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涙と蝶  作者:
3章 Juli 橙の山
26/73

 夜半にヤンが呼びに来たのは突然だった。扉が壊されそうな程に叩かれて、鍵を開けるなり蹴り開けて入って来た。

 最近、頓に体調を崩しているカヤに配慮の欠片もない。

 これだからこいつは女もいないんだ。クルトは心の中で毒づいた。これだけ騒がしいのにカヤが起きてくる様子は無かった。クルトは少し胸を撫で下ろす。

 漆黒の服に纏っているのは厚手の外衣だ。どうやら外は雨が降っているらしい。外衣が濡れそぼっていた。

「俺は行かないって言ったよ」

 睨み付けるヤンの顔を見て腕を組むと、一応拒否して見せる。ノルベルト副総長がヤンに指示したとなると、この拒否も無駄だろう。早めに準備をしなくてはいけない。

 またあの責務を負う場所に戻るのか。少し吐き気がした。

「緊急だ」

 何があったのか、ヤンは今日かなり機嫌が悪い様だ。

 外衣を投げ捨てる様に脱ぐと、近くにあった椅子に勢いよく腰掛ける。息は少し切れて、かなり酒臭い。これだけ自制が利かない状態だ。余程、ノルベルト副総長に呑まされたのだろう。未だにあいつは他人へ限度がないらしい。

 息が切れ肩で息をしている所を見ると、どうやらヤンはルッツを置いて来たのだろう。雨が降っていればぬかるむけれど、ルッツにはさほど苦でもないだろうに。それとも、誰にも知らせずに来たかったのか。

「あの子鼠さんが何かしたのかなぁ」

 鎌を掛けると、剣呑な表情で睨み返された。

 自制が利かない人間――しかもヤン、に喧嘩を売って買われては厄介だ。早々にこの話題は切り上げる事にする。

 クルトは白壁に背中を預けた。寝着の上に軽く羽織っただけのガウンだけでは、高地のワルゼでは少し寒く、背中へ直に冷たさが伝わって来る。

「エーゲルがビューローと交戦中だ。戦火はエーゲルまでは及ばない小規模なものだが、広がればヨープから騎士団にも要請が来るぞ」

「へぇ、案外持たなかったな」

 無関心に見せかけた返事をして、赤金の髪が一瞬脳裏を過った。

 エーゲルが交戦中と知ると多分憤り、誰よりも悲しむに違いない。偽金に興奮したエリクを上手く口で丸めこんで、見逃せと言ったのはクルトだ。それが結局の理由では無いにせよ、彼が自分を責めるのは避けられない。

「エリクにはまだ言っていない」

 そんなクルトの様子に気付いているのか。ヤンの方から言ってくる。どうやら気にしているのはどちらも一緒らしい。最近頓に傾倒している。何と無く、それはヤンの様子で分かった。

 縋り付くのはどっちだ? 明らかに今それはヤンの方だ。最近の過保護っぷリは既に度を越して、馬車へ抱き上げるクルトの背中にすら剣呑な視線を感じる事もあるというのに。

 だが、本人は死んでも認めないだろう。何故ならエリクは仮初めの同行者であり、女では無く男だ。共に一生を連れ添って生きて行くことなんて出来ない。しかし、果たしてそれが本当にヤンの枷になるのか? 

 罪滅ぼしで失踪した弟を探す旅に、いつかエリクを無理やり連れて行きそうな気もする。本能を隠して、貞節を守り生涯を生きるなんて、まるで修道女の様だ。さながらエリクは神か。

 馬鹿らしい考えにクルトは腕を組み直した。腹の中に黒く重いものが凝り固まり、簡単には消えない。特に最近その回数は増し、考えが纏まらない事が多かった。

「ワルゼに出動要請は来ないよ、一応これでも息子だからね」

 漁業で栄える青の街エーゲル。騎士団を抱く山ワルゼ。枯渇しつつある金鉱の麓にあるライゼガング。宝石の鉱脈があるミュンヒ。これらは全て選帝侯の統治する白の都市ヨープの直轄地だ。

 数年前まで飛ぶ鳥を落とす勢いだったヨープだが、鉱脈が枯渇するにつれ選帝侯である大司教の権威も薄れ、ビューローの様に宮殿は混迷している。ただビューローと決定的に違うのは、戦火を広げる事はせずに守りに入っている所か。

 比較的、商人の集まりやすい立地にあるヨープは、西の商業都市レノーレに並び欠かすことの出来ない場所だ。レノーレは歴史こそない新興の商業都市だが、その勢いは衰える所を知らず今は政治にも影響力を持つ。レノーレの権力者バルタザールと言えば、隙のない食わせ者として知られていた。

 レノーレとヨープ。二つの商業都市でこの大陸の商業は今成り立っている。そして、それを可能な限り継続させる為にヨープの大司教は姑息な管理を怠らない。長男を手元に置き、後継者として育て上げると同時に、次男をワルゼへ、他の腹心をそれぞれの騎士団の総長に配した。

 民衆が集まりやすい教会、孤児院を管理し巡礼者を守るという名目で信頼を勝ち取るためだ。貴族と民衆の信仰する宗教は異なる事が多いが、名目上は目を瞑っている。民衆の反発を防ぐためだった。

 ヨープ選帝侯の次男はクルトだ。決して嬉しくもない肩書きに縛られて幼い頃からずっとここに縛られて押さえ付けられていた。

「世直しの旅の後は戦で殺して来い、なんて言われたら流石に俺は騎士団を捨てるよ」

 いや、そんなことはきっと出来ないのだろう。

 ノルベルト副総長を始め、全てが幼い頃からの身内みたいなものだ。騎士団を潰すのなら最後は自分の父親に剣を向けるに違いない。それほどまでにこの城を愛してはいても、ずっとこの地に居座る事は出来なかった。反発かもしれない。責任感よりもそちらを優先した。

「他は? まさかそれだけでここに来た訳じゃないんだろう?」

「ああ」

 窓や屋根を叩く雨は次第に強さを増している。そろそろ潮時、と言った所か。

 クルトは壁から背中を上げ、着替える為にヤンに背中を向けた。ヤンもそれに倣い、漆黒の体に外衣を纏う。

「ワルゼに『蝶』が出入りしている」

 面倒な事になった。クルトは大きく溜息を付き、カヤを起こさない様に心がけながら自室の扉を開けた。


 扉が二度ノックされ、クルトの視線に促されるままにノルベルト副総長が机の上に広がった地図を全て集めると脇に避けた。考えるだけで頭が痛い、問題が目白押しだった。

 昨夜はずっとぬかるんだ山を歩き通しだ。その上ワルゼ城に到着するなり、ただでさえ煩いノルベルト副総長に耳元で「久し振りだ」と嫌みを聞かされ、濡れて泥塗れの軍靴を取り替える時間もなかった。

 外衣のお陰で体こそ余り濡れてはいなくても、足から来る寒気でクルトは苛立ちが押さえ切れない。

 だが、苛立ちの理由は他にもある。

 エリクの入団を熱烈に押してくるノルベルト副総長は、クルトの傍で彼がどれだけ細く、筋肉の出来ていない体であり、今ならまだ通常の男の体へ近付ける、という事を頻りに熱弁してくるのだ。

 確かにノルベルト副総長はその道の熟練であり、見習いとして騎士団に入った子供を立派な騎士に育て上げた過去があるだけに邪険には出来ないが、少し話の内容が趣味に偏っている気がする。

「まずその話は後で聞く」

 そう言って終わらない熱弁を切り捨てたのは、先程の事だ。

 だから扉を開けて、団服姿のエリクが現れた時に息が止まった。扉を開けたトニの後ろから遠慮がちに出て来たエリクは、小さな体の所為で服の中に体が泳いでいる。袖も折り上げている様だったが長かった。

 漆黒の団服に赤金の髪が映える。何よりも長い裾が床に付かない様、腰をベルトで締めている所為か。腰の細さが際立った。

 一瞬、焼き付く様な感情が巻き起こる。一体誰の服を借りたのか、腕を掴んで問い質したくなった。

「あの、自分の服を汚したのでトニに借りました」

「素晴らしい!」

 ノルベルト副総長が泣きそうな勢いで歓喜の声を上げて、クルトは我に戻った。このまま騎士団の鍛錬に連れて行きそうな勢いだ。本当にこの少年は自分の行動の意味が分かっていない。

 こっちがどんな思いをして、ノルベルト副総長の依頼を断っているか。分かってもいないのだ。旅を終えてしまう気なのか、そう思って共に旅を続けて行く気になってる自分に気付いた。

 ヤン程では無くても体の出来ているトニの傍に立つエリクは細く小さい。カヤの横に立つとそれは然程気にならなかったが、トニと比べれば一目瞭然だった。絶対どうみても男には見えないのだ。

 エリクのこちらを見る視線にらしくない様子が垣間見えて、そうか今はワルゼの総長だったのだとクルトは気付いた。言って無かったのすら忘れ、知っても気にせずにそのまま受け入れて貰えるのだと何と無く思っていた。

 何かを言おうとしたらしいエリクの唇は動かずに閉じたままだった。遠慮がちに俯いた顔に線を引かれたのが分かる。どうしてだろう。自分が引いた線は許容出来ても、今更他人に引かれると踏んで詰りたくなる。

 左の興奮した筋肉馬鹿は放っておいて、ヤンはどうだ。

 右を視線だけで観察するとヤンはまだエリクに目を奪われたままだった。どう考えても男を見る視線では無い事に気付いているのか、逆に全く気付いていない鈍感なのかのどちらかだ。

 エリクが離れないヤンの視線に気付き、その身体をトニの背中に隠すと横に立つヤンの拳が強く握られた。まぁ、自覚はありって事か。何故か面白くない。

「まずは解散、詳しい詰めは夜にここで」

 自分で叩いた机の音で解散を無理やりに告げる。この場所から一刻も早く、この逆に自覚のない子鼠を出してしまわなくてはいけない。今回の目的である仕事も終えずに、こいつはどうして着せ替えなんかして遊んでいられるんだ。

 着替えた理由は聞いた筈なのに、不条理な毒舌が脳裏を過った。ただでさえ華奢な体が隠す事によって際立っている。この城は女性禁制で色々と複雑な事情も多い。こんな恰好をして歩いていい場所では無いのだ。

 素早く椅子を立つと、エリクの腕を掴んだ。

 いつも通りに抱き上げればいいのだと思っても、腰の細さが瞼の裏に残り手を回すのに気が引けた。エリクが転びそうになるのも構わず、そのまま引き摺ると小さな悲鳴が聞こえた。もっと男らしい悲鳴をあげたらどうだ、なんて子供みたいな八つ当たりだけど仕方ない。

 背中へ突き刺さる視線には気付いていた。気になるなら追いかけて来いよ、そう思いながらクルトは追ってくる視線を扉を閉めて絶ち切った。


 高城の二階には大広間があって、脇には小さなポーチがあった。窓こそないものの屋根があるおかげで雨や風から体を守る事が出来る。

 奥まったポーチは手摺まで出なければ十分に叩き付ける雨を防ぐ事が出来る。城内を選ばなかったのは、少し雨風で頭を冷やしたかったからだ。

「うわぁ」

 濡れた手摺から、雨に濡れるのも構わずエリクが体を乗り出した。

 ポーチの下は防犯上、崖に面している。僅かに開いた隙間は戦を想定しての事だ。崖をよじ登る敵兵がいれば、このポーチは狭間となり隙間から矢を射かける。

 濡れている床はより滑りやすい。全く気にもしていないのか、エリクは楽しそうに下を覗き込んでいる。その姿はまるで子供で頭が痛くなった。転びそうで腕を放すきっかけが掴めない。

 楽しそうに浮かれている? いや、違うもしかして浮かれている様に見せかけているのか。下手くそな小細工だ、はっきり見える引かれた線を踏みにじりたくなる。

 こっちを向けよ。背中を向けられると、腹が立つ。

「その格好、似合わないよ」

「知ってる」

 苛立ち紛れに吐き捨てると、手摺を掴んだままのエリクが直ぐに不貞腐れたような口調で言い返してきた。

 エリクは背を向けてこちらを向こうともしない。危ない筈の手摺から顔を覗き込ませている所為で、激しくなってきた雨が赤金の髪と細い首筋を遠慮なく濡らしていった。

 腕を引っ張ってやろうか。それとも向こう側に押してやろうか。両極端な衝動が突き上げてくる。

 そう思っている癖に頭の中は常に止まってしまっている会話の糸口を探していた。エリクが興味を持っている唯一の接点は、今頃誰もいない部屋で残した手紙を読んでいるに違いない。

 追い掛けて来たくともワルゼ城は女性禁制で、カヤはどう贔屓目で見ても男には見えないから、もどかしさに物凄い形相で奥歯を噛んでるに違いなかった。戻ってからの反応が怖い。

「カヤの具合は少し良くなってるよ」

「本当に? 良かった!」

 彼女の名前の効果は覿面だ。思った通りにエリクは手摺から片手を放しクルトの方へと向き直った。

 下を向いていた所為で少し前に比べ長くなった細い髪が頬に張り付いて細い頬から顎の線が丸見えだ、思わずクルトは嬉しそうに見上げてくるエリクから目を逸らした。見ていられなかったのだ、どうしても。

 今まで確かに女みたいで華奢な少年だとは思っていた。未だに性別が事実かどうか疑ってもいる。

 それでも二か月以上も一緒に旅をしていると、どんな女っぽい男だって見慣れて抗体だって出来てくる。一昨日までこんなまるで女に見えたことなんてなかった筈だ。

 それなのに、細い腕を掴む指が熱い。

 手を放すのを名残惜しいと思う妙な衝動を、クルトは小さく溜息付いて降り続く雨へ逃がした。濡れ鼠になったエリクの顔をを自分の団服で拭う。濡れ鼠とは言い得て妙だ。小さく丸まって震えている姿がエリクにはお似合いだ。

 乱暴に拭くと痛かったらしく、エリクは眉間に皺を寄せて目を瞑る。

 その姿に思わず噴き出した。まるで小さい子供みたいだ。雨に濡れた所為で忍びよって来る寒さで鼻が垂れて来たらしく、エリクはしきりに鼻を啜っている。

 本当にこいつは馬鹿だよね。何度失敗しても勉強する事を知らないんだ。

「体が弱いくせに雨にあたるからそうなるんだよ。風邪を引いたって俺は外に投げておくからね」

 その団服で鼻を拭くな。借りてる癖に少しは考えろよ。

 苛立ちながらも自分の団服を使って、顔のついでに鼻まで拭いた。別に汚れても着て外に出る訳ではないから、後でノルベルト副総長にでも渡しておけば洗濯係に渡してくれるだろう。

 見上げるエリクの顔。先程まで感じた総長である自分への線引きは見えなくなっている。その事に何故か心から安堵した。顔を拭いているクルトの団服の袖向こうで、エリクが不思議そうに首を傾げている。

「クルト、何か変だよ?」

「何が、別に俺は普通だよ」

 普通じゃない。確かに何かがおかしいんだ。

 言い返したクルトの返事を聞いて、エリクが笑った。もう既に乾き掛けた赤金の髪が笑う度に、強い風に煽られて揺れて笑い顔を隠す。それを見て息が詰まった。

 エリクの笑い顔を見るのは初めてだ。今まで見て来たのは僅かな微笑と無表情。不貞腐れた顔と悲しげな顔。それだけだった。そんな警戒心の無い顔をして、こいつは本当に何も分かっていない。

「嘘だ、なんか優しいクルトなんて変だよ」

 エリクが笑うと、指が宙を浮いた。何をしようかは明確だ。握り締めた。ヤンの拳の意味が何と無く分かって、苛立った。

 憎まれ口でも叩いてこの場を乗り切ってしまおうか。

「笑っている場合じゃないよ、今回は仕事で来ているって忘れたの」

「忘れてないよ、でも僕はここでは役立たずだから言われないと何したらいいか分からないし」

 ヤンは一体何をしていたんだ、何も仕事の内容を話していないのか。

 少し寂しげなエリクを見て、思わず宙に浮いた手をエリクの頭に載せた。小さな頭は手の平にすっぽりと収まって撫でる度に小さく揺れる。柔らかい髪に触れて、もう何もかもどうでもいいような気がした。

 旅の次の目的地はライゼガングだ。エリクの旅の目的地が何処なのか、未だに知らない自分が『付いて来るのか』とは流石に聞けなかった。抱き上げて馬車に乗せれば、無条件で連れていける。

 一体何処まで付いてくる? 何処までなら共に歩ける? 

 なんて事だ、これなら俺だって十分ヤンの事は言えやしない。むしろ枷が無い分厄介なだけだ。女なら自分の物にしたらいいし、男ならもっと簡単だ。共に生きるには騎士団に入れてしまうだけでいい。

 手を放すなら今の内だ。執着してしまえば、それだけ逃がせなくなる。最ももう手遅れかもしれない。

「仕事はあるよ、エリクの得意分野だろ」

 厄介な問題ばかりが、どうも最近山積みだ。目を瞑ってしまおうか。

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