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涙と蝶  作者:
5章 September 白の都
40/73

 グレーテ広場は、夕暮れ時にも拘らず商人と市民で溢れ返っていた。

 広場の名前の所以にもなったグレーテ・エンマ・クラウゼヴィッツは、ヨープに初めて城を建てた女領主だ。

 洪水で定期的に畑を流され、なかなか定住する事が出来なかったヨープに堤防を建設し、立派な橋を掛けて、一大商業都市にまで成長させた。

 彼女は敬虔な信心者で、各地に修道院や孤児院、それに教会を建設する事を推奨したのも彼女が始まりだった。

 商業都市の名と共に、ヨープは宗教都市として知られている。

 その所為か、政治にも宗教的なものが深く食い込み、教会関係者が政治に口出す事も少なくは無い。

 つまりはヨープの大司教であるクルトの父親ブラルは、教会や修道士会の顔色を窺いながら政治を進めなくてはいけないのだ。

 エルケが見渡す限り、通り過ぎる市民の中にも神父や修道女の姿が垣間見えた。

 この大都市では隣接する教会も修道院も規模が大きいだけあって、収容している人数も桁違いに多い。 双子と体調のまだ優れないカヤを宿屋に送り、エルケとヤンは買い物に出て来ていた。

 一人で買い物に出てもいいと思っていたエルケに、同行を願い出たのはヤンの方だ。道を知らないエルケには助かる申し出だったけれど、ぎこちない空気はなかなか晴れなかった。

 共通の会話を探して、やっと探り当てたのが政情の話だ。

 横を歩くヤンが、やっと話し始めの固さから少し緊張の解れた口調で説明してくれる。

「クルトがワルゼに名を連ねているのは、周辺の牽制にも近いんだろうな」

「……そっか。騎士団がいるとそこからは簡単に攻め込めないもんね。軍隊だって各地に兵士を徴募する面倒も無いし、金も稼げるしね」

「ああ、だからこそ騎士団の上には裏切る心配のない人間を配置する必要がある」

「うーん……と、いつ攻め込まれても、いいように?」

「まぁな。言い方は悪ぃけど、そういうことだ」

 つまりはワルゼ騎士団含む、各地の騎士団は攻め込まれる前の緩衝材みたいなものだ。

 その場所は最終的な領境となり、一番最初に戦争に巻き込まれる。

 そこで何とか止めて小さな諍いで終わるか、火種となって戦争まで拡大するかは分からない。

(でもそれじゃ、ただの人間の城壁じゃないか)

 エルケは不機嫌を隠さず、小さく溜息をついた。

「……危ない場所、なんだね」

 呟いたエルケの横で、ワルゼの頃から少し伸びつつある頭をヤンは乱暴に掻きむしった。

 エルケの呟きを聞いて、なんと説明していいのか言葉を選んでいるらしい。

 彼の精一杯の傷付けない配慮だ。基本、ヤンは気が利かないがそういう配慮はしてくれるのだ。エルケが、軍や、戦争に深く傷付けられているのを知っているからかもしれない。

「人の命は城壁とは違うのに……」

 エルケはヤンを責めている訳はないのに、ヤンは言い淀みながらも応えてくる。

 色々な面で動いて欲しいとクルトに言った以上は、エルケも知らないままでいる事は出来ない。何も現実を知らずに頼みごとだけをする訳にはいかないのだ。

 政情を知る事は決して無駄ではないに違いない。いい教師が何人もいるのだ、今が好機だ。関係ないからと何も知らずに旅を続けることはもう出来なかった。

 剣はカヤに教わると決めた。政情については、本当をいうとクルトのつもりだった。

 クルトと別れてから宿屋に向かう馬車の中で、さりげなくヤンに聞いたエルケの質問をヤンはエルケにも分かりやすく答えてくれた。

 どんなにエルケを突き離しても、質問をするとヤンは変わらず律儀に返事をしてくれるのだ。クルトとは違い、エルケにも良く分かる様に噛み砕いて教えてくれる辺り、クルトよりもっと立派な先生だ。

 クルトはエルケとは違う部分で動き、考えている節がある。説明されても、全く理解できていないことが分かっていない。

 素直に疑問点を提示すると、ヤンはもったいぶらず大雑把に色々と教えてくれる。知るべき所は詳しく突っ込むまで教えてはくれないが、無知のエルケには広く浅く知ることができるのは嬉しかった。

「まぁ、戦争を回避するためにやるべき事はやらなくてはいけねぇだろうな。何せ間違ったら、腹心を戦争に巻き込む訳だし」

「そっか。偉い人もただ指を咥えて見ているだけじゃなくて、頑張ってはいるんだね」

「指を咥えてって……お前も結構言うな」

 大司教は都市ヨープを頭から抑え込み、戦争を回避するだけで精一杯らしい。

 ヤンは微かに苦笑し、歩きながら宙に簡単な地図を描いて見せる。

 地図にすると随分と大雑把なものになるだろう。それは大きな丸のみで説明された。

「ミュンヒの背後にはザクセンが、ライゼガングの背後にはビューローのマルプルクが控えてる。目を離せば簡単に攻め込んでくる血気盛んな奴らだから、人の壁でも置かねぇと仕方ねぇだろ」

 ミュンヒにも騎士団は配置されている。ミュンヒにはアメテュストの鉱脈があるのだ。

 対するライゼガングの傍にはワルゼ騎士団。ライゼガングの金鉱を守る為に配されている。

 緑の都市ビューローは、正確にはマルプルク公国の首都だ。

 潰れた果実にも似た形で領土を広げるブラル大司教領に比べ、蛇が鎌首をもたげる様に伸びたマルプルク公国の領土は、ライゼガングの山にほんの一部被さっていた。

 ライゼガングはビューローからは遠く離れていても、意外な所で本元のマルプルク公国と微かに接点があったのだ。

 エルケは実際にヤンに説明されて、自分のいた場所がいかに危ない場所だったか、初めて思い知らされた。

(そう言えば地図を渡されてたのに、最近見てなかったな……)

 考えるとあの場所は決して安全ではなかったのだ。やはり泉で裸になったのはエルケの配慮不足だ。

「――エリク。危ない」

「……え?」

 夕暮れで足元の視界がおぼつかなかった。

 石畳の浮いた部分で足を引っ掛け、思わず揺らいでしまった体を支えようと漆黒の腕が伸びて来る。

 随分と丸くはなったエルケの体でも、ヤンは苦も無く片腕で軽く持ち上げた。

 咄嗟に掴んだ割に、エルケの腕は強く掴まれていない。振り返ったヤンの表情は、暮れて来た夕闇の所為で不思議とよく見えなかった。

 ワルゼまでなら、こんな時ヤンはすぐにでもエルケを抱き上げていた。暮れかかる薄闇の中、足を引き摺って歩くと凹凸に素早く反応出来ないエルケは躓いて転んでしまうのだ。

 結果は目に見えているのに、でも今回は何も言われなかった。

「ありがとう、ヤン」

 見上げて笑うとヤンは直ぐに手を放し、得体のしれないものを見る様な顔をしてエルケを見下ろしてくる。

(……まただ。どうしてこんな顔をするんだろう?)

 別に敢えて女みたいな仕草をしたつもりもなく、エルケは今のように必要最小限の接触で抑えていた。それなのに、今のヤンといったらどうだ。まるで見知らぬ人間と遭遇した様な怪訝な表情だ。

 髪がおかしいのかと、手の平で頭を探っても妙な跳ねがある様子は無い。

 それなら頬か口に何かついているのだろうかと、エルケは服の袖で口を拭う。さっぱり分からなかった。

「ヤン。僕、なんか変かな?」

「……いや、何でもない」

 聞いた事に対する返事だけには的確な答えは戻って来なかった。

 しかしヤンの様子は明らかに何でもない感じではない。元々、ワルゼで別れる寸前に互いにぎこちなくなったのがもっと顕著に現れたみたいに感じてしまう。

「そう? だったら、いいんだけど……さ」

(本当はいいわけじゃないんだけど、何か聞き出しにくいよね)

 エルケの語尾はつい小さくなってしまう。

 背を向けたヤンの片腕の中には、今さっき買い物してきた双子の服や靴がいくつも入っている袋がある。

 預かった以上は、下働きみたいな仕事に就かせる気はないのだと、そう言ったクルトの言葉を信じて、エリクが二人に用意した――とは言っても支払いはクルト持ちだ。

 マルガとデリアの服や靴は恥ずかしくない程にしっかりとした素材の華やかな装飾がされた物を選んだのだ。

 愛らしい二人の顔に合わせて、レースとリボンも付いたものも発注した。エルケが着る訳でもないのに、選ぶのにはかなり時間が掛かってしまい、洋品店でかなり時間も掛かった。その間、ヤンは店の外で待っていてくれた。

 中に入って待ってくれてもいいのだとエルケは提案したが、ヤンは丁重に辞退してきた。確かにフリルのレースの溢れる店内に漆黒の傭兵がいるのはかなり違和感を感じるかもしれない。

 ヤンの言いたい事も分かったから、エルケも無理強いはしなかった。

 宿屋で待ってくれているカヤと双子の元へ、早く帰らなくてはいけない。日も暮れる寸前で、高い三角塔に橙色の夕陽が被さっていた。

 エルケは、唯一の担当荷物であるオレンジが五つ入った袋を強く抱き締めた。

 それからは一言も口をきかずに、数歩先を行くヤンの背中を追い掛ける。話しかけようにも、背中で拒絶されているそんな感じがして、エルケは話し掛けるきっかけを掴む事が出来なかった。

(……さっきまではいつも通りだったのにな。やっと普通に話してくれるようになったのに……)

 流暢だった政治講義の時を思い出すと、少し落ち込んてしまう。

 教えてくれてありがとう。また一緒に旅を続けるから、これからもよろしくね。そう、実は言いたかった。

 背中を向けないで、いつも通りにして欲しい。何をそんなに考え込んでいるんだろう。そうとも、エルケは言いたかった。

 そう思っている筈なのに、ヤンの背中を見るとエルケは何を言ったらいいのか全く分からなくなってしまう。

 ただ置いて行かれたく無くて、エルケは必死に追いかけた。足を引き摺りながら、ただ必死に。


「カヤは?」

「眠っちゃったのよぅ、マルガとデリアは寂しかったの」

 エルケとヤンが宿屋に戻ると、膨れっ面の双子は宿屋の一階でゲームをしていた。

 ゲームは石をぶつけ合う簡単なものだ。

 本人達考案のルールが行き交う、行き当たりばったりのゲームに付き合わされていた宿屋の従業員が、扉を開けたエルケとヤンに疲れた顔を向けてくる。

 小さな暖炉には、晩夏だけあってまだ火は入っていなかった。

 前に置かれた小さなテーブルには色とりどりの石が並んでいる。

 床に落ちている量を見ると結構な時間、従業員は付き合わされていたようだ。

「遅くなってごめんね。荷物を置いたら、すぐに僕も遊べるよ」

 真っ直ぐ部屋に向かってしまったヤンの背中を、エルケはオレンジの袋を持ったまま急いで追い掛ける。

 カヤと双子が一緒の部屋になった所為で、エルケは今回ヤンと同じ部屋になっていた。

 宿屋に入ってすぐにカヤの何か言いたげな表情を、振り返ってもの言わずに何とか制した。別に裸で寝る訳じゃないのだ。クルトならいざ知らず、不埒な行いをしないヤンならきっと何とかごまかせるだろう。そう軽く考えていた。

 そう考えないと、一緒の部屋で眠ることができるとはとても思えなかったのだ。

 ヤンは勿論、エルケが女である事を知らない。ここで、カヤと同じ部屋にしてと我を張るのも貰うのもおかしな話だ。

 大体、男であるエリクがカヤと同じ部屋になると、女の子である双子とヤンが同じ部屋になってしまう。余り自分から話をしないヤンは、出会った当初エルケがヤンに感じたのと同じ印象をマルガとデリアに与えたらしい。

(だってマルガとデリアのヤンに向ける態度は、まるで野生の熊を見ているみたいなんだもの!)

 ヤンが近寄って来ると、双子は常に物影に隠れてしまう。

 その姿は傍目から見ると、少し懐かしく思える。そう言えば数ヶ月前、最初はエルケも似た様な感じだったのだ。

 先程もエルケと話していたのは宿屋の従業員の背中向こうであって、ヤンが先に二階に上がったのは多分二人に気を使ったのだろうと思う。

 表情には出ていないけど、ヤンの方もかなり困惑しているのだ。そんなヤンを双子と一緒の部屋で寝かせるのも、互いに酷だろう。

 クルトは宿屋に宿泊しない、そうヤンが教えてくれた。

 戻ってくるのに一緒にはいないのか、とそうエルケが舌打ちしたのは内緒だ。

(だから、ヤンと僕が同じ部屋っていう変な部屋割になるんだよ……)

 階段を上りながら、何度目かの八つ当たりみたいな事も考えた。

 手すりに慎重に指を這わせ、二階に上がると木枠の白壁が広がっている。

 窓の無い廊下は白壁でも流石に薄暗い。

 先に上がった筈のヤンの姿はもうなかった。エルケとは違い、足を踏み外す心配も無いヤンは恐らくあっという間に部屋に入ってしまったのだろう。

 今のヤンにエルケに分かる様、部屋の扉を開けておいてくれるという気遣いを期待しても、到底無理な話だ。

(確か、僕の部屋は奥から二番目の部屋だったよね?)

 マルガとデリアのいる一階に戻る前に、エルケは手にしたオレンジをカヤに届けるつもりだった。

 部屋に閉じ籠ったエルケを心配して、カヤが冷やしたオレンジを切ってくれたのは確かエーゲルの時だ。

 その時、エルケには食べる事は出来なかったけれどカヤの気遣いが凄く嬉しかった。そのお返しをしようと、今回美味しそうなオレンジを見繕って買ってきたのだ。

 瑞々しいオレンジは腕の中で甘酸っぱい香りをさせている。

 冷えてないけれど、十分に美味しそうだった。

 足を潜め静かに隙間を開けた扉向こうを覗き込むと、カヤはまだ眠っていた。悪夢を見ている様子も無く、横を向きカヤは安定した呼吸をしている。

「……良かった。具合は悪くないみたいだね」

 穏やかな寝顔を見ると安心する。

(カヤは元気じゃないと、何かおかしいよ)

 エルケが寝込んだ時、カヤがしてくれた嬉しかったことは何だろうかと考える。心細い時はただ傍にいてくれるだけで嬉しかった。

 具合が悪いと嫌な汗をかく。いつもカヤは枕元に水の張った盥を用意して、首元を拭いてくれていた。

(起きたらすぐ水でも飲めるように用意しておこうかな? それと……清潔な布だよね)

 エルケは手に持っていたオレンジの入った袋を枕元のテーブルに置くと、静かに扉を閉めた。

 カヤの部屋の三つ横の扉が、エルケの部屋だ。

 別にこの階が混み合っている訳でもないのに、敢えて部屋が隣り合わせになっていないのは宿屋の配慮かもしれない。

 ノックもせず勢いよくエルケが扉を開けると、買い物の袋をベッドに降ろし着替え途中だったらしいヤンが振り返った。

 窓の前に広がる剥き出しの背中。腰から上がった両腕に向かう弓なりの線に息を飲んだ。

 驚くほどに肩幅が広く、二の腕が太い。腰は太く安定感がある筈なのに、肩幅に比べると細く締まって見えた。

 開けたのがエルケだったせいか、別に慌てることなく彼はゆっくりと上着を脱ぎ捨てる。上着が椅子に投げ付けられた乾いた音で、エルケはやっと我に返った。

「……ご、ごめん! 僕、あの」

 意図せず、上擦った声が出た。

「いや」

「僕、あのノックもしなかったから、その……」

「別に構わない」

 筋肉質な半裸を真っ向から見て、耳奥を越えて咽喉の奥まで熱くなる。

 無駄な部分が何もない様な体はまるで広場に飾ってある騎士の彫刻みたいで、辛うじて口だけは動いたもののエルケは目を背けるのも忘れて立ち竦んだまま動けないでいた。

 ただ顔だけが火のついた様に熱くなる。

 見られているのを全く頓着していないヤンは、シャツに着替えて前を大雑把に止める。

 腕を捲り上げると、まだいつも通りに見られる感じにはなった。そこでやっとエルケも止めていた呼吸を何とか始めることができた。

(……でも今日からヨープにいる間、僕は本当にヤンと同室でいられるのかな? もう自信が無くなってきたよ……)

 ヤンは何も気にしていないようだった。それはエルケが女性であると、ヤンが知らないからだ。

 頻繁にこんなことが起こるのだと思うと、正直エルケの心臓が持つか不安になってくる。ヤンと同室ということを甘く見ていたのだ。クルトとは別の意味で危険極まりない。

 ぎくしゃくとヤンの横を抜け、そのままベッドに腰掛けたヤンにエルケは背中を向けると、自分の麻袋をベッド下から引き摺り出した。

 中を探ると、頭にヤンの視線を感じる。

(……もう、こっちを見ないでよ、思い出すから)

 勿論、当の本人にそんな事、エルケが言える筈も無い。

 ヤンは当たり前だが今の事態を大きく捉えてなんていないようだった。エルケが背中を向けた意味にも気付かず、マイペースに話し掛けて来る。

「どうした。何を探している」

「……うん、えっと。カヤの汗を拭いてあげようと思って、布を探してるんだ」

「ああ」

 ヤンと話すと気付くことだけれど、ヤンは気を許すと少しくだけた口調になる。少し気を張っていると無愛想なぶっきらぼうな話ぐちになるのだ。

 先程の政治談議とは違い、今のヤンは言葉を選んで話している。言葉少ななのはそういうことだった。

(ヤンも大概おかしいよ。拒絶したり、普通に話しかけてきたり、僕だってどうしたらいいか分からないじゃないか……)

 そうとは考えながらも、先程の帰り道みたく無言にならない事に安堵もしていた。

 ヤンに背を向けられるとどうしたらいいのか、分からなくなる。それはやっぱりワルゼの時と変わらない。

 初めに会った時にヤンの威圧感に怯えたのが嘘のように、エルケはもうヤンに気を許してしまっていた。それは傍にいる時につい安堵してしまう程だ。

 こういう時に限って探している布切れは奥に入り込んだままらしく、なかなか出て来なかった。

 麻袋の中身を全て床にひっくり返す訳にもいかず、エルケは手当たり次第に手に当たるものを引き摺り出した。

(……もう早く出て来なよ。この沈黙が辛いんだってば)

 麻袋と布切れに心の中で文句を言う。

「お前、体は?」

「……は?」

 背後からから突然声を掛けられて、エルケは顔を上げた。

 ヤンの意図を知ろうと振り返る後頭部にヤンの拳が軽くぶつかった。小突かれているのだ。

「突然、倒れたりするんだろ。一人にならない様に気を付けろ」

「ああ、うん。そうなんだ、ごめんね。心配掛けて」

「別にそれは構わないが」

 痛くは無かったけれど、エルケは何と無く後頭部を手の平で撫でながら頷いた。

(そっか、そうだよね。そろそろ『あれ』出て来てもおかしくない時期なんだな……)

 エルケが前回、眠りに付いたのが五日くらい前だった。そろそろ来てもおかしくは無い時期なのだ。ヨープに入る楽しみで頭からすっかり抜けきっていたけれど、先程ヤンが買い物に付いて来てくれたのも、クルトにエルケの発作の件を聞いたからかもしれない。

 日付を指折り数えて、エルケはヤンへ振り返った。

 余計な心配掛けさせないように、敢えて笑って見せた。今はカヤも大変な時だ。無駄な心労は掛けさせたくはない。無理せず、時期を見計らって誰かと動きながら休息を取っていればいいだけの話だ。

(クルトが忙しくしている今、カヤを抱き上げたりの世話が出来るのはヤンだけだもんね)

 心配を払いのけるように、片手を振る。

「でも、ほら、ただ眠っているだけだから僕は放っておいていいよ。別に死ぬわけでもないし、痛い訳でも苦しい訳でもないから。長くても一日、短い時は普通に眠っている位で起きるからさ」

 一気に言い放つと、エルケはヤンの目を見ない様にして作業を再開する。手元の麻袋に手を突っ込むと、やっと目的の物を引き摺り出した。

(だってヤンと目を合わせたら、不安に思ってるのを気付かれそうだ……)

 本当を言うと、エルケもその夢の正体が分からず怖かった。

 何度も自らが死逝く夢は、見ていて余り気分のいいものではない。夢は日を追うごとに鮮明になって、目覚める度に自分が何処にいるのか、誰なのか。エルケにも分からなくなった。

 夢を見てるのはエルケ自身な筈なのに、いつも見た事のない場所にいて、違う名前で呼ばれている。

 ここにいるエルケという存在は、もしかしたら誰かの見ている夢なのかもしれない。

 そう思うと、段々眠るのが怖くなった。

 前は怖い夢を見ても、姉に会えると思うと嫌ではなかった。

 ゆっくりとおとぎ話をしてくれる姉だったり、名前を呼んでくれる姉だったり、頭を撫でてくれる姉だったり、懐かしい空気は切なく愛おしかった。

 失ったものをまた取り戻す事が出来る夢は、怖いけれど嫌いじゃない。例えその後に戦の夢が続こうとも、寸前の姉のことを考えると我慢ができた。

 でも、今の夢は違う。

 エルケの足元を叩き壊して行く夢だ。

 夢に姉は出てくるのに、エルケの名前を呼んではいなかった。違う誰かの名前を呼んで、嘆いている。エルケはまるで存在してないかの様に、エルケの代わりにその人間がいるかの様に感じてしまう。

 今まで見ていたものを全て塗り変えていく。今はもう、全く違う夢しか見ないのだ。

 行かないで、死なないで。ごめんなさい、許して。

 夢の中では、嘆く姉の声が反響する。

 今まで大事にしていた思い出は誰の物だったのだろう。エルケがそう考え始めると、大切だった姉も何処かに消えてしまいそうだった。

 そもそもゼークトなんて村も、本当にあったのか。

 滅んだのは夢で、相変わらずあの場所にエルケ以外の皆は生きているんじゃないか。何事なく生活し、エルケのいない平凡で優しい毎日がまだ続いているのではないだろうか。

(僕は……誰で、一体何なのだろう?)

 考えると、やっぱりそこに全ては行きついてしまうのだ。

 やっと見つけた布切れをしっかり握り締めて、エルケは自分のベッドに片手をつき、ゆらりと立ちあがった。

 振り返ってヤンを見ると、途端に目の前がぼやけてくる。

「……お前、大丈夫か?」

(大丈夫だよ。ヤンは心配性だな、何言ってるのさ)

 心で思っても口は重く、開かなかった。

 揺らぐ体を支えようとして、体が重いのにエルケはやっと気付く。

「……おい!」

 ふらついたエルケの小さな体が、そのまま腕を広げたヤンの胸の中に収まった。

 窓の外はもう日も暮れて、眠りにつくには最適な暗さになっている。勿論このだるさが夜の睡眠の所為である筈もなく、いつもの発作の時期が来たのだ。

(もう……マルガとデリアと遊んであげたかったのに……ごめん)

 背中に回ったヤンの大きな手に力が入る。

 抱き上げられるのは久し振りだった。

(……何だ、必要な時にはきちんと触れてくれるんだ……)

 今回は、短いんだろうか。それとも、これから何日眠ってしまうのだろうか。もしかしてこのままずっと目覚めないのかもしれない。

 エルケ自身にも分からなかったから、ただ怖かった。

「……大丈夫、だよ……いつも…だから」

 覗き込んでくるヤンの心配そうな表情。

 揺れる感情の波が申し訳なくて、エルケは口端だけを辛うじて上げると笑って見せる。

(そろそろかな、なんて思った瞬間にこれだよ。本当に嫌になるんだから)

 オレンジの袋を指差して「カヤに」とだけやっとのことで言うとヤンは戸惑いながらも頷いてくれる。

 次第に力を奪われていく体とは反して、今回の思考能力は驚くほど冴えていた。

(そもそもヤンは果物なんて切った事あるのかな? 剣で真ん中からぶつ切りして手渡しそうだよね。六つ切りしてあげて、とか言っておいた方がいいかな……いや、止めとこ。六つ切りでもぶつ切りでもいいよね? マルガとデリアに新しい服を着せる……のは起きてからにしよう、喜ぶ姿が見たいし。きっと起きた頃には、発注した新しい服も出来上がっているに違いない。カヤとお揃いの若草色の服。レースとリボンは小花の様に明るい黄色。絶対に二人に似合うと思うんだ)

「……ヤ、ン?」

「カヤを起してくるか?」

 違う、そうじゃない。

 エルケの口から何も言葉は出て来なかった。掠れた吐息だけが、眠りにつく前のエルケの唇から出て来る。

 クルトとこれからずっと一緒にいる為に、エルケにクルトが何を求めているのか。ライゼガングの村でエルケは気付いてしまったのだ。

(クルトが僕に求めているのは、愛情だ。それも親愛ではなく、男女の一途な愛情なんだ)

 クルトの激しい感情は波みたいにエルケを飲み込み、何も知らなかった感情をエルケに植え付けていく。強引なエルケの事情に全く配慮してない様に見えるクルトの愛情の前には、エルケの性別も抱いている罪の証も全く関係が無く、ありのままのエルケをただ受け止めようとしている。

 クルトが向ける一途な感情をそのまま鏡のように返して欲しいと、エルケを揺さぶってくるのだ。

 天秤に乗る激しい愛情に対するエルケからの不変の愛情。

 与えられるか自信が無い。エルケは向けられるクルトの愛情の重さに少し怯えてしまう。

(僕は愛されるに値する存在なのかな……?)

 エルケは自分がどこの誰なのか分からないあやふやな人間だった。実際、罪を犯していなくても刻まれた焼印は呪縛となって苛んで行く。

(カヤは守るべき存在を求めてるんだ。自分が全てを投げ出してでも守りたいと、そう思わせてくれる存在を探しているんだ。カヤが見返りを求めず僕を大切にしてくれるのは、僕が今たった一人だからだ。きっと一人で心配せずに立てるようになったら、静かにカヤは離れて行くんだよ)

 もしかして、カヤは過去に大切な誰かを手放しているのかもしれない。

 そう思い付くと、カヤが先日昔話として話してくれた何かを手放した少女の話も自らのつらい過去を話してくれたのかもしれない。そうエルケが思い付くのに然程時間はかからなかった。

 カヤは失った何かが大き過ぎた所為で、弱い誰かを守る事に自分の存在意義を見出しているのだ。

「まず寝ろ。話は起きてからだ」

 ベッドに優しく横たわらせてくれる感触が、よりエルケの眠りを誘ってしまう。

 重くなっていく瞼が、視界を全て闇に覆うと残されていた思考能力も次第に緩慢になってきた。

(でも、僕はまだ確か話したい事があった筈だ。それを思い出さなくちゃいけないのに……あのね、ヤン。僕は――)

「……ヤン、僕……」

「分かったから!」

 乱暴な口調と反して、優しい指がエルケの目元を覆った。優しい温度と、ぶっきらぼうな物言いに心が温かくなる。

 その指にエルケが指を重ねたくても、もう動くことは出来なかった。あの厭な夢にただ引き摺りこまれていく。

(僕は、ヤンと一緒にいたいんだよ。僕のままでヤンが受け入れてくれるなら本当は一番いいけど、でもそれじゃ駄目なのなら……)

「……僕、弟の代わりでも……いいよ」

 瞼の上の手の平が、大きくびくついた。

 出ないと思った声が微かに出た衝撃はエルケも少なからず驚いたけれど、もうあまり長くは話せないとも分かっていた。

(ヤンが望むなら僕も「兄さん」って呼ぶよ? 夢の中で、僕はずっと誰かをそう呼んでいるんだ……だからもう慣れっこだよ。だから、お願い。僕を拒絶しないで――)

「……兄……さ…ん」

 そのままエルケの意識は闇に呑まれた。

 今回は随分と深く潜って行く。そう暗闇の中でも何と無く感じていた。

 背中が痛い程、抱き締められたのは、きっと夢の話だ。

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