き始める蠕動の中、雲が間近へ辿りつかず嵐を未だ知らないエルケは、現状を打開する為の小さな扉を開けるその小さな鍵を自らの体内に宿している事も知らず、未だ自分の変化に戸惑っている。
そして、全ての舞台は整ったかに見えた。
正面から夜風を受けて、エルケは眼を細めた。
珍しい時間に眠っていた所為か。汗をかいた体に夜風は少し寒く、大きくくしゃみをするとクルトが外套を投げて寄越す。
カヤは双子とあの狭いベッドの中で重なる様にして眠っていた。
いつもならば、目覚めた時には比較的カヤが起きている事が多い。ヤンは離れていたのもあるけれど、彼はエルケの発作にも近いあの症状を今まで見た事が無かったのだ。
眠っているエルケを置いて、先に眠るとは彼女らしくなかった。無理して何でもないように振舞っていても、やはり体調が芳しくないんだろうと思う。
それとも、この地がそうさせているのか。それは、まだエルケにも分からなかった。
ヤンはと言えば、何処で頭を冷やしているのか。ぱっと見、何処かにいる気配はない。今夜はもしかして部屋に戻って来ないつもりだろうか? それはそれで少し寂しいけれど。
クルトに誘われるまま、泣いて腫れぼったい瞼を隠しながら、エルケは宿屋の屋根裏部屋に来ていた。
勧められた屋根裏部屋への階段を見上げ、一度躊躇する。
細く脆そうに見える手摺を掴んだまま、後ろで上がるのを待っているクルトを振り返った。後ろで待っている、という事は一応彼もエルケが転がり落ちない様に気を使っているのだ。
ありがたいけれど、でもやっぱり。悪気を感じて、エルケは囁いた。
「やっぱり、勝手に上がったら怒られるよ」
他の客も宿泊している事もあり、聞こえない程の小さな声で言ったエルケの背中をクルトは指で小突く。いいからさっさと行け、そう促しているのだ。
夜が暮れる前に仕方がない事とは言え、しっかり眠ったエルケには当たり前だが眠りの波はやって来なかった。
クルトが城で話してきた事を聞きたい気もするのだが、移動するってことはあの部屋で話が出来ないらしい。
「知らないからね。僕、クルトに無理やり登らされたって言うんだから」
戻ってくるのは苦笑と、背中を押す手の平だ。
厭々ながら登った先には、想像以上に広い空間があった。
奥に小さな木箱がいくつか重なっているのが、闇の中でも微かに辛うじて見える。それ以外は均等に四つ並んだ窓から入って来る月灯りしかない。
それでも、先程までいた部屋よりも随分と明るい。
恐らく屋根裏のお陰で、月灯りが周りの建物に阻害されないのだ。足を踏み出そうとして足首が沈み込む嫌な感触にエルケは、うわぁ、と呟いた。
雨水が床を腐食し歪み、部分的に底が抜けかけている。
「気を付けなよ、ただでさえ足がおぼつかない癖に。警戒って言葉を知らないんだからなぁ」
含みのある言葉は厭味だ。多分、今現在の事だけでは無い様な気がする。
膨れっ面を床へ近付けて床の歪みを探しているエルケの横を、まるでこの暗闇が全て見えているんではないかと思わせる程迷いの無い足取りで、クルトが窓際へと歩いて行った。
「それなら、手ぐらい貸してくれてもいいじゃない」
文句を言うと、月灯りを浴びて振り返る。月灯りがクルトの金髪を美しく彩り、彼は微笑む。
「貸さないよ。エリクは男なんだろ?」
そうだよ。男だけど、こんな暗闇なんか全然見えないよ。男だって、女だってそれは同じじゃないか。
長く返したいのを堪えて、一言だけ「意地悪」と言った。
思ったよりも念の籠った恨み言を声に出すと、クルトは体を少し折って笑う。
クルトが辿った真ん中を通るのを諦めて、背中に壁を張りつかせながら窓際へ回った。途中、再び足首まで埋まった時もあっても、慎重に歩けば落ちる寸前で何とか引き抜けた。
眼の前で端正な顔が笑っている。お疲れ、と軽く言うと腕を伸ばしてくれた。だったら最初からそうして欲しいのに、そう思いながらもエルケはその手に掴まれるのを拒めない。
掴まれた腕をそのままにして両足を安全な所に立たせると、クルトはその表情を曇らせた。
窓枠の前に立ちその晴れない表情のクルトを見上げると、困った様な表情をして彼は見下ろしてきた。
ああ、さっきのヤンの顔に凄く似ている。何と無くそう思った。
「いい報告と、悪い報告。どっちを聞きたい?」
まるでその表情ならどっちも悪い報告みたいだ。思わず口に出しそうになって、唇を噤んだ。掴まれた腕は全然痛くないのに、クルトの表情を見ていると何故か胸が痛くなってくる。
「どっちにしても、俺は何の役にも立たないんだけどね」
クルトが俯くと、金色の前髪が直ぐ眼の前まで流れ落ちて来た。
エルケの腕を掴んだままで深く俯くと、大きな体だった筈だというのに、小さく丸まって見えた。
今のクルトはまるで幼い子供だ。慰める適切な言葉も持たない自分のもどかしさに泣きそうになった。
こんな弱そうなクルトを初めて見たのだ。いつも彼は何事も飄々とし、そつなくこなして、少し難解な言い回りが面倒で、自信過剰な位に見えていたのに。
大体、そんなのクルトらしくない。弱そうなのはいつも自分の専売特許だった筈だ。どうしても慰めて甘やかせてしまいたくなってしまう。そんなのってずるい。
エルケは無意識に腕を伸ばしていた。
クルトの頭を胸に抱き寄せ軽く抱き締めると、腕の中で笑っている震動を感じる。どうしてそんなことするの? くぐもった声はそう言っていた。
そんなのは一番自分の心に聞きたい。さっきは泣いてヤンに抱き締められたのは自分だった筈だ。それなのに次は泣きそうなクルトを抱き締めているなんて本当にどうかしてる。
もしかして、先程の自分はそんな状態だったんだろうか? エルケは抱きしめながら、つい先程のことを思い出す。少し体が熱くなった。
「知らないよ、クルトが泣き落としするから悪いんだよ」
文句を言いながらも心の中で謝った。
ごめん、クルト。僕が何も出来ないからって、全部その責任をクルトに押し付けてごめん。そう言いたいけれど、きっとその言葉はクルトを傷付けてしまうだろう。だから言えないままだった。
胸を押し退けないままで、膝を付いたクルトが笑う。
「俺を、エリクと一緒にしないでよ。ヤンにもこうやって慰めて貰った訳?」
「……違うよ」
ヤンの優しさを知りながら、弟でもいいから傍にいたい、と我儘を言った。
絶対に血の繋がった弟にはなれないと知っているのに、それでもそうじゃないと傍にいてくれないと思ったからただ必死だった。
「僕の我儘に付き合ってくれないから、少し文句を言ったんだ。ヤンは泣き顔に弱いかなって思って、泣き落とししたんだよ。今のクルトみたいに」
顎を上げて少し偉そうに言い訳をすると、クルトが、俺が? と笑う。俺が泣いてる? エリク、眠ってるんじゃないの? そう笑うと、彼はそのまま沈黙する。
クルトを抱き締めたままで窓の外を見ると、空には星が散らばっていた。
明日は晴れだ。きっと暑さもまだ残ってるから、少しカヤを外に出して日射しを浴びさせた方がいいかもしれない。剣の鍛錬を理由に連れ出してみようか? 少しずつ離れて行くような現実が寂しくて、全く関係の無いことを思った。
エリク、そう胸の中が呼んでくる。心細げな声。きっと抱き締めないと何でもない様な顔をして笑っていたに違いない。少し可愛くない事でも言いながら。
「何?」
その金色の柔らかい髪に指を絡ませて聞いた。
大きな背中、幅広い肩。それなのにクルトは子供の様にエルケに抱かれたままでいてくれる。
だからエルケはただ黙って報告を待っている。きっと一人では言えないんだろう。少し頭を抱く腕に力を込めた。
いいよ、言っていいよ。そういう意味も込めて。
「ライゼガングは、俺には救えない」
吐き捨てる声にエルケはゆっくりと瞼を閉じた。
うん、そうだよね。そんな簡単には行かないよね。クルト一人で何とか出来るのなら、もう大司教も何とかしてるよね。
そう言ってやらなくてはいけない筈なのに。悲しくて、声が出なかった。
「俺は、意義を探さなくちゃいけないんだ。騎士団を動かす意義を」
熱い息は胸から滲み込んでくる。泣いてない、涙じゃない。ただ息が熱い。
どうにもしてあげられなくて、ただ頭を抱き締める。泣けないクルトの代わりに、泣いてあげたくてもそんな簡単には涙なんて出て来なかった。
騎士団を動かすってことは、先日ヤンが教えてくれた通りだ。
騎士団は戦争に駆り出される。領境を守る盾として、クルトは前線に立ってブラル大司教領を守る、そう言う事だ。
帰るべき場所がそのまま棺となる、それはエルケとは似て非なるものだった。自ら駆り出されるのと、攻め込まれるのは違う。自主的に騎士団が動く以上、撤退も敗退もあり得ない。
ただ、前に進むだけだ。勝つまで、守りきるまで。
「クルトは、戦争をするの?」
「俺が?」
聞いた言葉に笑い声が戻って来る。俺が、どうして? 俺が一番聞きたいよ。そうやって胸の中で自嘲気味に笑った。
「……エリク。ヤンも、騎士団に連れて行っていいかな」
クルトの声に思わずエルケの顔が歪んだ。
連れて行っちゃうの? うん、なんて応えることが出来なくて思わず胸に抱いたクルトの髪に顔を埋めた。
目的地に着くまでは一緒だと思っていたのに、こんな形で壊れてしまうの? もしかしたら、クルトをヨープに向かわせた事自体が間違いだったのかもしれない。
エルケの指が震える。そうだ。こんな事、いつヤンが戻って来るかもしれないあの部屋では話せないだろう。クルトが部屋からエルケを連れ出した意味が今エルケにもやっと理解できた。
下から覗き込んだクルトが、胸から顔を上げる。
クルトの髪に顔を埋めて隠していたエルケの視線が顔を上げたアクヴァマリーンの瞳と絡んで、エルケは隠すように思わず奥歯を噛んで涙を堪えた。
見上げてくる顔が苦笑する。
「だから、そんな顔をするから、ヤンも我慢が利かなくなるんだよ」
優しい声。
唇に何かが覆い被さった。熱い息だと思う間に、それが唇から中へと注がれる。
見開いたエルケの視界一杯に、金色の畝が広がっていた。下から上へずり上がる様に被さって来る勢いに負けて、少し顔を引くとその分押し付けてくる。
髪の後ろに指が入って、ゆっくりと上向きにされた。初めは強く、次は弱く、貪欲に絡む舌はまるで海の様だ。エルケの耳元に聞こえない筈の波音が聞こえる。
指が耳の裏を撫でる。唇の間から苦しい息を吐いて、エルケが初めての感覚から逃げるとクルトに下唇を甘く噛まれた。そこからまた新しく疼いて行く。
呼吸も絡め取られて膝から力が抜ける。床へと真っ直ぐに落ちかけた体がしっかりと腕で受け止められた。その腕はまるで鎖だ。薄く開いたエルケの視界にはまた金色の畝が見える。
背中に回った大きな手の平が背中から腰を辿る線をなぞって、エルケは体を大きく震わせた。声が出そうになって、奥歯を強く噛むと覆い被さっていた唇が離れる。
その隙に、エルケはクルトの肩を押し顔を背けた。
眼の前のクルトが、笑っているのか苦しんでいるのかよくわからない顔をしていて胸が痛い。まるで見たことの無い人のようだった。
甘い視線がエルケを覗き込む。
何よりも甘く、誰よりも優しくしている視線で恥ずかしさに消えてしまいたいと思っているエルケを真っ向から見据えている。
「お前が俺に動く意義をくれる?」
どういう意味? 聞く前にもう一度、頬に添えられたままの手の平に力が入った。クルトの腕が離れ、楔を失い床に崩れ落ちたままのエルケの瞼に、クルトは軽く唇を落す。
そしてそのまま、まるで暗闇が見えているかのように触れていた全ての体を離した。
「考えておいてよ、時間はまだ残ってる」




