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部屋に戻ってからは眠れず、ただ考え続けていた。
ゼークトの村が滅ぼされた時、ただ悲しくて皆が殺されて未来も無くなった事が憎くて仕方なかった。姉さまを追いかけて、戦場を走りながらずっと悲しくて置いて行かれたくなくて泣きながら走った。
今でも思い出す赤赤赤赤赤赤赤赤赤。血の赤、陽の赤、火の赤。手に染み付いた赤。沢山の赤。
エーゲルの兵士に掴まって、そのまま城に引き摺って行かれた。職人は次々と激しい拷問で殺されていったけれど、エルケだけは拷問されても生き残った。いつか逃げ出そうと、牢で這いながらその機会をいつも窺っていた。いつかゼークトに帰ろうと思ったからだ。あの時、別れた姉さまが村で待っている。
横を向くと、抜け出したのを何も知らずに眠るカヤの姿。いつかこの優しい人とも別れなくちゃいけないと思うと切なくて悲しかった。上下する呼吸、たまに唇を動かす姿。
貰うだけじゃなくて、いつか何かお返しがしたい。何かはまだ分からないけど。
「……僕に何が出来るんだろう?」
何かが出来るなんて、あんまり考えた事も無かった。
自分の手は小さくて、体は弱くて、権力も金も何も持っていないから、やっぱり何も出来ないのだとそう思っていた。
ゼークトの時は見てるだけで何も出来なかった。エーゲルで偽金貨の話を聞いた時も、結局一人で何かをする事なんて出来なくてやっぱりはっきりしないままで見ない振りをした。
あの時の事が起きてもやっぱり今も何も出来るとは思えないけど、今回もまた見ない様にしていいんだろうか? マルガとデリアだけしか助けないのは自己満足なのかな? 他の沢山の子供もいるのに、今だけ部分的に助けたとしても、何の意味にもならないのかな?
寝がえりを打っても、泉で冷えた筈の体はどうしてか火照って眠る事が出来なかった。もう間もなく二時間もしたら空が白んでくるというのに。
体を起こして窓の外を覗いても、人影どころか犬の影すらも見えなかった。月ももう白む寸前の空でその姿を薄めていて、ただ空も静寂だ。
ベッド横の小さなテーブルには、先程まで濡れた髪を括っていた紐が置いてある。エルケはその紐を手に取ろうと指を伸ばして、結局それを持たないままでベッドから起きあがった。
つい先程、マルガ達と出掛けた時の様に足音を忍ばせて扉へ向かうと、一度後ろを振り返る。カヤはベッドで静かに眠っている。ごめんね、また少し抜け出すよ。心の中で声をかけた。
クルトの部屋は横にある。多分、いや絶対に起きていないとは思う、この時間だから。もし一度ノックをして返事が無い様だったら、待たずにそれこそもう外へは出ないで眠ろうと思っていた。
混乱する頭は一人では収拾がつかなくて、どうにもならなかった。
クルトは貴族で、騎士団の総長だ。支配階級の彼なら、何もわからないエルケよりももっと建設的な選択肢が出る気がした。そうだ、結局は人頼みだ。
それでも混乱する自分の頭の中で考えているよりも良いに決まってる。だってクルトだって、見ててくれると言っていたし。
扉の前に立つと、拳を握ってやっぱり少し躊躇した。最近のクルトはやっぱりおかしくて、少し怖い。だからちょっと怖気づいた。もし、あの視線に射抜かれたら? 考えるだけで何とも言えない気持ちになって、俯く。
でも、あの無邪気な子供達を少しでも楽に出来ないか。それをする為には、エルケだけの知恵ではどうにもならない。ヤンがいてくれたらな、そう思うと折角近くにいるクルトに手の平を返すようで申し訳なくなった。
強く目を閉じて、人差し指の骨で小さく遠慮がちにノックをした。開けて欲しいのか、それとも閉まったままでいて欲しいのか。本当はどっちなのか分からない。
だから戻るのは沈黙だった時に実は何よりも凄く安堵して、エルケはなんて大それた事をしたんだと後悔した。いくら男を見せ掛けていても、こんな深夜に男の人の部屋を訪れるなんて一体何を考えているんだろう。
安堵と混ざり合う落胆の溜息を付いて、背を向ける。
扉の開いた音。同時に部屋の中に引き戻された。軽く体は腕に絡まれると浮いて、廊下と部屋を遮断した閉じた扉の脇に落ちる。被さる影と闇に息を飲んだ。
起きていたんだ。驚きと同時に、クルトに申し訳ないけれど少し恐怖も感じた。
ああ、やっぱり性急だった。そして今更、思い出したのだ。先日聞きたい事をエルケから聞き出す為にクルトがした事を、本当に今更だけど。やっぱり明日にしたら良かったんだ。何も今じゃなくても良かったのに。
部屋の中には灯りも無く、カーテンも閉まっている。ただ傍にいる事が呼吸だけで解って、エルケは扉のノブに指をそろそろと伸ばした。
「ひ」
ノブに乗った指ごとクルトに握られて、エルケは奇妙な悲鳴を上げた。近寄らないでよ、そう言えばいいのに口が強張った様に開かない。指はもう固まった様に動かなかった。
髪を括らずに来た所為で、俯くと胸の前まで髪の毛が落ちて来る。丁度クルトの口もとが当たるエルケの首筋は、その所為で剥き出しになっていた。息が首筋に当たっている。もうおかしくなりそうだ。
「あの、遅くにごめんね」
やっと開いた唇から蚊の鳴く様な小さな声で言うと、いいよ、と返事が戻ってきた。
声を出す度に息が首に触れる。思わずノブを掴む指に力を入れれば、その上に被さったクルトの指にも同じ様に力が入った。熱い指、熱い息。
どうしよう、ここで振り払って逃げるのも変な感じだった。だってこんな時間にクルトを起こしたのは自分の方だ。話をしなくては、それだけをただ考えた。そうしないと、もう逃げてしまいそうだった。
「マルガとデリアの事を少し、相談したくて」
こんな夜に? エルケが外に出ていた事はクルトは知らない。どうしてこんな時間にわざわざ、と不審に思わないだろうか? エルケは開いている手を目の前で振った、ただの言い訳だ。
「眠れなかったんだ、ちょっと考え過ぎて」
「そう」
クルトは苦しい言い訳に不信感を抱かなかったみたいだった。
でもエルケの方は動揺して何を話しているのか、何を話したいのか、頭の中で整理出来なくなっていた。クルトは今、何を考えてる? ほら、指が震えてくる。後ろから唇が耳に触れて、肩を竦ませた。
もう、駄目だ。
「近いよ」
吐息交じりの悲鳴の様な泣き声の様な声になった。
肩を怒らせてそれだけをやっと言うと、掴まれた指に力を入れる。おかしいよ、クルト。こんなに近付いたら、どうしていいか分からなくなる。
逃げようとしているのが分かったのか、指が少し離れた。一瞬の隙を付いて、体を翻すと扉に背を向ける。クルトの体が正面にやってきた。ねぇ、クルト、話をしよう。
「相談があるんだ、聞いてくれる?」
聞いてよ、クルト。ここに来たのは触れて欲しい訳じゃない。助けたいんだ、僕だけじゃどうにもならないんだよ。クルトなら、もしかしてクルトなら何か出来るのかな? 僕が何をしたらいいのか、教えてくれるのかな?
慣れた闇の中でやっとクルトの顔を見る事が出来た。置いてけぼりをされた子供の様な顔をしている。
見上げると、いつもよりは随分と乱れた格好をしていた。何処か混み合った所を抜けて来たような、髪も乱れて服も随分と汚れている。
クルトの指が伸びて頬に触れた。もうその手は食わない、その手を上から掴んだ。
「助けたいんだ、僕だけじゃどうにもならないんだ。クルト、手伝ってくれる?」
ヤンでもカヤでも駄目なんだよ。ワルゼ騎士団の総長という立場と、貴族の肩書きを持っているクルトなら何か分かるでしょ?
引いた線を都合よく利用する。クルトは皆とは違う、何か出来る立場なんだよ。返事のないクルトの顔を、下から覗き込んだ。落ちる影。
言葉は止まらない。
「今だけの逃げだっていうのも、分かるよ。一人二人助けたってどうにもならないってこと、僕だって解るよ」
寄って来る顔を片手で押えて、だから聞いてって、文句を言った。
手の平向こうの顔がくつくつと笑っている。そのクルトの髪に付いた大きな埃を指先で取った。葉、なのかな。大して気にせずに床に捨てた。
顔を押さえた布の巻いてある手の平向こうで、いつもの表情を浮かべたクルトが溜息を付いた。手首を掴まれて顔の前から避けられる。手の甲に唇を付けた、口端が笑う。
「濡れてる」
ああ、そう言えばさっき泉に入ったままだった。慌ててクルトの指から振り払うと、そのまま背中に手を隠した。言い訳、上手い言い訳。エルケは横の部屋を指差した。
「さっき、咽喉が渇いて水を溢したんだ」
「ふぅん」
意味ありげにクルトは頷くと、やっと体を離した。
そのまま窓際に行くとカーテンを勢い良く開く。空が白む寸前の月灯りが漏れ入ってきた。クルトの金色の髪を照らす。
彼は腕を組んだ。エルケはその場から動かずに、立ち竦んだままだ。どうしてか、動けなかった。
「聞くよ?」
聞かせてよ、彼は嬉しそうに言った。エルケは、その表情に見惚れている事に気が付いた。思わず目を逸らすと、心臓が早鐘を打っている。やっぱり髪を括ってきたら良かった。今のこの髪では今の自分ではまるで女だ、エルケは眉間に皺を寄せた。
何をしたらいい? 何をしたら一番いいか、解らないままでエルケは立ち竦んだまま途方に暮れた。




