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涙と蝶  作者:
3章 Juli 橙の山
24/73

「そう言や、ヤンにも弟がいんだよ。今は失踪中だから、やっぱりエリクと重なんのかな?」

 そうか、ヤンに弟が。その言葉を聞いて、エルケの胸にすとんと何かが落ちた気がした。

 そこがどうしても腑に落ちなかった部分だった。気になって、それでもエルケが知ることの出来なかった事だった。それが全部組み合わさって隙間なく重なり、積まれた感じだ。それなのに、心に穴が開いたみたいだ。

 あれだけ怪しい身なりで明らかに誰かに追われている様子のエルケを、ヤンは何も問い質すことなく助けて、しかも意識を失っているにも関わらず連れ帰ってくれた。

 食事を与え、服を渡し、足が不自由ならば抱き上げて保護してくれた。

 弟に見えたのだ、と言われてみれば見返りの無い行動の何もかもがしっくりくる。それは全部、ヤンの傍にいない弟に向けるものだったのだ。

 そうか。そうだったんだ。うん、そうだよね。

 なあんだ。

 全部、分かってすっきりした。すっきりしたじゃないか。そう言い聞かせた。だって、心の奥底で泣きそうな程苦しくなっている自分がいる。

 見返りの無い行動はヤンだけじゃない。きっとカヤだってそうだ。クルトだって何かを抱えて、何も意味無くエルケを保護している訳ではないのだ。決してエルケを唯一無二の存在だと思っている訳ではない。

 何故なのか、それは本当の自分に向けられたものなのだと勘違いしていた。何もエルケは話していないのに、それでもそんな事を聞かなくても無条件で自分の事を好きになって貰えるのだと思っていたのだ。

 そんな筈ない、そんな訳ないのに。

 動揺は簡単に声になって現れてしまう。

「そ、そうなん――」

 そう震える声で、言い終える寸前だった。

 何かを叩き付ける重く沈んだ音が、話を無理やり打ち切った。エルケは反射的にそちらを振り返ってしまう。何の音なのか、想像も出来なかった。

 だって、まさか近くにいるなんて考えてもいなかった。あんな事を言ったばかりで、ヤンの事を聞いたばかりだったのに。

 だから漆黒の闇の向こうに漆黒の服で身を包んだヤンを見た時に呼吸が止まった。どうしてこんな時に、なんて一瞬思った。思わず胸に走った痛みにエルケは顔を歪める。

 一体、何処から話を聞いていたの? 姉の事を話した場所なのかな、それともヤンには言わないでくれと言った所なのかな。それともヤンの過去を聞いてしまった所から? でも、どの内容を聞かれても後ろめたいじゃないか!

 だからヤンの顔を長く見ていられずにエルケは俯いた。この場から逃げ出せないから、せめて顔くらいは見たくなかった。

 大股で通路を歩く硬質な靴音。いつも通りの大きな足音が、何処となくエルケを責めている風に聞こえる。後ろめたいからそう思うのかな。

 横にいるトニが「酔いは醒めたみたいですよ」と明るく言った。

 あのヤンの状況を見て動じていないトニは凄い。エルケと言えば、しゃがみ込んだまま顔を上げる事も出来ずに、ただ烙印の手の甲を握り締めた。足先の土を見つめれば、じゃりという音の後に見慣れた軍靴が見える。だから、もっと深く顔を伏せた。

 ヤンの足音はやっと止まり、少し酒に焼けたらしい低く嗄れた声がエルケの真上から聞こえてくる。

「悪かったな、トニ。迷惑掛けて」

「いえ。子供のエルケには水でも出しときゃ良かったのに、酒入れた副総長の所為ですよ」

「全くだ」

 会話をするヤンはいつも通りで、少し安心した。

 良かった、トニとの会話を何も聞いて無かったのかもしれない。エルケは激しく跳ね回る胸を心の中で撫で下ろした。

 壁に拳を打ち付けて機嫌が悪そうに見えたのも、酒を飲んで迷惑を掛けているエルケに怒っていただけであって、見当違いかもしれないじゃないか。言い聞かす度にどんどん悲しくなった。

 やっぱり聞くべきじゃなかった。聞きたくなかったな。

 門番の交替が滞っているらしく、トニはそのまま前門に向かう様だった。このまま酒宴が終わってしまえば、門番は食事を取り損ねるのだ。

 ヤンに就寝の挨拶をすると、去り際にエルケの頭に手を置いたトニは駆け出す軽やかな音と共に闇へ姿を消した。

 静けさ増した中庭には、まだ微かに宴の喧騒が聞こえてくる。瞼を閉じれば特に良く聞こえた。

 エルケは眠った振りをしてしゃがみ込んだ膝に頭を預けた。何もヤンと話したくなかった。また意味無く子供っぽい事を言ってしまいそうだったから。それは、逃げ、だ。分かってる。

 聞こえるのはヤンの小さな溜息。ごめん、勝手に聞いてごめん。扱いが難しくて、ごめん。心の中でヤンに謝った。返事は無い。だって当たり前だ、意地が邪魔して声には出せないんだ。

 靴が小石を踏み砕く音が聞こえた。

 顔を手の平で隠したままで固まったエルケの背中にヤンの腕が入り、軽く持ち上げられると横に抱き上げられる。たったそれだけで胸が詰まって、やっぱり泣きそうになった。それでも、今更起きることなんて出来なかった。

 エルケに怒っているなら、この場に置いて行ってもいい筈だ。でもヤンはそんな事、きっとしない。分かっているんだ。でもそれは全部、弟みたいだからでしょ? そう言ってくる意固地な自分もいる。

 近くにある胸を拳で叩いて詰りたくなった。失踪している弟が見つかればエルケは必要ない。

 保護と無条件の愛情は、全部そっちに向けられるじゃないか。そうしたら、また一人になるんでしょ? ヤンもカヤもクルトも皆、永遠に傍にいてくれる訳じゃない。当たり前だ、分かっているのに頭が混乱する。

 ヤンがエルケを抱いたまま、歩き出す。揺れる体はまるで揺り籠の様で、エルケは泣きそうな顔を起きかけた振りをして手の甲で隠した。

 お願い、ヤン。顔を見ないで。きっと今は凄く醜い顔をしてるんだ。

 だって、ヤンとカヤとクルトの大切なものに凄く嫉妬してる。自分が入れ替わってしまいたいと思うんだ。

 姉さま、苦しいよ。こんな感情、初めてなの。何もかもを壊して、消えてしまいたくなるの。

 傍に姉さまがいてくれたら、こんな苦しくないのかな? 胸が満ち足りて、何でも無くなるのかな? 

 瞼に当てた腕が熱くなってきて、ヤンにばれないように奥歯を噛んだ。

 今まで土の中で膨らんでいた種が、春の温かさで一気に芽を出したみたいだ。芽を摘むことはもう出来なくて、そこにある事を思い知らされる。これは一体何なの?

 ヤンの足音が響く度に、喧騒が離れて行った。静けさと程良い揺れは酒に酔ったエルケの体に眠りを運び、いつの間にかうつらうつらとしてくる。

 揺れる体と揺れる意識。耳に当たるヤンの体温は温かく規則正しく脈打っていた。

 だから、短い夢を見た。


『人魚は恋をしました。報われない恋でした』

 姉が幼いエルケを抱いて話している。赤の村ゼークトのおとぎ話だ、悲しく残酷な恋を知った人魚の話。透明な赤に彩られた宝石の物語。

 人魚は王子を愛している。心から誰よりも愛している。人魚はその恋が決して報われないと知っている。。

 人魚の住む場所は海で王子の住むべき場所は王宮だから、傍に居続ける事が出来ない。それでも良かった。ただ王子が愛おしく、人魚はその狂おしい程の愛おしさを愛した。

 ある日、王子は海辺で美しい石を見つけ、その美しさを歓喜し褒め称えた。 

 人魚の髪は燃える様な真紅。まるで君の髪だ、と王子は人魚と共にその石を愛した。

 人魚が王子にあげる事が出来るのはたったそれだけだった。だから、人魚は愛する王子に喜んで欲しくて、王子が海辺に来る度に赤く輝く石を贈った。来る度に何度も、何度も。

 でも石は人魚の命だった。人魚は王子の為に血族を殺し、石を手に入れたのだ。その石には終りが来て、ついに人魚は渡すものを失った。

 海の底は赤く染まり、もう人魚はいない。だから人魚は最後に自らの命を絶った。その命を王子に渡す為に。愛し過ぎる夢の思い出として、彼の心に永遠の自分を残す為に。

 人魚の涙。赤の村ゼークトに伝わる激しい恋の話。大きな石は命の輝きを内に秘め、見るものを圧倒し魅了する。

 悲しい話なのに姉はいつもその話をエルケに愛おしげに話した。そう最後のあの日まで何度も。

 愛おしい人がいるのよ、と言いながら姉はいつも苦しそうで切なげな表情を浮かべた。小さい窓がある壊れそうな小屋だった。

 姉は何もしてあげる事が出来ないのが、口惜しいのだと言った。どうして、私は人魚じゃないの? そう泣いた。その時もまた二人で座っていた。何もない小さな部屋の中に椅子を置いて。

 姉さま、泣かないで。エルケが探してあげるから、大きな人魚の涙。見つけたら泣き止んでくれる? もうそんな悲しい顔をしないで笑ってくれる? 

『エルケ、あなたの笑顔にはきっと魔力があるに違いないわ』

 泣かないで、姉さま。エルケが笑うから笑って、姉さま。

 エルケが何でもするから、エルケを置いて行かないで。姉さまにはエルケがいたら、エルケには姉さまがいたらそれで良かったの。

 それなのに蝶が、それなのに蝶が全てを――


 何かの上に体が横たわり、やっと目覚めた。エルケは夢うつつだった視線を彷徨わせる。

 目覚めても、何処にいるのか分からなかった。だから辛うじて動いた人差し指で体の横を辿った。自分の手は腰の横に置かれている。指先には固い寝台が触れた。

 半分まだ閉じた瞼の隙間から窓が見える。窓向こうはまだ暗く、何も見えない。ああ、まだ夜なんだ。もう一度引き摺りこまれるままに眠ってしまってもいいんだ。安堵した。だって凄く眠かったから。

 久し振りに見た夢の所為か、体が凄く重苦しい。瞼が熱くて、今にもまた閉じてしまいそうだった。

 姉の夢を見た。ついこないだまで、エルケにはそれは凄く嬉しい事だった。姉の話す言葉の意味は何も分からなかったけれど、それでも声を聞き鮮明な姿を見るのはただ嬉しかった。

 それなのに今は姉の言葉の意味が少し分かる。人魚の狂おしい想いも、姉の想いも。夢の中の切なさが今も胸に残る気がする。苦しい、今にも泣きそうだった。

 エルケは汗で額に張り付いた前髪を退けようと、ゆらりと手を上げる。でも何かに阻まれて、エルケの手は額に辿りつかなかった。軽い音をたてて、寝台に腕が落ちる。

 ぼんやりと、不思議そうに横を向いた頬に何かが触れ、その頬の横にある何かを辿り、エルケは視線を上げた。体の上に、大きな漆黒の固まりが見える。

 まるで闇が落ちて来ている様だった。

「起きたか」

 エルケの体を今寝台に置いたばかりなのか、エルケの耳横に手の平を付いたままでヤンが言った。

 部屋は暗く、表情も微かにしか見えない。ああ、ここにいたんだね。そう思うと安心した。寝ぼけたまま、小さく頷けば大きな欠伸が出る。

 まだ眠っていいかな。どうしてだろう、考えたくない事がある様な気がするんだ。眠って、全部忘れたい。

 姉さまのね、夢を見たんだ。エルケはヤンを見上げながら、心の中で話す。

 姉さまは恋をしていた。本当は許されない恋だったんだ。何もかもを壊す恋なのだと知っていた。あの時はまだ小さくて姉さまの気持ちは分からなかったけれど、今なら少し分かる様な気がするんだ。

 大事な物を見つけると、こんなに欲が出るんだね。知らなかったんだ。一つを手に入れると、残りも手に入れたくなるんだね。いつか話すよ、全部。話せるかな?

 ヤンを見上げると、彼は不思議そうな顔をしていた。どうしてそんな顔をするのか分からなくて、エルケは微笑んで見せた。

 嫌だなぁ。もしかして起きているか、疑ってる?

「僕、起きてるよ」

 ヤンの表情は見えなかった。

 ぎしりと寝台が沈む音がして、エルケの耳の横でヤンの手の平が拳を作った。余程強く握ったのだろう。ぎり、と聞こえる。

「ああ」

 返事は吐息の様だった。何か劇的に不味い物でも食べた様な表情をヤンはしている。

 見上げてもエルケの瞼は重く、少しずつ閉じて行く。窓の外を見なよ。外はまだ暗い。夜だから眠いんだ。また落ちて行く。抗うのも面倒臭い。このまま沈んでしまいたい。

 夢はね、嫌いじゃないんだ。だってもう会えない人にも、会いたい人にも会えるし声も聞ける。でもね、起きた時に誰もいないと思うのが苦しいんだ。

 笑った姿は鮮明なのに、失った苦しみに泣き叫びたくなる。いっそ、このまま夢に閉じ込めてくれたらいいのにって思うんだよ。だから、ヤンがいてカヤがいてクルトがいる今は夢なのかな? 起きたら一人になるから、起きたくないのかな。

 閉じた瞼の向こうでヤンが体を起こす気配がした。そのまま、寝台の一方が歪んで、傍にいてくれる事だけが分かる。

 温かい指が首筋を辿って、髪を括った紐を外した。髪の毛が絡んだそれはいつも解くのが大変なのに、ヤンの指なら抵抗なくするりと抜けた。首に当たっていた結び目がなくなって、伸びた髪が首を隠す。

 その感触で、瞼は閉じたままなのに感覚だけは眠りから覚めた。だから、聞いてしまったんだ。まるで吐き捨てる様な言葉だった。

「エリク、お前が男で良かった」

 痛く、苦しい。胸を押さえて転がりたくなった。聞こえるヤンの声が胸を突き刺して、眠りかけていたエルケは途端に現実に戻った。

 ヤンはそう言い残すと、直ぐに寝台から立ち上がり背中を向けた。それから一度もこちらを向くことなく足早に部屋を出て行く。

 静かに扉が閉じて、エルケは瞼を開いた。

 小さな部屋だ。古びた机と椅子、それに寝台だけのある部屋だった。カーテンの付いていない窓枠向こうには塗り潰した闇が広がっている。

 無性にカヤに会いたかった。まだ離れて一日なのに、無性に会って甘えたかった。クルトの声も聞きたかった。あの飄々とした口調で、甘えたな自分を鼻で笑って貰いたかった。

 そして、自分の中に芽吹いた初めての何かを静かに封印した。向きあうのが怖かった。ただそれだけだった。

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