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エリクが目を覚ました、とクルトがマルガから聞かされたのは村長宅でだった。
話も終盤に差し掛かり、互いの言い分がぶつかり合って白熱していた時の一瞬の清涼剤にはなった。とはいえ、白の都市ヨープの代理としてライゼガングを訪れた訳ではなくあくまでも騎士団総長であるクルトには、正式な嫡子である兄を差し置いてヨープの政治経済を動かす訳にもいかず、話し合いは迷走状態だ。
村長曰く、蝶との取引は村としては明確ではない。個人で係わる場合においては、管轄出来ない。これ以上は、騎士団が首を突っ込むのではなく、ヨープの正式な使者として金鉱山の行く末も含め話し合って欲しい。
ヨープの使者として、立つべきはクルトの兄でありクルトではない。しかし今はヨープも市場の収益とこれまでの経験で何とか今の状態を維持しているとは言え暗雲に包まれており、枯渇した金鉱山まで目を向ける事が出来ないのも実情だった。
何とかしろ、というエリクの声が聞こえる気がする。権力を持っているのなら使えばいい、という声が聞こえる。違う、自分の持っている権力は中途半端なものであってそんな安易に振り回せるものじゃない。
クルトはそんな葛藤を億尾にも見せずに、軋んだ椅子に深く腰掛けた。背もたれが折れてしまいそうだ、心と共に。深く溜息をつく。
「これ以上、蝶と係わるつもりならヨープも恐らく放ってはおかない。閉山に追い込まれるんじゃないかな」
何を今更、と村長が笑う。
そうだ。何を今更、とクルトも思った。何を今更、よくこの口が叩くものだ。金鉱山がここまでになるまでに、ヨープは何か対策を練るべきだった。資源の枯渇は鉱山を保有する所領がどこも抱える不安点だ。鉱脈の麓に工場などの官営事業を用意するのはその不安点を改善するためだった。
でも、現在のヨープにはそれに裂く程の予算は残されていない。新しい鉱脈も無い、それに代わる資源も見つかっていない。今、ヨープの手元に残っているのは元々あった資産を大きな口で飲み込んで行く宗教という名の大蛇だけだ。
何をしているんだ、父と兄は。自分ならもっと上手く回せる。もっとこんな状態になる前に手を伸ばす事が出来た。そう思いながらも、エリクと出会う前までは自分も逃げ回っていた事を思い出す。
ヨープで父と兄が再三騎士団へ戻る様に通告してきたのを、聞こえない振りをしてただ逃げていた。与えられた騎士団という檻を言い訳にして、それでも父と兄の目が届く騎士団からも逃げていた。全てをノルベルト副総長に一任して、社会勉強を理由にして商人を隠れ蓑にして逃げ回っていた。
ここまで、ライゼガングを追い込んだのには自分にも原因があるのではないか? 騎士団とはただ商人や巡礼者を送り届ける存在だけでは無くて、地方の都市や村や街に目を配るヨープの離れた目でもあった筈だ。
エリク、俺の手もまた意味無く大きいだけで、何も掴めず使えない。クルトは奥歯を噛み締めた。
今弱音を吐くと、きっとカヤから発破をかけられるに違いない。まるで自分は今父親と同じだと、弱い所は何も変わらないのだと。重圧に押しつぶされて、カヤという女に逃げようとした父親と一緒なのだと。逃げ場を作る為に、簡単に檻に入れようとする。自分が壊れた時に、縋る場所を残しておくために。
エリクを自分と一緒にするな、という意味を込めた自戒の言葉を、カヤが背を向けたまま鋭く言い放った。騎士団からもヨープからも逃げる言い訳を、エリクに求めるのは間違いなのだと。
縋り付いたのは、ヤンではない。何のこと無い、自分だった。
「クルト! エリクが目を覚ましたよぅ!」
マルガが一人で役場の職員の手を振り切って、部屋に飛び込んできた。巻き毛の髪には小さな葉と木屑が付いたままになっている。一体どこを擦り抜けて来たのやら、クルトは表情は変えず心の中で苦笑した。
足元にしがみ付くマルガに、解った、とだけ返し、クルトは終わりそうもない話を切り上げるべく頭を働かせた。この場所から離れろ、と言っても最後まで残る人間は残り続けるのだろう。ここから出て、新天地を探せと言っても共にこの地と滅ぶ決意をしている人間もいるのだろう。
自分に出来る事とは何だ? 何もない。今出来る事は何も出来ない事を知ることだ。
「村の方から現状を訴えても動かないのなら、ヨープに行って直接話してくるよ」
結局、他人任せだ。自分は無駄な権力を背負っているだけで、何も出来ない。騎士団とは何だ? やっぱり檻でしかないのか。家族から離された自分に代わりに与えられた架空の家族でしかないのか?
クルトのやっと吐き出した声を聞いて、村長がやっと微笑みを見せた。クルトに縋り付く様にお願いしますとだけ、何度も言ってくる。その声を聞く度に、心の中に戻ってくる絶望感が胸を締め付けた。
城から追い出された自分の言い分など、父や兄が聞いてくれるのだろうか。何も返せなくとも、自分だけは責めないでくれ。そう、また逃げてしまいたいのを何とか耐える。あの小さく華奢な体に押し付けられた烙印と家畜の印を思えば、それはまだ容易いことの様に思えた。
「だから、山師にも諦めず鉱脈を探索するように伝えてくれ。採掘の許可は鉱山監督官に一任し、ヨープからの連絡を待たずに始めていい」
新しい鉱脈を探し、そこにまた坑道を作り上げるには人材と金が必要になる。枯渇し既に打ち捨てられるだけのライゼガングへ、ヨープはその威信をかけて補助金を出すとも思えない。
そんな脳裏に過る嫌な予感を振り払って、クルトは椅子から立ち上がった。いや、自分が何とかしなくてはいけないのか。クルトの指を小さな手が握って来る。見下ろせば、マルガだった。
「もうお話、終わった? エリクの所に行こうよぅ」
舌っ足らずな口調で急かしながら、両足を地団太踏んでクルトの腕を引いた。まるで来た時とは正反対の反応で、恭しく部屋の扉を開けた村長に視線を流す。
「蝶は出入りしているようです、ただ把握は出来ていない。消えた子供達が何処に行っているのかも分からないのです」
等価交換のつもりだったのか。先程まで聞いても答えなかった話が、僅かに口から漏れ出た。少し低い場所を見下ろす、と生気を失い青褪めていた顔には僅かに血色が戻り、声にも張りが出ている。背中に背負った物を他人に一任して、何とか気力が戻ってきたという所か。
「人身売買の事実は、把握していると?」
「いくら、把握していても止められますか? 生きるのでさえ必死なこの村で、子供を養う事を強制する事は出来ません。もろとも死を選ぶか、いつか会えるのを希望に売り飛ばすか二択です」
貴族様とは違うんですよ、そう答えた声は何よりも突き刺さった。見ないように逃げ回っていたものにほんの少し向きあうだけで、こんなに絶望感が湧き起こる。
クルトは返事もせずに背を向けた。マルガの足音が後ろからついてくるのを耳だけで確認しても、振り返りはしなかった。
「クルト」
ベッドに腰掛けて上半身だけを起こし、エリクが儚げな微笑みを浮かべた。
いつからだっただろうか? こんな微笑みを自分に向けるようになったのは。初めは心を失った様に無表情で、たまに見せる表情の変化も怒りか失望、悲しみだけだった。それなのに。
今はここでまるで気高い微笑みを浮かべているのは誰だ? 今日も変わらず眩しい夏の日差しを浴びて輝く赤金の髪を見ながら苦々しく思う。
ベッド端に腰掛けていたデリアの腕をマルガが引いて、微笑むエリクに手を振りながら部屋を出て行った。またね、後でね、とそんな声を残してクルトの背中向こうでドアは閉じた。
カヤはというとエリクの脇に置いた椅子に腰掛けて、ドアの前から動こうとはしないクルトへ無言の威圧を掛けて来る。分かっているんでしょう? 彼女の鋭い視線はそう言いたげだ。ああ、十分に理解しているよ。俺が何も『知らなければ』いいんだろう? それであれば、何もかも上手くいくんだろう?
「ごめんね。僕、二日間も眠ったままだったんだね」
「まぁ、あの状況なら仕方ないだろうね」
容態が急変する訳でもなく、かと言って外傷がない以上苦しんでいるという訳でもなく、エリクはただひたすらに二日間眠り続けた。
止まっていた時を動かす試運転でもしていたのか。突然目覚めたらしいエリクは、体の内部を全て造り変えた様にその曖昧だった性別の壁を取っ払い、今は何をどう見ても少女にしか見えなくなっている。
花が綻ぶようにエリクが笑う。外見は一見何も変化が無いというのに。変わったのはこっちの見方なのか、それすらよく分からなかった。
「そう、だよね。助けてくれたんだってね、ありがとう」
「いや、俺は」
魅せられたようにただ泉へ足を運んでいた。剥き出しの欲情を隠さずに、それでもせめて背を向けていたのは欠片でも残っていた罪悪感からだ。直視は出来なかった、傷だらけなのに神々しくて。神を犯した様な気になった。
「俺は連れて帰っただけだよ。マルガとデリアの悲鳴が、山道にまで聞こえた。最近あの辺りで不審な物影が見えると役場の職員に聞いていたから、夜に時折見に行っていたんだ」
「……そっか」
ベッドの上で何かに縋る様に、こちらを見ているエリクの視線を背けることなく見返した。
握り締めたエリクの指が、上掛けの上で細かく震えている。お前は、俺に知られたくないんだろう? 俺にまだ女である事と、その他にも何か大きなものを隠している。その全てを見せて欲しいと腕を掴めば逃げて行くに違いない、呆気なく背を向けて。
カヤが目をそらさずに、こちらを見ているのに気付いていた。その視線は敢えて受け止めずに、クルトはそのままドアに背を預ける。俺は、上手く笑っているのかな? 全く分からないんだよ、カヤ。
「手当も全てカヤに任せたよ。俺は、エリクを襲った影の正体を調べにまた山に戻らなくてはいけなかったからね。役場に聞けば分かるだろうけど、結局取り逃したんだ」
総長の癖に使えないんだけど、ごめん。それで下手な小芝居は幕を下ろした。
あからさまに肩の荷を下ろしたエリクの顔と、まだ気の抜いていないカヤの顔を苦笑しながら交互に見た。視線が合うと、エリクは今までと変わらず僅かに避ける素振りを見せる。苛ついた。
「騎士気取りなら、何処に行くにも剣を持ち歩いた方がいいんじゃないかな。まぁ、遊びで剣を持つ気なら別だけどね」
「遊びじゃないよ!」
知ってるよ。でもお前を今、女だと認めてしまったら俺は全てを容認できなくなる。仇討なんて出来ない様に、檻に閉じ込めてしまいそうな気がする。
「じゃあ、しっかり鍛えるべきだね。今のエリクなら子供でも勝てるよ。男の癖に守るべき子供の前で気を失うなんて、剣を持つ心構えからしっかり勉強した方がいいと俺は思うね」
「……分かってるよ」
余裕がないと弁舌が巧みになる。らしくなく直球の厭味に気付いているんだろうか。カヤが呆れ顔で立ち上がり、射し込む日差しの所為で少しずつ熱気が籠ってきていた部屋の窓を一気に開けた。
本当に、文句が多い。この部屋の中で唯一エリクの性別を知り得るカヤは、きっとエリクと話した事の半分もこちらに流す事はしないだろう。これでいいんだろう、カヤ。俺の傍には寄せない方がいい、そう思ってるんだろう。俺もそう思う、でも今更無理だとも思う。
「村長とも話してきたよ。これからヨープに向かおうと思う」
「ヨープに?」
反応を先に返したのはカヤだった。クルトは咎めるその視線を見ない振りして流し、見詰め返すエリクの視線に敢えて自分の視線を絡めた。突然、気付いた様に逸らす視線。放すべきだ、いや近付けるべきだ。そんな葛藤が起こる。
「蝶の件は出入りしているのは確からしい、けど俺も実際にエリクを襲った人間の顔を見た訳じゃないからね。現実問題として、今のライゼガングを何処まで助けられるかの方が先だと判断した」
「何とか出来るの?」
喜色満面でエリクが会話に入ってきた。それが望みなんだろう?
「出来る事はやろうと、思うよ」
それをする為に、一体何を捨てればいいのか。見当もつかなかった。開け放たれた窓から、土埃を含む生暖かい風が吹き込んで髪を揺らした。外で聞こえるマルガとデリアの笑い声。
「ヨープでヤンと合流する。頼んである事を聞いてから、蝶の件は動こうと思う。ライゼガングの件は直接俺の父親と兄に話すよ。いいね、カヤ」
無理して付いてこなくてもいい。そのつもりで聞いた筈なのに、カヤは強張った表情のままで、行くわ、とだけ答えた。ヨープの諸侯がクルトの父親である事を知らないエリクは話に付いて行けず、不安そうにカヤの顔を見上げた。
「それと、マルガとデリアは俺がヨープに連れて行く。話は付けてあるから、そのつもりで」
振り返ったエリクの顔は、何故か苦しそうだった。違う、苦しんでいるのは俺だ。




