第十二章:優しい枷(ジェントル・シャックル)
リビングの空気は、鍛冶場の鉄床のように重く、熱を帯びていた。
懲罰フェーズは、まだ完了していない。
サラは、まるで今にも砕け散りそうな宝物を守るように、アーガスをきつく抱きしめている。
彼女はトールを見据えていた。
赤い指の跡が残る頬を伏せ、石のように黙り込む息子を。
サラの後悔と怒りは、冷たく、拒絶を許さない命令へと変換された。
そこには、「あなたのためを思って」という、母親特有の強硬な響きがあった。
「トール」
彼女はテーブルの上の、ひしゃげた鉄片を指差した。その声は鋭利な刃物のようだ。
「明日から毎日、学校が終わって工房の手伝いが済んだら……夜は、あなたがアーガスに字を教えなさい。ついでに、その災いを招くような汚い字も、しっかり矯正するのよ!」
その言葉は、二度目の平手打ちのように、トールの魂を殴りつけた。
アーガスに字を教える?
トールは学校を憎んでいた。冷たい鉄の塊よりも、あの得体の知れない文字という代物が大嫌いだった。
彼が学校に通い続けているのは、向学心からではない。退路がないからだ。
トールの脳裏に、数年前の映像がフラッシュバックする。
十歳のアイリーン。顔に泥をつけ、目には疲労を滲ませながら、ずしりと重い革袋を彼の手のひらに押し付けた。
その声は枯れていたが、拒絶を許さない強さがあった。
『持ってって……トールの学費だから。無駄にしないでね』
その革袋の重さは、姉の血と傷跡の重さだった。
息ができないほどの重圧。
記憶が潮のように押し寄せ、トールの心臓を圧迫する。
アーガスの一ヶ月に及ぶ昏睡は、家の貯蓄を食い尽くし、重い負債を残した。
アイリーンは冒険者予備校を中退し、早すぎる見習い(ノービス)となって、その華奢な肩で家計を支え続けた。
借金を完済した後も、彼女は復学しなかった。
報酬を二つに分け、一つを家計に、もう一つをトールの学費に充てたのだ。
この献身こそが、トールの全ての反抗心を縛り付ける、優しくも残酷な鎖だった。
彼は歯を食いしばり、毎日自分を強制して学校へ通った。姉の想い(リソース)を無駄にするわけにはいかないからだ。
だが今、母の一言は、彼が一日の中で唯一自由を感じられる炉のそばから、彼を引き剥がそうとしている。
彼は奥歯が砕けるほど噛み締め、唇からは血の気が失せていた。
拳が震え、関節が微かに軋む音を立てる。
肯定も否定もしない。
彼はその場で硬直し、憤怒と不満を内包した石像と化していた。
サラの声がさらに鋭くなる。
「何? 不服なの? この鉄片を見なさい! もう少しで弟が死ぬところだったのよ!」
彼女は鉄片の焦げ跡を指差す。その目には涙が光っていた。
ブレイクは傍らで拳を握りしめ、関節を白くさせている。彼の沈黙は、山のような圧力となって場を支配していた。
アイリーンは俯き、床に涙を落としている。その微かな音が、死寂のリビングに響く。
この沈黙は、どんな罵り合いよりも恐ろしい。
それは、修復不可能な亀裂の予兆だった。
空気が凝固したその時。
アイリーンが動いた。
彼女はゆっくりとトールへ歩み寄る。その足取りは軽やかだが、嵐の中の柳のように芯が強かった。
サラが眉をひそめ、不可解そうに見つめる。
ブレイクは顔を背けた。その粗野な顔は引きつり、直視するに忍びないようだった。
アイリーンは両親の視線を無視し、トールの隣に立った。
そして、長年の短剣訓練で薄いマメのできた手で、そっと、しかし力強く、弟の拳を包み込んだ。
その拳は太く、鉄粉と汗にまみれ、手負いの獣のように震えていた。
奇妙なコントラストだった。
背が高く華奢な人間の少女が、頭一つ分低く、しかし横幅は倍もあるドワーフの青年を支えている。
姉の背中は儚くも強く、弟の背中は強靭だが無力だった。
アイリーンはトールの耳元に顔を寄せた。
二人だけの音声チャンネル(プライベート・チャンネル)で、謝罪と懇願を囁く。
「……トール。あんたが勉強より鍛冶が好きなのは知ってる……。本当は、私が……私が無理やり嫌いなことをさせてるって、分かってるの……ごめんね」
その不意打ちの謝罪は、温かいハンマーとなって、トールを覆う怒りと屈辱の殻を叩いた。
アイリーンの胸中で罪悪感が渦巻く。
トールへの進学強要は、自分のドロップアウトを埋め合わせるためのエゴだ。
彼女は自分の子供時代を放棄して弟の未来を買ったが、同時に彼を、彼が望まない檻へと閉じ込めたのだ。
この「ごめんね」は、今の事件に対してだけではない。
過去数年間、彼女が弟にかけてきた枷そのものへの謝罪だった。
トールの肩の力がわずかに抜けた。瞳に動揺が走る。
アイリーンは深く息を吸い、さらに声を低くした。不器用な説得。
「……でも……約束して。母さんも……全部が間違ってるわけじゃないわ。あんたの字……本当に……」
彼女は一瞬言葉を詰まらせ、残酷な事実を伝えるための最も優しい言葉を探した。
「……個性的すぎるから……。これはあんたのためでもあるし、弟くんのためでもあるの……お願い」
トールはゆっくりと顔を上げた。
姉の、涙に濡れながらも懇願する瞳を見る。
彼は目を閉じた。
重すぎる枷を受け入れるように、彼は苦渋に満ちた頷きを返した。
アイリーンは安堵の息を吐き、山のように頑強で、しかし震え続ける弟の体を支えながら、部屋へと促した。
その頷きは、過ちを認めたからではない。
姉の愛に対する屈服だ。
だがその屈服は、彼の内なる怨嗟を、より深く、暗い場所へと沈殿させただけだった。
「待て!」
ブレイクの声が響く。抑圧された怒りが遠雷のように轟く。
サラがそっと彼の腕を押さえ、低く囁いた。
「……もういいわ、ブレイク。アイリーンに免じて……トールも、反省しているようだし……」
ブレイクは長女の強情な背中を見つめ、喉の奥で無力と疲労の混じった溜息をついた。
早すぎる成熟を強いられた娘への心痛が、その目に過る。
彼はトールへ複雑な視線を向けたが、結局、それ以上は何も言わなかった。
この家では、誰もが年齢不相応な重荷を背負っている。
早々に支柱となったアイリーン。
不本意な進路を強いられるトール。
そして、重い秘密を抱える小さなアーガス。
そして、このすべての中心(台風の目)。
サラに抱きしめられたままのアーガスは、激しい内面嵐の只中にいた。
罪悪感が津波のように思考回路を押し流す。
自分の弁護はトールを救うどころか、彼にさらなる屈辱を与えてしまった。
苛立ちが続き、無力感というウイルスが理性を侵食していく。
彼は数百パターンの弁明シミュレーションを実行した。
魔法事故の真実を告げる?
六歳の子供がそんなことを言えば、悪霊憑きとして処理されるだけだ。
口を開こうとしても、すべての言葉はクラッシュしたシステムの中で行き場を失う。
この「実行不能」の感覚は、どんな物理的苦痛よりも彼を苛んだ。
(感情プロセス、強制終了)
(リソースを解析モードへ再割り当て)
彼の理性が強引に制御権を奪取した。
前世で高負荷な感情プログラムをタスクキルしたように、彼は注意をトールの背中から、あの瀕死の災厄へと無理やり逸らした。
解明しなければならない。
なぜ自分の「最適化」は、あのような恐怖の反動を引き起こしたのか?
魔力は流体ではなく粒子であり、本来起こるはずの核爆発はなぜ回避されたのか?
この発見は、彼の世界観を根底から覆した。
あの自信、あの独りよがりの科学的論理が、なぜ異世界の法則の前で崩壊したのか?
無数の致命的な疑問が、渦のように脳内で回転する。
そして、その理性的渇望の只中で。
彼はふと、母の命令を再認識した。
――トールが、字を教える。
暗く、皮肉な興奮が、静かに浮上した。
自分でも戦慄するほど病的な感情だった。
それはキャンディを貰った子供の喜びではない。
囚人が、檻をこじ開けるためのツールを見つけた時の、歪んだ歓喜だ。
(アクセス権限……獲得)
これで、あの《風暴雷霆戦斧》に刻まれた古代の秘密を解読する鍵が手に入る。
最悪の状況が、皮肉にも真理へのバックドアを開いてしまった。
この複合的な心理状態に、彼は引き裂かれそうだった。
トールの苦痛に対する罪悪感と、自分が手に入れようとしている機会への興奮。
自己嫌悪と知的好奇心が、ショート寸前の回路のように火花を散らす。
アーガスは静かに顔を母の胸に埋めた。
六歳の身体は、温もりを求める子供そのものだ。
だがその魂は、罪悪、焦燥、渇望、興奮の衝突実験場となっていた。
これは天国なのか地獄なのか。
おそらく……その両方だ。
愛という名のゆりかごの中で、複雑怪奇な魂が成長痛に身悶えしていた。
彼は理解し始めていた。
知識の獲得には、時として予期せぬコストがかかる。
そしてそのコストは、往々にして他者の苦痛によって支払われるのだと。
この発見は、彼に初めて、大人たちの世界の残酷さと複雑さを痛感させた。
リビングの暖炉はまだ燃えていたが、この家族の温もりは、今夜を境に不可逆的な変質を遂げてしまった。
誰もが新しい傷跡を負い、新しい苦痛を学習した。
その苦痛の中で、彼らは強くなるかもしれない。
だが、何かが永遠に失われた(ロストした)こともまた、事実だった。
それが成長の代価。
新しい知識をインストールするたびに、純真さという空き容量が削除されていくのだ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
台湾出身の作者です。
職人が伝説級の道具を鍛え上げるためには、
技術だけでなく、赤々と燃える「炉の火」が不可欠です。
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それでは、次の章でお会いしましょう!




