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狭い路地、高い壁に囲まれた小さな戦場。
多勢に無勢な筈なのに、エルケの前に立ち塞がった背中は一向に怯む様子を見せない。むしろその背中はエルケの盾になった事を楽しんでいるようで、エルケはその離れて行くヤンの背中へ声をかける事を思わずためらった。
剣を手にした相手の方へ素手のヤンが無言で躊躇いなく足を進めると、その長過ぎる沈黙に耐えられなくなった先頭の男が切りかかって来る。僅かにしか射し込んで来ない日の光が偶然その剣に当たり、目が眩んだ。
ああ、痛い! 反射的に意味無く片手を伸ばしてしまったエルケの前で鈍く何かが砕けた音がして、エルケは肩を竦め飛び上がる。あまり聞いていて気持ちのいい音では無かった。どこかの骨がひしゃげた音だ。辛くて奥歯を噛む。
壁に背を付けたままだと、路地が狭いこの場所からエルケには何が起きているか目視する事は出来なかった。
エルケの足元にその男が握っていたらしい剣が、煉瓦の道を削り火花を散らしながら滑り込んでくる。エルケは自分の足元にやってきたその剣を、震える足で思い切り踏みつけた。金属が打ち付ける嫌な音が耳に突き刺さる。
逃げる事も共に戦う事も出来ないエルケが何か手伝える事と言ったらそれぐらいだった。この剣は相手側へ戻してなるものか。それだけしか考えないようにして、勇気を振り絞り幾人もの男達と対峙するヤンの背中へ目を凝らす。いつでもヤンの指示に従えるように。
衝撃音と衝突音。だけど無言の交戦。無駄のない動きでヤンは腕を振り回し、拳か肘で的確に相手の顎か腹を捕えている。一斉に掛かればたった一人の相手だというのに、この狭い路地では囲む事もエルケの方へ切りかかる事も出来ないのだ。
男達がヤンの隙を見計らって背中側に回ろうと躍起になっているのに気付き、エルケは自分の後ろ側を振り返った。
そうか、この路地裏の奥は袋小路になっているんだ。だから彼らは後ろからエルケを捕える事が出来ないらしい。見上げる壁に見える窓の中で鉄格子の付いていない窓は無く、ここの表はどうやら倉庫らしかった。
相手の狙いはまさにエルケだった。その原因は恐らく先程の商人との大立ち回りに違いない。あれだけの恥をかかされて、あの商人はエーゲルでの商売がもう出来ないだろう。それの腹いせなのだ。
ヤンはエルケの浅慮に巻き込まれただけだった。気性の荒い商人に立て付いたエルケが悪いのだ。もしかしてヤンがエルケを急いであの場から連れ出し、ここへ連れて来たのは理由があったのかもしれない。走って逃げる事が出来ないエルケを庇うには、ここしかなかったのだ。
ヤンの足元に見える幾つもの体は脱力していて、土埃が付いている。それでも血は見えなかった。圧倒的なその状況というのに怖けず一人駆け込んできた男の腹に膝を埋め再起不能にした後、ヤンはその頭を掴み壁に投げ付けた。
鈍い音と激しく咳き込む声。何故かその瞬間、絶対に目を逸らさないと決めたのにエルケは、思わず目を閉じて両手の平で顔を覆ってしまった。どうしても見てられなかった、余りにも辛すぎて。
振るわれる暴力を見たのは一度や二度では無い。何度も殴られ、痛めつけられる場に居合わせた事はあった。勿論、その暴力が自分の方に向いた事もあったのだ。
それでも、自分の所為で他人が巻き込まれるのを見るのは辛い。ヤンだって、相手側程では無いにせよ無傷では無いのだ。もう止めて、また叫びそうになった。
店主の冒涜に腹を立て、後先考えず知識をひけらかせた。その知識が認められたと自惚れて、状況を察知したヤンがエルケを助けに来てくれたのに、エルケは自分勝手にヤンを責めた。何もかも考えなしな自分の所為だ。
一度目を閉じてしまうと、もう目を開けて背中を見る事は出来なくて、剣の上に乗せた足はそのままでエルケはその場にしゃがみ込んだ。心の奥で「もう止めて」と絶え間なく叫んでいる声が唇を破って飛び出してしまいそうで。
顔を覆っていた震えている手を拳にして、それを固く握り締める。
ああ、また何かが折れる音と呻き声が聞こえる。終わると思っても、まだ続く。もう止めて。お願い、もう止めて! もう嫌だ。
もう――耐えられない。
「ヤン、僕が謝りに行くから! もう止めて!」
エルケは叫ぶと、足を引き摺りながら離れたヤンの背中に半ば飛び上がる様にしてしがみ付いた。
前に出ると状況がよく分かる。ヤンの目の前に立っている男はもう一人しか残っていなかった。擦り傷と切り傷が浮かぶヤンの握り締めた手には、一人の男が呻きながら襟首を掴まれぶら下がっている。
エルケはそれを間近で見下ろすと、ヤンの腕にしがみ付き小さな悲鳴を上げた。思わず目を逸らす。それでも、逸らした先には気絶した男が何人も転がっている。ああ、なんて辛い。
咄嗟に目を瞑りたくなる衝動を耐えて、エルケが上を見上げるとヤンが呆れた表情をしていた。苦虫を噛み潰す表情を浮かべると、吐き捨てるように返される。
「馬鹿か」
襟首を掴んでいた男は一度呻き、そのまま気を失った。ヤンはそれをまるで塵の様に男達が累々と転がった中でも空いた場所へ投げ捨てる。その場所に丁度転がっていた違う男の靴に気を失っている男の頭が当たり、首が向こう側にだらりと力無く垂れた。
それを見てエルケは狂ったように叫ぶ。今日は全くなんて日だ。咽喉を酷使してばっかりじゃないか! 最悪だ。
「駄目だ、もう駄目だよ! 僕が悪いんだ、僕の所為なんだ。だから――」
「謝れば、許してくれるってか」
また舌打ち。綺麗事だな、そう言い返すとヤンはもう一人残った男へ足を進めた。砂を踏む音が大きく聞こえてエルケはまたヤンの前に回り込む。
「駄目だ、もう止めて!」
そう、即叫んだ。
残った男は既に刃向かう気を失っている様に見える。剣の柄を握る手が細かく震えているのだ。
そのままヤンの腕を掴み――ぶら下がってだが、エルケが首を振りながらその男を振り返ると、騒動で気付かなかったけれど、先程広場でしつこくエルケに声を掛けてきた男だった。
決して好印象の相手ではないとはいえ、傷付けていい相手でもない筈だ。だって、震えてる。だって、怖がってる。それなのに。
「早く! 早く行って下さい!」
「エリク」
振り払える程の力だった筈だ。
掴む指の力は実際には女の物で、しかも恐怖で殆ど指には力が入らなかった。エルケが両手で強くしがみ付いても、ヤンの腕は太い。それに名前を呼んでくるその声は明らかに怒っていた。そんなヤンなら簡単に、エルケを壁側にでも投げる事が出来た筈だ。
でも、振り払われなかった。それを信じた。
「お願い! 早く逃げて!」
これが一番いい事なのか? 正解なのか? 必死なエルケにはそんな難しい事は考えられなかった。
これ以上ヤンが自分の為に暴力を振るうのが耐えられなくて、それ以上にそんな事をさせた自分がいたたまれなかった。
そうだ。一番は自分だ、綺麗事を言っていても一番はヤンじゃない。そんな自分勝手な考えに反吐が出た。本当に今日は最悪の日だ。
「……あ、ありがとう!」
エルケの声に戸惑って、それでも男は剣を投げ捨てると直ぐに背中を向けた。
ヤンがそれを追おうと若干手を上げた様な気がして、エルケは必死に腕を掴んだ指に力を入れる。絶対に離さない、そうそれだけを思ってただ必死だった。
遠のいて行く足音。完全に足音が消えると、ヤンの舌打ちとエルケの安堵した溜息が同時に重なる。
「お前な」
文句ありげなヤンの声がエルケの頭上から聞こえた。
エルケはヤンの物言いたげな声を聞いて、掴んだ腕をゆっくりと離す。全身を使って押し留めていた腕を見下ろせば、ヤンの体に見えるのは薄く付いた切り傷に擦り傷だ。
拳に滲む血と破れた服を見ると、今更ながら恐怖でまた震えが込み上げてきた。
「ああいう手合いを逃がすと、碌な事にならねぇぞ」
何度も続く溜息と苛立ちに、エルケは震える体を自分の両手で抱き締め項垂れた。
こういう時はなんて言えばいいのだろう。ありがとう? ごめんなさい? 違う、そんな事じゃない。俯いたエルケは下唇を噛んで、大きく首を振った。なんて言えば、伝わるんだろう?
垂れたままのヤンの拳を俯き見詰めたまま、エルケはもう一度大きく首を振る。
掠れ、焼けつく咽喉の痛みに耐えながら振り絞った今一番言いたかった言葉は随分と投遣りな口調になり、エルケは唇の向こう側に追いだしてしまってから思わず唇を噛んだ。
「僕はここで、エーゲルで別れるから。ヤンがそんな事までしなくていいんだ」




