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「カヤ、僕に剣を教えて欲しいんだ」
「剣を?」
村長が戻ったという連絡は、二日経った今日もまだ来ていなかった。
ここ最近、特に頻発している山賊の所為で足止めを食っているらしい。大体、最近は何処もそんな感じだ。山賊ではないのなら、盗賊もしくは兵士に、商人や貴族の隊列が襲われることも珍しくはない。だからこそ、ワルゼ騎士団の様な警備隊が事実存在しているのだ。
ライゼガングは相変わらず乾いた天候、晴れ渡る空。活気無い村は、洗濯を干す女か、たまに汚れた袋を下げて山へ向かう年寄りくらいしか見当たらない。細々掘り続けている鉱山の作業工は、鉱山の傍にある小さな掘立小屋で寝泊りをし、滅多に村には下りて来ないらしい。そう、今日擦れ違った近所の人が教えてくれた。
予定が後回しになったからと言って、他にするべき事があると思えばそういう訳でもなく、マルガとデリアとただ毎日遊んであげることくらいしかエルケにはやる事が無かった。
今日もまたいつも通りに絵本を読み、二人でやっと一息ついた時だ。エルケは意を決して、カヤに話を持ち出したのだ。宿屋の階段に腰掛け、散々悩んだ結果だった。
「ヤンかクルトにでも、教わればいいじゃないの。私よりもずっと上手に教えてくれるわよ」
汗ばんだ足を川へ洗いに行ってしまったマルガとデリアの小さな背中を見送っていたカヤがエルケの言葉を繰り返し、尤もな事を言った。
エルケは無言で首を振ると、絵本を持つカヤの細い手指を指差す。カヤはエルケ程に小さく、華奢な体――但し胸は別、と小さな手だ。
「ヤンやクルトみたいじゃなくて、カヤみたいな細い手でも無理なく扱える剣を教えて欲しいんだ。護身と、出来れば少ない力でも十分に急所を狙えるみたいな、女、の人でも大丈夫な剣を僕に教えて欲しいんだ」
ヤン達みたいに太い筋肉質な腕を持たないエルケは、二人にいくら教えて貰っても結局実戦には使えない。筋肉も腕の長さも違い過ぎる。そして二人の持っている剣は重く、長い。持ち上げるだけが精一杯で多分振り回す事も出来ないだろう。もっと手早く身を守るには、本来女であるエルケは女のカヤに教えて貰うのが一番だ。
何でも頼るだけじゃない、自分で出来る事は自分で取得しよう。それが二晩考え込んだエルケの結論だった。
今までは男と偽りながら、結局は女の様に何かして貰う事が当たり前になっていた。保護してくれる姉が居なくなったら、カヤやクルトやヤンに固執して引っ張って貰う気だった。
勿論、今までも何とかしなくちゃいけないという焦りはあった。それでも結局甘えて、何もせずに過ごしてきたのだ。そろそろ自分も考え直さないといけない。
許されるままにずっと甘えている、そんな訳にもいかない。マルガとデリアはエルケよりもっと幼いというのに、自分で母と別れる事を決断して二人が離れないようにその身を売れる人間を自ら探すことまでしていたというのに。
二人よりずっと年上であるエルケが、まさか何もしていないなんて恥ずかし過ぎる。
「私は自己流よ? 他の二人みたく、何年も誰かに師事した訳では無くて、知り合いに必要な分を叩きこんで貰っただけよ。クルトならきちんとした剣を教えてくれるわ、急がなくていいのならヤンでもいいじゃない」
「カヤの方がいいよ。自己流で、必要な分でいいんだ」
むしろその方が助かる。必要最小限、最適な時に最適な攻撃が出来るのならそれで十分だ。万が一の時に、剣を持ってうろたえる様な恥ずかしい真似だけしない位で良かった。はったりをもし張るにしても、剣を持った事があった方が真実味が増すだろう。
それに、今、クルトと顔を合わせるのは憚られた。
どうにもあの日から、普通の状態では顔を突き合わせる事が出来ないのだ。それは恐らくエルケの方だけで、意味無く避けられているクルトは日増しに苛立ちが募っている様だった。
クルトには申し訳ないと思いながら、自分ではどうする事も出来ない。可能な限り、一人での行動を制限してマルガやデリアと遊んだりするようにはしている。何か言いたげな視線には、気付かない振りをしていた。
きっと一時を過ぎ去ってしまえば、然程気にもならなくなるだろうと楽観視もしていた。突然、現れた感情はきっと突然消え去るだろう。多分、恐らく。そう、少し願っていた。
カヤは快く返事をするどころか、らしくなく少し気が引けているようだった。だから、もしかして無理強いさせてしまったかと心配になった。やはり、体が不自由な人間に物を教えるというのは、相手側にもそれなりに責任を感じさせるものなのかもしれない。
エルケは足元の小石をしゃがみ込んだまま、踵で潰しカヤの方を向く。
「ちょっと僕は足が悪いから、教えづらいとは思うんだけど……」
それを聞いて、カヤは肩を竦める。そんな事、何の問題も無いと言わんばかりだ。その事は別に大きな問題じゃないらしい。
「歩けない人でも身を守る術はあるわよ、大丈夫。でも、本当に私でいいの? 基本も何も、本当に無いのよ?」
「うん、カヤしか頼れないんだ。ね、引き受けてくれる?」
大きく溜息、大袈裟な仕草でカヤは、困った子ねぇ、と呟き、エルケの手の平に触れた。
結構な死線を潜り抜けて来た筈なのに、エルケの指や手の平は柔らかく白い。一緒に旅をしたここ数カ月、重いものも持たず激しい運動一つもしてこなかった。
まるでお姫様――実際には王子様だが、の様に大事にされ、それがこの始末だ。カヤの指は固く、働いている人間の手だった。自分のこの手が凄く恥ずかしい。
カヤの事も守れるとまで行かなくても、せめて横に立っていられる位でいたいよ。その権利くらいは自分の手で勝ち取りたいんだ。
「軽い剣がいるわね、それに手の甲に巻く布もこれじゃなくて、もっと滑らない物にしなくちゃ。この村で揃えられるかしら? 明日から少し忙しくなるわね」
「お金が掛かるよね、ごめん」
「気にしないで、エリクがそう決めたのならしっかり叩きこむわよ。勿論、遊ぶ暇も無い位。結構、優しそうに見えて厳しいのよ、私」
カヤは優しそうにも見えるけど、十分厳しいよ。昔、怒鳴られた事を思い出す。あの時は本当に怖かったんだ。
ありがとう、もう一度言った。優しくしてくれてありがとう。
でも剣を教わる理由は、カヤには言わなかったけれどまだあった。
もしビューローの人間かまだ顔も知らぬ蝶に出会った時に、今のエルケのままでは太刀打ちするどころかただ捕まるだけだろう。もし傍に三人がいたとしても、足を引っ張り命に係わる事態になるのかもしれない。それは避けたかった。そして、せめて一矢報いたかった。
出来る事は、まずそれだ。一歩一歩進むしかない。何もかもに覚悟の上で挑まなくちゃ駄目なんだ。
月が浮かぶ水鏡、体に纏わりつく水の絹。
体をうねらせば水は渦になって、指を潜らせれば流れるように水底へと導かれる。最初は固く閉じる瞼も慣れれば直ぐに水中で開いて、藍色の中に月灯りを反射して輝く金の砂を見る事が出来た。
ここ毎日、剣を振っている所為で腕がだるい。
手で水を掻くのを諦めて、足をばたつかせながら水へ沈みそうになる体を浮き上がらせた。仰け反る様に水面から顔を上げると、マルガがからからと笑っている。
「なかなか上がって来ないから、水の中で寝てると思ったよぅ」
「水の中で寝れる訳無いじゃない」
デリアが冷静にマルガへ突っ込んでいる。
剣を持ち始めたその日から既に、カヤの指導は最高潮だった。何度、小枝で手首を叩かれたか。正直、カヤの剣を教えた人間を怨みたい程だった。
一日目は、食事もせずにただ死んだように眠った。朝、遅くに目覚めるまで全く起きなかった。
二日目は、体中が痛くて立つ事も出来なかった。それでも変わらず、カヤはエルケに剣を持たせた。ありがたいけれど、辛かった。勿論、泉に行く気なんて起きなかった。
三日目、今日も朝からずっと剣を持った。
一日目から何かが変わったのか全く分からない。そう首を傾げるエルケに、そんな早くに結果が出るものでもないのよ、とカヤが笑った。
汗塗れ、埃塗れになったエルケは、疲れて悲鳴を上げる体でも今日こそ諦める事が出来なくて、二人を説得して泉に来ていた。
今日は二人とも服を着たままで、エルケが水浴びしているのを大人しく見ている。一人でこの場所に辿りつく事が出来ないエルケに二人の道案内は必須だったから、申し訳ないけれど同行して貰ったのだ。
一糸纏わぬ姿も最初こそは恥ずかしさもあったけれど、二度目の今日は気にならなくなっていた。傷だらけの体をマルガとデリアが怯える様子も見せなかったのが、逆に嬉しかったのもあった。
赤金の髪を肌に纏わりつかせて、水から上がると泉の端に腰掛ける。頬に張り付いた髪を指で梳いて、エルケはやっとの事で一息ついた。つい先程までベタついていた汗と埃もすっかり水に流れ、乾き始めている肌はさらさらしている。
上を向いて、大きく呼吸。夏の夜は夜風が温かく、水に濡れた肌に丁度いい。
「エリク、綺麗ね」
デリアがそんなエルケを見て言った。眩しそうに目を細めている。
綺麗じゃないよ、こんなに傷だらけだ。もしいつか誰かにこの身体を見せる時が来たら、きっとその人はこんな体を見て愛しいと想うどころか怯えるに違いない。背中の焼印、家畜の印。人としては最悪の証だ。
「ありがとう、デリアも可愛いよ」
それだけを答えたエルケに、デリアも微笑みを返した。
最初、泉に来た時に話した二人を纏めて買う、という話はあれから二人の口から一度も出ていなかった。
それでもエルケの前で二人仲良く話す姿をいつか引き裂いてしまうのは忍びなくて、どうにかならないのか、といつも考えてはいた。
エルケは二人に見えない様に、手の甲に巻いてあった細布を外して素早く新しい細布を巻き直した。
剣の柄を握る為に、ここ数日カヤの用意した細布を巻いている。でもそれを泉に入る時に濡らしてしまう訳にもいかず、最近は違う布に巻き直していた。先日、初めて泉に入った時、布が濡れている事をクルトに指摘されてから少し気にするようになったのだ。
折角の楽しみをそんな事で失ってたまるか、そう思ったから。
髪の水滴を頭を振って飛ばし、上半身だけに前を開けたシャツを羽織る。自分で腕を掴めば、今まで動かしていなかった部分を無理に動かしている所為か固くなっていた。少し熱も持っている。指と手の平は皮が破れ血が滲み、水が滲みて微かに痛みも感じた。
「マルガ、デリア。そろそろ、帰ろうか?」
エルケが下のズボンを履いて顔を上げると、マルガは少し離れた所に立っている。手を振っていた。
「ちょっと待ってぇ、マルガはお土産にこのお花を持って帰るの!」
川の岸辺に咲いているのは小さな黄色い花だ。点々と続く小さな花畑に見え隠れする小さな背中が見えて、エルケの横に立っていたデリアが大きく溜息を付いた。
「もう、本当にマルガは子供なんだから」
君も十分に子供だよ。エルケは横を向いて噴き出しそうになるのを耐える。デリアはそう怒った振りをしていても、やっぱりマルガと一緒に花を摘みたいのだ。ほら、指がうずうずしてるよ。
「いいよ。僕はここで待ってるから、デリアも行っておいでよ」
「行かないの、デリアは大人だから」
小さなレディーが憤慨している。エルケはそんな貴婦人の頭を撫でてあげたい衝動に駆られながら、首を傾げた。
「僕の部屋が殺風景だからお花が欲しいと思ってたんだよ。マルガの持てない量になるだろうから、デリアも手伝ってくれる? 本当は僕が行けたらいいんだけど、僕はほら」
腕を振り回して見せる。肩と腕に痛みが走って、顔を顰めた。
「ちょっと辛いし、頼むよ」
「もう、仕方がないわねぇ」
その言い方はカヤの真似だね? そっくりだよ。離れて行く小さな背中を見送って、エルケは片手を振った。
濡れた岩場から少し離れて、小高い川の縁に立つ。
泉に映った月灯りはここまで届かずに、そこは少し薄暗く気味が悪く感じた。さっきまで三人で居た時は感じなかった心細さが急に襲ってきて、エルケは思わず後ろを振り返る。いや、誰もいない。気の所為だ。
ここから見ると丁度マルガ達の姿が横から見える。しゃがむ、摘む。あ、また見つけた。ほら、摘んだ。上下しながら離れて行く二つの小さな頭はまるで野兎の様だ。
立ち上がって、岩場の縁に立った。奥に行ったら危ないのに、もう本当にそろそろ連れ戻しに行こうかな?
振り返って、何かにぶつかった。
顔を上げると、漆黒の闇。腕、足、肩、顔、頭まで全部闇に包まれている。ヤン? いや違う、ヤンはこんな乱暴に手首を掴んだりしない。クルト? 違うよ、クルトだっていつも優しかった。
じゃあ、これは誰?
口元を覆う手の平に思い切り噛み付いた。口の中いっぱいに広がる変な味、塩辛い様な変な味。ああ、これは少し舐めた事がある。ゼークトで逃げるエルケが足を滑らせて転んだ時に、膝一杯に付いていたもの。
赤いもの、赤く流れ出るもの。瞬間、肩を掴まれて奥歯を噛んだ。殴られる、そう思った。でも痛みはやって来ない。でも腕を掴まれたままだ、引き摺って行かれる。
「嫌、だよ」
大声で叫んで誰か呼ぼうとして、止めた。もしマルガとデリアが巻き込まれたら? あんな小さな体、あっという間に殺されてしまう。上手く逃げ出さなきゃ、逃げ場は何処だ? 一つしかない。
力任せに思い切り腕を振り回した。もう恰好も何もなく、必死だった。
腕を痛い程掴んでいた指が緩んだ時に、背中側へ思い切り踵を蹴った。
宙に浮く体、結構ここって高かったんだな。なんて、腕で顔を庇って後は水飛沫。
衝撃に息を吐いて、思い切り飲み込んだ水に呼吸を失った。だから意識を保っている事なんて、出来なかった。




