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涙と蝶  作者:
5章 September 白の都
38/73

「うわぁ!」

 止まった荷台から顔を出すと、エルケは仰け反って上を見上げた。

 大きな川の上に掛かる橋の正面には、白壁の市門がそびえ立っている。二つの塔を配す門には金属の格子柵が付いていた。夜間には往来を取り締まる為に、この重そうな格子柵は下りるらしい。

(……凄い! 凄い!)

 エルケも心の中で感嘆の声しか出せない。

 門へと続く橋では、ひっきりなしに馬車が往来していた。

 大きな荷物を持った商人が、馬車の行き交う度に舞う土埃に顔を顰めている。

 馬車に乗っていた男が申し訳程度に手を上げると、商人は小声で文句を言いながらも「気を付けろよ」と大きな声で叫んだ。

 より遠くを見ようと体を乗り出したエルケに、荷台の奥から苦笑交じりの注意が飛んでくる。

 声は、カヤだ。

「エリク、余り顔を出したら危ないわよ」

「本当よ。マルガよりも危ないじゃないのぅ!」

「……ご、ごめん」

 カヤの怒鳴り声に肩を竦め、謝ったエルケを指差して、マルガが笑った。

 そんなマルガにも、容赦なくカヤの注意の声は飛んでくる。

「マルガ、きちんと馬車を掴んでないとまた転ぶわよ!」

「うわぁ! はぁい、ごめんなさぁい!」

 笑いながらマルガが、エルケの横に飛びついてくる。

 先程急停止した時に、マルガは荷台の中で思い切り引っ繰り返った。その所為でマルガの後ろ髪はすっかり絡まり、荷台の中に溜まっていた埃だらけになっている。

 宿屋に着いたらきちんと梳いてあげなくちゃな、横を見ながらエルケは笑った。

 結局連れてきた二人は、クルトが知り合いに預けるのだという。

 ライゼガングの宿で「いいよね」と有無も言わせぬ口調で聞いてきたクルトに、エルケとカヤはあくまで肯定に近い意味の無言を通した。

 後ろ盾は十分な程だからマルガとデリアの件は安心して欲しい、とクルトは笑う。

 ただ、それはあくまで子供の件であって、母親の就職先までは責任は持てないという事だ。残酷だけど仕方がないとは思う。

 子供の行き手はあっても、何の技術も持ってない女を簡単に受け入れる程甘くは無い。下働きでも一から教えなくてはいけないのだ。

 最後の夜を家族水入らずで過ごし、宿屋の女将である母親は二人に会わずに村を出て行った。

 いつでも村を去る事が出来るように、準備はかねてからしていたらしい。ただ二人の母親には決断が出来なかっただけだ。子供を売るべきなのか。皆で死ぬ覚悟で村を出るのか。そういう決断が。

 一人であれば、と前々から口添えを貰っていた場所へ行ってみるのだと、泣きそうな表情で口を噤んでいたエルケに母親は言った。子供達をお願いします、と頭を下げて双子が眠っている朝早くに消えていく背中をエルケはドアを開けてずっと見ているしかなかった。

 二人が起きて来て、全てを分かっていた様に「宜しくお願いします」と言った震える幼い声にエルケの方が泣き出しそうになる。その時もただ抱き締めることしか出来ない。

 マルガとデリア、二人の瞼はライゼガングを出て既に二週間を経過していてもまだ腫れぼったいままだ。母親と別れたその日から、二人は一度も泣き顔を見せていなかった。

 だから、このマルガの元気ももしかしたら空元気なのかも知れない。それとも、今だけは少し心軽く楽しんでいるのかもしれない。

(……そうだったらいいな)

 エルケは二人の姿を微かな痛みを覚えながら見守る。

 デリアは行き交う人の荷物を興味深げに眺めていた。彼女の方も歳の割に冷静に見えてたまに確認せず手を伸ばすので、こちらも目が離せない。

(子供の好奇心って、本当に怖いくらいだよ)

 だから見るもの全てが新鮮で興味深い。特に子供であるマルガとデリアは辺りを見回す目がくるくると動き回っている。

 それは勿論エルケも人の事は言えないのだけど、マルガやデリアを含む殆どの人間が生まれ育った場所から出ることもなく一生を終えるのだ。こうやってあちこちを見て回る事が出来る人間は、ほんの一握りしかいないと考えると仕方がない事なのかもしれない。

 しかし、商人としてあちこちを回っていたカヤとクルトには然程気を引くものは無いらしい。

 ヨープでの二人の反応は至って冷静だった。

 二人ともどうやらヨープと縁があるらしいが、エルケにはそこまで深く二人に聞く勇気は無かった。自分の事を話す事が出来ない人間に人の事を追求する資格は無い。

 カヤの咎める視線にもめげずに、エルケは荷台から顔を出して下を覗き込んでみる。

 橋向こうに見える川の水面は凪いでいた。

「ここ何日か雨が降っていない所為で、水位も下ってるんだな。商売もあがったりだよ」

 文句を言いながら馬車の横を商人が擦り抜けていく。

「……まぁな。けど、洪水よりはいいだろ」

 共にヨープに入るらしい男もそれに応えた。

 この大きな川は、大雨が降る度に氾濫するらしい。

 話を聞いて荷台から下を覗き込むと、橋には何度もの修繕の跡が見える。

(どうやってこんな大きな橋を直すんだろう……? 橋が無い間はどうやって向こう岸に渡るのかな?)

 見た事の無いもののせいで、エルケの不思議は沢山飛び出してくる。

 門の中に入る為に順番待ちをしているエルケ達の横を徒歩の商人が次々と通り過ぎ、中へ入って行った。

 次々と追い抜かれていく所為で焦れたマルガが、頬を膨らませる。

「ねぇ、エルケ。何でマルガ達はまだ入れないのぉ?」

「皆、並んでるからね。仕方がないんだよ。馬車は荷物も多いからきっと確認するのに時間が掛かるんだ」

「それが社会の決まりってものなのよ。大人は待てるの、こんなちょっとの時間を待てないマルガは子供ってことなのよ」

「違うもん! マルガは大人だもん!」

「じゃあ、静かに待ってるの! デリアは出来るわよ」

「……マルガだって出来るもん」

(二人ともまだ十分に子供なんだけどな……無理して早く大人になんかならなくていいのに)

 そう思いながらも荷台の中のでの退屈に待ち切れず、エルケと双子はどんどん前に詰め、ついには馬車の前部分まで来てしまった。

 馬車の前部分は幌が無い所為で少し土埃が口の中に入るけれど、前に来なくては門の奥が見えない。

 エルケだってこんな大きな都市も初めてで、中に早く入りたくてさっきから心臓の動悸が止まらないのだ。

 馬車の前方に行くと手の届きそうな距離にクルトの背中がある。

 すぐ目の前にある繊細な顔の割に大きく引き締まった筋肉質な背中は、今は固く強張っているように見えた。

(声を、かけてもいいのかな?)

 エルケが思わず躊躇してしまうのには理由がある。


 エルケが二日間の眠りから目覚めた日。

 起きぬけのエルケにカヤは、クルトがエルケの性別をまだ知らないのだ、と言った。

 何も言えずにいるエルケの顔を覗き込んで、カヤが聞いてくる。

「どうする?」

「……どうする、って……」

 起きぬけの頭は上手く働かず、エルケは逡巡してしまう。

(知られないで済むことなら知らないで欲しい、よね。だって今更女だって知られても結局もう少しで別れてしまうんだし)

 ベッドの脇に腰掛け、カヤは無言で悩むエルケを急かすことなく慎重に答えを待ってくれた。

 どうして性別を隠したのか、何故言わなかったのか。それを咎めようともせずにいてくれるのはエルケにはとても嬉しかったけれど、隠していたことでカヤを傷付けたりしていないか。そっちの方がむしろ心配になる。

 結局、カヤには「クルトにはそのまま黙っていて欲しい」と頼んだ。

 でも別に危害を加えられたりすることに怯えて隠している訳ではない。それだけは分かって貰いたかったけれど、なんて説明したらいいのか分からなかった。

 むしろ言い訳をする事で疑っている様に見えるのではと、エルケは口を噤んでしまったのだ。

 カヤは俯き黙り込んだエルケの手を握り締め、何も聞こうとはせずに「その方が互いの為にはいいのかもしれないわね」と言った。

 エルケにはその言葉の意味は理解出なかったけれど、運ばれてきた時のエルケの顔色やクルトの血相を変えた顔の話をカヤは何事も無かったように始めて、何か聞く機会を失ってしまったのだ。

 結局、そのままエルケの性別問題はカヤの胸の内に仕舞ってくれるらしい。

 でもエルケは思っていた。不可抗力だけど、カヤだけには女である事がばれて正直良かったのだと。カヤならば、信じる事が出来る気がしていた。女性同士という事もあるのかもしれない。

 背中の家畜の証も、手の罪人の証も、カヤは全て見た筈なのに無理に聞こうとはしなかった。

 何もなかったように、いつも通りに話してくれる。

 それが嬉しくて温かくて、エルケは必要最小限の事だけでもカヤに教えることにしたのだ。

 クルトに話した事と大体同じだったけれど、性別を隠していた事だけは正直に話した。

「ごめんなさい」

 そう今度は素直にエルケは謝ることができた。

「……何となくそう思っていたから……気にしないでいいのよ?」

 カヤは優しく首を振って、そう言った。

 必死に隠していた筈なのに女だと気付かれた理由が分からないエルケに、カヤは苦笑して繋いだ手に力を入れた。その指をエルケは少し熱いと思う。

 秘密を知られた恐怖に、エルケの体温の方が下っているのかも知れなかったけれど。

「純粋ってのも、結構残酷ね」

 カヤは不安そうなエルケを見て、おかしそうに笑った。

 それでエルケが隠していた件はお終いだった。

 それからカヤは下腹の鈍痛の理由を教えてくれたのだ。

 本当にエルケに取って全くの未知の世界だった。想像だにしないことが体の中で起きている。そう思うと、なんて言ったらいいのか分からなくなってエルケは「僕、これからどうなるの?」と言った。

「大人になったのよ」

 カヤは笑う。

「僕は、十分に大人だよ」

 でも成長は体の外側だけじゃないらしい、もっと奥底で人は準備をするのだとカヤが丁寧に教えてくれる。

「貴女の体は子供を守り包んで産み出し、育てる準備が整ったのよ。当たり前のことよ」

「……やっぱりよくわからないよ」

 首を傾げたエルケに、カヤは「その時になったら嫌でも分かるわよ」と言って、優しく頭を撫でた。

 大人になり色々な準備の整ったらしいエルケの体の変化も、数日の不快さだけだった。

 誰からも教えて貰っていなかった体の初めての変化に、エルケは最初は戸惑い不安だったけれど、それでも数日が過ぎてしまうと痛みも無く、前と然程変わる事無く毎日を過ごしていた。

 だが、それはたった一つを除いてだ。

 あの日。大人になったその日を境に、エルケは頻繁に長く鮮明な夢を見るようになった。

 時折、糸が切れる様に眠りにつく。

 それは長い時は一日。短い時でも数時間。

 眠っている間は呼吸も少なく、何をしても起きないのだという。

 泉で気を失ってから二日間眠り続けた時と同じような感じらしい。眠りにつくその状態に二度程、遭遇していたカヤが教えてくれた。

 夢の内容は、覚えている時と、覚えていない時が半々だ。見ているエルケにも全く意味の分からない夢もあった。

 ただ食事をしていたりとか、誰かと遊んでいたりとか、夢の中なのに何故か眠っていたりとか。

 夢の中のエルケはいつも見知らぬ場所にいた。

 住んでいるのは、ゼークトではない場所だ。

 それでも贅沢をしてる訳ではなく、夢の中でも質素な、むしろ結構貧乏な暮らしをしていた。夢ぐらい、贅沢させてくれてもいいのになんて、エルケもその点は少し不満に思う。

 その夢の所為なのか。ここ最近のエルケの記憶は凄く混乱している。

 今まで当たり前だと思っていた事が、足元から覆されたみたいなのだ。ただの夢と割り切るには、その夢は余りにも現実染みていて怖いくらいだから。

 今までエルケの生きて来た軌跡と、夢の中の人間の軌跡が重なっていく。そんな感じかもしれない、とエルケは思う。

 それは、無理やりに誰かの記憶を押し付けられているみたいだ。見せつけられているのはいつもエルケで、その夢からは逃げる事も出来なかった。

 でも一番分からない事は、他にある。

 その夢の最後に、夢の中のエルケは息絶えているのだ。

 それも、息絶えるのはいつも姉が見守る雪の中でだった。

 逆三角のワルゼの紋章の付いた旗もその場所で見ていた。その旗を見た時は、エルケは雪の中で寝転んだまま、空を見上げている。

 何度も見る夢の中で、一番最後に見るものはいつもその光景だ。

 嘆く姉の腕の中でエルケの意識が潜り込んだ誰かは息絶える。

 腕が動かなくなって、体が冷たくなっていく。夢を見ているエルケは全く苦しくはない。一度呼吸をして次の呼吸までが浅く静かなだけだ。

 そして、本当の最後にその誰かの意識が強く思うのは「泣かないで欲しい」と「ありがとう」の二つだ。

 夢の中のエルケは口に出せないままでも、いつかこの場所に誰かを連れて来て欲しいと願うのだ。自らの息絶えた場所を、その人に伝えて欲しい。そう、願っている。

 夢の後半は、声も音も感覚も全て曖昧でエルケにもよく理解できない事が多い。何かが混ざり合い、何かが失われる。体が熱くなり、水に呑まれていく。

 指一本も動かない中で、エルケはいつも落ちて行く感覚に身を任せた。

 そして、いつも突然に目覚める。

 ある時は、ベッドの上で。ある時は、荷台の上で。ある時はクルトの背中の時もあった。

 そんな夢を、大人になったエルケは度々見ていた。理由はエルケにも分からなかった。

 誰の夢なのかも、勿論分からなかった。


「エリク」

 クルトが手綱を握ったままで丁度後ろに座っていたエルケに声を掛けてきて、考え事をしていたエルケは文字通り飛び上がった。

 ゆっくりと動き始めた馬車に吹く穏やかな風を受けて、エルケが目を細めた時だった。

 マルガとデリアはカヤの元へ荷台を転がる様に走って行ってしまった。

 カヤは荷台奥に隠れてしまっている。今日は随分と具合が悪いらしい。顔色も悪いし、動くのも億劫そうだ。

(大丈夫かな、こんな人通りの多い所に来て)

 エルケは心配げに後ろを振り返り、声を掛けたクルトの方に向き直る。

「何? 僕の具合は大丈夫だよ。病人が多くて大変だね、クルトも」

 クルトの横に顔を出して慎重にいつも通りを装って笑えば、少しの沈黙の後に呆れた様な視線が戻ってくる。

 クルトを見ない様にして、エルケは少し大袈裟におどけて見せた。

 行ったことのない場所に浮かれる子供のように、まるで先程のマルガとデリアのように見せれば簡単だ。

「こんな大きな街に来たのは初めてだから、凄く楽しみだな」

「少しは剣が上達したからって、エーゲルみたいに喧嘩を売りまわらないか……俺は心配だけどね」

「剣は自分の為じゃなく、人の為に抜くんでしょ。分かってるよ」

「……どうだか」

 厭味混じりの小馬鹿にされた口調の後、クルトに笑われた。

 カヤとの日々の鍛錬は続いていた。

 カヤの具合を見ながらだから、ここ二日間は休んではいてもエルケは常に自主的な一人の鍛錬は欠かしていなかった。その所為か、見ていても結構恥ずかしくは無いようになってきた気がしている。

 誰に言われた訳でも無い。エルケ自身でそう思っただけだけれど。

 ライゼガングのことを、敢えて気にしない様にするとエルケが心配したよりもずっとクルトは至って普通だった。

 気にしているせいなのか。あの目覚めた時から、特にクルトは無闇やたらとエルケに触れなくなっていた。互いに元鞘に戻った感じだとはいえ、あの日からの変貌に少し不安は残る。

 とはいえ、やっぱり視線は感じる時はあった。

 そんな時はそちらをエルケは見ないようにしていた。それしか出来なかったのだ。

 気になると、やっぱり耳が熱くなって、それからクルトには少しの間全く近寄れなくなってしまう。実証済みだった。

(僕も少し大人になったのかな。もしかしてそういうことが出来るってことが大人になるってことなのかもしれない)

 エルケはそう思う。

 初めて意識した異性に驚いてしまったに違いない。きっとカヤの言った通りにエルケがもっと大人になったら、嫌でもその訳のわからない動悸や反応の意味が分かるのかもしれない。

 エルケは男性にしては線の細い端正なクルトの横顔を見た。

 余りに長くまじまじとエルケが顔を見過ぎた所為なのか。クルトが少し眉を寄せて小さく舌打ちをする。

 ごめん、とエルケは心の中で謝って慌てて視線を外した。

 互いの居心地の悪い短い沈黙の後、馬車の上に影が被さってくる。

 そして、次に日差しが照った時には視界は開けている。

 随分と、色んな色が溢れている。

 それが、ブラル大司教領の都市ヨープに初めて足を踏み入れた第一印象だ。

 今時間は上がったままになっている格子柵の下を潜り抜けると、直ぐ先には大きな広場が広がっていた。

 重なる屋根向こう、少し小高い向こう側に巨大な石造りの城が見える。

 人通りは多い、馬車も今まで見て来た中で一番走っている。見える人混み。もしかしたらこの広場にいる人だけで、ゼークトの村よりも多いかもしれない。

 何よりも大きく背の高い建物が多い。それなのにその高い屋根向こうにもっと高い三角屋根が見える。

 風がその路地間を縫って、城まで吹き上がって行く。背の高い建物の所為で、切り取られた小さな空には白い雲が見えて、時計塔の奥へと消えて行った。

 石造りの屋根、それに赤い屋根、黄色い屋根。色取り取りの花が窓際には並び、石造りの路地も整然と奥へ伸びていた。

 エルケは、その場に立ち上がり口を開いた。

 立ち上がった足元で、クルトがあまり嬉しくはなさそうに言う。

「……エリク、ここがヨープだ」

 一際大きな石の外壁をクルトは指差す。

 街の中でも小高い丘向こうの大きな建物。

(城壁に囲まれた……あれは、城だ!)

 口を開けたまま、返事もせず宙を見て動かないエルケの髪をひと房掴んでひくと、首ががくんと前のめりになった。

「……痛い! 酷いよ、クルト。僕、城を見てたのに!」 

「あれは、大司教の居城だよ」

「あ、へぇ……凄いね。僕、こんな大きな建物を初めて見たよ」

 クルトからの返事は無かった。もしかしたら完全に浮かれているのを馬鹿にされているのかもしれない。

(でもいいや。本物の城を見る機会なんて、これからもうないだろうし)

 後ろでマルガとデリアの歓声が聞こえる。

 飛びまわっているのか、激しい物音も聞こえて来た。勿論、追ってカヤの説教も。

「その手前に見えるのが、ここの中心に位置するブラル大聖堂。左の奥が市庁舎だよ」

 市庁舎も他の建物に負けず大きく、立派な屋根だった。

 ここからは何せ屋根しか見えないのだ。それ程に、広場の周りに立っている建物は大きい。一階部分でテーブルを出して、お茶をしている人も見える。

 屋台も出ていた。花と食べ物の混在した匂いがしてくる。

 馬車は止まることなく奥へと進む。

 いくら進んでも、人通りは絶える事が無かった。今時期、物資は本格的な収穫の時を目の前にして行き交いが激しいのだ。

「……凄い! クルト、詳しいんだね」

 思わず感嘆の声を上げたエルケに、クルトは飄々と返してくる。

「まぁ、俺は大司教の息子だからね」

「ふぅん……」

 エルケはいつも通りに軽く返事をする。

(……大司教の、息子?)

 そのまま、立ったままだったエルケはしゃがみ込もうとして荷台向こうに転がり落ちる。

 腰と、後頭部を思い切り打って、目の前に火花が散った気がした。

「クルト。今、なんて言ったの? 」

 目を見開いたままのエルケの方を一瞬だけ見て、クルトは唇端を軽く持ち上げる。

「次男だから、所領を継ぐ事は無いけどね」

 だから、俺の持ってる権力なんてたかが知れているよ。

 そうクルトは言葉を継いだ。曇った表情を隠す様に前を向いたクルトの顔を、どんな顔をして見ていたのか、エルケには全く見当もつかなかった。

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