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ライゼガングの村長に会いたいのだと面会を申し出ても、今は長期的に留守をしているという返事だった。数日中に戻ってくる予定だから、待って欲しい。と村役場の疲れた顔の男が紙を手にしながら答える。
「数日中っていつなのよ」
カヤははっきり返事をしない男を見て箒を振り回したい衝動に駆られたらしいけど、何とか腕を掴んで押さえておいた。
だって、流浪癖のある村長なのかもしれないじゃないか。流浪癖のある総長もいる位だから、村長だっていても仕方ないよ。
「俺は流浪じゃないんだけどなぁ」
横でクルトが文句を言っている。これだけワルゼ城を留守していたら、十分流浪か放浪だよ。肩を竦めた。
昨日の夜、結局クルトは朝まで話を聞いてくれた。何も茶化す事も無く、ただ静かにただ黙り込んで。
最初は扉の前でしゃがみ込んで話をしていても、太腿が疲れてくるとエルケはクルトの勧めるままに椅子へ腰かけた。
椅子で腰掛けて背中が疲れてくると、クルトの勧めるままにベッドへ座った。膝を丸めて、一応クルトに何かされないか警戒しながらだったけれど、クルトは窓際から動かずに、何を今更、と笑った。
少しずつ考えながらだったから余り凄い量の内容を話せたとは思えないけれど、エルケは少しだけ満足していた。クルトと話すだけで、随分と自分の中が整理出来た様な気がした。但し、気持ちの面は別として。
先立つものは金と権力。手っ取り早く人身売買を取り締まる術は無い。それがクルトの見解だ。思った通りに逃げ場も救いも無い答えだった。クルト自身が、少し現実に背を向けている気もした。
ヨープの広めた教会に隣接する修道院と孤児院は、たび重なる戦と新興宗教の発展によって統率力を失っているらしい。結局は小さな修道院と小さな孤児院をあちこちに沢山作ったのが問題だった。そう、クルトは言う。
寄付で存在している修道院と孤児院を維持していくには、それを抱く所領の協力が不可欠だ。でも、自分の所領の維持に精一杯になると、所領はここぞとばかりに慈善事業から手を離す。エーゲルがいい例らしい。
神父である修道士はそのまま教会の維持に当たった。何故なら慈善事業から手を引いても、教会は絶対に無くせないからだ。農民から宗教を奪う訳にはいかない。それに教会を無くしてしまえば、結局は慈善事業まで手を引いてしまった事が白の都市ヨープに発覚してしまう。
可能な限り、少数の人材を残す。それで残されたのが修道士だけだ。
でも、孤児院と修道院から追い出された修道女と子供達は路頭に迷う。そこに出てくるのが、蝶だ。纏めて皆を上手く口で言い包め、移動させる。男の子供は鉱山へ、新興の鉱山は例え小さくとも手がいくらでも欲しいのだ。
女の子供は労働としては使えないから、邸に売られた。そういう趣味の貴族はいくらでもいるし、需要は絶えないらしい。最悪だ。修道女も同じだ。下女や奴隷として売り飛ばされた。そうやって幾つもの修道院と孤児院が闇に消えた。
お前も一応被害者だから言っておくけれど。そう、クルトは前置きした上で口を開いた。
「蝶を取り締まるのは不可能だ。時代の闇がそれを求める限り、全部の羽を千切る事は出来ないよ」
エルケは、自分の村を滅ぼすきっかけになった蝶を殺したい程憎んでいる。あれだけ殺して奪ってもまだ諦めずに追って来ているのであれば、早い内にゼークトの手前でまた鉢合わせをするだろう。覚悟もしていた。
「ゼークトの仇打ちは諦めた方がいい」
膝に頭を押し付けて、首を振った。
ごめん、その時が来たら絶対に迷惑はかけないから。一人で行くから、その時は見逃して欲しいんだ。もしそれが原因でゼークトの姉さまの元に辿り付けなくなっても文句は言わないよ。
その件に関してだけ、クルトからの返事は無かった。
それからも政治経済に纏わる難しい話は続き、そこでクルトはやっぱり貴族なのだと思い知らされた。地図の上で動く、小さな駒。伸びる手はクルト達貴族で、駒はエルケ達だ。
駒が倒れても地図の街が消えても、伸びた手は痛くも無いし苦しくも無い。だから自分の腰掛ける場所だけ大切にして、残りを見ない振りをする。
クルト、その駒は僕達だ。見ない振りをしてないで守ってよ。クルトはワルゼ騎士団という立派な剣と楯を持っているじゃないか。ゼークトみたいに誰からも見向きされず、消えて行くのを見ているだけなんて悲しい事をしないでよ。そう思っても口には出せずに、膝の間の頭の中で考えていた。
クルトに出来る事がそれなのなら、自分に出来る事は何なのだろう。大きくは出来ないけれど、小さくてもいいから自分の出来る事が欲しい。
そう考えながら、その夜はクルトの部屋で眠っていた。気付くと朝でクルトは部屋にいなく、横たえられていたエルケの体には上掛けが掛かっていた。胸が苦しいよ、泣きたくなった。
「エリク、帰ってきた!」
「遊ぼう!」
宿屋の前で、マルガとデリアが土にすっかり腰を落ち付けているのが見えた。戻ってきた姿を見て、二人は飛び上がる。
マルガがエルケの腕に、デリアがカヤの腕に同時にぶら下がった。二人の手には古ぼけた絵本が握られている。余程古いものなのか、表紙の端が破れ擦り切れている。表紙には魔法使いという文字が見えた。
どうやら先日の月夜の魔法の事を考えて持って来たらしい。泉にまた行きたいなぁ、からりと晴れ過ぎている空を見てそう思う。
中央広場も路地もこんな天気だというのにやっぱり閑散としていた。村長の家に歩いて向かって、結局擦れ違った村人は全部で八人。市街地に見える看板がある店の殆どが閉まっている。
ライゼガングは繁栄時に人口三百人を越えた小都市だった。今はその人口の半分も残っていない。既に百人を下回っているらしい。役場の男が教えてくれた。百人を下回るって結局は何人なのよ、とカヤが凄んでも実際しっかりとした戸籍が無いから分からないらしい。
そうなれば子供が突然いなくなっても、把握する術を持たない。そういうことだ。
子供二人に纏わりつかれたエルケとカヤを横目にクルトは、寝る、と言い残し宿屋に入っていった。エルケはその背中を見て小さい声で、ごめん、と声を掛けた。ベッドを結局奪ってしまった。昨夜、クルトは眠れなかったんだろう。返事はない、背中越しにクルトが片手を上げた。
「カヤ、絵本読んで」
「いいわよぅ」
横に腰掛けているデリアを見習って、膝にマルガを乗せカヤが宿屋の前に腰掛けた。エルケは宿屋の壁に背を預けて、カヤの絵本に見入っているマルガとデリアを見た。
ああ、いいな。こういう風景。小さな頃はずっと姉の膝に乗ってエルケも本を読んで貰ったり、歌を歌ったりした。
何も怖い事も悲しい事も無かった。あの頃のゼークト。皆が笑って過ごしていた。
何も裕福ではなかったけれど食べ物も困らない程度あったし、贅沢では無かったけれど粗末な服もあった。毎日朝早く起きて海に潜って、職人と話に工房へ行って、手伝いをして過ごした。
もし何かをくれるというのならあの時に戻して欲しい。でも戻すのが無理なのなら、せめてあの毎日に似た場所が欲しい。
ついこの前までは全てを終える事を望んでいた筈なのに、今はこの旅みたいな日々が長く続いて欲しいと願ってもいた。
何もなく守られた柵の中で沢山の子供達と質素でも幸せな毎日を送るのだ。その場所にはカヤとヤンとクルトがいたらいい。
絶対に無理だと知っているし、その時は来ないのを知っているからそれは夢なのだけど。
「魔法使いは泣きました、魔法使いもまたお姫様を愛していたのです」
「ええー! そうなんだ、悪い事ばかりするから嫌いなんだと思っていたよぅ!」
カヤの読み上げた声にマルガの無邪気な声が被さった。
「マルガ、うるさいよ。カヤ、先読んで」
「はいはい、ええとね」
カヤが、乗り上がって来るマルガとデリアの向こう側に隠れた。カヤは体が小さいから二人が傍にいると、直ぐに見えなくなってしまう。でも子供達に囲まれているカヤは具合も良さそうで、安心して見ている事が出来た。
エルケが三人から目を離し笑うと、ふとこちらを向いている視線に気付いた。その姿は宿屋の裏庭にいる。
表情無く、洗濯物の籠を持ったままでこちらを見ている。寂しそうではない、悲しそうでもない。ただそこにいるマルガとデリアの姿を見ていた。宿屋の女将だ。
強い風が吹いても、洗濯物がその風に翻っても動かずにただ見ていた。
エルケは三人を置いて、そんな女将の傍に歩み寄る。息をしているのか心配になった。それ程に見開いたまま二人を見ていた、焼き付けるように。
「あの」
声に驚いた様だった。だって完全に傍に行くまで女将は微動だにしなかった。食堂で見る時の快活さは何処になりを潜めているのか、凄くやつれて見える。
籠が女将の手を離れて土の上に転がった。乾いた土の上でも濡れた洗濯物は直ぐに汚れ塗れになって、何枚か飛んで行く。まるで蝶の羽の様に翻った。
「ごめんなさい、僕!」
「いいんです、大丈夫ですから!」
そう言いながら、背中を向けて女将はエルケから離れて行く。その背中を追う事は出来なかった。本当は何か聞きたいと思ったのに。
あんな空虚な表情をしているのに、それなのに子供を手放さないといけないの? 愛しているのはきっと真実なのに、それでも生きる為には子供さえも売らなくちゃいけないの?
離れて行く背中はどんどんと小さくなって、いくつか並んだ似たような家の壁向こうに消えた。伸ばした手は行く場所を失って腰の横に落ちる。残された失望感が辛い。
「どうにか、出来ると思っている?」
開いた窓向こうで、クルトが肘を付いてこっちを覗き込んでいる。
なんだ、二階に行ったのかと思っていたのに食堂のテーブルにいたんだね。意味ありげな含み笑いをしながらこっちを向いているクルトの方は向かずに、ただ首を振った。
「出来る、とは思っていないよ」
だって、それじゃ自分の力を過信し過ぎる。ヤンだって言ってた。助けるのは、ただの綺麗事でつまりは自己満足なんだ。
何か出来る事が目の前に開けている様な気はする。でも、足元はまだ暗闇で自分の事だけで精一杯だった。後ろを振り返ると、まだカヤは絵本を読んでいる。マルガとデリアも暗い顔をしないで笑っていた。
子供の声が響くのはこの一角だけだ。廃墟の様に沈む村が辛かった。
「エリク」
名前を呼ばれても振り向かない。カヤ達の方を向いたまま、返事をした。
「何?」
「こっち向いてよ、呼んでるんだけど」
我儘を装っても無駄だよ、そっちを向きたくないんだ。
上がった腕で顔を隠した。耳までが赤くなってるんだ、熱い。今の内だ、クルトに背中を向けてカヤの方に行ってしまおうか?
こっちを向いている視線を感じて、耳の中までが一気に熱くなった。心臓が飛び出しそうな程に鳴り響いている。胸の外側から実は見えているんじゃないかって程だ。
昨日、暗闇の中で何も気にせず話していたのが嘘のようだった。今までこんな視線を間近で受け止めて、良く何も気にせずに居られた物だ。
クルトの指も手も声も、まるで女の子に対する扱いじゃないか! 男のつもりでいる筈なのに、全然気にしている様子も無い。 おかしいよ、心の中で叫んだ。
でも貴族って、そういう事もあるのかもしれない。見知らぬ世界だし、世界は広いんだし。でも、それでもよりに寄って。ああ、もう逃げてしまいたい。
エルケは食堂に背を向けて、後退りする。一歩、足を引き摺って二歩。本当に今更だけど、自覚すると視線に耐えられなかった。
「僕、ちょっと、カヤに話があるからっ!」
耳を手の平で押えて、直ぐに背を向ける。何か言われたらまた立ち止ってしまいそうで、意味無く歌いながらカヤの所まで逃げた。
呆れてるんだろうな、クルト。そう思うと、より体中が熱くなった。




