第三十一章:旅立ち(デパーチャー)- 1
出発の日の朝。
空はまだ白んでいなかったが、アイアンソーン家のキッチンにはすでに温かい灯りがともっていた。
深い夜の海に浮かぶ、希望の灯台のように。
その光は優しく、そして力強く。
屋外の寒気を追い払い、別れの名残惜しさを照らし出している。
サラは質素なエプロンを締め、炉の前で忙しく立ち働いていた。
その動作は慈しみに満ち、神聖な儀式を執り行う巫女のように真剣だった。
彼女が用意しているのは、豪華な餞別の宴ではない。
風干し肉、木の実、そして蜂蜜を練り固めた、ドワーフ流の携帯保存食だ。
それを一つ一つ、丁寧に油紙で包んでいく。
家の温もりと栄養が詰まったその包みは、遠くへ行く息子への最高の贈り物だ。
彼女の指先はゆっくりと動く。
油紙の折り目の一つ一つに、心配と祝福を折り込んでいるようだった。
揺れる火光が、小皺の刻まれた彼女の顔を照らす。
歳月の痕跡は、温かい光の中で優しさへと変わる。
その瞳には複雑な色が揺れていた。
手放したくないという愛着と、強くあってほしいという願い。
旅立つ子を見送る、すべての母親が持つ矛盾した感情。
ブレイクは食卓の端に黙って座っていた。
目の前には、冷え切ったエールのカップ。
琥珀色の液体は鏡のように静止し、彼の今の凪いだ心境を映している。
彼は誰とも目を合わせない。
ただひたすらに、一振りの真新しい短剣を、そのゴツゴツした大手で磨き続けていた。
それは彼が手ずから打ち上げた傑作だった。
刀身は百錬精鋼(ダマスカス鋼)。
流水のような紋様が浮かび上がっている。
その一本一本が絹糸のように美しく、そして致命的だ。
柄には最高級の鉄木が使われ、装飾は鉄棘家の紋章のみ。
簡潔にして力強い、実用を至上とするドワーフ工芸の美学が凝縮されている。
彼の磨く動作には、言葉にできない重みがあった。
まるで、自分の魂の一部を刀身に擦り込むように。
遠い地で息子を守る守護霊と化すことを願うかのように。
一拭きごとに祈りを込め、一動作ごとに父としての深い愛を刻み込む。
アーガスは旅装束に身を包み、それほど大きくない荷物を背負ってキッチンに入ってきた。
母の背中と、父の無言の横顔を見る。
未知の世界への興奮と、離別の不安。
それらが、温かい絆によって包み込まれていくのを感じた。
この家、この人々こそが、この世界で彼が手に入れた、何にも代えがたい宝物だ。
「……母さん」
サラが振り返る。
日に日に痩せ、しかし芯の強さを増した息子の顔を見て、彼女の目元が瞬時に赤く染まる。
彼女は駆け寄り、まだ炉の熱が残る食料の包みを彼の荷物に押し込んだ。
そして、彼をきつく抱きしめた。
その抱擁は熱く、力強く、自分の全存在を彼に伝えようとするかのようだった。
「気をつけるのよ……」
彼女の声は鼻声で、震えていた。
「ご飯はちゃんと食べて。夜更かしして変な本ばかり読んじゃダメよ……お金が足りなくなったら手紙を書いて……寒くなったら服を着込んで、節約のために我慢しちゃダメ……」
千の言葉が、平凡で、しかし愛に満ちた小言となって溢れ出す。
それらの言葉は柔らかな糸となり、旅立つ子と家をしっかりと結びつける。
「分かってるよ」
アーガスは母の背中を優しく叩いた。声が少し掠れる。
この瞬間、彼は野心に燃える若き創造者ではなく、ただの家を離れる子供だった。
ブレイクが立ち上がった。
寒光を放つ短剣を手に、アーガスの前へ歩み寄る。
抱擁はない。
ドワーフの父親の愛情表現は、常に不器用で実直だ。
彼はただ、アーガスの腰帯に用意されていた鞘に、その短剣を差し込んだだけだった。
カチリ。
短剣と鞘が完璧に噛み合う音がした。あつらえたような適合感。
「……守り刀だ」
彼はたった一言、短く告げた。
声は太く、ぶっきらぼうだったが、その瞳からは隠しきれない憂慮と誇りが溢れ出していた。
この刃には、彼のすべての祝福と願いが込められている。
――永遠に使わずに済むことを願いつつ、もしもの時は、必ず息子を守ってくれと。
アーガスは頷いた。
腰に伝わるズシリとした重みを感じ、心強い安堵を覚えた。
その質量は鋼鉄以上のものであり、父の愛の重さだった。
母の温かい抱擁の中で、アーガスは旅立ちを前にしたこの重い愛を感じ取った。
【あとがき】
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次の章も、全力で鍛えます。




