8
「本当に、なんて言っていいのか」
不器用だねぇ、と続けながらクルトは小馬鹿にした笑みを浮かべた。
ヤンは手綱を握りながら、クルトの小馬鹿にした台詞には何の反応も返して来ない。いつもそうだ、この無骨な旅の同行者はいつも比較的感情を抑えめにしている。
クルトは何を考えているか極力悟らせないようにしているヤンを横目で見ながら、御者の台に背中を預ける。吹き抜ける風が心地良く天を仰ぎ、目を細めた。
「そんな難しい顔してんならさ」
何と無くクルトが言わんとしている事を察したのか、ヤンがルッツの手綱を持ち直していた。本当にらしくない反応だ。クルトは内心呆れ返りながらも、容赦せずに次の句を続ける。
遠慮しては駄目なのだと知っているからだ。特に自分達の関係は、クルトが手を離せばきっと直ぐに瓦解するだろう。分かっているからこそ、放っておく訳にはいかなかった。あの赤金の小さな少年を。
「言ってやれば良かったんだよ。エーゲルは間もなく戦場になるって」
白の大都市ヨープへ続く街道を得た青の街エーゲルは、穏やかでどこか無骨だった数年前とはまるで様変わりしてしまっていた。
何処までも優しい街人は湖で猟をする為に役人へ支払う税金に追われ、漁業の売り上げだけで暮らしていけなくなった貧しい街人は苦しみながらも街を見限った。もう既に出て行ってしまった街人は、クルトの知る限り半数を超えている。何処へ行ったのかは知らない。知る必要もない。
怠慢な役人は、自らの懐を癒す商人を優遇した。市場が混迷しているのはその所為だ。
例え偽物を扱おうと、質に合わない値を付けようと、役人の定めた税金さえ払えば商売が出来る。そうなると、ヨープからの利便性が向上したエーグルへ、ヨープからの商人がなだれ込んだ。
大司教が治めるヨープは市場の質にはうるさい。教会の目と鼻の先に開く市場に、まさか偽物やぼったくり商品を扱わせる訳には行かないだろう。定期的に市場を巡回する騎士はならず者を決して許さない。ヨープで商売が出来なくなった札付きの商人は、エーゲルで売りさばく時にヨープからエーゲルまでの旅賃を値に加え、扱う商品の値段は跳ね上がって行くのだ。
鉄製品の値段が跳ね上がり、白の大都市ヨープから緑の都市ビューローまでの交易が滞った。経済的に潤っているヨープはまだいいとしても、鉱山の枯渇に加え領主の横暴が目立つビューローは黙っていない。金があるのならば、金で戦争は回避できる。理解はしていても直ぐに金を用意できないエーゲルは、今攻め込んでくるビューローへの防衛に必死なのだ。集めているのは兜や刀剣、甲冑などの軍用製品だった。今回はヤンの担当だ。
「そうだ、大立ち回りだった様だね」
「見てたのか」
ヤンは二転三転する会話にも律儀に付き合ってくれる。まぁ、鉾先が悪ければそのまま無言で流されることも多かったとはいえ、今回は珍しく直ぐに反応が返ってきた。
大立ち回りで直ぐに市場の一件を思い出すとは、ヤンも結構な重症だ。よっぽどあの少年が気に入ったのか、それとも同情したのかのどちらかだろう。
クルトは苦笑する。
「まぁ、見ていたっていうか見せつけられてたんだけどね。文字通り、高みの見物ってやつ?」
ヨープからの街道が繋がる前までは、中央広場には修道院と教会が並んでいた。広場中央には大きな泉と、湖を見詰める天使の像。ささやかな市場には新鮮な魚が並び、色取り取りの花が民家の窓際を飾っていた。
久し振りに見たエーゲルはその面影は何も残さず、懐かしいものも全て違うものに取って変わっていた。変わらないのは湖だけだ。ただそれを見ていた。聞きたくもなく人間の話を聞きながら。
「そうか」
律儀な相槌に、思わずクルトは噴き出した。
実際、あんなに必死になったヤンは久し振りに見た。人波を漕いで進むヤンの前に飛び出してしまった街人か商人に、思わず同情したぐらいだ。この体格があの速さで近づいてきたら、余程恐ろしかった事だろう。ヤンは最初こそ進むのに苦労した位で、エリクの近くまで来たら人混みの方がヤンに道を譲る位だったのだ。余程の形相だったのだろう。
まるで麻袋でも持ち上げるようにエリクを肩に担ぎ、躊躇することなく広場を去っていくヤンを見ていた。
快適だった付かず離れずの旅は、もしかしたら終わりを迎えるのかもしれない。そう思って少しエリクの存在に苛立ったのは事実だ。
何も出来ない。何も言わない。何も聞いて欲しくない。それを許しているカヤとヤンが馬鹿みたいだった。それよりも何故、あの時わざわざ迎い入れる様な事を口にしてしまったのか。それが一番分からなくて、自分が一番馬鹿みたいだとクルトは思った。
そろそろ出て行ってくれ。そう言って追い出せば、あの男の癖に妙にらしくない顔を歪めてさっさと出て行っただろうか。むしろ一度くらい、脅せば良かったのか。そうしたらカヤもヤンもエリクに執着し始める事もなくいつも通りの旅が続けられたのか。
全員欠けたものを補う事もせずに、旅を続けている。久し振りに受け入れた『外部の人間』は思っていたよりも面倒な少年で、何かに付けて直ぐ出鼻を挫いた。不安げな表情を浮かべて謝れば全てが許されると思っているのか、何かにつけて怯え、直ぐに部屋に閉じ籠る。まるで子供の癇癪だ。手に負えない。
あの体なのに追い出す気がしれない。そう言って噛み付いて来たカヤは、元々執着心が強いだけあってエリクを手離す気は無い様だった。じゃあ、一体どこまで連れて行く気だ。そう言い返してカヤと揉めるほど情熱的にもなれない。
「それこそ自分で決めるだろ」
ルッツの手綱を引いて、横のクルトとの会話から逃げるようにルッツを急がせるヤンは、そう突き離すような物言いをしても、最終的にはエリクから手を離す事が出来ないのだ。賭けてもいい。
男だから出来る。そう思ってる事自体、そもそも疑わしいのだ。クルトは思っていた。
出て行くのなら勝手にしろ、と言った後に敢えて男であるのを疑った様な台詞で鎌をかけても、エリクは特別変な反応はしなかった。ただいつも通り、怯えた口調と曖昧な態度、それだけだった。
事実エリクは本当に男なのか? 強引に服を剥いてしまえば直ぐに判明する事とは言え、そういう趣味には余り明るくないのに無理をしたくは無かった。女であればまだ救いがあっても、男ならその後の空気は最悪だ。冗談で言えても、本心は絶対に嫌だ。
細い腰に狭い肩。誰がどう見ても薄過ぎる体は成長期に栄養失調なら、まぁあんなものだろう。
未だに着込んでいる長袖の袖口から見える手首は骨と皮しかない程だったし、刺さりそうな程鋭角だった顎も明らかに痩せている所為で仕方ない。だから、何と無くクルトも疑問に思っていただけだった。
それに誤魔化す事の難しい、声を聞けば分かると思っていた。それでも痩せて枯れた声は、あの年齢に良くある掠れ声だ。判別付かない。
何と無くはっきりしないまま旅をして既に一月を過ぎると、少しずつエリクの体に血色が戻り、ほんの少しでも体に肉が付いてくる。すると、エリクの見かけはより一層少年と言うよりも少女に近づいていった。疑問に思わない方がおかしいだろう。服装だけ――確かに胸回りは女だとしたら非常に残念な感じであったけれど、で性別を判断するのか?
もし女なのだとしたら、どうして女である事を隠すのだろう。旅をする為に女の一人旅が危ないというならば、あれほど頑なに名前以外を隠す意味がクルトは分からない。
エリクは女だ。クルトはまだその疑いを完全に消してはいない。色恋が動物並みに本能任せなヤンが、エリクが男だろうと女であろうと全く気にしないのは理解できる。きっと人間か人間じゃないで判断しているだろうから。
一方のカヤは例えエリクの本当の性別を知っていても、エリクに真実を問いただす事は決してしないのだろう。言って自分の前から誰かが突然消えてしまう事を、カヤは誰よりも恐れている。
それは決して表面に出さなくとも、クルトやヤンに対しても一緒だ。
まぁ。それでもエリクとの旅がここで終わるのであれば、女であろうが男であろうが今となってはどうでもいい事だった。瑣末でしかないのだ。
「またあそこに行かなくちゃいけないのは流石にきついなぁ」
ヤンの横で、首に巻いた何本ものショールを振り回しながら、クルトはぼやいた。
速度を速めた所為で、あっという間に馬車は目的地に近づいている。並んでいる教会と大きな邸。昔とは違う悪趣味な物が中央広場に建っている。
天使の像と入れ替わっているのは、醜悪な像だ。足も短く顔も大きい。普通はもっと美化して作られる像は、職人たちの手に寄って本人の行き写しの如く精巧に醜悪に作られていた。
「ヤン。ルッツにあれ、邪魔だから蹴らせてよ」
「馬鹿か」
馬鹿な話を切りだして、クルトはエリクの話題をわざと切った。
それに関して、話筋をもう一度エリクに戻そうという様な面倒な事をヤンがしてくる気配は無い。いつも通りにただ聞き流しているだけだ。
本当に不器用な奴だよ。クルトはあくまで平然とした顔を崩さないヤンの足を、噴き出しそうになりながら蹴り飛ばした。




