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食事は余り豪勢とは言えないけれど、十分な量だった。豆――昼の内にデリアとマルガが剥いたもの、のスープに芋とローズマリーのソテー。平たいパンに、レバーのペースト。
少し薄暗い食堂の向こう側から顔を出したマルガを食事に誘ったら、嬉しそうに横に座ってくれた。だから、パンを半分にして二人で分けあって食べた。美味しいね、と言ったら恥ずかしそうにマルガはうんと頷いた。
そんなエルケを見て「まるで兄妹みたいね」とカヤが嬉しそうに笑う。久し振りに心から美味しい食事だった。
部屋の違うクルトと別れて、カヤとの寝室に入るともう既にカヤは眠る用意を済ませていた。いつもは括っている髪を下ろして肩に下ろし、服は既に寝着に着替えている。エルケは革靴を脱いで、そのままベッドに横になった。
「着替えないの?」
不思議そうにカヤが聞いてくる。ベッドの横には綺麗な寝着も置いてある。でもいつもは馬車の荷台の中でこのままで寝ているし、今日はカヤが眠ってしまってから少しここを抜けだそうと思っていた。
「うん。今日は着替えるの面倒だし、いいんだ」
シャツの首元を緩めて、腰の紐も少し緩める。今日はお腹一杯食べたから、苦しい程だ。
髪を触ると昼の土埃の所為でざらついている。手足を思い切りベッドの上に伸ばしたら、大きな欠伸が出てきた。なんか、このまま目を瞑ったら眠ってしまいそうだ。思い切って腕を枕にするとカヤの方を向いた。
カヤは長い髪を綺麗にブラシで梳かしている。綺麗なカヤ、可愛いカヤ。体はエルケみたくごつごつしていないし、柔らかくていい匂いがする。きっと男の人ならこんな女の人が好きなんだろうな。
エルケは自分の腕と体を見た。まるで板と棒みたいだ。一気に落ち込んだ。
「何? エリクったらそんなに見たら襲うわよ」
そんな事を言っても、絶対に何もしない事を知ってるよ。昔はそのカヤの言動には確かに吃驚したけれど、今はカヤのそれが少し照れ隠しなのを知っている。付き合いが長くなった勘だよ。そう言える事が嬉しい。
エルケは肩を竦めて笑った。膝を丸めて小さくなる。
「カヤは可愛いなぁ、って思ってたんだよ」
「なぁに? それ」
「僕は、骨だけだし」
「エリクは男の子なら普通の事よ」
違うんだよ、僕は女の子だよ。
でも、もしかしてカヤになら本当の事を話してもいいのかもしれないと思った。きっとカヤなら秘密を守ってくれるし、女である事を隠さなくてはいけない理由も分かってくれるような気がした。
烙印の他に背中に残る大きな焼印。例え逃げ回っても、生涯いつまでもビューローの所有物であると刻みつけられた証。これがある限り、絶対にビューローの兵士は追いかけてくるのだ。きっと諦める事なんて出来ないのだろう、彼らは意地でも。
カヤが欠伸をしながら、エルケの方を向いて転がった。柔らかい頬と胸がふわりと布団の上に落ちる。同じ格好をして、エルケの方へ手を伸ばした。髪に埃が付いていたらしい。白い肌の腕がエルケの目の前から離れて行く。
「カヤ、具合は大丈夫?」
旅を続ける事で太り少し肉付きも良くなったエルケに比べ、カヤは少し痩せた。
今日の顔色は本当にいい方だ。頬に赤味がある。精神的なものなのか、何が引き金で悪くなるのかエルケには見当もつかないのがもどかしかった。
でも、クルトにはきっとそれが分かる。少し燻る感情がクルトに向けてのものなのか、カヤに向けてのものなのかが分からない。それでも、カヤはいつも笑って欲しいと心から思っている。
「ごめんね、心配かけてるのね」
「大事にしてね。心配してるんだよ、僕も。クルトも」
エルケがわざわざ言わなくとも、クルトが心配しているのはカヤも分かるだろう。でも、カヤは肩を竦めて笑う。瞳に少し暗い影が映った。
「クルトは、どうかしらね」
カヤらしくない、少し含みのある言い方だった。
あんなに心配そうな顔をしてカヤの方を見ているのに、カヤがそんな事を言うのが少し意外で思わずエルケは体を起こしてカヤのベッドに乗り出した。
「心配してるよ、だっていつもカヤの方を見ているし。それに今日だってきっと宿屋が取れて安心してるのはクルトなんだよ」
最近、カヤが寝込む度に溜息をつきながら馬車に乗り込んで行くのはいつもの事だ。いつも通りの文句を言いながら、クルトはいつもカヤの睡眠を気にしている。気付くと何処からか持って来た果物を手渡すのは、エルケだけじゃなくてカヤにも食べさせたいからだと思っていた。
常に傍にいる訳では無いけれど、クルトは凄くカヤを大事に思っている。勿論、エルケもそうだけどエルケなんかよりもずっと違う所で。
必死に何故かクルトの弁明をしていたエルケの形相を見て、カヤが噴き出した。
「驚いた。随分とクルトに懐いたのね」
猫じゃあるまいし。しかも懐いてなんかいない。最近は怖い程に近付いて来て、少し心配な位なんだよ。そう言ってやりたかったけれど我慢した。
エルケはすごすごと自分のベッドに戻り、また腕を枕にしてカヤの方を向く。まだカヤは笑っていた、余程おかしいらしい。
不貞腐れて唇を突き出した。腕に顔を埋めるとやっとカヤの笑い声が止まる。
「クルトのは、私を心配してるんじゃなくて罪滅ぼしなのよ」
「罪、滅ぼし?」
「ええ、しかも自分のではない罪のね」
カヤに深く追求するのは気が咎めた。
顔を見ると少し顔色が悪くなっている。いつもの具合が悪い時の様な感じがして、エルケは思わず違う話題を探した。カヤとの共通な話題で、クルト以外の事。たった一人しか思い浮かばなかった。
「ヤンは元気かなぁ」
「何? 突然」
突然だとは自分でも十分理解している。でもそれ以外ならルッツしか思い浮かばなかったし、よりも寄って主人を差し置いて馬の方を心配するのはヤンに失礼な気がして気が引けた。
この旅にまたヤンが合流したら、元通りに話せるようになるかな。何も気にせずに今まで通りに離し掛けても大丈夫なのかな。何とか合流するまで自分の心の中を整理しなくちゃいけない。
「ヤンが突然、いなくなったから」
「寂しい?」
カヤが微笑みながら聞いて来た。寂しい? 寂しいというよりも、押し寄せる気持ちの変化に戸惑って一つ一つがおざなりなっている感じだ。ヤンへもクルトへも突然何かが切り替わってなにも判断がつかない。
答えはカヤの顔を見ない様に返した。分からないよ。置いて行かれるのは寂しいけど、近くにいるとどうしたらいいのか分からなくなるんだ。
「カヤがいるから寂しくは無いよ」
「まぁ、嬉しい」
小さな拍手が戻って来て、エルケには何と無くこれが正解の返事に思えた。カヤは腕の枕を崩し、天井を仰ぐ。寝着の袖から出る天に伸びる白い腕、両手の指が絡んで上に強く持ち上がった。
カヤは小さく溜息を付く。視線はエルケの方を向かなかった。
「エリク、少し昔話をしましょうか?」
カヤは返事を待たずに訥々と話し出した。
王様と女の子がいました。
女の子はお城の下働きをしていました。美しい王様やお姫様とは全く違う、汚く暗い場所を掃除する仕事でした。
王様は大きな宮殿に住んでいました。いつも綺麗な石や服に包まれて何不自由ない生活をしていました。
女の子は、毎日早くから毎日遅くまでただひたすらに働き続けていました。
お城では舞踏会もありましたが、勿論見る事は許されませんでした。女の子と王様の住む場所は違ったのです。
綺麗なドレスを着て綺麗な首飾りを付けて、お姫様は歩いていました。王様はその手を引いて大広間へと消えて行きました。王様にはお妃様がいたのです。
女の子は大広間に入る事も許されませんでした。女の子と王様は口をきく事も許されていなかったのです。
でもある日、女の子は王様に出会いました。月の輝く夜でした。
王様と女の子は許されない恋に落ちました。勿論、誰にも話せない恋でした。勿論、誰にも許されない恋でした。それでも分かっていて恋に落ちました。
何もかも隠していた恋はいつしか明かされる様になりました。怒ったお妃様によって女の子は宮殿を追い出され、王様は嘆きました。
王様は女の子を深く愛していました。ずっとそばに置きたいと望んでいました。悲しむ女の子を捕えると籠に閉じ込めて、いつしか王様は籠に閉じ籠る様になりました。
籠に閉じ籠る王様を見て、女の子はここから出して欲しいと願いました。王様は断わりました。女の子が何処かに飛び去ってしまうのだと思ったのです。
籠から出ない王様を見て、女の子は共に外へ出て欲しいと願いました。王様は悩みました。外に出すと女の子は王様の傍には留まらず、何処へと飛び去ってしまいます。それでも傍にいる事は出来ないのだと女の子は泣きました。その涙は美しい石になりました。
女の子は美しい涙を流して幾度も泣きました。女の子が近くにいると王様は壊れてしまうのに何も出来ないのです。
泣く女の子を見て、王様は籠と女の子を繋げる美しい鎖を作りました。女の子の涙から出来た美しい鎖でした。女の子を籠から出しても、いつか自分の元へと戻って来るようにそれは重く苦しい手枷と鎖を女の子に付けたのです。
女の子は王様の元を泣きながら離れました、女の子は王様をまだ愛していたのです。
王様も離れて行く女の子の背中を見て泣きました。鎖を握ったまま泣きました。
「それで終りなの?」
「終りよ、それでおしまい」
随分と救いの無い昔話だ。それでは少女は生涯王様に繋がれたままで、王様は生涯少女に繋がれた鎖を手放せない。エルケは変わらず微笑んでいるカヤを見詰めた。
カヤは少し眠そうに大きな欠伸をすると、自分の細い手首を掴む。まるで自分の手首に枷と鎖が見えるように。
「王様と女の子はもう会えないの?」
「会わないわね」
寂しい話だ。そしてエルケの良く知るおとぎ話に少し似ていた。きっとその涙は美しく赤い色をしていたのだろうか。
激しい恋の後、永遠に別れた苦しみはエルケには解らない。愛してはいけない人をそれでも愛してしまう気持ちも解らなかった。でも、もしかしたら姉さまなら少女の気持ちが分かるのかもしれない。
どうにもならない恋の激しさはきっと渦の様に心を飲み込んで行くんだろう。抗ってもきっとそれはどうにもならなくて、泣きながらでも高ぶる気持ちというものがあるんだろう。
「そんな気持ちはよく解らないよ」
少女の気持ちも人魚の気持ちも同じように悲しくて切ないとは思った。姉の恋も報われない意味では悲しくて切ないと思う。それでも、それは漠然としたものでまだほんの少ししか解らない。
「エリクはまだ恋をした事が無いのね」
なら、仕方ないのよ。そうカヤが言った。そして、ベッドの上で丸まって頭を抱えているエルケの頭をゆっくりと撫でた。カヤはエルケの髪を撫でながら、眠そうな顔をしている。
「カヤ、もう寝た方がいいよ」
怖い夢を見ない様にゆっくり寝た方がいいよ。エルケは心の中でそう言って、カヤの眠そうな顔を見詰めた。
「エリク、貴方にもきっと解るわ」
そう言って、カヤは瞼を閉じた。エルケのベッドに伸びた腕がそのまま下にぱたりと力無く落ちる。余程疲れていたらしい。
その腕を静かに持ってカヤのベッドに戻した。柔らかい体に薄い布団を掛けて、顔を見下ろす。規則的な寝息、凄く気持ちよさそうに眠っている。良かった、この調子なら怖い夢はきっと見ないだろう。
エルケは足をベッドの下に下ろし、革靴の紐を縛った。緩んでいた首元を閉めて、足を出来るだけ引き摺らない様にして部屋を出て扉を閉めた。
灯りも何もない廊下は暗く何も見えない。クルトが眠っている筈の扉は固く閉められて、耳を澄ませても物音一つしなかった。安堵して静かに通り過ぎる。クルトに見つかったら何を言われるか分かったものじゃない。
階段さえ下りてしまえば、後は簡単だった。宿屋の玄関には鍵も無くあっさりと開いた。
静かに閉めた扉を背に、エルケが空を見上げると一面の星空と大きな月。月は眩しい程で、まるで陽の光の様に全てに影を作っていた。もし大きな街であれば、今の時間なら酒場位は開いているから人通りはまだある筈だ。
時間も少し遅く田舎の所為でもあるかもしれないけれど、村に人影は全く無く灯りの付いている家すらなかった。
先程の食事の時に、マルガと約束をした。
時間が遅いけれど大丈夫? と聞いたエルケにマルガは頷いた。いつもエリアと二人で夜に家を抜け出しているらしい。約束ね、絶対に誰にも言わないでね。そうマルガは念を押した。余程パンを一緒に食べたのが嬉しかったのか、エルケの腕から離れなかった。
大きな月が追って来る。エルケは後ろを見ない様にして、中央広場に駆け出した。




