第十三章:凍てつく開始(コールド・スタート)
トールはゆっくりと顔を上げた。
かつてドワーフの種火が宿っていたその瞳には、今や冷たい灰だけが積もっていた。
彼は母の腕の中で守られているアーガスを見た。
そこには激怒も、不満もない。あるのは、より深く、冷徹な「理解」だけだった。
その瞬間、彼は完全に悟ったのだ。
この家に、この「異物」である弟が存在する限り、自分は永遠に身代わり(スケープゴート)――不条理な罪を背負わされる「生贄」――であり続けるのだと。
彼の中で轟いていた咆哮は、抑圧されたのではない。
完全に「消えた」のだ。
その静寂な絶望は、どんな爆発的な怒りよりも恐ろしかった。
時間は、最高の鎮痛剤であり、同時に最悪の希釈剤でもあった。
災厄から数ヶ月。
アイアンソーン家の生活の律動は、あの心停止しそうな嵐から、ようやく平穏な波形を取り戻しつつあった。
少なくとも、表面上は。
ブレイクの工房からは、再び心音のようなハンマー音が響き始めた。
サラの祈りは、悲痛な懇願から、日常的な感謝の定型文へと戻った。
しかし、一度壊れたものは、二度と元には戻らない。
過度な打撃を受けた鉄塊のように、表面は滑らかに見えても、内部には致命的な見えない亀裂が走っていた。
ある日の午後。
居間の気圧は、暴風雨の直前のように低かった。
トールへの「懲罰」、その初日が始まろうとしていた。
サラは「監督」という名目で、少し離れた暖炉のそばに座り、黙々と編み物をしている。
カチッ、カチッ。
規則正しく、硬質な編み棒の接触音だけが、この重苦しい静寂の中で響く。
それは見えない鞭のように、冷たく、正確なリズムで、その場にいる全員の心臓を叩いていた。
音の一つ一つが、この沈黙の対立における重圧を計測しているようだ。
硝煙のない戦争。誰もが最前線がどこかを知っていながら、戦場などないふりをしている。
トールの顔から感情が消去されていた。
あの理不尽な断罪は、彼の少年らしい熱情を、冷めきった灰へと変えてしまったのだ。
彼はテーブルへ歩み寄り、角が擦り切れた幼児向けの識字絵本を、バンッ、とアーガスの前に放り投げた。
それは無言の告発状であり、物理的な拒絶通知だった。
彼は太い指を突き出す。爪の間に黒い煤が残るその指先が、ページ上の真っ赤な炎の絵を重く叩く。
「これ。これは『火』」
音声は粗雑で、平坦。温度を感じさせない。
彼は隣の灰色の絵を指差す。
「これ。これは『石』」
それだけ言うと、彼は腕を組み、椅子の背もたれに深く寄りかかり、目を閉じた。
遠くの工房から漂ってくる微かな鉄錆と煤の匂いを、嗅覚で必死に探る。
そこにしか、彼の生きている実感はなかったからだ。
手取り足取り教えることは拒否する。
補足説明も拒否する。
これは彼の反抗であり、無言の、最後の抵抗だった。
だが。
トールが提示した「ただの情報のみ」という極限まで削ぎ落とされた教育法は、皮肉にもアーガスにとって、最高効率の吸収方式だった。
(余計な装飾なし。純粋な定義ファイルのみか。悪くない)
彼は数世紀干上がっていた乾いたスポンジのように、目の前の基礎を貪欲に吸収し始めた。
小さな手がページをめくる。
視線は走査するように記号を追い、脳内データベースで即座に分類、整理、構造解析を実行する。
ドワーフ文字。
その構造はシンプルだが、奇妙な論理体系を持っている。
それは彼にとって、未知の暗号鍵のようだった。どの扉が開くのか、試行錯誤する喜びに満ちている。
この過程の中で、彼は奇妙な感覚を覚えた。
これは単なる学習ではない。
眠っていた本能が再起動していく感覚。
長い旅を終えた放浪者が、母国語の韻律を思い出すような懐かしさ。
トールは自身の殻に閉じこもり、工房の熱気を妄想することで、目の前の苛つく現実を遮断していた。
時間の感覚さえ喪失しかけていた、その時。
「次」
明瞭で、しかしあどけない音声が、彼を幻想から乱暴に引き戻した。
トールは眉をひそめ、不機嫌に目を開ける。
「あぁ? 何が次だ? この本はお前にはまだ……」
言葉が喉で詰まって止まった。
アーガスが、底知れないほど澄んだ瞳で、静かに彼を見上げていた。
そしてテーブルの上では、あの薄い絵本が、すでに最後のページまでめくられていたのだ。
(馬鹿な)
トールは信じなかった。
ほんのわずかな時間に? 全ページを読んだだと?
読み飛ばしたに決まっている。
からかわれたという怒りが湧き上がる。
兄としての哀れなプライドが混ざり合った、どす黒い感情。
この、ただ記憶が良いだけの怪物が、文字の「意味」など理解しているはずがない。
(へし折ってやる)
彼はより難易度の高い、単なる暗記では処理できない「応用問題」を出題することで、この生意気な弟を論破し、最後の尊厳を守ろうとした。
これが、この冷戦における彼の最後の反撃だ。
これに負ければ、自分は本当に何もなくなってしまう。
トールは冷笑を浮かべ、脇から羊皮紙と木炭ペンを引き抜いた。
その口調には、隠そうともしない軽蔑と意地悪さが滲む。
「丸暗記だけで賢いつもりか? だったら書いてみろ。『火』、『槌』、そして『山銅』。この三つの根源のルーンをな」
彼が選んだのは、ドワーフ文字の中でも最も基礎的でありながら、最も構造が難解で混乱を招きやすい三文字だ。
初学者が必ず躓く、意地悪な引っかけ問題。
彼はアーガスが固まって何もできなくなる様を見たかった。
編み棒の音が止まる。
サラの視線がこちらを向く。その目には微かな警戒の色。
暖炉の火が羊皮紙を照らし出す。無言の法廷が再び開かれたようだった。
アーガスは一瞬、動きを止めた。
この三つの記号の組み合わせは、記憶にない。
だが、トールの挑発的な視線が、このやり取りの意味を理解させた。
(これはテストではない。戦いだ)
彼は内心で嘲笑した。
前世のエンジニアとしての自尊心が起動する。
質問をする必要も、本を引く必要もない。
彼の脳内では、先ほど覚えた基礎記号の論理構造をもとに、推論エンジンが高速回転していた。
(「火」はエネルギーと燃焼。「槌」は物理干渉と形成。「山銅」は最高硬度の鉱石定義……)
この三つの変数を統合する関数。
それは鍛造に関連する複合ルーンであるはずだ。
彼は目を閉じ、空中で指を動かす。脳内で、論理的に「最適解」と思われる形状を組み立てていく。
熟練の職人が、直感だけで部品を組み上げるように。
彼は木炭ペンを握り、羊皮紙の上に一筆一筆、記号を描いていった。
線は流暢で、構造は幾何学的に完璧。
彼はあえて、自身の博識ぶりを誇示するために、古風な装飾を加えた「旧体ルーン」のスタイルを採用した。
書き終える。
彼は顔を上げ、挑発と自信をミックスした視線で、トールを見返した。
(どうだ。これが完璧な答えだ)
それは、会心の作品を作り上げ、親方の検分を待つ職人の顔だった。
トールは羊皮紙を覗き込んだ。
その顔に張り付いていた冷笑が、凍りついた。
彼は目を細め、その三つの記号を見定める。
そして。
ゆっくりと、喉の奥から、低く、嘲りに満ちた笑い声を漏らした。
「ハッ……やるじゃねぇか、天才様」
その声は、真冬の鉄塊のように冷たかった。
「だが残念だったな。こいつは三百年前に廃止された『旧式ルーン』だ。見習いだって知ってるぜ。現代ルーンは構造が簡略化されてるんだよ。お前みたいな『賢い奴』が、魔法事故を起こさないようにな」
彼は背を向け、部屋の隅の木箱を漁った。
取り出したのは、一枚の重く、亀裂の走った鉄片――剣の残骸だ。
その表面には、現代の標準である「火」、「槌」、「山銅」が刻まれていた。
彼はその鉄屑を、ガンッ! とテーブルに叩きつけた。
「見ろ。これが今の流儀だ。こんな基礎的な変化さえ知らずに、ルーンを弄ろうとしてたのか?」
アーガスは硬直した。
剣の残骸に刻まれたルーンを凝視する。脳髄に電流が走る。
(旧式……廃止された形式……だと?)
彼の論理推論は完璧だった。計算に間違いはなかった。
だが、彼は最も基本的な「時代の変化」と「歴史的背景」を見落としていたのだ。
彼はこの世界の文字を、単なる暗号コードだと思っていた。
だがそれらは、生きた言語であり、歴史という時間の重みによって進化し続ける有機的なシステムだったのだ。
彼の自信は、波打ち際に作った砂の城のように、トールの一言であっけなく崩れ去った。
(古い技法で最高傑作を作ったつもりが……市場ではとっくに規格外品扱いだった職人の気分だ)
すべての技巧、すべての工夫が、時代の変遷の前では無意味となる。
彼は震える指を伸ばし、裂けた剣のルーンに触れた。
冷たい亀裂が指先を刺す。
その瞬間、彼は初めて、この「原始的」だと見下していた世界に対し、真正な畏怖と敗北感を味わった。
自分は全知の神ではない。
基礎さえ把握していない、ただの未熟な見習いだ。
この発見は、どんな嘲笑よりも深く突き刺さった。
過去の知識が絶対的な優位だと思っていた。だがここでは、歴史と伝統という記録が同じくらい重要だったのだ。
知識とは論理演算だけではない。文化という根源への深い理解が必要なのだ。
楽器の演奏法を知っていても、その曲に込められた歴史を知らなければ、魂は響かないように。
トールは、弟の愕然とした表情を見下ろしていた。
その瞳に、微かな勝利の光が宿る。
彼は立ち上がり、無言で部屋を出て行った。
その足取りは重いが、どこか憑き物が落ちたようだった。
この沈黙の戦争において、彼が初めて、そして唯一、勝者として戦場を去った瞬間だった。
だが、その勝利は、彼に期待したほどの充足感をもたらさなかった。
弟の打ちひしがれた顔を見て、胸に湧き上がったのは割り切れない思いだった。
怒りか? 報復の快感か? それとも……もっと別の何かか?
居間では、暖炉の薪がパチパチと爆ぜた。
サラの編み棒が、再びカチッ、カチッというリズムを刻み始め、この対決の終わりを告げた。
アーガスは木炭ペンを握りしめたまま、羊皮紙上の「旧式」を見つめていた。
心の中の巨大な傲慢の壁に、決定的な亀裂が入っていた。
彼は理解した。これは終わりではない。始まりなのだと。
この世界の深淵は、彼が想定していたよりも遥かに深い。
この瞬間、彼は真の意味で「学習」を開始した。
それは単なる情報の取り込みや論理圧縮ではない。
世界の歴史、文化、そして些細に見える変遷にまで、謙虚に、忍耐強く向き合うこと。
火光が揺れる。未知の意志が彼を嘲笑うかのように。
アーガスの思考は、挫折と、新たな渇望の間で揺れていた。
この敗北は、終わりではない。真の学びの開始だ。
過去の知識だけでは足りない。
謙虚さ、忍耐、そしてこの大地への真の敬意が必要なのだ。
それは皮肉にも、彼が最も見下していた兄トールが授けてくれた、最も価値ある教えだったのかもしれない。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
台湾出身の作者です。
職人が伝説級の道具を鍛え上げるためには、
技術だけでなく、赤々と燃える「炉の火」が不可欠です。
私にとって、皆様からの応援と☆☆☆☆☆評価こそが、
この物語(アイアンソーン工房)を燃え上がらせる最高の燃料となります。
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それでは、次の章でお会いしましょう!




