第十九章:炉の火と傷跡(ハース・ファイア・アンド・スカー)-3
――深夜までは。
アーガスはトイレに起きた。
姉の部屋の前を通りかかった時、最初に聞こえたのは、押し殺した獣のような嗚咽だった。
タオルに口を押し当てて叫び声を殺しているような、低く、苦痛に満ちた音。
心臓が凍りつく。
彼は気配を消し、音もなくドアの隙間に目を寄せた。
廊下の冷気が背筋を這い上がる。
そして、見てしまった。
アイリーンは窓に背を向け、床に座り込んでいた。
口にはタオルを噛ませ、激痛に耐えるように全身を痙攣させている。
さらけ出された左肩には、骨まで達するほど深く、獰猛な爪痕が刻まれていた。
だが、問題は傷の深さではない。
傷口周辺の肉は、不吉な、死んだような灰黒色に変色していた。
さらに恐ろしいことに、傷の奥底から、生き物のように蠢く「闇」が、執拗に滲み出してきていたのだ。
彼女が聖光術で浄化しようとするたび、光と闇が激しく衝突する。
光が闇を焼くが、闇は即座に再生し、光を飲み込もうとする。
金色の光は、深淵からの呪いによって、今にも食い尽くされそうだった。
アーガスは咄嗟に自分の口を両手で覆った。
喉から飛び出しそうになった悲鳴を、物理的に押し戻す。
彼は声を出すこともできず、ただ硬直して、その冷たい闇の中で、姉の孤独な背中を見つめるしかなかった。
彼女の肩は震え、呼吸をするたびに地獄の釜の底を覗くような苦しみに耐えている。
(あれは……)
その闇の蠢き。
彼の目には、その黒い糸の一本一本が、悪意を持って設計された「ウイルスコード」のように見えた。
傷口に絡みつき、聖光の金色の粒子を食らい、崩壊させていく。
あれは単なる外傷ではない。
「呪い」の具現化だ。
彼がかつて見たこともない、純粋な悪意。
それらは独自の意志を持ち、貪欲に生命の痕跡を侵食している。
その瞬間。
彼の中で何かが決壊した。
それは単純な悲しみや同情ではない。
極限の「憤怒」と「無力感」が混ざり合った、灼熱の奔流だ。
血管の中をマグマが流れるような怒り。
そして頭から氷水を浴びせられたような無力感。
姉をこれほどまでに傷つけた正体不明の敵への殺意。
そして何より、世界の真理を知っていると自惚れていた自分が、今はただの臆病者としてドアの影に隠れ、姉が一人で地獄の苦しみに耐えているのを眺めることしかできないという現実への絶望。
拳を握りしめる。
爪が肉を裂き、血が滲む。
だがその痛みなど、姉の苦痛に比べれば無に等しい。
彼の中で、「贖罪」という動機の定義が書き換えられた(リライト)。
もはや、兄への罪滅ぼしだけではない。
もっと強烈で、具体的な目標が、焼印のように魂に刻まれた。
(根絶してやる……!)
この呪いを、根こそぎ消滅させるためのツールを創り出す。
そのためなら、どんな代償も払う。
この誓いは、どんな炎よりも熱く彼の中で燃え上がった。
あの醜悪な傷跡が、これからの彼のすべての行動における、唯一絶対の「原点」となった。
この瞬間から、彼の呼吸も、心臓の鼓動も、すべてはこの目標を達成するために存在する。
彼は背を向け、音もなく自室へと戻った。
ドアを閉める。
即座に、あの微弱だった魔法灯が再び点灯した。
だがその光は、以前よりも遥かに安定し、鋭い輝きを放っていた。
青い光束が、部屋に散乱する実験器具を照らし出す。
壁のルーン文字が明滅し、かつてないエネルギー波動を放ち始めた。
アーガスは部屋の中央に立った。
その瞳の光は、魔法の灯りよりも鋭く、冷たく燃えていた。
彼は深く息を吸い込み、肺の底に残っていた最後の迷いを吐き出した。
そこではもう、戦争が始まっていた。
【あとがき】
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