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涙と蝶  作者:
3章 Juli 橙の山
28/73

「ルッツ?」

 覗き込んだ馬小屋に馬番がいる様子は無かった。

 心なし声を抑え目にエルケが名前を呼ぶと、小屋の中から物音がする。馬小屋の太い柱横からエルケが中を覗き込むと、嬉しそうにルッツが顔を寄せてきた。

「なんかちょっと久し振りだね、元気だった?」

 足先を伸ばし、少し高い場所にあるルッツの首に手を回して頬を寄せる。筋肉が固い、でも柔らかい。温かい。

 絨緞に簀巻きにされて初めて乗せられた時の様な、嫌がる様子をルッツがもう見せる事はない。ルッツは黙りこくり頬を寄せるエルケのされるがままになっている。

 エルケは滑らかな褐色の肌に指を這わせ、小さく溜息を付いた。どうしようもなく疲れていた。

 今夜も懲りずにまた酒宴だった。門前庭まで高城の騎士の間の喧騒が聞こえてきた。

 久し振りにワルゼ城へ姿を見せた総長を讃えて、というのは完全な名目で、任務が増える前のつかの間の休息らしい。それにしても二晩連続で酒盛りとは、正直迷惑極まりない。酒も殆ど飲めないのに。

 大きなテーブルに並べられた食事は、昨日にも増して豪勢だった。余りの量に見ているだけで十分腹が一杯になった。何よりももっと、騎士の間いっぱいに充満した酒の臭いが辛かった。酒を全く口にしていなくてもエルケのの頬は時間がたつにつれ火照ってしまう。もう少しあの場所にいたら、確実に酒気あたりしてしまうに違いない。

 だから今日は申し訳ないと思いながら、平たいパンを二つを念のためにとトニに用意して貰っていた水で一気に流し込み、早々に広間を退散したのだ。

 沢山の団員とノルベルト副総長の近くにいた二人には、結局何も告げずに出て来た。しかも出て行く姿を咎められない様に、こっそりと機会を窺って扉を閉めた。

 具合が悪いと言ったら気にするだろうし、寝るとは言っても昨日の今日だ。

 心配して、部屋まで付いて来られるに違いない。エルケの都合に、わざわざ二人を付き合わせる事は無いだろう。特にクルトは久し振りの我が家みたいなものだから。

 ルッツの傍で少し時間を潰して、程々に気分が落ち着いたら寝室に戻ろうとは思っていた。ただ、ほんの少しだけ一人になりたかった。ゼークト産の石で引き摺り出された重い記憶は、どす黒く背中に圧し掛かっている。

 昨夜の一件から、ヤンとは何と無くぎくしゃくしている。

 必要以上に手を出されるのを避けるエルケと手を出す事に躊躇するヤンは、結局双方が余り必要以上に近付かない事で決着がついたようだ。預かり知らぬ内に自然とそうなっただけだけれど、仕方がない。それが互いの為にいい事なのだ。

 エルケも知った以上はヤンの弟の身代わりとして必要以上の世話を受けることにも抵抗があったし、ヤンは多分そんなエルケに手助けするのは嫌だろう。そう決めた筈なのに、でも心は晴れないままだった。

 対するクルトの過保護っぷリは、ついこの間までのヤンを彷彿とさせる。

 しかもエルケが男であり、背こそ小さいもののそれなりの歳である事を彼は失念しているのだろうか。エルケに対する行動はまるで親が小さな子供にするみたいだ。黙って手を出したヤンに比べて、クルトは口うるさく説教臭い。

 あくまでも幼い子供に対する態度なのが、本来は女であるエルケには複雑かつ納得し難いが、ヤンに伸ばせなくなったここぞと言った時の逃げ場を見つけた様で少し安堵したのも事実だった。

 両極端な二人の間でエルケは少し気疲れしていて、どうにもならないもどかしさをぶつけるのにルッツを選んだ。カヤに会う為、勝手にここを抜け出すほど事を大きくはしたくなかったのだ。

 大きく溜息をつくと、エルケは馬小屋に背中を預けしゃがみ込む。

 団服を着てはいなくても、先程借りたウールの上着は結構な厚さで十分温かい。膝を抱えるとどうしても開いてしまう前を掻き合わせて膝ごと上着で包み込んだ。馬車の中で毛布に包まれ、眠っている時の様に温かい。

 肩を落として、空を見上げた。

「カヤは元気かなぁ」

 昼まで窓に叩き付けていた激しい雨は嘘のように晴れ、夜空に雲は僅かに残る程度だった。星が闇の中で幾つも瞬いている。でも月だけはまだ僅かに居残っている薄雲に隠れ、少ししか見えなかった。薄暗い夜だ。

 クルトがもたらしてくれたカヤの近況は、ここ数日ずっと晴れないままだったエルケの心に小さな光を射してくれた。早くここから出て、カヤに会いたいな。本来の性別の所為か、どうしても男塗れの中で生活するのは個室を与えられているとは言え抵抗がある。

 壁の向こう側は皆、男だ。いつ扉が開くか分からない所なら、安心して体を拭く事さえ出来やしない。騎士団の男達は皆中庭で半裸になって水を浴びるらしい。でも、そんな事エルケがしてしまったものならワルゼを放逐されるしクルトにも迷惑がかかる。

 だから、この数日は体を拭く事を我慢していた。とにかくストレスが溜まる。

「ルッツ、クルトがまるでヤンみたいなんだ」

 ルッツは馬小屋の止め板を足で蹴った。背中に直接震動が来る。どうやら相槌のつもりらしい。

 言いながら表現がおかしくなっている事には気付いていた。でも所詮ただの愚痴だ。どうせルッツしか聞いていないから別にいい。

 総長室を出る時に高城の急な階段を二段踏み外したら、クルトに問答無用で縦抱きされた。

 ヤンと、後からやってきたノルベルト副総長の目の前でだ。流石のヤンだって同意を取るという気遣いを見せた――断わったけど、のに階段で目を見開いたまま呆然としていたら突然だった。

 クルトへ抗議をしても、それなら階段くらい踏み外さず降りろ、と厭味の応酬で返された。

「逆に、ヤンはちょっと前のクルトみたいなんだよ」

 ルッツが次は鼻息で相槌を打って来る。

 結局、クルトの首に大人しく腕を回した――落すと脅されたからだけど、エルケの視線向こうで、聞こえるように厭味を言う――ここら辺がクルトと似ている、ノルベルト副総長とヤンは仕事の話をしていた。どうやらクルトはこのままワルゼに残る気は無いらしい。

 クルトの肩越しに見えるヤンは僅かにこちらへ視線を流しても、直ぐに背を向けた。まるで興味も無く流すみたいに。何と無くヤンのその背中を見ると置いて行かれた気持ちになって、エルケは首に回した腕に少しだけ力を入れた。ヤンの手は振り払ったのに、クルトの手は許容した自分がよく分からなかった。

 ルッツは慰める様に馬小屋の木枠を蹴り付けている。言うなれば、あんまり考え過ぎるな、って所かな?

「うん、分かってるよ」

 本当は今だって、席を外す事を誰かに言い残してきたら良かったんだ。クルトやヤンが駄目なら、せめてトニやマルセルにでも言ってきたら良かった。でも、敢えてしなかった。

 不貞腐れて家を飛び出したゼークトの時と一緒だ。

 結局自分は、誰かが追いかけて来てくれるのを期待している。そして、一緒に帰ろうと言ってくれるのを待ってるんだ。あの騎士の間にクルトやヤンの居場所はあっても、エルケの居場所は無いから。今、居場所の無いエルケに明確な場所が欲しかった。誰かの隣にいたかった。

 もしかして自分は試しているのかもしれない。

「カヤに会いたいなぁ」

 結局、話は戻ってしまう。

 いつも何も気にせずに傍に置いてくれたヤンの傍には近寄れなくなって、代わりにたまに振り返ってエルケの存在を確認してくれるクルトは久し振りのワルゼでこっちを見る暇も無い。

 そうか、試しているんだ。誰に手を伸ばせばいいのか分からないから、迎えに来てくれる人なら我儘を言えるんだって思ってる。いつもならカヤが走って来てくれる。何も聞かずに姉さまみたく甘やかせてくれる。男女の愛情ではなく、家族的な愛情で。

「寂しいよ」

 一人になると嫌な事を考える。

 姉と恋に落ちた『蝶』と緑の都市ビューローの領主は、エルケが人魚の涙の在処と存在する筈も無い鉱脈の在処を知っているのだとまだ思っているんだろう。行く場所、行く場所で痕跡を残していかれている気もする。念入に張った蜘蛛の巣の中に疑似餌として蝶が待っている、そんな感じだ。

 蝶は決してこの大陸で一人では無い。でも多分、真紅のベルンシュタインを数多く手にしている蝶は姉が恋をした蝶だけなのだ。エルケは姉が恋したという男の姿を見た事は無かった。

 いつも姉は、エルケと眠る小屋を夜半に抜け出し彼の元へ走っていた。たまに怖い夢を見て目を覚ました夜分遅く、横に眠る筈の姉がいなかった時は凄く心細かった事を覚えている。置いて行かれるのが怖くて、凄く悲しかった。

 彼がもし目の前にやってきたら自分はどうするのだろう? エルケは顔も合わせた事の無い蝶の事を考える。

 体の中が熱い。咽喉の奥が焼ける。指が何かの衝動を感じて宙に浮き、考えるだけで腸が煮え繰り返った。多分その時が来たら、エルケは躊躇なく殺そうとするだろう。憎しみのまま剣を振り回し、自分が殺されるのも覚悟でかかっていくに違いない。

 腕を切られても、せめて何所かを切り裂いてやらなくては治まらない。切り付けるのが無理なら突き刺してやらなければ。

 命などは惜しくは無かった。どうせもう一度は死に掛かった身だし、偶然で命を拾った様なものだから。無事、姉の場所へ辿りついたら石と共に眠ってしまおうと思っていた。だから旅の終わりはそれこそ本当の終りだ。

 でも旅を終える事に今は少し躊躇していた。出来るだけゆっくり進みたかった。

「苦しい」

「何処が苦しいのさ」

 一瞬、ルッツが聞いてきたのかと思った。

 上着に顔を埋めていたエルケが顔を上げると、背中でルッツが板を蹴り付けている。仄かに漂う酒の臭い、喧騒はまだ続いているのに、彼は抜け出してきたのだ。何か返事をする前に、頭上に外套を投げ付けられた。

 本当にこんな所はちょっと前のヤンにそっくりだ。いつも一緒にいるとやっぱり似てくるのかな。

「何でも無いよ」

 外套の中で無理に笑った振りをしても、クルトからの返事は無かった。

 横に立っている気配だけはする。外套を被っていても、どうしてか突き刺さるような視線だけは感じて息が止まりそうだった。その熱い空気から逃れたくて、わざと明るい声を出した。

「主賓が逃げ出しちゃ駄目だよ」

「逃げ出した人には言われたくないねぇ」

 だって僕は主賓じゃないよ。そう言い返したかったけれど止めた。それじゃ、折角迎えに来てくれたのにまるで厭味みたいだから。

 あのね、クルト。王子と人魚は住む場所が違うんだ。だからわざわざ線を踏み越えてまで、こっちに来なくてもいいんだよ。本当はそう思っている筈なのに、迎えに来てくれたのがクルトで嬉しかった。

「いいの? 抜け出して」

「別にいいよ、副総長が上手く誤魔化してくれるから」

「そっか、ごめんね。心配かけて」

 ヤンが来るときっと素直に「ごめん」とは言えないだろう。もうここまでぎくしゃくしてしまったものをこれ以上悪化させたくなかった。

 そのまま暫しの沈黙。騒がしくしていたルッツもいつの間にか静かになっていて、どうやら眠ってしまったようだった。外套から顔を出す事も出来ずに、エルケは温かい固まりの中で目を閉じる。眠る事は出来なかった。

 小さな溜息の後、足が小石を踏みつけた音が聞こえる。

 その言葉は余りに唐突で、覚悟をする暇も無い程に呆気なく耳に入ってきた。

「らしくないのは、その手の甲に関係がある訳?」

「手の甲?」

 言われて今更だけど、やっと気が付いた。

 借りた上着は長くてすっぽりと手の甲を隠していたから、先程総長室で布切れを解いていた事を忘れていた。外套の中で慌てて甲に指を触れると、微かに指先に触れる傷の凹凸が剥き出しになっている。

 一瞬、ルッツの傍にいる事を思い出して立ち上がろうとした。だって、ルッツなら乗せてくれるかと思ったから。逃げ出そうと思った。意味無く、ただ反射的に。

 でも外套の上からクルトに手首を掴まれ、エルケは体を固く縮こませると小さな悲鳴を上げた。不思議と拘束されているのに痛くはなかったけれど、知られた恐怖で手が震えた。この足では逃げ出せないのに、逃げ出そうとクルトを振り払ったらそのまま外套ごと馬小屋の壁に押さえ付けられる。

 軋む背板の音と、耳元で掠れながら聞こえる冷静で小さな声。

「俺も食事の時に少し見えただけだから、他は誰も気付いていないよ」

 熱い息と共に洩れて来る声は外套越しでも十分に耳に熱く、エルケは奥歯を噛むと天を仰いだ。首筋にあるクルトの身体が体重を掛けて、逃げ出さない様にエルケの体を馬小屋へと押し付ける。

 烙印は罪人の証だ、そんな人間と一緒に旅なんて続けてくれる筈はない。

 もしビューローにばれたら、何を言われるか分からない。引き渡しを求めた時には無条件で引き渡さなければ、武力行使に訴えられる事も少なくは無いから。その為の烙印だ。背中にも証はあった。

 赤の村ゼークトの生き残りはもうエルケ一人だ。他は皆殺された。だから、石の在処を知りえるのはエルケだけだ。きっと『蝶』と一緒に彼等はエルケを探している。枯渇しつつある鉱山を抱えたビューローには時間が無いのだ。

「それはただの火傷じゃない。詳しい話を聞かせてくれるのであれば、この手は放すよ」

 咎める様な声を聞いて、泣きそうになった。

「俺はお前が『蝶』でさえなければ、いいんだ」

 吐き捨てる声は疑いたくはないと訴えているようで、もう隠せないと思った。女であること以外は。

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