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市門を抜け、広場を通り過ぎると、馬車は城を背にして道を川沿いに進んだ。
商店や民家が見える街並みを抜けると、厩舎と武器庫が並ぶ通りに入る。
行き交う人々の中にも商人や市民ではなく通り過ぎる人間も兵士や騎士が混ざり始めると、やっと目的の場所へと辿りついたらしい。
馬車は、やっと大きな宮殿の前に停まった。
宮殿門の割に、華やかさを一切排除した無骨で堅牢な門だ。
本来ならば美しい細工でもしていそうな格子にはなんの飾りも無く、ただ剣にも似た形の高い柵が天へとそびえ立つ。
奥に見える美しくも繊細な宮殿とその門とは、余りに分相応で少し違和感を感じた。建物が宮殿のように綺麗なだけあって、エルケには柵がその美しい場所を守る為の巨大な檻にも見えてしまうのだ。
とはいっても、貴族の住んでいるらしい屋敷は壮麗で圧巻だった。
それでなくとも、先程の通りから馬車に注ぐあからさま過ぎる嫌悪が混ざり合う兵士の視線をエルケは感じていた。
(まぁ……こんな綺麗な宮殿前に付けるには……これはちょっと質素過ぎる馬車だよね)
案の定、門前に停まった馬車を見て数人の兵士は足を止め、何人かの着飾った騎士は遠目でも分かる程に不快感を露わにし陰口を叩いている。
クルトが先程言ったことが本当なら顔でも知られていそうなものだが、クルトは何故かヨープの門をくぐると同時に深く女物のケープを被り、自分の顔を隠してしまったのだ。
集まる兵士たちの視線に羞恥を覚えたエルケは耐えられず、荷台の上で立っていられずに思わずしゃがみ込んだ。
先程までの市街ででもヨープで行き交う馬車は立派な幌馬車が多かった。
エルケ達の乗っている馬車は、ライゼガングで長年使われていたものを譲って貰った。十分すぎるほどに粗末なものだ。
こんな大きな宮殿の前にはやっぱり飾った馬車が似合う。それには馬車を守る馬に乗った騎士も必要だろう。
しかしエルケ達の馬車の幌は長い旅で薄汚れ、車輪もがたついている。
それでもクルトはそんな視線に全く動じず、正門の正面に馬車を止めると兵士に小さく何かを告げた。
ケープも上げずに、それでもその兵士には十分だったらしい。
「……はっ! かしこまりました。ただ今、お呼びいたします」
血相を変えた兵士が門中へ飛び込んで行く。
そして、入れ違いにヤンがやってきた。
久し振りに会ったヤンは相変わらずの無表情で、そして相変わらずの黒づくめの服装だ。
エルケの胸が跳ね上がる。
歩幅の広い少し踵を叩きつける様な歩き方でヤンはクルトの前に立つと、荷台から顔を出したエルケに一瞥もせずにクルトと話し始めてしまった。
久し振りの逢瀬に期待した訳ではないけれど、勿論何の反応も無い。
(まぁ、そんなものだとは思ったけど。別れた時も別れた時だったから、もっと何か反応があると思ったよ)
まるで別れたのが昨日の今日みたいな反応なのが、エルケには少し面白くない。
会うのを実は楽しみにしていたのが自分だけだったのかとエルケは気付かれない様に小さく溜息をついた。また前みたいに皆で旅ができるのだと、エルケはちょっと浮かれ過ぎていたのだ。
「クルトぉ! マルガ、馬車から降りていい?」
難しい話をしてるのか、小声の会話に能天気なマルガの声が被さった。
「ちょ……マルガ! 今、何か駄目な感じだからね。もうちょっと待ってようよ」
「だってぇ。マルガ、あの大きな庭で遊びたいんだもん」
荷台奥で腰掛けるカヤの横を二人は陣取って、大人のあるべき姿に付いて討論を始めてしまった。
「今、降ろすからちょっと待っててよ」
クルトが、会話の隙間を縫って返事をしてくる。
エルケは無言で小さく頷くと、降り口にしている荷台前の縁を両手で掴んだ。
(僕は……一人で降りてもいいよね?)
ここ最近、ヤンがいなかったこともあって馬車から降りる時はいつもクルトが降ろしてくれていた。
どんなにエルケが自分で降りるのだと言い張っても、決してクルトは許してくれないのだ。エルケがもし失敗して怪我をすると誰に一番迷惑を掛けるのか。そう詰め寄られると、エルケとしても強くは出られない。
クルトはそれでなくても、カヤにマルガ、デリアを引き連れているのだ。その上、ヤンがいないのにエルケが怪我をしたら旅は立ち行かなくなるだろう。
だからエルケは決めていた。ヤンが荷台に向かって歩いてきても、ヤンの手を借りることなく自分で馬車から降りたらいい。
(なんていったって大人だしね。ヤンにいつまでも迷惑掛ける訳にはいかないよね)
クルトとの話を終えたヤンが馬車へと歩いてくる。
荷台の前で久し振りの顔を合わせると、荷台に伸びたヤンの手が微かな躊躇いを見せて、遠慮がちに引かれた。
馬車から降りるのを手伝うべきか、ヤンがそれを躊躇しているのだということはエルケにも分かる。
「あ。僕、自分で降りられるよ」
だからエルケも決めていた言葉を口にした。
ヤンの優しい手を拒んでいるように思われたら嫌だ。だからエルケも意図的に明るく厭味に聞こえない様にを心がけた。
エルケの後ろにマルガとデリアも控えている。カヤも恐らく、流石にあの体調では一人で飛び降りるなど出来ないに違いない。
商品を乗せる事も無くなったので、今使っている荷台はルッツが牽いていた荷台よりも一回り程小さな物だった。車輪が一回り小さくなると荷台と地面の高さも少し近くなる。
これ位ならこの足でも十分に降りる事が出来る。
それでもヤンはその場から退けようとはしなかった。
(……そうだ。久し振りなのに、挨拶を忘れてたんだ!)
「……あの、久し振りだね。ヤン」
体を荷台外に乗り出して、エルケはヤンへ微笑みかけた。上手く笑えたのか実は少し自信が無い。余りに久し振りに会ったから、かなり緊張しているのだ。
戻って来たのは暫しの沈黙、暫しの無反応。
(ここ最近やっと苦労しなくても笑えるようになって来たけど、上手く笑えてないのかな?)
エルケの唇が緊張で震えてしまう。
確かにヤンの視線はこちらを向いている筈なのに、まるでヤンの周囲だけ時が止まったみたいだった。
てっきりエルケはヤンが馬車から降ろしに来てくれたのだと思い込んでいたけれど、実はそうではなかったのだ。
思い込んでしまったことにエルケは心の中で恥じながら、極めて冷静を装う。
「あ、のさ。降りていいかな? ヤン、ちょっと避けて貰っていい?」
荷台の降り口の前に陣取っているヤンの前に足を掛ける部分がある。
ヤンはエルケの声が聞こえているのかいないのか、未だに反応もないままエルケの顔を凝視している。先に沈黙に耐えられなくなったのは、エルケだった。
反応のないヤンを放っておいてエルケは荷台の端に指を掛けると、上半身を大きく前に乗り出した。長くなった赤金の髪が肩を乗り越えて前に零れ、さらりと垂れてくる。
エルケが荷台の外へ足を出す前に、漆黒の大きな影はやっと静かに溜息をついた。
零れて来るのは低い感情を抑えた声。それは呆れたように響き、少し掠れている。
「……いや、いい。一人で降りるな」
以前していた様に脇を抱えるのではなく、ヤンに腕を突き出された。
どうやらそれに掴まれと言っているのだ。
エルケがその太い腕に片腕を回し荷台に足を掛ければ、片腕と足を使ってエルケでも容易に馬車から降りる事が出来た。
(クルトもライゼガングからはこうしてくれたら、あんな恥ずかしい真似をしなくても良かったのに! そんな事を言っても、今更だけどさ……)
一歩一歩降りた革靴の裏に直に感じる石畳の感触は、固くてゴツゴツとしている。これなら足を引き摺る癖のあるエルケの革靴は直ぐに痛んでしまうだろう。
エルケは、自分の頭よりももっと高い場所にあるヤンを見上げ微笑みかけた。
「ヤン、ありがとう」
しかしエルケが意を決して笑い掛けても、ヤンは既にこちらを見ていない。
見上げたエルケに背中を向けて、荷台の中を駆けずりまわっているマルガとデリアを降ろすのに苦労しているのだ。
エルケは少しそれを寂しく思う。
(……そっか。ワルゼでは、まるで喧嘩別れした様な感じになってたんだっけな)
忘れていた事を思い出してしまった。
離れていた時間で、元に戻るなんてエルケは簡単に思っていた。まさかそんな物事上手く行く筈はない。
マルガとデリアが馬車から順番に降ろされて、カヤを降ろしにヤンは荷台へ上がって行った。軋む木の音の後、カヤの、悪いわね、という声が聞こえてくる。
石畳の感触を足裏でもう一度確かめてから、エルケは今来た道を振り返った。
路地の間。上を見上げれば微かに見える色取り取りの屋根の向こうに、教会と市庁舎の三角屋根がほんの少し見えた。
夏の盛りで濃くなった緑の合間から、城壁も見える。この邸もまた、少し小高い場所に建てられているのだ。
ヨープは川沿いに開けた横に長い都市だ。
川側から唯一入ることの出来る市門を始点にそのまま上へ市庁舎、教会、城と続き、川沿いに進めば広場と街並みを越え、厩舎や武器庫のある宮殿へ辿りつく。
確か結構離れた筈なのに、未だ大きく広く見える城は一体近付くとどれほどの大きさなのか、見当もつかなかった。
クルトが厩舎から馬を牽いて戻ってきた。既にケープははぎ取ったらしい。
「エリク、俺はちょっと城に行ってくるよ」
「あ、うん」
牽いているのは手入れの行き届いた綺麗な馬だ、ルッツでは無かった。馬車を牽いていた馬は休ませるらしく、全員が降りるのを待って奥の厩舎側へ兵士が乗って行った。
エルケはクルトの言葉に曖昧な返事をして、馬車を振り返る。
(ああそっか、クルトがいなかったんだ。だから、今回はヤンが荷台から降ろしてくれたんだ)
馬車からは、顔面蒼白なカヤを抱いてヤンが荷台から降りてくる所だった。大きな手の平がカヤの腰の辺り、がっちりした腕が背中を回っている。
ヤンがカヤを抱いている所なんて見た事が無くて、なんかいけないものを見たような気がした。エルケは、思わず不自然に視線を逸らしてしまう。
カヤを心配して、マルガとデリアはヤンの足元から離れようとはしない。綺麗な若草色のスカートを小さな手で掴んで、二人はヤンの腕を辿って石畳に下りたカヤの傍に張り付いている。
急に後ろ髪がついと引かれて、エルケは振り返った。
「聞いてるの?」
クルトが手綱を引いたまま、ぼんやりとしていたエルケを軽く睨んでいた。少し咎めるような視線に少したじろぐ。
(あれ? 確か、さっき返事したよね?)
「……あ、うん。きちんと聞いてるよ」
エルケは思いながら、もう一度律儀に返事をした。もしかして聞こえて無かったのかもしれないと思ったからだ。
クルトが城に行くってことは、もしかしなくても自分の家に帰るってことなのだろう。あんな大きな城が自分の家なんて、エルケには全く想像することができない。
エルケは今日までクルトと普通に旅をして、彼が貴族様なのだという事は理解していたのだけれど、実際に城を前にして「ちょっと帰る」と言える立場なのだとは本当の意味で理解できていなかったのだ。
故に、何とも反応出来なかった。
(行ってらっしゃい、って言えばいいのかな? それとも、ゆっくりして来てね、って言えばいいのかな?)
久し振りに家族に会える割に、目の前に立つクルトは随分と浮かない顔だ。どうやら今回の帰郷は気乗りしないものだったらしく、クルトのいつも通りの微笑みがエルケには随分と強張ったものに感じてしまう。
(僕は、クルトに無理を言ってしまったのかな……)
エルケはライゼガングで、貴族なんだから何か手伝ってくれ、に近いことをクルトに言ってしまったのだ。その言葉は余り権力がないのだと自らに言ったクルトには重い一言だっただろう。
今更になって反省し始めたエルケは、クルトを気遣う一言を探して口を開閉させた。
無理をしていないか。エルケはそれを聞きたかった。
「エリク。俺と一緒に城へ行こうか」
「はぁ?」
エルケの声が出る前にクルトからされたのは提案だった。
思ってもみない提案に珍妙な声が漏れ出る。
いつの間にか着替えていた綺麗な外套を身に付けていたクルトが、エルケの返事も待たず華麗に外套を翻して馬に飛び乗った。
背中側を指差してクルトは、後ろに乗れ、とそう指示してくる。
(乗れって、言われてもなぁ……)
エルケが思わずクルトと見比べた姿は、埃と汗に塗れた酷い姿だ。
旅路に綺麗な泉は勿論無く、カヤに性別が知られた以上もうそんな短慮を犯す訳には行かなかった。
エルケを襲って来た男はまだ見つかっていないのだ。もし水場で一人になった時襲われたり、最近頓に多い眠りについてしまったら、エルケ一人では対処できない。
だから最近体を拭くときは宿屋が見つかり、カヤの体調のいい時にしようとエルケは心に決めていた。
勿論、そんな都合のいい時は最近無く、流石にエルケ自身体臭に自信が無い。勿論、見かけもかなりみすぼらしくなっているに違いないのだ。
木々の隙間から見える巨大な城壁。その向こうに見えるのは壮麗な城。それほどまでに凄い場所にお尋ね者であるエルケが行ける筈も無かった。
大司教の息子で本当の貴族であるクルトとは、エルケは根本的に違うのだ。
「い、行かないよ! 僕、こんなんだし、一緒に行ったらきっとクルトも恥ずかしいよ!」
伸びたクルトの手を拒絶して、エルケは大きく首を振った。
馬上のクルトを見上げながらエルケは、こんな見上げてクルトと話すのは嫌だな、とそう思っていた。
もう見慣れてしまったアクヴァマリーンの瞳が一瞬陰って、エルケに気付かれない程の短時間で直ぐに戻る。もう一度見直した時には、明るく飄々としたいつものクルトだった。
雲に遮れられ日が陰ったのかと思ったけれど、そういう訳でもないのかもしれない。クルトは本当は一人で城には行きたくはないのだろう。エルケにも何と無く分かっていたけれど、それとこれとは話は別だ。どうしても駄目なら、ヤンを薦めるしかないないだろう。
見上げるクルトは、金色の髪がまるで小麦の畝の様だった。エルケには眩しくて少し気高過ぎる。
同じ金色でも、エルケの赤金の髪とは違うのだ。
まるで、黄金と石ころだ。ベルンシュタインの屑石と宝石みたいだった。
(……クルト、落ち込んでるのかな? まさか、だよね?)
いつも飄々として人を惑わせ、文句を言っているクルトがそんな殊勝な性格とは思えなかった。
でも見間違いでも、エルケには放っておけないのだ。最近のクルトはいつもそうだった。憂いを帯びて、たまに放っておけなくなってしまう。
「ね? 宿屋で買い物でもしながら、クルトが帰って来るの待ってるよ」
「エリク……」
少し言い訳染みた言葉だった。
(だって、ずっと城にいる訳じゃないんだよね? クルトは戻ってくるよね?)
そう言いたかった。
後ろからマルガとデリアの足音が聞こえ、突然エルケの膝裏に強い衝撃がやってきた。双子が飛び付いて来たのだ。
「エリクぅ! マルガ達、退屈だよう! デリアだって、もう疲れたって言ってるよぉ」
「マルガだけでしょ。デリアはちょっと……お腹が空いただけだもん」
クルトはそんな二人を馬から見下ろして、口端を上げた。先程の落ち込んでいる様子は欠片も無い。
いつもの口調で、明るくエルケに向き直る。
「マルガとデリアに、服でも買ってあげるといいんじゃない?」
「……あ、うん。そうだね」
「うわぁ! やったぁ! マルガはエリクと同じ服がいい!」
「マルガの馬鹿……エリクの服は男物でしょ。デリアは靴が欲しいの!」
二人が出した突然の大声にクルトの馬が怯えた様子を見せて、慌ててエルケは二人の口を押さえた。
門の前には見慣れた馬が牽いている馬車が、用意されている。
馬は懐かしいルッツだった。エルケがルッツの方を向くと、鼻面を上げて挨拶を返してくれた。もしかして、ヤンよりもエルケに会えた事を喜んでくれているかもしれないと自虐的なことまで考えてしまう。
馬車から降りたカヤは、近寄ってきたクルトの顔を見上げようともしなかった。
クルトの視線が宮殿奥に向かう。
クルトは敢えて指は差さず、ただ奥を見つめている。俯き、蒼白な顔で唇を噛み締めるカヤは小刻みに震えていた。
(……カヤ?)
余りの様子に、エルケも心配になる。騒ぐマルガの頭を優しく撫でて、大切な話をしている時は少し声を小さくしなくてはいけないと小声で窘めた。
クルトの声は、言葉では反応のないカヤに注がれる。
「カヤ、ここだよ」
蒼白な顔を歪ませてカヤは一度目を閉じた。
「分かってるわ」
そうカヤは吐き捨てた。エルケがカヤの鋭い声を聞いたのはそう何度も無い。
(マルガとデリアがカヤを怖がってしまったら駄目だし、カヤだって悲しむよね)
エルケはその場所を静かに離れ、二人をルッツの傍にいたヤンに預けた。
「荷台に乗せておいてくれる?」
「ああ、分かった」
エルケが言えば、ヤンは目線をまた合わせないままでも律儀に答えてくれる。
小さな手をヤンに預けてしまうと、エルケはすぐにカヤの横に戻った。それほどまでにカヤの様子が心配だった。
あれほどまでに弱ったカヤを一人にさせるなんて、エルケには出来なかったのだ。
話はまだ続いていた。
「どうする? 会いたいなら、いつでも会わせることは出来るよ」
目の前をカヤは手の平で覆う。
「……カヤ、大丈夫?」
泣いているのか不安になったエルケが、カヤの傍に足を引き摺り寄って肩を抱いたら、カヤは小さく震えている。泣いているのではない、ただ震えているのだ。
「いらないわ。余計なお世話よ」
カヤは小さな声で言った。
「どの面下げて、今更会いたいなんて言えるの?」
そう俯いて顔を覆ったままで続けて言った。
クルトは直接カヤを傷付けている訳でもない筈なのに、自嘲じみた表情を浮かべている。痛そうな顔をしているのはカヤだけじゃなくクルトも一緒だった。
それが痛く、エルケには苦しい。
クルトはヤンの方へ馬を進ませながら、カヤを抱き締めたエルケに背を向けた。
「……俺は、会いたいなら会うべきだと思うけどね……エリク、行ってくるよ」
「……あ、行ってらっしゃい。待ってるからね」
エルケの声にクルトが微笑みだけを返して、馬首を翻した。
離れて見ると馬に乗ったクルトは王子様然としている。体を流れる血がそうさせているのか。薄汚いものを着ても気品などは隠せはしないのだ。
(貴族って……難しいんだな)
両親の覚えのないエルケが親との親愛を語れるとは到底思えなかったけれど、帰郷してあれほど憂鬱になるのが家族とも思えない。
クルトはルッツの横を擦れ違い様にヤンへと声を掛けた。
「ヤン、夜には戻るよ」
「いいのか?」
「ああ、うん。長く話しても襤褸が出るだけだからねぇ、切りのいい所で切り上げるよ。裏を読まれると面倒だ」
「分かった」
エルケは路地向こうに消えるクルトを見送ってから、腕の中のカヤをもう一度抱き締めた。
少し離れた場所で聞こえる双子の笑い声を聞きながら、エルケは少しでも心細いカヤの気持ちが落ち着く様にとカヤに寄りそう。
頭を下げて、何かにただ耐えているカヤは、エルケよりもずっと小さく頼りなく見えた。
(あんなに、箒を持ったり盥を持っていると強そうなのに)
そう考えると少しおかしくて、今の元気のないカヤが少し寂しかった。
カヤを守ろうと回した腕の中でカヤが小さく蠢く。
「……何? エリク」
カヤは不安そうにそう聞いてくる。エルケが微かに笑っているのにどうやら気付かれたようだ。
「ううん、何でもないよ」
それ以上は何も話さなかった。
カヤは顔を上げないままでエルケに手を引かれ、馬車の傍まで歩く。足が少し重い。
クルトはもう既に城へと向かったようだった。ヤンが一人、荷台前で待っていた。
市街地を越えたこの周辺に一般市民は入って来る事が出来ないらしく、馬車の行き交いは勿論の事、商人も市民の姿も見えない。
たまに物々しい武装をした兵士や、華やかな騎士が行き交う程度で門前は静かだった。
柵向こうに大きな庭。
低く刈り取られた薔薇の木や、色取り取りの花が見える。
遠くに見える玄関前を左右対称に整えた庭には、かなりの金が掛かっているのだろう。その美しさは、まるで神のいる庭の様だ。
「なんか僕でもカヤを守る事が出来て嬉しいなぁ、って思ってたんだ。いつもカヤには優しくして貰ってるから、こんな時ぐらい僕だってカヤのお世話が出来るよ。もっと僕を頼ってね」
照れながら言うと、カヤも恥ずかしそうに笑う。
(あ、久し振りに見たな。カヤの笑顔)
嬉しくて、エルケも思わず微笑んでしまう。
「じゃあ、いつも甘やかしている分、沢山エリクには甘えなくちゃ駄目ね」
「うん。カヤだったら僕、目一杯甘やかすよ」
答えると、カヤはやっと顔を上げた。
その顔は大分先程より血色が戻ってきている。
「さぁ、宿屋に行きましょ。まず、その汚い恰好を何とかしなくちゃね」
足の重さは何処へやら、足取りも軽く荷台へ向かうカヤの後ろをエルケはぎこちなく追いかけた。
カヤは話そうとしない限り、エルケから何かを聞き出そうとはしない。
一緒にいてもクルトとの会話が全く理解できなかったけれど、それでもエルケは自分もそうであろうと思っていた。
カヤが話そうとしない限り、無理に聞き出すことはない。
今、自分がカヤに出来る事はきっと優しくしてあげる事だけだ。
エルケには分かっていた。
(人って、守るものが見つかると強くなれるんだ。それもまたちょっと大人になったからなのかな?)
石畳を引き摺る足が少し軽くなったような気もした。




