第十章:特異点と鉄屑(シンギュラリティ・アンド・スクラップ)
破局は、アーガスが六歳になったある深夜、轟音と共に訪れた。
数年来、一日も欠かすことなく続けられた狂気的な自己訓練により、彼の魔力の器はついに臨界点を超えて拡張していた。
その膨大な魔力は、もはやあの小さく、設計の古い鉄片ごときが扱える「燃料」ではなかった。
それは、すべてを粉砕する「爆薬」へと変わっていたのだ。
訓練装置は完全に制御を失った。
それは穏やかな「抽出」ではなく、飢えた獣のような「暴食」を始めた。
アーガスが自慢にしていた、わざと狭くした魔力の通り道。
そこで壊滅的な渋滞が発生した!
彼ははっきりと「感知」した。洪水のようになった魔力の流れが、狭すぎる入り口で狂ったように、しかし無駄に押し合っているのを。
それは逃げ場を失い、完全に麻痺した交通網のような嵐だった。
深夜の石造りの家は、墓場のように静まり返っていた。
暖炉の残り火がわずかに赤く光り、天井の木目を照らし出している。
アーガスは小さなベッドに横たわり、いつものように鉄片の回路を起動しようとした。
魔力が体内から湧き出す。温かく、慣れ親しんだ、従順な小川のような流れ。
だが今回は、違った。
魔力が鉄片に触れた瞬間、回路が激しく震え始めた。
胸元から微かな羽音が伝わってくる。閉じ込められた蜂が暴れているような、不吉な音。
アーガスは眉をひそめ、調整しようとする。
だが、羽音は強くなる一方だ。
鉄片が熱を持ち始めた。その熱はパジャマを通し、肌へと染み込んでくる。まるで真っ赤に焼けた針を、ゆっくりと肉に刺し込まれるような感覚。
彼は目を開けた。
胸元の鉄片が微かに光っている。赤色。
脈打っている。まるで心臓のように。
おかしい。光が強くなる。熱が増していく。
アーガスの心臓が早鐘を打つ。彼は慌てて魔力を切ろうとした。
だが、回路はいうことを聞かない。
それは貪り食っていた。狂ったように、底なしに。
体内の魔力が決壊したダムのように溢れ出し、止まらない。
この制御できない感覚。
彼は初めて、本当の恐怖というものを知った。
痛みへの恐怖ではない。自分自身をコントロールできなくなることへの、底知れない恐怖だ。
部屋の空気が変わり始める。
焦げた金属と、濃密なオゾンのような刺激臭が立ち込める。
鉄片の赤光が爆発的に輝き、ベッドの柱を照らし出す。
窓ガラスが低く唸り始めた。見えない圧力が空間を押し潰そうとしている。
アーガスは喘ぐ。胸が焼ける。焼き鏝を押し当てられているようだ。
起き上がろうとするが、力が入らない。魔力が根こそぎ吸い上げられ、干上がった川のようだ。
隣の部屋から物音がした。トールの足音が、急いで、重く近づいてくる。
ドンドンドン!!
「アーガス! 開けろ! なんだこの焦げ臭さは!?」
トールの声は荒々しいが、恐怖に裏返っていた。
彼はドアを押し開けようとするが、内鍵がかかっている。
体当たりが始まる。一回。二回。ドア枠が悲鳴を上げ、木屑が飛び散る。
階下からサラの悲鳴。「ブレイク! 起きて! アーガスが!」
ブレイクの怒鳴り声が続く。「クソッ! 何事だ!?」
足音が入り乱れる。アイリーンの泣き声が混じる。「弟くん! どうしたの!?」
静かだった石の家は、一瞬にしてカオスへと変わった。
悲鳴。怒号。扉を叩く轟音。崩壊寸前の嵐が、家の中で吹き荒れていた。
アーガスの胸の上で、鉄片は溶岩のように熱くなっていた。
パジャマから青い煙が上がり、焦げた匂いが充満する。皮膚が焼けるように痛い。
彼は奥歯を噛み締め、何とか制御しようとする。だが無駄だ。魔力の奔流が回路の中で詰まっている。
圧力は限界を超え、鉄片が歪み始める。
ミシッ……という微かな音が響く。まるで骨が折れるような音。
「ぐぅ……アアアアアアアアアアアアア――――ッ!!!」
苦痛に満ちた、凄惨な、到底子供のものとは思えない呻きが、深夜の静寂を引き裂いた!
絶叫は石屋に反響し、蝋燭の火を一瞬で吹き消した。
窓ガラスが砕け散り、細かい亀裂が蜘蛛の巣のように壁を走る。
ドアの外で、トールの体当たりが激しくなる。
サラの叫びは狂気じみていた。「開けて! アーガス! ママよ!」
アーガスの視界が霞む。痛みが津波のように彼を飲み込む。
胸が爆発する。魔力が回路内で暴れ回り、鉄片が目を焼くような赤い光を放った。
その痛みとエネルギーの奔流が、彼の意識を引き裂こうとした、その頂点で――。
世界が、遅くなった。
喉を引き裂くような絶叫は、引き伸ばされた低い唸りへと変わった。
胸元で狂ったように脈動し、地獄の赤光を撒き散らしていた鉄片。
その点滅のリズムが、急かすような輝きから、心臓の鼓動のような、ゆっくりとした厳かな明滅へと変わっていく。
驚いて椅子を倒した兄トールの物音が、深い海の底から響くように、重く、遅く、耳に届く。
時間は、ねばつく琥珀の中に閉じ込められたようだった。
ドアへの体当たり音。ダダダンッ、という連打が、ドォォォ……ン……ドォォォ……ン……という、遠い雷鳴のような重低音に変わる。
母サラの悲鳴は、意味を持たない悲しいメロディとなって、空気中を幽霊のように漂う。
父ブレイクの怒号は、深淵からの山彦のように低く歪む。
アイリーンの叫びは、無数の欠片となって空中に浮かんだ。
アーガスの感覚は、無限に引き伸ばされていた。
彼は果てしない虚空に浮いているようだった。
胸元の鉄片は、ゆっくりと脈動する赤い星。
その熱はもはや痛みではなく、温かく、永遠に続く放射熱となっていた。
空気中のオゾン臭は濃くなり、消えない霧のように彼を包み込む。
この無限に引き伸ばされた、死のような一瞬の中で。
痛みによって極限まで研ぎ澄まされた彼の脳は、逆にこれまでにないほど澄み渡っていた。
彼はすべての感覚を、一点を見つめることに集中させた。
そして、ついに「視た」。
それはひとつながりの「流れ」などではなかった。
それは、億万の、極小にして最高の輝きを放つ「星屑」によって作られた、奔流だった!
(魔力は……『液体』じゃない! 『粒子』だ!)
それらの粒子は、億万の小さな宇宙だった。
一つ一つが完璧な秩序とエネルギーを秘めている。
それらが彼の狭い胸を通り抜け、無数の太陽で作られた天の川のように、奔流となって輝いていた。
粒子同士がぶつかるたび、小さな火花が散る。
その一つ一つが、闇を照らすほどのエネルギーを放つ爆発だ。
この壮大な映像の中で、彼が地球で学んだ物理学の知識が、呼び覚まされた。
(核分裂……!?)
原子の核がぶつかり合って分裂し、巨大なエネルギーを解放する恐怖の図式。
かつて見た核実験の映像。一瞬で蒸発する建物。
今、それと同じことが、彼の胸元で起きている。
魔力の粒子が高速で衝突し、連鎖反応を起こしている。
エネルギーは倍々に増え続けている。温度上昇。圧力限界。
彼ははっきりと感じた。破滅へのカウントダウンを。10、9、8、7……。
脳裏に恐ろしい光景が浮かぶ。
鉄棘家の小さな石屋から、巨大なキノコ雲が立ち昇る。
衝撃波がアイアンピークの街を更地にする。
父の工房、母のキッチン、姉の笑顔、兄の不器用な優しさ――すべてが、この爆発の中で塵となって消える。
(嫌だ! そんなの嫌だ!)
彼の心の中の叫び。
彼はミクロの世界での死の宣告を聞いた。科学的な根拠に基づいた絶望。
これは魔法の失敗ではない。胸の上で起動した、超小型の原子爆弾だ。
彼は待った。屋敷を、城を、山脈を灰にする、すべての終わりの時を。
頭の中で、世界が白黒に反転する映像が繰り返される。
終わった……終わった……すべてが……。
……しかし。爆発は、起こらなかった。
彼は見た。
彼の知っている全ての知識、物理法則、科学常識を完全に否定する、信じがたい「神の御業」を。
不安定な「粒子の欠片」の集まり。本来なら大爆発を起こして飛び散るはずの混沌の雲が、広がらなかったのだ。
それどころか。それらが体内を巡る時、彼自身の微弱な、生き物としての「生命の磁場」が、優しく、形のない膜となって混沌を包み込んだ。
直後。狂ったように飛び散っていた欠片が、自ら、ゆっくりと、互いを引き寄せ合い、回転し、固まり始めた。
元の粗雑な形に戻るのではない。
それらは、より安定した、よりきめ細やかで美しい新しい粒子へと組み変わっていく。
混沌の瓦礫の中から、以前より数倍小さく、しかし純粋な光を放つ完全な球体が、静かに生まれていく。
(ありえない……!)
アーガスの理性が叫んだ。
(エントロピーが……勝手に減っているだと!?)
無秩序なカオスが、外からの力もなしに、勝手に、より高度で完璧な秩序へと組み上がっていく!
地球の物理学が定めた絶対のルール。それが今、目の前の優しくも強引な奇跡によって、粉々に打ち砕かれた。
その「生命の磁場」は、神の手のように、爆発寸前の混沌を優しく包み込んでいた。
粒子たちは「歌い」、「踊って」いる。
世界の根源から響く神聖な「リズム」に従い、「破壊」の姿から「創造」の姿へと変わっていく。
(僕は……理屈を分かっているつもりだった。宇宙を理解しているつもりだった。だが、僕は足元の砂粒一つさえ理解していなかったのか?)
彼が予測した災厄も、彼の科学知識も、この「優しさ」という名の未知なる秩序の前では、あまりにちっぽけで無知なものだった。
(僕は何も知らない……ただの、思い上がった愚か者だ)
自分への否定の嵐。21世紀から持ち込んだ傲慢さは、この魔法世界の奇跡の前で塵となった。
彼は悔いた。傲慢の頂から、無知の谷底へと落ちた。自分は神ではない。ただの生徒だ。何も分かっていない。
意識が完全に途切れる直前、アーガスの頭をよぎった最後の思考は、ただ一つ。
(……この世界……その物理法則は……僕の世界とは、違……う……)
同じ時。無限に引き伸ばされた感覚の外側で。
ドアが、巨大な力によって、ゆっくりと、重々しく破壊された。
兄トールの、恐怖と激怒で歪んだ顔が、入り口に現れる。
トールが部屋になだれ込む。その目は赤く充血している。
弟の胸の上で、焼き鏝のように真っ赤になった鉄片を見た。アーガスの苦痛に歪んだ顔を見た。
獣のようにのた打ち回る姿を見た。彼に迷いはなかった。
彼は壁際に立てかけてあった鍛冶ハンマーを掴んだ。
その重い鉄の塊が、アーガスのスローモーションの視界の中で、黒い月のように浮かび上がる。
決意と守護の意志を孕んだ弧を描き、ゆっくりと振り下ろされる。
大きくなる。大きくなる。ハンマーの打面に、アーガスの苦しむ顔が映り込む。
トールの瞳には、恐怖、怒り、そして悲壮な決意が混ざり合っていた。
その行動の源は、純粋な兄としての本能。弟の苦しみを終わらせる。代償が何であれ。
そして、無慈悲に、叩きつけられた!
ガァァァァァァァァァァンッ!!!!
天地創造の鐘のような、鼓膜を破る金属の悲鳴!
それが、ねばつくスローモーションの時空を粉々に打ち砕いた!鉄片がへし折れる音!
不吉な赤い光が、一瞬で消える!
周囲のすべてが、悠久の遅回しから、正常な、騒がしく、混乱に満ちた喧騒へと巻き戻された!
時間は元に戻った。
そのドワーフ特有の無茶苦茶で、暴力的で、しかし的確な一撃。
それが、最も原始的で、最も直接的で、そして最も有効な手段として、暴走した死の回路を強制的に断ち切ったのだ。
破滅的な連鎖反応は、ただのハンマーによって、物理的にキャンセルされた。
ドア枠が粉砕されている。サラとアイリーンが入り口で凍り付いている。
直後、サラの悲鳴が津波のように押し寄せた。「アーガス! 私の子!」
彼女が駆け寄り、気絶した息子を抱き上げる。涙が彼の顔に落ちる。
アイリーンはその場に立ち尽くし、小さな手で口を覆い、目を見開いたままだ。
ブレイクが飛び込んでくる。「何があった!? 誰がやったんだ!?」
彼の視線が、真っ二つになった鉄片を捉え、顔色が蒼白になる。
トールは、鍛冶ハンマーを振り下ろした姿勢のまま、揺りかごの傍らで肩で息をしていた。
彼は自らが作り出した惨状を見下ろしていた。
完全に光を失い、二つに折れた鉄屑。
そして、ついに気を失い、陶磁器のように白く脆くなった弟。
トールの手が激しく震え出す。もはや重い武器を支えることはできない。
ゴトリ、という鈍い音と共に、鍛冶ハンマーが力のない指から滑り落ち、石床を叩いた。
石造りの家は混乱に沈んだ。悲鳴。号泣。足音。
暖炉の炎が震えている。今の災厄に怯えるように。
アーガスの意識は、深い闇へと沈んでいく。
だが、あの神ごとき粒子の再構成の映像は、魂の奥底に焼き付いて離れない。
世界は、違っていた。
この夜を境に、すべてを知っていると信じていた天才は消えた。
代わりに生まれたのは、この世界の真理を、一から学び直そうとする一人の生徒だった。
※:エントロピー (Entropy)
物理学において、系の無秩序さの度合いを表す概念。簡単に言えば、エントロピーの増大は事物がより混沌とすることを意味し、減少はより秩序立つことを意味する。
熱力学第二法則によれば、孤立系のエントロピーは増大するか一定に保たれるのみで、自発的に減少することはない。これは自然界の基本法則の一つである。
参考:Wikipedia :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%94%E3%83%BC




