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涙と蝶  作者:
1章 Mai 緑の都市
3/73

 大陸は今病んでいた。

 疲弊した王都から主権を奪還すべく、たび重なる血を血で拭う戦争があちこちで起きている。

 幾つもの失われた都市や街。

 焼かれた田畑。

 失われた家族。

 街道を通る軍列は、まるで一人一人が領主の如く、悠々と胸を張り威張りながら威嚇して戦場に赴くのだ。

 何処までも澄み通る空と青々とした山々は斧や棍棒それに槍を持つ軍隊を飲み込み、次は何処の農村を焼き払い殺し奪おうというのか。

 誰しもが変わらない毎日を望み過ごしながら、誰しもがその小競り合いに巻き込まれないようにと礼拝堂で祈っていた。

 病んでいる大陸では、戦争の大義名分はいくらでもある。

 例えば領境の確立。

 先日小競り合いが起きた銀山が発見された山脈麓は、王都から伯の称号を受けた貴族達が権利を主張し、曖昧だった領境を主張するために起きた。

 貴族達の間では、しばしば家族間のいざこざも戦争で解決されることがあるのだ。

 相続の権利を主張する貴族。

 ただひたすらに領地を広げようとする貪欲な領主。

 異端を排除しようと躍起になる貴族。

 戦争の正当性を主張し、彼らは時には楽しみながら破壊活動に勤しんだ。

 一方巻き込まれた農民や領民は、それでも壊された田畑や家を見ていつまでも嘆いている訳にはいかなかった。

 泣き叫び苦しみながらも、汚れ傷ついた指でまた壊されたものと同じように作り上げていくのだ。

 皮肉にもとめどない戦争は行き場のない商人の懐を癒し、商人達の地位をゆるぎなくさせていった。

 各地に散らばる職人たちの間を飛び回り、客が求めるものを手に入れる。

 都市などの地域を決めて商売をする小売商人、交易を取り纏め遠隔地での商売を可能とした交易商人。

 数多い彼らの中には決められた顧客を持ち、希少価値のある特殊な商品を取り扱う数少ない商人も存在していた。

 希少価値のあるものを求め各地の商人や市場を転々とし、地位が高く、金に糸目を付けない貴族を相手にする商人は彼らの間では隠語で『Schmetterling(蝶)』と呼ばれる。

 彼らは価値のあるものがあれば、激しく燃えさかる炎の中にすら嬉々として飛び込んで行くのだ。

 少しは名の知れた職人ならば誰でも知っているだろう。蝶に全てを見せてしまうのは命取りだと。

 彼らに全てを見せてしまうと、貪欲に蜜を吸い尽くし花は枯れてしまうのだから。

 花が枯れてしまえば、誰も見向きもしなくなるのだから。

 だから蝶は存在を隠し、蜜を求め花ににじり寄るのだ。

 次の花を枯らす為に。



「クルトは見つかったの? まさか子作り中だったんじゃないでしょうね。あの人、見境なくあちこちに手を出すから……ったく、誰に似たんだか――」

「これ、見つけてきた」

 突拍子もない程にかん高い女の声が延々と文句を言い続ける間を区切る様に、エルケは床に包まれた布ごと転がされた。

 激しい衝突音と衝撃。

 未だ半分は夢うつつだった薄暗闇の頭と肩が思い切り床に当たると、嫌でも正気と感覚を取り戻す。

 ぼんやりと見上げた天井は低く、城では無く民家だった事に胸を撫で下ろした。

(僕……生きてるの……? それとも…夢……?)

 見慣れた白壁は、この辺りの地域ではよく見られる造りの内装だ。

 油の染み込んだ窓枠と余り綺麗とは言えないカーテンは、結構前からこの家で生活が営まれていたことを示している。

(お腹……空いたなぁ……)

 鼻を擽るのは、どこかに掛かった鍋の中身の匂いだろうか。

 忘れていた空腹が突然感覚として甦り、乾いていた筈のエルケの口内一杯に唾が溜まった。

 馬の上で声の主は汚れ臭うエルケの体を布越しとはいえ、しっかりと胸に抱いてくれた。

 疲れと空腹で意識を失ったエルケは誰とも知れぬ腕の中ですっかり安堵し、気付くとここまで連れて来られてしまったのだ。

 僅かに意識を取り戻したのは、エルケが抱き上げられたままで声の主が馬から降りる時。

 まるで荷物のように肩に乗せられたエルケは、馬から飛び降りる際に声の主の肩に腹を思いっきりめり込ませてしまったらしい。

 エルケは残り少ない腹の息を全部噴き出して、やっと死の淵から目覚めた。

 正直、かなりの衝撃と痛みだった。丁寧や慎重という言葉はこの人間の脳には無い言葉だ。

 男はそのままエルケを肩に乗せたまま扉を蹴り開け、荷物のように無造作に床へ転がした。

 眩しさで薄くしか開かない瞼でも、見える人影は二人。

 赤茶けた長い髪を後ろに束ね上げにまだ幼さを残す少女と、軽くうねる髪を無造作に括り足元のエルケを――持ってきた手前仕方なくの様だ。しかし全く興味もなさそうに、見下ろしている男。

 くるくると回る少女の大きな瞳は初夏の空の色だ。

 開く唇は木の実の様に赤くふっくらと膨らんでいる。泳いでいた視線が合えば、少女は嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。

 赤い木の実の唇が、開く。

「あら」

 彼女は怯えるエルケを見定めようとしているのか、異臭にものともせず寝転んだままのエルケを覗き込みしゃがみ込んだ。

 木綿のスカートは新緑色だ。

 明るい新芽の色が透き通る青い瞳の彼女にとても似合っている。

 対するエルケは汚物と泥に塗れた見るにも絶えない姿だ。

(あ、あんまり……こんな酷い姿を見ないで欲しいのに……)

 思わず、遠慮なく見詰め返してくる少女の視線から目を背けた。それでも彼女は視線を逸らそうとはしない。

 すると、どこか遠くで鍋が噴いている音が聞こえてきた。やはり何かを調理中だったらしい。

「あらあら?」

 首を傾げ、彼女はまだ見詰める。

 エルケが少し気恥ずかしくなった所で少女はスカートの裾を派手に翻し――但し中は見えなかった。立ち上がると男に向き直った。

「……ヤン。貴方、臭いわね」

 少女は無表情で言う。

「……俺か……?」

 男は何故かそう答えた。

(違うよ……臭いのは明らかに僕でしょ)

 エルケは心の中で思う。

「……盥にお湯を張って来るわ。ヤンは馬を洗って、ついでに貴方の体も『水』で洗って来て」

「……分かった」

 どうやらこれから用意される湯はヤンと呼ばれた男の為の物では無いのだ。

 馬のついでに洗え、と言われた男はその言葉の意味を深く考えもしなかったのか、言い返すことも無く再び扉を蹴り開け外へ出て行った。

 次いで遠くから聞こえる馬の嘶き、どうやらまた臭いと抗議されている様だ。

(なんか……ごめんなさい……)

 とんだとばっちりで、エルケは申し訳なくなった。

 ブラウスの袖を腕まくりし、少女は再びエルケの脇にしゃがみ込む。

 くるくるとした瞳には好奇心では無く慈愛を宿し、表情を見る限りどうやら幼く見えるだけで少女はエルケよりも年上の様だった。

 汗か泥の所為で額に張り付いた前髪をその細い指で剥がされると、どうやら手の平でエルケの熱を測っているのだ。

 頬と耳が恥ずかしさで熱くなった。

「私の名前はカヤ。薄情な年中発情犬よりもずっとお世話のし甲斐があるわね」

 聞き間違えたかとも思われる物騒な言葉を、エルケは無意識に聞き流す。

(……は? 発情……?)

 覚悟しておいてよ、と謎な言葉を吐きながらカヤは立ち上がった。

 エルケに巻き付いたままの汚泥が染み込んだ布を、両手で掴みカヤは一気に引き上げる。

(……うわっ! 乱暴だよ!)

 エルケが布から転がり落ちた。

 しこたま痛んだ体を床に再び強打して、エルケはその布を見上げる。

 するとカヤの身長よりも高く持ち上げられたただの布だとエルケが思っていたそれは、美しく野山と小川に無数の花が織り上げられた素晴らしく繊細な模様の絨緞だった。

 エルケはその絨緞から引きずり出されたまま、床に転がり目を大きく見張った。

 息を飲み先程まで汚泥に浸かっていたことも忘れ、口内に堪ったままだった唾を飲み込む。

「……っ!」

「あら? 大丈夫?」

 痛みにも似た強烈な臭いをさせた味で吐き気をもよおした。

 エルケは床を嘔吐したものでこれ以上汚さないよう、口元を自分の袖で覆う。

 それでも、再びその絨緞を見上げるとその吐き気すら忘れてしまった。

(こんな宝物で……あの人は僕の体を覆ったんだ……)

 その繊細な作品は決して死に掛けで汚泥塗れの人間を包んでいいものでは無く、むしろ途方もない金額で取引される芸術品だった。

 決して高価なものに目利きが出来る訳ではないエルケだったが、それでもそれは十分高価なものなのだと直ぐに分かる。

(こんな……いつ死んでもおかしくない位の僕だったのに……)

 申し訳なさで一杯になりながらも、もうどうでもいいと投遣りになっていた自分が実は生きたかった事に気付かされる。

 感謝で一杯になった温かい気持ちのエルケの横で聞こえた、地を這う低い声。

「あいつ、商売道具を使いやがって。覚えときなさいよ……!」

 捨て台詞を吐きながら、カヤは女性の腕では重いであろう絨緞をものともせずに巻き込んだ。

 それをえいやと肩に担いだカヤは、その物騒な台詞を先程吐き捨てたとも思えない可憐で愛らしい笑みを浮かべる。

(聞き……間違い……だよね? 僕……助かってよかったんだよね……?)

 慈愛に満ちた表情。

「ん? 何?」

 カヤは絨緞を担いだまま首を傾げる。

 そうだ、先程の声はきっと聞き間違いに違いない。エルケは自分に言い聞かせ、何でもないと弱々しく首を振った。

「お湯を奥の部屋に用意するから、体を洗いましょう」

 顔を僅かに上げカヤの指差す先を見たエルケに、鈴の転がる少し高めの声でカヤは言う。

「大丈夫、綺麗にしてあげるから。私が」

 エルケは思わず動かなかった筈の体を引き摺り、次は大きく首を振った。

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