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「おい、坊主。起きろ」
目覚めの時は直ぐに訪れた。
焼印のある傷口の丁度上辺りの背中を何かが小突き、エルケは重くて仕方が無い瞼をうっすらと僅かに開ける。
(朝………?)
崩れかけた板壁の向こうには、今日の天気が外に出ずとも知れる程の亀裂が出来ていた。
射し込む日差しはどこか新緑の色をしている。
今日は快晴なのだ。堂々と陽の下を歩く事が出来ない筈のエルケだったが、気持ちは晴れる気がして嬉しかった。
声の主の方を向く為に体を起こそうとして、思う様に手足が動かないことに気付く。
藁の敷き詰められた――但し腐りかけだ。床に右手を付いて頭を起こそうとしても、その全ての指には踏ん張りが利かなく、体ごと腐った水の中に飛沫をあげながら突っ込んでしまった。
頬から深緑色の臭い水に突っ込んだ所為で、鼻の穴へ一気に入って来る汚泥が痛く顔を少し顰めた。
(……臭っ! それに痛い……!)
エルケは吐きそうになりながらも小さく咽る。
微かに目を開けると、水は日射しを少し受け臭く澱んでいるのに綺麗な緑色をしていた。
どんなに顔を背けようとしても、臭くて苦しいのに体が動かないのだ。
(僕、一体どうしちゃったんだろう?)
エルケは霞む意識の中、思った。
口と鼻には遠慮なくぬるりとしたものが忍び入って来る。辛く苦しい日々だったエルケでも味わった事のない程、酷い異臭と味が口内に広がった。
もしエルケの体が今自由になるのなら、すぐに腰を折ってきっと何度も嘔吐しているに違いない。それでもそんな力すら今は残されていないのだ。
鼻も塞がれ辛うじて残された唇の端で短く息を吸うと、隙間風の様なもの悲しい音がした。
(……苦しい)
ひゅるり、と鳴く。
「何だ、動けないってか」
心底面倒臭そうな声がどこかで聞こえた。
「おい。生きてるか」
しかし不思議とその声の主は、これだけ汚れて異臭を放つエルケの風貌には触れようとはしなかった。エルケが生きているというそれだけを確認しようとしてくれている様だ。
だが、エルケには生きているのだと声を出すことも出来ない。辛うじて僅かに開いた瞼も少しずつ閉じて行こうとしてしまう。
小屋のすぐ近くで馬が鼻息荒く蹄を蹴っているのが聞こえ、エルケは見えない声の主が兵士では無い事を強く神に祈った。
(……お願い。兵士にだけは渡さないで……! あの場所には戻りたくはないんだ……姉さんの所に帰りたいんだ……!)
小屋の外にいるのが兵士ならば、エルケはそのまま再び城に連れ戻されるのだろう。
そして生涯を牢の中で過ごし、訪れる死の足音に怯え、二度と戻ることの叶わぬ郷愁に心を囚われながらエルケは短い生涯を終えるのだ。
泥の中に落ちた烙印のある右手の爪がこの場から離れるのを拒絶し、力無く腐った水溜まりの中を掻いた。
嫌な感触と共に、長く伸び割れた爪の中に何かが入り込んで来る。
腐った水を含んで甲に巻き付いた布切れが落ち、隠されていた手の甲の烙印が露わになっていた。
(……見ないで……! 僕を放っておいて……お願い)
声の主はもしかして烙印に気付いたのだろうか。突っ伏したエルケの耳に、頑丈な靴が腐った床を踏みつけながら小屋を出ていく音が聞こえた。
乱暴に開けた割に壊れることなくゆっくりと閉じていった小屋の扉が外の春風を伴い、エルケの額に垂れた一筋の前髪を払う。
こんな汚らしい場所に転がっていても、流れてくる風は心地よく誰しもに優しい。
(姉さん……僕は……もういいよね?)
すん、と鼻が鳴った。悲しくなりながらも、エルケはこれでいいのだと自分に思い込ませた。
鼻の奥が熱くなるのを感じながら、今の声の主に自尊心無く無様に命乞いをする程残されていなかった自分の体力を神に感謝する。
きっとこのままエルケが汚泥の中で息絶えるのだとしても、姉は城で死を迎えるよりもエルケらしいと褒めてくれるだろう。エルケはそう信じたかった。
これが運命なのだ。神が導いたエルケの終末なのだ。
ただ姉の所へ戻る事が出来なかった無念と、これから行くであろう神の御許に一人向かう恐怖心がエルケの胸を締め付ける。
頬を熱いものが流れた。
これだけ咽喉は水を欲しているのにも拘わらず、それは絶え間なく一粒では無く何粒もエルケの頬を流れていく。
すん、とまた鼻が鳴った。
もう一度瞼を開ける事も叶わずエルケは辛うじて残された烙印された手の指で汚泥を掻き、せめて拳を握り締めようとした。
(悲しいよ……それに怖い。でも苦しいんだ。でもそれよりもっと……姉さんの所に辿りつけないで悔しい……)
すん、と小さく鼻が鳴る。
敢えて意識を手離そうと全身の力を抜いたエルケの顔に、再び新緑の匂い混ざる風が当たった。
「……って、おい! 死んでんじゃねぇぞ」
同時に激しい衝突音、木がひしゃげ悲鳴の上げる音。乱暴な靴音は先程の声の主の様だった。
エルケは戻って来てくれて嬉しいとも、またやって来て怖いとも思う程にも頭が動いていない。ただ返事も出来ず、すん、と鼻を鳴らした。
エルケの上に何か大きい物が覆い被さると、頭から足先まで全てをそれが包んでいく。
汚泥と腐った水とエルケの間に何か硬いものが入った気がした。
ずるり、聞くのもおぞましい音が聞こえ、水が滴る音がそれに続く。
歪むのは、体。浮き上がる、体。
抱き上げられたのだ、エルケにも直ぐに分かった。
「おえ、臭ぇな」
先ほどよりもずっと近付いた声は、エルケの耳近くで面白くもなさそうに短く言った。
小さく咳込み、エルケを包んでいる布――だと感触で認識できた。もう一度足先まで丁寧に巻き付け、かなり頑丈な造りらしい靴で小屋の扉を蹴り付けたようだ。
蹴り付けられた可哀想な襤褸小屋の扉は流石に何度目ともなるとその寿命を終えたらしく、小屋の元を離れ白日の下に埃を撒き散らせながら吹っ飛んだ。
小屋の脇でまだ控えていたらしい馬がその物音に興奮したらしく、激しい鼻息と蹄の音も聞こえる。
(目の向こう側が……白くて、熱い……)
目を閉じている筈なのに、久し振りに感じた日の光は瞼に隠されたエルケの目の玉を焼き付けた。
風が鼻を擽り、花祭りに使われる今の時期は満開な花々の匂いを運んでくる。
何処に運ぼうとしているのか。最早、声の主が兵士であるのかもと思うのも忘れ、エルケはただ何とか残った聴覚のみを駆使して探っていた。
腕も体もぴくりともしない。
もう少しで天に召されるこの襤褸雑巾のような身体ならそんなに長くは持たないのだろうと、エルケは自棄になった。
全身を脱力させたエルケのそんな体を抱きかかえたままで、声の主は馬に乗ろうとしている。
「おい、我慢しろ。後で洗ってやるって」
強烈な異臭を立ち昇らせているエルケを背に乗せるのは嫌なのだと、持ち主に絶対服従をしていないらしい馬は必死に反抗しているようだ。
エルケの体が何度も上下に動くのは、力の抜けた体を抱いたまま手綱を引いているのか。
「悪いな」
乱暴にそれでも少し強引にエルケを腕に抱いたまま馬の背に乗り上がったらしく、声は少し申し訳なさそうに言った。
鼻息荒く馬がそれに答えた。全く、仕方のない奴だ。そう言ってるかのようだった。




