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結局、あれから二日間、部屋に籠ったまま過ごすことになった。不貞腐れて、と言う訳ではなくて何と無く出るタイミングを失った。
カヤが届けてくれる食事を食べながら、エルケの使っている部屋に置き忘れていた前の住人の書いたレシピノートなんて物をずっと見ていた。
いちじくのコンポート。りんごのジャム。甘い蜂蜜菓子、香ばしい焼き菓子。肉汁滴る表面に蜂蜜をたっぷり塗ってローストした鶏肉料理。塩漬けした魚の美味しい食べ方。
たまに子供が描いたような小さな絵があって、それがささくれだったエルケの心を少し癒してくれた。
窓際に腰掛けて外を見ると、空の色を写して青く輝く湖が玩具の様な街並の間に見える。大きな教会と屋敷だけが窓の景色の中で無駄なだけで、それ以外は十分絵画の様な景色だった。
風が丘を吹き抜けると、その度に花の香りを運んで少し開けてある窓から忍びこんできた。
この街は嫌いじゃない。どうせ少しでも滞在するのなら、こんな街がいいのかもしれない。一向に晴れない気持ちにそう言い聞かせて、エルケはレシピノートの文字を指で辿る。
震動が触れた気がしてエルケは顔を上げた。一階の扉が開けば、窓際に腰掛けたエルケの尻には直に物音が響く。その度にエルケは慌てて窓際から飛び降り、姿を隠すのだ。
聞こえる声は大体がヤンとクルトだ。扉を出るなり、絶え間なく話していたクルトの会話が一旦止まるのにエルケは気付いていた。窓を見上げているのだ。エルケはあの日から一度も二人の間に姿を見せていない。
幼すぎる反応だ。理由なく癇癪起こすのは子供によくありがちな行動だから。それでも、内心感謝こそすれど面白くないのだ。ああ、本当に子供だ。情けなかった。
あの路地裏で、エルケが投遣りな口調で唇から解き放した一言に、ヤンは感情ない視線を俯いたままのエルケへ下ろし「金はどうする」とだけ言った。引き止める事も、エルケがそう言いだした事にも何も思わない様な口調で。
何も引き止められるのを期待している訳じゃない。そうは思っていても、無関心なヤンの口調に正直苛つく感情を抑えられない。随分と自己本位な感情だ、そう分かっていた。
何も考えてない。じゃ、恰好が付かなかった。それで先程のフロリアンという男が話していた事を思い出して嘘を見繕った。下手に長く言い訳をすると、きっとヤンには見破られるだろう。そう思ったから「稼ぐよ」とだけ答えた。
嘘じゃない、全然嘘じゃない。あの話はまだ立ち消えになっていない筈だ。ヤンが商人に狙われているのを助ける為にエルケを連れ去ったから、話は途中で止まっている筈だ。そう自分に言い聞かせた。
それから少しの間、返事が無いまま沈黙は過ぎて、おどおどと見上げたエルケの真上でヤンは何か物言いたげな表情を浮かべていた。それでも何も話さない。
「いいよね」なんて、言ってどうする。そう思いながら、躍起になった言葉は絶え間なく唇から零れて行く。自分の後ろめたさで胸が潰れそうだった。
「ああ」とヤンが答えた。どうしてか、寂しくなった。これでヤンともクルトともおさらばできる。カヤと離れるのは少し悲しいけれど、それでも彼らはいつも通りの日常に少なくも戻れるのだ。エルケの子守をすることなく。
これが最適な行動だ、誰にも迷惑を掛けずに旅を続ける。大体、無理だったんだ。性別を偽り、過去と旅の理由を隠しながら旅を続けるなんて。ヤンの顔を見上げて思わず「ごめんなさい」と「ありがとう」と言いたくなるのを耐えた。奥歯を噛んで、必死だった。
今ここでいい子の顔をしてどうする? 彼らとはもうここで別れるのに。
ヤンはそのまま何も聞く事もなく、勝手な事を言っているエルケを責める事もなく、ただいつも通りに肩にエルケを担ぎ広場で途方に暮れていたカヤの前まで連れて行ってくれた。それがあの日の顛末だった。
本当に最悪の日だったのだ。きっと、エルケよりも喧嘩沙汰になったヤンや探し回って不安になったカヤの方がずっと。
レシピノートを最後まで――結構厚かった、読み終わり、最後のページに描かれたつたない文字を読み上げながらエルケはルッツと荷台の立てた土埃を見送っていた。今回は何を取引しているのか、ヤンとクルトは毎日のように家を出て、夜遅くになってから帰って来る。商品と呼ばれるものは何も持たないで彼らは出掛けるのだから、きっと市場で何か交渉しているのかもしれない。
時間的にカヤがそろそろ二階に上がって来る頃だった。
エルケはレシピノートをベッドの薄い布団の下に隠し、日が昇るにつれ日差しの暑くなってきた窓を少し大きめに開ける。枷を失って一気に吹き込んできた風がエルケの頬と髪の毛を揺らして、エルケはその赤金の髪を片手でかき上げた。
丁度、小さな合図の後に部屋に籠って三日目になったエルケを気遣うカヤの声が聞こえてくる。
エルケはここで別れると宣言しつつも未だ世話になっている事を少し後ろめたく思いながら、廊下へ続く扉を開けた。
「元気?」
毎日、カヤはそう聞いてくる。熱でも出しているのだと思っているのだろうか、閉じ籠った二日間ずっとカヤは扉を開ける度にそう聞いて来た。
「元気だよ、ありがとう」
カヤにだけは少し素直にそう言えた。姉に少し似ているからかもしれない、と思う。姿形は全く違うけれど、琴線に触れてくる奥底がどこか懐かしいのだ。
「そう。何か食べる?」
「さっき、パンとシチューを食べたよ」
エルケはそう言って首を振る。
ここで別行動をすると言ったエルケに一番反対したのはカヤだ。言い返す隙も与えなかった。ただ強い口調で「駄目よ」とだけ言った。そして、直ぐに「無理よ」と泣きそうな口調で続けた。それからずっと、まるで親鳥の様に閉じ籠ったエルケの世話を甲斐甲斐しく焼いてくれる。
元々世話好きらしいカヤは、食事を作ったり、体の不自由なエルケの手助けをするのが余り負担にならない様だった。憎まれ口を叩きながらも、クルトやヤンの食事もきちんと用意して母親の様に振舞っていた。洗濯も掃除も毎日欠かさなかった。
今にも家を飛びだしそうだった勢いのエルケに、エーゲルにカヤ達が滞在している間までは住居を共にする、と説得したのもカヤだ。
「出てく、って言うならいいでしょ。男の子なんだから」そう苦笑しながら言ったクルトに雑巾を投げ付けて、例え男だといえ不自由な体ではおいそれと外へ出す訳にはいかない、とカヤはエルケの手首を握った。痛みに倒れるかと思った、それぐらい強い力だった。
「揃いも揃って。まぁ、勝手にしなよ。俺も勝手にするからさ」そう言ったクルトの顔へ次は花瓶が飛んだ。クルトはそれを受け止めて――花瓶の水は被っていた、片手を上げると寝室へ消えて行った。濡れたまま。
ヤンはその間、一言も発しなかった。相変わらず何かを考え込んでいる様な、それとも苛立っている様な、そんな難しい顔をしたまま壁に背中を預けて立っていた。
「エリク、今日の外は凄く暑いのよ」
カヤが額から垂れてくるエルケの汗を指で拭った。昨日、カヤに渡された短い袖の服を着た方が涼しくていいんじゃないか。そう言われているのは分かる。
「うん、そうみたいだね。風が気持ちいいもの」
そう言って、エルケは上手くはぐらかした。
袖が短くなると手の甲に巻いている布切れが目立つだろうし、どうしても細すぎる腕は痩せているとはいえ女性を思わせるだろうから、剥き出しにするのは避けていた。それに、薄着だとどうしても胸の辺りが気になった。
汗が噴き出ているのを知っていて、エルケは袖の無い上着をシャツの上に着込んでいる。少し大きめの上着は厚手で傍目どころかきっと抱きついたとしてもエルケの体格に気付く事は無いだろう。暑い、確かに暑いけれども。
汗を流していたエルケの顔が赤かったのか。カヤが窓をより大きく開け放ち、
「水を持って来るわね」
とエルケの部屋を出て行く。次第に遠くなる軋む階段の音にエルケは肩で大きく息をして、窓際へ上半身を出した。カヤは優しい、それでも息が詰まった。優しくして貰って、そう思うのはおかしいのに。
汗まみれの体に、生温いとはいえ吹き付ける風が心地いい。仰け反り、より一層上半身を出せば解放感に胸が震えた。ここで全部脱いで風を思う存分浴びる事が出来たら!
勿論そんな事は出来ないけれど、考えるだけで涼しくなるような気がしたのだ。何もかもを全部忘れたくなる、絶対に出来ないのを知っていてそう思う。
「エリク」
突然、窓下から聞き慣れない声が聞こえる。遠慮がちなその声は窓から今にも転がり落ちそうなエルケを案じていて、エルケは慌てて完全に気の抜けた表情を改めると体を窓外から引っ込めた。
階下の少女はまるで宮廷の姫君の様に、少し薄汚れたスカートを広げて挨拶して見せる。
「こんにちは、今日も暑いね」
本当に! この厚着には吐き気がする程だ。
窓際にいるエルケを眩しそうな表情で見上げ首を傾げているこの娘は、確かこの家の貸主の娘だった筈だ。初日に会ってから見ていなかった顔に、
「こんにちは、リリー」
と上手く表情を作れずにぎこちなく答えると、エルケは小さく頭を下げた。
愛嬌のある表情を隠さない子供臭さと、無理に大人っぽく見せようとしているのが同居する少女だ。一生懸命背伸びしようとしているけれど、もしかしてエルケと同じ位の歳かもしれない。やはりこの年齢位の女は肉付きも良く血色もいい方が女らしく愛らしく見えるのだ。
まじまじと顔を眺めてくるエルケの視線に耐えかねたのか、それともただ単に今日の日差しが暑過ぎるのか。頬を紅潮させて彼女はエルケから目を逸らした。
それからリリーは手持無沙汰にスカートの脇を掴み、エルケには見えない埃を指先揃えて払うと、
「ね、今お話しできるかしら?」
と窓から顔を出しているエルケを見上げてくる。
反射的に、何故か家の前を通る先程ルッツと荷台の消えた向こう側へ視線を移した。何の影もない。当たり前だ、さっき行ったばかりなのだから。そうだ、戻って来る筈は無い。
外に出るのを誰に咎められた訳でもないというのに、何と無く後ろめたかった。
それでも部屋を出ようとはしないエルケを心配しているカヤに少しでも安心して欲しくて、窓向こうへ、ちょっと待って、と答えるとエルケは久し振りに階段を下りた。
暗く狭い階段は、足元が不自由なエルケにはむしろ逆に都合が良い。体の重心が崩れても、下に転がり落ちない限り手摺も壁も十分に支えになるから。
足音を忍ばせて一階に下りると、水の入ったカップを手にしたカヤと鉢合わせた。手に持った瑞々しいオレンジが乗った皿。どうやらいつまでも上に上がって来なかったのは、これの準備に手間取っていたらしい。
きっとオレンジは井戸の水で冷やされている。エルケには分かる。カヤ、ごめんね。エルケは心の中でそう謝った。
「出掛けるの?」
不安そうなカヤの声。
「ううん。リリーが来てるから、直ぐ外で話をしてるね」
それを宥めるように、エルケはカヤの手に持ったカップの水を飲み干した。
「暑いから、日陰でね」
まるで心配性な母親の口調だ。分かってるよ、そう言ってエルケは扉を開ける。閉める寸前の不安そうなカヤの顔がどうしても目に焼き付いて、何故そんな顔をするのか。不思議で仕方無かった。




