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涙と蝶  作者:
4章 August 黄の村
36/73

 小さな悲鳴が風に乗って聞こえるまで、その状態に気付かなかったのは失態だった。

 木陰の向こうで背を向けて、水音だけに耳を澄ませていた。話を勝手に聞くのはフェアじゃない。珍しく紳士的な事を考えたから、こんな初歩的なミスを犯すのだと、きっとノルベルト副総長は怒るのだろう。

 仕事に感情は禁物だ、情を移すな。客は荷物だ、金の乗った馬車だと思え。情が移れば、守る手が鈍くなる。気の緩みも現れる。剣の冴えが鈍る。何度も言い聞かされてきた事だ、あの鬼教師に。これほど身に染みた夜も無かった。

 駈け出した時は既に、エリクの体は小さな崖向こうに消えた後だった。騎士は剣を絶対に手放すな、教えの通りに腰に佩いた剣を抜くと、身を翻す黒い影に切りかかる。

 闇を切り取った、そう思ったのは外衣を一部切り取ったからだ。そのまま横に凪いだ剣の刃を、距離を取って避けた男へ返す。足の爪先が土を抉って、小石の砕ける音がした。翻す影、落ちる漆黒の影の一部。これはヤンではない。あいつの剣なら俺が一番よく知っている、間違える筈は無い。

 だが、闇に慣れた目でも隠された顔を判別する事は難しかった。

 影はクルトと同じく、剣に慣れているようだ。

 即、月灯りを浴びて冴えた剣が抜かれた。先刻まで抜かなかったという事は、エリクの命を目的としている訳ではないらしい。人買いか、それともビューローの追手か。生きたまま連れていこうとするという事は、どちらかだ。体目当てなのなら、女なら殺しても十分にその機能は足りる。自分の考えに逆上した。

 光る剣先。かん高い金属音と同時に、柄を握る指に衝撃が走った。力任せに押してくる、向こうも然程時間は無いらしい。急いでいるのか、依頼主が傍にいるのか。それとも、何か他の理由か?

 逆上もある一線を越えれば、逆に自分でも怖い程冷静になった。何処を切り落そうか、それとも叩き潰そうか。死なない適度に動きを奪ってからワルゼかヨープに連れ帰ってやる。そうだ、殺さずとも色々な事を聞き出す時間はある。さぁ、今は俺を楽しませろ。

 互いの外套と外衣が浮き上がる。掛かって来る剣に外套を巻き付けて、思い切り引き寄せれば膝を付いた体が翻った。土埃が舞って、体の重心が崩れた所を狙う。飛び散る火花、闇の中では目立った。

 突然、下で子供達の叫び声。それに悲鳴が微かに聞こえた。何度も名前を呼んでいる、どうやら『彼女』は意識を失っている。怪我は? それに呼吸をしているのか? 何も見えない、何も聞こえない。腹が立つ。

 舌打ちをして正面の敵を睨み付け、口端を上げた。俺には時間が無いんだ。そろそろ動けなくなって貰おうか。切り掛かり、思い切り腹を蹴り飛ばした。

 踵に重い衝撃の後、剣に血が滴り落ちる。土に垂れた、土が血を吸って行く。

 膝を付いた影に、剣を振り被った。

「エリク、死んじゃ嫌だよぅ!」

 その子供の声に、思わず腕が止まった。

 隙を見逃さずに影が身を翻す。手元の土を思い切り顔に叩き付けて来た。

 途端に口の中で広がる小石と土の粉塵。腕で殆どは庇っても、流石に全部は庇い切れなかった。舌打ちをする、最後の最後にこれだ。ノルベルト副総長に知られたら、何を言われるか分かったものじゃない。

 そして顔を上げた時には既に血溜まりだけ残して、その姿は消えていたのだ。

「逃げたか」

 クルトは短く呟くと、剣の血飛沫を払い鞘に戻した。直ぐに崖下に向かう為、身を翻す。が、返り血を浴びた自分の外套を見て、僅かに逡巡した。

 少し子供の前に出るには刺激が強いだろうか? いや、この暗闇なら気付かないだろう。一瞬の逡巡の後、身を翻し崖を器用に下りて行った。

 崖は上から見て思っていたよりも、然程高さは無い様だ。とはいっても、あの状態で十分に覚悟は出来ないだろう。水に叩きつけられる衝撃は結構なものだったに違いない。

 下でマルガとデリアが濡れ鼠になったエリクにしがみ付き、マルガはただ泣いていた。水からは二人で協力して、エリクの体を何とか引き上げたらしい。川のほとりに引き上げられ瞼を閉じたエリクは顔色も蒼白で、唇も紫だった。

 ここで失うのか? 拳を強く握り締めた、爪が手の平に突き刺さる。心臓が鳴った。

「クルト! エリクが死んじゃうよぅ!」

 草を踏む音に気付き、マルガの方が先に顔を上げた。

 こちらも負けじと濡れ鼠だ。但し顔は涙塗れになっていた。鼻も赤い、唇が歪んでいる。なんだ、先日のエリクの泣き顔となんら変わりは無いじゃないか。

 最も重要な事を、らしくなく震える声で聞く。

「……息は?」

「息はしてるよ、でも少ないの。呼んでも目も覚まさないし、動かないの」

 冷静な返答がデリアから戻って来て、少しだけ安堵した。

 なんだ、随分と冷静だな。そう思っても、彼女もまたエリクの頬に触れる小さな指は小刻みに震え、十分に泣き喚いた後の様だった。その二人の姿にずっと会っていない自分の弟妹の姿が重なって、二人の頭を撫でる。きっと物凄く怖かったのだ。

 崩れる様に、意識を失ったエリクの横に跪く。

 頬に指を這わせれば、表面は冷たくても肌の奥はまだじんわり温かい。唇に顔を近付ければ、微かでも呼吸をしていた。胸を見た、僅かに見える膨らみは十分に上下してその機能を失うことなく動いている。

 安堵で体の力が抜けた、無性に華奢な体を抱き寄せてその頭を狂ったように掻き毟りたい気分になる。

「俺が抱くよ、戻ろう」

 エリクを包むのは、返り血の浴びた外套でも大丈夫だろうか? 一瞬、悩んだ後に他に体を包めるものが無いのだと思い直した。そのまま連れて帰る訳にはいかない。

 クルトはシャツの上に着ていた短めのベストを二人に手渡し、ひとまずの水滴を拭かせた。あとは歩いている内に二人は次第に乾いてくるだろう。

 エリクは宿屋に戻り次第、濡れた服を着替えさせなくてはいけない。外套に包み、その身体を持ち上げると意識を失った体は今まで抱き上げたどんな時のエリクよりも重かった。

 意識を失っている今ならせめてもと、その閉じた瞼に唇を押し付ける。

 エリクは馬鹿だ。今までは安心だとは言え、狙われているのを知っていてどうして子供と出掛けようと思うのか。苛立っているのか、それとも安堵しているのか。それともどうしようもなく愛しく思っているのか、欲情しているのか。もう何も分からない。

「こっちだよぅ!」

 マルガが先導した後をデリアが追っていく。もしかして先程の男がまだ闇に潜んでいるだろうか? いや、きっともう逃げた後に違いない。

 剣が肉を抉った感触は確かにあったのだ。今は十分に止血しなくては後々に響くだろう。そんな命知らずな真似はしない筈だ、あれだけの剣を使えるのであれば。

 外套に巻かれた体を強く抱き直し、闇の中に割り入った。



 乱暴に階段を駆け上がる音。マルガとデリアの足音だ。それじゃ、カヤも飛び起きるだろう。そう思いながらも、クルトもまた同じ様に軍靴を階段に叩きつけながら駆け上がった。

「カヤ、カヤ! エリクが!」

 二人は部屋にそのままノックもせずに、飛び込んだらしい。

 外套に包んだエリクを連れて部屋に入ると、二人に飛びつかれてカヤは何が起きたのか理解できない表情をしてベッドで半身を起き上がらせていた。

 それでもクルトに抱かれた力の抜けた体を見て、眉を寄せる。息を飲み、名前を小さく呼ぶとベッドから直ぐに飛び降り、駆け寄った。

「怪我は? 息はしてるのね?」

 カヤが腕に飛び付いてくる。

 腕の中で規則的に呼吸をしているのを確認すると、エリク並みに蒼白になった顔をカヤは少しほころばせた。

「風邪を引くわよ、直ぐに着替えてらっしゃい」

 本来の調子を直ぐに取り戻し、カヤは濡れ鼠になっているマルガとデリアに着替えをするように言い付ける。でも、二人はなかなか頷かず心配そうに振り返った。不安なのだ、『彼女』がまだ目を覚まさないから。

 腕の中の体を強く抱き締める。まだ反応はなかった。

「明日、また会いにらっしゃい」

 そうカヤに言われて、何とか納得したらしく二人はやっと部屋を出て行った。少し躊躇しながら、それでも遠く離れて階段を駆け下りて行く小さな足音が聞こえ、やがて消える。

 シーツの乱れていないベッドに寝かせる様に指示すると、カヤは部屋に小さな灯りを付けた。窓際に置かれたランプに二人の姿が映し出される。出来るだけ暗く、外からは見えない様にカヤはカーテンを閉めた窓際からベッドの足元にランプを移動した。

 そして、ランプに照らされた異変をカヤが一番先に気付く。

「クルト。貴方、怪我しているの?」

 カヤの視線を辿れば、床に黒々とした点が落ちている。点はそのままクルトの足元に小さく広がっていた。決して多くは無い血痕。外套から数滴、滴り落ちている。そう言えば、確かに体を抱いた腕が温かく僅かに湿っていた。

「いや、俺はしていないよ」

 じゃあ、エリクは怪我をしていたか? 先程、横たわった姿を見た時に見た覚えはない。暗闇で見逃したか、そんな筈も無い。抱き上げる時には血痕などなかった筈だ。

 カヤは一瞬で綻びかけた表情を変え、ドアへ身を翻した。

「私はちょっと治療道具と服を借りてくるわ。クルト、貴方はエリクの怪我を見ていて。必要なら応急処置を、出頼むわよ!」

 返事も待たずに、カヤは部屋を飛び出して行く。

 血痕とエリクの顔を見て、ベッドに下ろした。カヤはエリクが女であることを知らない。だからクルトへ簡単に任せる事も厭わないのだ。

 ベッド上で外套を開けば暗闇に近い部屋の中でも微かに分かる程、背中部分が血に塗れていた。しかし見た目ほどは出血は多くは無い。濡れている体の所為で、水滴と混ざり合い垂れて来たのだろう。この量なら恐らく、命に別条はない怪我だ。急ぐほどではないから待った方がいい。体は触れずにいた方がいい。白い肌を見ると自制が利くか自信が無い。

 数日前、こそこそと何処かに出掛けるのを見てまたかと呆れた。どうしてこいつはこうやって人に疑われる事を敢えてするのだと、ついて行って文句でも言ってやろうと思った。

 月灯りに照らされる、薄い藍色の水。

 泉の傍で少し恥じらいながら白い体を辿って、布が滑り落ちる。誰も見知った人間はいないのだと安堵している様に、一糸纏わぬ姿を何処も隠すことなくエリクは月灯りの下で立っていた。

 何処をどう見ても、女だった。やっぱり、という安堵と、何故言わなかったのかという苛立ちが鬩ぎ合う。

 初めて見た。腕、足、腹、背中、首、体中の殆どにおびただしい傷の残る体。虐待なのか、それとも拷問なのか、白く痕だけになったものもあれば背中の火傷の様にまだほんのり赤味を残すものもあった。

 別に驚く程女らしい体をしているという訳でもない。それなのに 水浴びをするエリクの体を初めて見た時に、見てはいけない体だという事も忘れて思わず息を飲んで目を見開いた。

 傷だらけの白い肌。それでも、それすら忘れさせる程透き通る姿。

 泉の縁に立つエリクは、赤金の髪が一糸纏わぬ体に張り付いていた。水から上がったばかりの体を月へしならせて仰け反る姿を見て、思わず欲情する自分に気付いた。

 まるで女神に懸想する人間の様だ、してはいけない事をしたような気分になった。女神は情欲を知らない、恋も愛も持ちえないからだ。気まぐれに振り向き、気まぐれに姿を消す。

 エリクが女神だというのならその神々しさを奪って、人にまで堕としてしまおうか?  逃げ出さないように、縛り付けてしまおうか。

 全てを未だ見せようとしないその存在に腹が立った。どうにもならない程苛立つのに、手だけは完全に離せない。むしろ引き寄せたくて仕方がない。

 その後に、泉の熱がまだ醒めやらぬ寝室の扉が叩かれた。その日の夜のことだ。

 今は戻った方がいい、そう思いながらも扉の向こうにいる体を引き込もうと指が動く。目を閉じれば、泉の縁で立つ姿が浮き上がった。心細げな表情。見た事のない優しげな微笑み、薄い肩。細い腰。

 一度、女だと思ってしまえばもう感情に抑えは利かなかった。完全に舵を失った船は迷い、流される。掴めばもう離す事も出来ない。それを知っているから、際どい感情を強く自制する。

 無邪気に笑うな、今の俺はそんなに甘くない。エリクが明らかに避けているのは、この汚れた感情を読まれているのかもしれない。それなら避けられるのも仕方ない、そう思いながらも上手くいかない自制に苛立ちは募る。

 腕の中でエリクが小さく身じろいだ。眉を寄せて、微かに息も荒い。怪我の所為で熱でも出て来たのか? 触れた額はまだ冷たかった。

 僅かな躊躇の後、クルトは溜息をつき思い切って背中部分の服を捲り上げる。その向こうに、細く白い背中。僅かに出血の痕はあれど、背中では無い様だ。中央に見えるのは火傷の痕、それに思わず目を見開いた。

 背中の火傷はただの火傷なのだと思っていた。だが実際、近くで見ると違う。これは家畜の印だ。ビューローの所有権を主張する焼印だった。

 手の甲の烙印を見た時もまた、見ないでと小さな声で懇願した。その向こうでこんな物まで隠していた。腹に腕を回し、その焼印に唇を付ける。指でなぞりながら血に塗れた傷を探しても見当たらない。

「……ん」

 少し意識が戻ってきたのか、鼻に掛かる声をエリクが上げた。腰にも腹にも傷は無い、まさぐる様に指を這わせても血が滲むだけでやはり何処にも見当たらなかった。だが、腰の紐はまだ固く閉まったままだ。その部分を引きぬく訳にはいかなかった。泉で見たとはいえ、状況が違う。

「エリク」

 起きろ。

 腹の下に腕を入れて、上向きにさせる。まだ信用には値しないのか、全てを教えた様な顔をしてその癖に女であることを隠すのか。

「エリク、俺を信じろ」

 俺に全部見せろ、声に出せずに抱き締める。

 腕の間から落ちた腕が落ちて、その指の付け根には数日前まではなかった擦り傷や潰れた水泡が見えた。剣を持って、何をする気なのか。迎え討たれるのを覚悟で剣を教わるのか。お前は女なのに、ただ守られてさえいればいいのに。つい先日まで、子供なのだと小馬鹿にしていたのが嘘の様だ。

 ふと、腕の中のエリクを見下ろした。出会った頃とは明らかに違う丸味を帯びた体、細い腰、水に濡れると微かに判る膨らみ。もしかして、何かが引っ掛かる。

 もしかして『彼女』はたった今『女』になったのか? クルトは唐突にエリクを腕から離した。抱き締めた腕を見詰めて、まだ眠るエリクを見下ろす。後ろの扉が丁度開いた。カヤだった。

 小さな盥には湯が張ってある。清潔な布と薬、それに飲み水と着替えを器用に持って来たカヤは、扉の傍で立ち竦むクルトとベッドを交互に見て、訝しそうに眉間へ皺を寄せた。

 ベッドに寝かされたエリクには何の治療の跡も無い。それを無言で咎めているのだ。カヤが睨んできた、声には棘がある。怒ると容赦ないのはいつもの事だ。

「貴方、何もしてなかったの?」

 使えないわね、その後の言葉が聞こえてきそうだ。

「カヤ」

 脱力して、背中を壁に預けた。そうか、やはり『彼女』は女なんだ。子供ではない。

「何よ」

「エリクは女だ」

 カヤは怒る事も悲しむ事も絶望する事も無くただ盥をサイドテーブルに置き、手早く着替えを自分のベッドに広げるとエリクの横にしゃがみ込んだ。

「そう」

 短く答えると、エリクの首筋に手を当てて、はっきりとした脈動と体温がある事を確認し、大きく溜息をつく。水で寝着の袖が濡れない様に腕捲りをして、持って来た布でエリクの顔と手足を拭いた。

 出て行く機会を完全に失ったクルトを振り返り、鋭く睨みつけて来る。

「いつまで見ているの? たかが、子供が大人になっただけでしょう。エリクが女だと分かったのなら、さっさと部屋を出て頭でも冷やしてきなさいな。貴方、酷い顔してるわよ」

 この子を押し倒したら容赦しないわよ、そう背を向けたままカヤは言った。

 内心の情欲を読まれた様で、言い返す事は出来なかった。

 そこまで俺は既にエリクに執着してるのか? いつか、カヤを籠に閉じ込めた父親の様に俺もエリクを籠に閉じ込めるのか? 自分とエリクが被るのか、カヤがクルトに吐き捨てる言葉には容赦がなかった。

 いつまでも出て行かないクルトに業を煮やし、カヤがグラスを叩き付けて初めてクルトは扉を開けた。一瞬、振り返ってもエリクはまだ瞼を閉じたままだった。

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