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涙と蝶  作者:
2章 Juni 青の街
19/73

間章

 危険を伴う長い旅を続ける交易商人や巡礼者の為に、存在する騎士団がある。峠を抱く、橙の山ワルゼにいる騎士団がそうだ。

 彼らは金を取り、目的地まで護衛するのが仕事だ。所領の管轄になるので傭兵よりも安全で値段設定がはっきりしている。

 難点はその金額だった。清貧で貞潔、それを神に誓った筈の彼等はとにかく金にうるさく、高い。

 夜も更けた暗闇の中、月灯りも今は幌の中までは降って来ない。

 直ぐ近くに屈んでいる筈のエリクが少しでも沈黙すると、もう眠りに付いてしまったのか傍にいるカヤが確認する事も出来ない程に木々に遮られた今日の闇は深かった。

「僕、聞いた事が無いよ。そこに行くの?」

 何も見えない闇の中で声が聞こえる。起きていたらしい。

 少し前まで目立った声の掠れはもう無くなっていた。今のエリクの声は少し高い。少年では無く、姿が見えないとまるで少女の様だ。

 いや、エリクは姿が見えてもまるで女の子の様だわ――カヤは闇の中で微笑んだ。

「ええ。脳味噌が柔らかい割に、財布の紐は固くて、無駄に大きくて臭い男共の集まりよ」

 エリクはその名を今初めて聞いた様に首を傾げている様だ。ふぅん、と一応相槌を打ち、毛布にくるまったままで隣で同じ毛布にくるまっているカヤの方へ近づいてくる。姿が見えないのが不安になったのか。カヤがそれを咎める事は無い。むしろ嬉しいのだ、暗闇を人が怖がるのは生理現象だ。頼ってくれる事が嬉しかった。

 闇の中で僅かに見えるエリクの首は既に傾き、膝へ預けてしまっていた。

「あんなのが、城壁内で甘いものに集る虫みたいに存在してるなんて最悪だわ」

 カヤは苦虫を噛み潰したしかめっ面で、そう吐き捨てた。

 全く想像もつかなかったらしいエリクは、荷台に伸ばした足を縮めて毛布の中に巻き込む。どうやら夜風が思ったよりも寒かったらしい。先程までしっかりと見開いていた瞳は、既に重そうに半分閉じてしまっていた。

 カヤはそんなエリクを振り返り、もう寝なさい、と笑う。返事は無かった。

 エーゲルを出て既に九日。高低差の多い旅路は予定通りに行かず、今ヤンとクルトはルッツ以外にも馬を用意するべきか荷台から少し離れた場所で話し合っている。

 相変わらず、激しく揺れる荷台の上ではエリクは思う様な程の睡眠が取れていない。暫しの休憩で思う存分寝かせる為に荷台の傍で話さず、なけなしの気を使って、どうやら二人は荷台から離れたようだった。 

 もしくは馬を買う買わないの話し合い自体が、休憩を長くさせる言い訳に過ぎないのかもしれない。それでも、カヤには瑣末だ。どうでもいい事だった。

 幌の付いていない荷台の端から奥を覗き込んでも、一体どこで話しているのか二人の姿は見えなかった。あの二人のことだ。いくら腕に覚えのあるカヤを傍に置いているとはいっても、女と、見かけは少女然している少年だけを荷台に残して、駆け付ける事の出来ない距離まで離れたりすることは無いだろう。そう分かってもいた。

 体を乗り出せば、僅かに見えるは星以外には何もない空。それに深く覆い被さる木々。もれなく何もかもが闇に包まれている。

 随分と明るくなったと思い上を仰げば、丁度真上の木々がない部分にまで月が移動してきていた。月を包む紫の光、光を包む濃い闇色の空。月灯りは眩しい程だ。でもどことなく冷たい光に見える。

 ああ、とても眩しい。心の奥底に凝り固まった物を見透かすような光だ。見たくないものまで見えてしまう、そんな光だ。途端に胸の空洞に気付かされる。もうやっと、忘れたのだと思ったのに。

 カヤは横で既に眠りに入ったらしい温もりを振り返り、自分の背に掛かっていた毛布を被せた。ゆっくりと横たわらせれば、目を擦りながらも起きあがって来る気配はない。その姿を見ると、空虚になっていた筈の自分の中がほんの少しでも潤って行く気がした。思い込みなのかもしれないけれど。

 ずっと前に、大切なものを手放した。そのカヤの傷はまだ癒えず、未だ言い訳の様な旅を続けている。手放したものとは何もかも違う筈のエリクから、どんなに言い聞かせても手を放せないのはその所為だ。

 荷台から静かに下りると、木が軋んだ。これ位の音では目覚めないだろう。ゆっくり眠ればいい、今は私が守るから。そう心の中で誓う。

 絶対に放さないと神に誓った筈の唯一無二の存在は傍にはいない。月を見上げるつもりもなく、空を見上げた。月が見える。全てを癒す事もなく、ただ見つめるだけの存在。

 愛すると決めた時に、決して報われないと知っていて愛した。愛した事も傍にいる事も全て、直ぐに夢になってしまう事も知っていた。触れた一瞬、一瞬が幸せで愛おしかった。もう微かな記憶。

 それでも待ちに待って腕に抱いた柔らかな贈り物に、頬を擦り寄せた一瞬は今でもまだ鮮明に覚えている。指を握る小さく細い指。つい先程までの痛みを忘れる程の、愛おしい泣き声。抱いた時に号泣した。ただ無性に愛おしくて。

 やっと全身全霊掛けて守るものが見つかったのだと思った。何を無くしてでも、それだけは守ろうと思った。自分から手放した永遠とも言える愛情が抜けた空虚さを、それで埋め合わせするのだと信じていた。

 眠る無邪気な顔を見れば、胸が詰まった。意味無く涙が溢れて、愛おしさが胸から溢れ出た。

 抱くと胸に頬を擦り寄せてくる。額を合わせ見詰める目は、未だに愛しているあの人の瞳。決してもう会うことの許されない、あの人の目。それ程まで愛していたのに、自分から手放してしまった。

 見上げた月は孤独だ。見上げると無性に泣きたくなる。寂しくて、苦しくて。

 ヤンやクルトの手を離せないのは自分の方だ。カヤは届かない月から目を離し、背中の向こうで微かな寝息の聞こえる毛布の山を振り返る。寝息で安心する事を、カヤは大切な物を失ってから初めて知った。

 定期的に聞こえる寝息。上下する体。

 空を見上げる。どんなに手を伸ばしても、絶対に届かないのを知っていて爪先を伸ばした。

「会いたいわ、貴方に」

 呟いた声は闇に消えて行く。何もかもを例外なく包む静寂の闇が、全て覆い隠した。

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