第十一章:沈黙の法廷(サイレント・コート)
トールの守護の意志に満ちた怒号。
そして、鼓膜を引き裂くような金属の断末魔。
それが、アーガスが闇に落ちる前に聞いた、最後の音だった。
今回は、以前のような一ヶ月に及ぶ長い眠りにはつかなかった。
だが、その目覚めは、温かな夜明けなどではなく、混沌とした残り火の中での覚醒だった。
どれほどの時間が経過したのか。
アーガスの意識は、ノイズ混じりの視界の中でゆっくりと浮上した。
部屋の空気は重く、焦げ臭い。
オゾンと金属の匂いが、消えない影のように漂っている。
暖炉の火は落ち、残り火だけが瀕死の眼球のように赤く光っていた。
上体を起こそうとするが、身体が鉛のように重い。
四肢に力が入らない。胸の奥が鈍く痛む。
まるで巨大なハンマーで叩かれた余波のようだ。
(意識が……戻ってくる……)
この虚脱感は、大病を患った後のそれに似ていた。
危機的状況は脱したが、一陣の風でさえ命を吹き消しかねない、脆く儚い状態。
ドアの外から、押し殺したような話し声が漏れ聞こえてくる。
「……一体何なの? ブレイク、あの鉄片を見て……あんな風になるなんて……」
サラの囁きは途切れ途切れで、疲労と恐怖がこびりついている。
「分からん。だが、あの力は……尋常じゃない。危うく……危うく全てを失うところだった」
ブレイクの応答は雷鳴のように低いが、珍しく震えが混じっていた。
「弟くん……無事だよね?」
アイリーンの嗚咽が、小さな亀裂のように響く。
断片的な会話が、災厄の輪郭を形成していく。
家族の声はどれも、見えない戦争を生き延びた生還者のように震えていた。
アーガスが目を開ける。
最初に反応したのはサラだった。
彼女が弾かれたように振り返り、涙の跡が残る顔が視界に飛び込んでくる。
いつもは優しいその瞳は、幾晩も徹夜したかのように赤く腫れ、やつれていた。
「……あ……目が、覚めた……!」
彼女の声は夢言のようだったが、瞬時に部屋の空気を発火させた。
「弟くん!」
アイリーンが風のように飛び込んでくる。亜麻色の髪は乱れ、目はウサギのように赤い。
彼女はベッドにすがりつき、アーガスの指を小さな手で握りしめた。
「よかった……! 死んじゃうかと思ったよぉ……!」
入り口にはトールが立っていた。
その粗野な顔は蒼白だ。手にはまだ、あの鍛冶ハンマーが握られている。
ハンマーの打撃面には深い凹みが刻まれており、火光を反射して新しい傷跡のように光っていた。
彼は近づこうとはせず、ただ死に物狂いでアーガスを見つめていた。
その瞳には、安堵と、隠しきれない心配が複雑に混ざり合っていた。
ブレイクが大股で入室し、その巨躯で入り口の光を遮る。
彼は屈み込んでアーガスの様子を確かめ、ゴツゴツした指で額に触れた。
「……ようやく戻ってきたか、悪ガキめ」
彼の豊かな髭が震え、瞳の奥に微かな湿り気が見えたが、それはすぐに抑圧された怒りによって塗り潰された。
「医者は? アイリーン、グレン先生を呼んでこい!」
長い待ち時間。
アイリーンに手を引かれ、老医師が重い足取りで入ってきた。
白髭は乱れ、顔には深い疲労が刻まれている。彼もまた、別の戦場から帰還したばかりのようだった。
彼は丁寧にアーガスの瞳孔反応を確認し、心音を聴取し、胸に残る赤く腫れた熱傷の痕跡を診た。
古井戸のような無表情に、安堵の色が浮かぶ。だが同時に、専門家としての困惑も滲んでいた。
「脈拍安定。体温正常。ただ、身体が極度に弱っている。眠らせておけば、次は本当に回復するだろう」
彼は声を落としてブレイクに告げた。
「身体の機能に問題はない。だが……彼の魔力回路が、奇妙だ。まるで何かによって徹底的に『空っぽ』にされたかのように何もない。一体全体、この家で何が起きたんだ?」
ブレイクの顔が曇る。彼は答えず、ただ手を振って医師を下がらせた。
部屋に沈黙が降りる。
生存確認後の虚脱感が、潮のように押し寄せていた。
サラがアーガスを抱きしめる。涙が額に落ちる。熱く、しょっぱい。
「光明神に感謝を……」
アイリーンが涙を拭い、無理に笑顔を作ろうとする。
「弟くん、お腹空いた? 何か持ってくるね」
だが声は震え、足取りは覚束ない。
トールがハンマーを床に置いた。ゴトリ、と鈍い音が響く。
彼は背を向け、溢れ出しそうな心配を必死に押し殺すようにして、部屋を出て行った。
何かを必死に耐えている背中だった。
ブレイクは窓辺に立ち、アイアンピーク山脈の稜線を睨みつけている。
拳が握りしめられ、関節が白くなっていた。
アーガスはベッドに横たわり、家族の体温を感じながらも、心は冷え切っていた。
脳裏には、あの神ごとき粒子の再構成の映像が繰り返されている。
(僕は……何も分かっていなかった)
その認識が、重いハンマーのように頭上に振り下ろされる。
今この瞬間になってようやく、彼は自分の無知と傲慢が引き起こした損害の大きさを理解した。
翌日の正午。
濃厚な焼き肉とパンの香りが、優しい呼び声のようにアーガスを深い眠りから引き上げた。
強烈な空腹のシグナルが彼の上体を起こさせる。
胸の激痛は、鈍い疼きへと変わっていた。
彼がふらふらと居間へ入ると、家族全員が動きを止めた。
予想していた雷のような怒号は、飛んでこなかった。
最初に我に返ったのはサラだった。
「座りなさい! お腹が空いたでしょう。アイリーン、シチューを!」
彼女の声は平静を装っているが、ひどく不安定に揺れている。
ブレイクは沈黙したまま、一番大きな肉の塊をアーガスの皿に乗せた。
その動作は不器用で、感情を押し殺しているようだった。
アイリーンがスープを運んでくる。湯気が立ち上るが、彼女の目は腫れ上がり、笑顔は引きつっている。
トールは部屋の隅で、皿に顔を埋めるようにして食べていた。一度も顔を上げない。
食卓の空気は重い。
肉が焼ける音と咀嚼音だけが響くが、誰も喋らない。
アーガスは食物を嚥下し、空腹は満たされていくが、胃の底に鉛のような重りが溜まっていく。
家族の視線は複雑だ。生存の喜びと、底知れぬ不安が混在している。
この沈黙は、怒鳴り合いよりも恐ろしい。
それは、修復不可能なエラーが発生していることを意味していた。
食後。
アーガスは処刑台に向かう囚人のように、家族の後について居間の中央へと移動した。
厳罰は免れないだろう。
当然だ。自分は火遊びで家を焼きかけたのだから。
そして、断罪は始まった。
だが。
その被告席に立たされたのは、アーガスではなかった。
トールだった。
ブレイクとサラは、居間の中央に仁王立ちしていた。その表情は嵐の前の空のように暗い。
彼らの前のテーブルには、無惨な証拠品が置かれていた。
トールの一撃によってひしゃげ、亀裂が走り、完全に破壊された二枚の鉄片。
そこにはまだ金属が焦げた臭いが漂っていた。
サラが震える指で、鉄片を指差した。
そこには、アーガスが精魂込めて刻んだ、しかし彼らにとっては悪魔の呪文にしか見えない文字が並んでいる。
彼女は恐怖のあまり震える声で、彼女なりの「推論」を開始した。
その瞬間、アーガスは戦慄した。
それは罰への恐怖ではない。
これから行われようとしている、あまりにも不公正な裁判への恐怖だ。
「アーガスは賢い子よ」
彼女は言った。一つ一つの言葉が、自分の結論を補強するためのレンガのように積み上げられていく。
「普通の子よりも早く、文字に興味を持った。だから……彼はこの鉄片を持って、トール、あなたの宿題の真似をしたのよ!」
彼女の声が金切り声に変わる。目には涙が溢れている。
彼女は猛然とアイリーンの方を向いた。溺れる者が流木にすがりつくような目だ。
「アイリーン! パパに言って! あなたも見たでしょう!? アーガスがトールの宿題を真似しているところを!」
アイリーンの全身が硬直した。
彼女は母のヒステリックな表情を見、そして一言も発さず、顔面蒼白になっているトールを見た。
不吉な予感が心臓を鷲掴みにする。
彼女はただ、弟の不可解な行動を説明したかっただけだ。
だが母の問いかけは、彼女のために用意された誘導尋問の罠だった。
彼女は小さな手を組み合わせ、母の圧倒的な圧力の下で、その事実を吐き出した。
「……う、うん……見た。弟くん、トールの机の前で……あの記号を、すごく気に入ってたみたいで……」
その無垢な証言は、天秤を決定的に傾ける最後の分銅となった。
その瞬間、アイリーンは理解した。
自分が無意識のうちに、この家庭内悲劇の共犯者になってしまったことを。
「聞いたでしょう!? ブレイク!」
サラは勝訴判決を得たかのように、ドアの横に放り出されていたトールの鞄へ突進した。
中から皺くちゃになった羊皮紙――構造学の宿題――を引っ張り出す。
彼女はその羊皮紙を、壊れた鉄片の横に叩きつけた。
そこには、筆圧が強すぎて文字同士がくっついたような、下手くそなドワーフ文字が書かれている。
サラは鉄片の上の記号と、羊皮紙の文字を交互に指差し、絶叫した。
「あなたの字がこんなに汚いから! アーガスは何も知らずに、間違った形を真似してしまったのよ! そのせいで、この鉄片の上で予期せぬ魔法の暴走が起きて、昨日の夜の爆発が起きたの! 分かってるの!? 危うく……危うくあの子を失うところだったのよ!!」
(間違っている……!)
アーガスの理性が叫ぶ。
(原因の分析が完全に間違っている! それは誤った判断だ!)
アイリーンの呼吸が止まる。
彼女は、自分の無邪気な言葉が、母によって研ぎ澄まされ、トールを刺すための鋭利なナイフへと加工される過程を目撃してしまった。
悔恨という名の氷水が彼女を飲み込む。
彼女は、トールを十字架に張り付けるための、決定的な釘を手渡してしまったのだ。
「ち……違うの……」
彼女は反射的に一歩踏み出し、反論しようとした。真実はもっと複雑なのだと。
だが、彼女が直面したのは、悲しみと怒りで完全に歪んだ母の顔だった。
その問答無用のヒステリーは、見えない壁となって彼女の言葉を喉の奥へと押し戻した。
彼女は無力感に打ちのめされ、「そうじゃない」という言葉を飲み込むしかなかった。
自分が点けた火が、トールを焼き尽くすのをただ見ているしかない。
トールはそこに立っていた。
床の一点を見つめ、その顔からは血の気が引いている。
鉄片の亀裂が、彼への告発状に見えただろう。
彼は口を開こうとした。だが、サラの怒号が津波のように押し寄せた。
「何か言い訳があるの!? この鉄片を見なさい! これが弟を殺しかけたのよ!」
彼女の指が震え、鉄片の上の文字を弾劾する。
「あの子はただの赤ちゃんなのよ、何も分からないの! あなたの真似をしただけ! あなたが……あなたが殺しかけたのよ!」
そして、父ブレイクの沈黙は、物理的な制裁へと変換された。
彼は無言でトールの前に歩み寄り、鉄塊さえも平らにする、分厚いタコに覆われた巨大な掌を振り上げた。
パァァァンッ!!!
乾いた、そして恐ろしいほど大きな音が、トールの頬で炸裂した。
トールは黙ってそれを受け入れた。
頭を下げ、一言も発せず、頬に広がる焼けるような痛みに耐えている。
いつもなら火花のような誇りを宿しているドワーフの瞳は、今は地面を睨みつけ、両親の怒りと姉の涙に、ただ浸食されていた。
だが、彼の内面では、狂ったような叫びが渦巻いていた。
(俺が……俺がアーガスを救ったんだぞ!!!)
(あれはあいつが勝手に作ったものだ! なんで……なんで俺が殴られなきゃならないんだ!!!)
しかし、それは決して表には出ない、声なき叫び。
彼の表向きの態度は、反抗もせず、口答えもせず、ただ罰を受け入れる従順な息子のままだった。
この内と外の乖離が、十四歳の少年にはあまりに過酷な負荷をかけていた。
暖炉の火が揺れ、それぞれの顔に深い影を落とす。
ブレイクの息遣いは荒く、巨躯が長い影を落としていた。
「トール……お前には失望した」
その声は、遠雷のように低く、重い。
アイリーンの涙が床に落ちる。彼女はトールを見たが、その視線さえも、トールには無言の刃として突き刺さった。
サラの推論は穴だらけだ。間違いだらけだ。
だが、感情という面においては、完璧に整合性が取れてしまっていた。
彼女はトールの腕を掴み、泣き叫んだ。
「昨日の夜、あの子の悲鳴を聞いた時、私の心がどれだけ張り裂けそうだったか分かる!? 全部、あんたのそのデタラメな宿題のせいよ!」
デタラメな宿題。
彼女はうわごとのようにそのフレーズを繰り返した。
彼女の涙が鉄片に落ち、ジュッ、と音を立てる。
トールの肩が震える。彼は反論しない。ただ頭を垂れ、その不当な告発を鞭のように浴び続けている。
アーガスはそれを見ていた。心臓をナイフで抉られるような思いで。
彼は母の腕から強引に抜け出し、よろめきながらテーブルへ歩み寄った。
小さな手を伸ばし、あの壊れた鉄片を指差す。
そして、精一杯の言葉を紡ぎ出した。
「ちがう……兄ちゃんのせいじゃ、ない!」
全員の動作が止まった。
リビングの空気が凍りついた。時間停止魔法がかかったように。
トールが顔を上げた。
その瞳に、微かな希望の光が宿った。砂漠で見つけたオアシスのように。
だが。
サラは呆然とし、次の瞬間、崩壊した。
彼女はアーガスを乱暴に引き戻し、抱きすくめると、金切り声でトールを罵倒した。
「聞いた!? トール! 聞いたの!? 弟を見なさい! あの子は……最大の被害者なのに、まだお前を庇おうとしているのよ! お前は……兄として、恥ずかしくないの!?」
その言葉は、赤熱した焼き印となって、トールの心を焼き焦がした。
希望の光は、瞬時に踏み潰された。
彼は顔を上げた。
そして、氷のように冷たく、他人のような目で両親を見た。
それは深淵のような瞳だった。サラの泣き声が喉に詰まるほどの。
ブレイクが再び前に出た。
あの巨大な掌が、再び振り上げられる。
パァァァンッ!!
二度目の乾いた音が響き、トールのもう片方の頬も赤く腫れ上がった。
彼は泣かなかった。
反抗もしなかった。
ただゆっくりと首を巡らせ、母の腕の中にいるアーガスを、じっと見つめた。
その視線には、怨嗟、自嘲、そして決別が混ざり合っていた。
それは目に見えない剣だった。
トールの内なる咆哮は止んだ。
それは、凍てつくような呪いへと変わった。
リビングは死のような沈黙に包まれた。
サラはアーガスを抱きしめて泣き崩れている。
ブレイクは震える拳を握りしめ、トールを睨みつけている。
アイリーンは涙を流しながら、複雑な目でアーガスを見ている。
アーガスは呆然と座り込んでいた。心は死んでいた。
彼の弁護は、トールを救うどころか、事態を最悪の方向へと導いてしまった。
「怨恨」という名の種子が、トールの心に深く根を下ろした。もう二度と引き抜くことはできないだろう。
アーガスは目を閉じた。
脳裏には粒子の再構成の奇跡が残っていたが、そこには今、決して消えない罪の影が落ちていた。
この夜。
一つの家族の絆が、決定的に断裂した。
そして、この災害の真の元凶であるはずの彼は、皮肉にも「守られるべき無垢な被害者」として、安全圏に隔離されてしまったのだ。
この不条理な現実は、どんな処罰よりも残酷に、アーガスの魂を苛んだ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
台湾出身の作者です。
職人が伝説級の道具を鍛え上げるためには、
技術だけでなく、赤々と燃える「炉の火」が不可欠です。
私にとって、皆様からの応援と☆☆☆☆☆評価こそが、
この物語(アイアンソーン工房)を燃え上がらせる最高の燃料となります。
ぜひ下にある【★★★★★】をタップして、
アイアンソーン工房に火をくべてやってください!
それでは、次の章でお会いしましょう!




