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好きと言えない

作者: あずきなこ
掲載日:2025/12/01

こちらに訪問していただき誠にありがとうございます!

話の内容としては短編の(恋と都合とタイミング)の続編となっておりますが、同じく短編の(予期せぬ恋のはじまり)(恋と罪)に続く四作目になります。ですがそちらを読まれなくても単独で問題なく読めるようになっているのでご安心ください。そしてもしかすると読者様が不快になる、もしくは苦手な何かしらの要素が含まれている可能性がありますので何でもOKという場合のみ、読み進まれることを推奨させていただきます。

 あと残り一時間か‥‥

 

 目線の先にある壁掛けの時計の針はちょうど四時をまわったところだった。

 ふう~っと息を吐き、データチェックに戻ったところで内線が入った。


 「はい、総務です」


 受話器を取ると、同じ受付担当の先輩であるナホさんからであった。

 ちなみにこの職場の女性は伝統的に苗字ではなく、名前で呼ばれることになっているらしいのだが、私はサクマという苗字からとってサクちゃんと呼ばれている。それは私の名前がこの()()さんと被り気味の名前の()()で、呼ぶ方も呼ばれる方も混乱するためそうなった。


 「あ、サクちゃん?お疲れ様。ちょうどよかった、サクちゃん宛てにお届け物。手が空いたらでよいから取りに来てもらえる?」


 「私宛に届け物ですか?‥‥はい、でしたら今から取りに伺います」


 受付に私宛の荷物が届くのは初めてだ。

 というか、個人宛でも会社宛ての荷物と同様、ほとんど裏口に届けられ、担当により仕分けされる。私はなんだろう?と思いながら受付へと向かっていたが、そこに着く直前ではっとなり立ち止まった。


 いや、でもまさか‥‥

 本当にイチジョウさんがケーキをデリバリーしにきたとか?

 

 実は私には一つだけ思い当たることがあった。

 一週間くらい前にあった別の会社の人たちとの飲み会で、ちょっと訳ありでイチジョウさんという男性から私の会社にケーキをデリバリーしてもらうということになっていた。

 

 とにかく、今は荷物を引きとらなければ。

 私が「お疲れ様です」と受付にいるナホさんに声をかけると彼女はすぐに足元に置いてあった手提げの紙袋を手渡してきた。


 「これなんだけどね、さっきスーツの男性が総務のサクマさんに渡してくださいって言って預けていったの。確かイチジョウさん?って名乗っていたと思うのだけど、なんだか急いでいたらしくてサクマさんに渡していただければわかるからってすぐに帰ってしまって‥‥だからサクちゃんに取次ぎしましょうか?って聞く暇もなかった。なんかごめん」


 「いえ、とんでもないです。こちらこそ個人的なものを預かっていただきありがとうございました」


 私はその紙袋を手に速足で給湯室へと向かった。

 そして総務部専用の棚の空いたスペースに仕舞い職場へと戻った。

 その後は残りの仕事をこなし、定時で帰宅すると、土日は友人と買い物に出かけたり母と中華を食べに行ったりして過ごした。


 その土日開けの月曜朝、まだ始業までは少し時間があるので自分の席で雑誌を読んでいた。


 「サクちゃんおはよう!」


 すると先輩同僚のアヤさんが私の傍までやってきた。


 「あのさ、給湯室にある個装されたフルーツケーキっていつもの貢ぎ物?」


 アヤさんの言う貢ぎ物とは貿易部に所属するオオシロさんが出張先で買ってきてくれるお土産のことで、彼がいつもそれを私宛に持ってくることからそう称されている。


 「違いますよ。あれはイチジョウさんからです。例の約束を果たしてくださったみたいで‥‥」


 「え⁉イチジョウさん?マジで?」


 飲み会にはうちの会社から私とアヤさんが参加していたのでその時のことは()()()知っているアヤさんは驚いていた。それぞれの会社の同僚同士で行ったスキー場で出会い、その際に会社のある駅が同じで近いということが判明したことから飲み会が開催されたのだがその元々の切欠となったのは私とイチジョウさんの滑走中の衝突なのである。


 そしてその時怪我をした私のことをとても気にしていたイチジョウさんが怪我の治療費の請求をしない私に納得がいかず、最終的には周りから勧められてお詫びとして私の好きなケーキを会社にデリバリーするということになっていた。


 「それで何かメモとかは入っていたりした?」


 「いえ何も。でもさすがにお礼のメールくらいは礼儀として必要ですよね?」


 私だってこれでも一般常識という類のものは一応心得ている。

 それでもこんな風に先輩に尋ねてしまうことには理由があるのだ。

 彼に連絡をすることを躊躇う理由が‥‥


 「まあそうだね。でもサクちゃんがそれを躊躇う気持ちもよくわかるよ?けどさ、誰からでも何かをもらえばお礼を言うのはごく当たり前のことだしそこはサクっとメールしとけば?」


 確かに人から何かをもらっておいてノーリアクションは嫌なやつすぎる。

 私は携帯を取り出し「お礼が遅くなって申し訳ありません。先週、ケーキを届けてくださり本当にありがとうございました」と短いメッセージを送った。


 その後彼からは届けるのが金曜になってしまったために、日持ちのするタイプのケーキを持っていったが、それを話した同僚女性からフルーツケーキは好みがわかれると言われ心配していたと返信があった。私は慌てて「フルーツケーキも大好きです♡」と送信してから自分の行いにはっとして青ざめた。


 そのことを相談しようと受付から交代で戻ってくるアヤさんを待っていると、神タイミングでちょうど姿を現したのだが彼女の方が先に私に話しかけてきた。


 「サクちゃん!もう掲示板見た?私、今見てきたんだけど、オオシロさんのアメリカ赴任が公示されていたよ!」


 少し興奮気味の彼女は私の返事を待たずに言葉を続けた。


 「それで思い出したんだけど、少し前にサクちゃんオオシロさんからお茶に誘われていったでしょ?あれってもしかして付き合ってください!って緊急告白されたんじゃない?」


 「緊急告白?‥‥あの、アヤさんだから正直に言いますが、付き合ってくださいではなく、一緒にアメリカに行ってくださいってプロポーズされました」


 「え?え~っ⁉プ、プロポーズ?付き合ってもいないのにプロポーズ?」


 驚く彼女を尻目に私は頷きながら彼からの話を全部聞かせることにした。

 

 「オオシロさんは元々結婚に興味はなかったらしいのですが、海外赴任を内示されたそのタイミングで私への好意を認識して私も一緒に連れていきたいと思ったそうなんです。その時に結婚が今の自分には都合がよいとも思ったらしく、段階をすべて飛び越してのプロポーズに至ったということでした」


 「ちょっとサクちゃん、なんでそんなに冷静なの?あのオオシロさんの印象からはほど遠い感じのすごいなめくさってる感にビックリだけど、まずは先にサクちゃんのそのプロポーズに対する返事を聞こうか?」


 「それはもちろん断りましたよ。ついでに好きな人がいるという話もしました」


 私は続けて最初は私も今のアヤさんと同じくなめているなと感じたが、彼の表情と口調からそうではなく、真面目故の不器用さが出ていただけだと理解し、そういう始まりも有りかなと思ったことも伝えた。


 「そっか‥‥でもそれこそサクちゃんはこのタイミングでのプロポーズ!もうその手を取りなさいっていう暗示だったんじゃない?‥‥って違うか⁉その顔はやっぱりイチジョウさんなんだね、そうだよね、まあそれはそうか‥‥」


 思いがけずオオシロさんの公示の話題が出て、すっかりと自身がアヤさんに相談しようとしていたことを忘れ、その後はいつも通りの仕事を終えてからの帰宅となった。


 そして翌日朝、給湯室でコンビニで買ってきたおにぎりを食べているとアヤさんと一緒に後輩同僚のチカちゃんが入ってきた。


 「サクマさん、お早うございます!駅でアヤさんに会ったので一緒に来ました」


 このチカちゃんのように後輩同僚たちは皆、私をサクさんではなくサクマさんと呼ぶ。なんとなくサクさんだと言いづらいというのとなぜかおかしく聞こえてしまうためそうなった。


 「今、ちょうどチカちゃんとも話していたんだけど、駅のあっち側から少し歩いたところにある商店街の中にオープンしたドラッグストアがすごいセールをやっているんだよ。昨日の帰りに同期と一緒に見に行ってみたんだけど、店内に貼ってあったチラシにサクちゃんが使っている化粧水が半額になっていたよ」


 「え⁉は、半額ですか?それはものすご~く安いです!今まで最高で20%オフでした。もう何があっても絶対今日買いに行きます!」


 私が普段愛用している化粧水は結構なお値段でほとんど安くならないのであるが、たまに激安ショップなどで20%オフになっている時に買うようにしていた。それが半額である!なにがなんでもゲットしようと気合を入れたところ、日替わり特価品で今日ではなく明日だから気を付けるように言われてしまった。 


 危ない‥‥焦って今日寄るところだった。


 そして翌日の仕事帰り。

 大体いつも定時帰宅しているが、今日はさらに一秒でも早く帰る勢いでさっさと会社を後にした。そして駅につくと歩道橋を渡ってあちら側に下り、商店街に向けてテクテクと歩き出した。


 あれ?なんか人だかりになってる?

 しばらく歩いたところでそれらしき店を発見したが、そこにはすでに会社帰りっぽい人たちの姿で溢れていた。思わずその光景に怯んでしまいそうになったが頭の中の半額が私を煽り、その足はどんどん着実にドラッグストアへと近づいていった。


 そしていよいよ目の前に来てみれば、遠くで見えていたよりもましな混雑具合だったのでひとまず安堵し、なるべく人とぶつからないように気を付けながら目的のものを探して店内へと進んでいった。


 あった‼

 目的の化粧水を目にして安堵とともに喜びが沸き上がる。

 棚に手をのばし、二つ手にしたところで棚の在庫がなくなった。


 本当は三つ買ってもよかったくらいであるが残念ながら棚には二つだけ。

 それでもとりあえずはギリギリ手に入れることができたのでよしとしよう。


 私はその二つを手にレジへ向かおうと踵を返したところで気のゆるみからか誰かにぶつかってしまった。


 「あっ、ごめんなさい!」


 見上げたそこにあったのは私が大好きな顔だった。


 「あれ⁉サクマさん?」


 イチジョウさん(大好きな人)ももちろんとても驚いていたが、それでも私に大丈夫かと気遣いの言葉は忘れなかった。それに頷いていると「見つかったか?」と言いながら彼の後ろから知らない男性が近づいてきた。


 「あ~多分ここだと思う」


 彼は棚に視線を戻すと商品名の確認をしながら何かを探しているようだった。

 私は手助けになればと何を探しているのか尋ねたところ、まさかの私と同じ化粧水だった。複雑な気持ちで手にしている二つを彼らに見せ、これで棚の在庫は最後だったことを告げた。


 「あの、今から店のスタッフの方に在庫の確認をしてみます。それでもう無いということでしたらこの一つをお渡しします。一つずつということになりますがそれでも大丈夫ですか?」


 そう提案した私に彼らは「なんか申し訳ありません‥‥」と居た堪れなさそうにしていた。私はそんな彼らにこの品が人気で半額になるのは初めて見たことを話し、これを買えずに帰るのは悔し過ぎますよね~と微笑みながら手にあった一つを差し出した。


 一応スタッフに確認はしたのだが、やはり在庫はなかった。

 特価品とはいえ、他の商品と比較するとそう安いという額ではないため予想以上の売れ行きに驚いているようだった。


 「サクマさんケーキはお好きですか?もしよかったらうちでコーヒーとケーキなんていかがでしょう?なんならお酒も出せますよ。ぜひこのお礼をさせてください!」


 店を出たところでイチジョウさんから紹介された私にイチジョウさんの友人であるコジマさんがそう声をかけてきた。


 「それいいな。実は今日、こいつの家に行くことになっていてカフェバーをやっているんだが、奥さんが来る前にこの化粧水を買ってこいって言うから付き合ってここに来たんだ。そんなに人気商品だと知らなかったけど、サクマさんのおかげで俺たちは命拾いした。だから礼をさせてほしい」


 私は少し悩んでから「ではせっかくなのでケーキを食べにお邪魔しようかな?」と返した。それは会社終わりで一緒になった同僚とはたまにカフェに寄って帰ることもあるので私にとっては単なる通常運転行動であった。


 だがそれから彼らについて歩き始めると、路上駐車していた車の前で止まった。

 そして後部座席のドアを開けるイチジョウさんの「どうぞ」という優しい声が響き、そこで私は初めて自分の想像と異なる状況になりつつあるのだということを理解した。


 だが時すでに遅しである。

 私はこの商店街の中、あるいは周辺にその店があり、徒歩圏内を想像していたので軽い気持ちで了承した。まさか車で移動するなど考えてもみなかったのである。だが今更断るわけにもいかず、私は大人しく後部座席に収まった。


 そしてそこからしばらく走っていると海岸沿いの道に出た。

 その道を少し行ったところで脇道に入り、住宅街のような雰囲気の場所にたどり着くと「ここだよ」とイチジョウさんが指差した先にsea angelと表示されたかわいらしいポストが目に入ってきた。


 どうやらそこがコジマさんの店らしい。

 私も好きなスカイブルーを基調とした外観とオフホワイトを基調とした清潔感漂う内装とシンプルかつ大人な雰囲気を醸し出しているインテリアが印象的な店内は私にはとても魅力的に映った。近場ではなかったからと断らなかったことを後悔していた自分を殴りたくなるほどに、本当についてきてよかったと心の底から思っていた。そして案内されたカウンター席に座っていると、奥から出てきた女性に挨拶をされた。 


 「初めまして。救世主のサクマさんですよね?私は化粧水を譲っていただいたコジマの妻、サキコです。本当にありがとう!そしてようこそいらっしゃいました」


 彼女はコジマさんの奥様であり、イチジョウさんとも友人なので互いに名前呼びらしく、予期せず()()()イチジョウさんの名を呼ぶのを初めて聞いてしまい動揺していた。それでもうまく笑顔で取り繕いながら話を聞き続けていた。


 「うちはね、カフェバーなんだけど、女性のお客様が多くて特に私が作るケーキを気に入って何度もリピートして買いに来てくださるの。だから恐らくサクマさんも気に入ってくれると思うわ」


 何を飲みたいか尋ねられた後、サキさんが私の目の前に置いたのは素敵なお皿にのったきれいな色をした見た目も美しいケーキだった。それは一番人気のケーキらしく、なんでもイチジョウさんも大のお気に入りでこれを食べたくて一人でもよくここに通って来るのだとか。何のケーキかは食べてみればわかると皆の期待に満ちた視線を受けながらそっとフォークを入れて口に運んでみた。


 「‥‥‥ヤバいです。これはもしかしてかぼちゃですか?めちゃくちゃおいしいです!冗談ではなくこれなら余裕で五個は食べられます!」


 「サクマさん正解!これは私自慢のかぼちゃケーキなの。それにしても五個も食べられるだなんてうれしいわ」


 私は今の状況もすっかり忘れ、ケーキに夢中になっていた。

 元々甘いもの好きではあるが、実はケーキは甘さ控えめでずっしり感のあるものが好みだった。私の周りではフワフワ系の甘いケーキが人気なので久しぶりにずっしりとしたコクのあるケーキに感動すら覚えていた。


 しかも隣ではイチジョウさんが子供のように無邪気に同じケーキを頬張っている。私は瞬間、その愛おしい横顔をいつまでも見つめ続けていられたらと、そう願ってしまった。


 「サクマさんもこれを気に入ってくれたみたいでうれしいよ。実は俺も甘いものは結構好きでよく食べるんだ。でもあまり甘すぎるのは好みじゃなくて、このくらいの自然な甘さで食べ応えがあるケーキが好きなんだ」


 「わかります!甘いものは好きでもその加減によって微妙にこれじゃない!ってなるときありますよね?」


 私とイチジョウさんはそこからケーキや和菓子の話題で大いに盛り上がってしまい、互いにおすすめの当たりだった店や逆にはずれだった店の情報なども交換し、気づけば目の前にいたはずのコジマ夫妻の姿が消えていた。それに気づかないまま普通に楽しく会話を続けていた自分にもとても驚いた。


 「あの、サキさんたちはどこに行ってしまったのでしょうか?」


 「あ~多分裏で仕込みかな?でもやっぱり気になるよね?ちょっと待って」


 彼はそう告げると声を張り上げるようにして彼らを呼んだ。

 すると奥から二人一緒に現れ、そろそろ店を開けるからちょっと裏で準備をしていたと言いながらコーヒーのおかわりを注いでくれた。


 「ごめんね、急にいなくなっちゃったりして。でも二人とも楽しそうでよかった!ねえ、サクマさん?サクマさんの下のお名前はなんていうの?」


 「下の名前ですか?ナオです。サクマナオといいます」


 「ナオちゃん?それじゃあ私、今からナオちゃんって呼んでもいいかしら?」


 なぜか突然サキさんからそう尋ねられ、それでも私はもちろんですと即答し、大人になってからは名前で呼ばれる機会が減ったのでまた名前で呼ばれることが新鮮でうれしいと告げた。さらによかったら連絡先の交換もしないかと言われたので喜んで交換した。


 その後店には客も訪れ始め、そろそろ私たちは帰ろうというタイミングでどこに住んでいるのかと問われたのでそのエリアの名前を告げるとイチジョウさんが同じ方向で通り道だから送ると言い出した。


 普通、大好きな人からそう言われれば誰もが喜ぶ。

 だが今の私の心の中はとても複雑な思いで苦く沈んでいた。

 口から飛び出してきてしまいそうなその苦い言葉を飲み込んで、近くの駅から電車に乗るからと言って断った。


 「ナオちゃん、どうせ同じ方向でついでなんだから遠慮しないで送ってもらうといいわ」


 それなのに、コジマさん夫妻はついでだからと強調し、逆に変に遠慮すると嫌われていると思って彼が傷つくと言って私を追いつめるのだ。


 ずるい‥‥そんな風に言われたら、もうそれ以上頑なに電車で帰るとは言いづらくなるではないか‥‥


 「そう‥ですね‥‥変に強情を張るのは誤解を生みますよね?では素直に送っていただこうかと思います。イチジョウさん、お手数ですがよろしくお願いいたします」


 私は頭をさげ、唇を噛みしめていた。


 「イチジョウさんは車で通勤されているんですか?」


 コジマさん夫妻の店を出て、私は気まずく緊張しながら助手席で固まっていたが、ふと運転しているのは彼で、この車は彼のものであるということに思い至り、口から自然とそう言葉が漏れ出てきた。


 「ん?あ~そうだね。でも仕事によっては電車で通勤することもあるよ。それからなんか無理やり送らせるような感じになっちゃって悪かったね。でも本当に通り道だから気にせず堂々としていてくれると助かる」


 そう言って私の方を見て微笑んだ彼に心が痛んだ。

 落ち着いてよく考えてみればあの周辺を徒歩で女性一人で駅に向かうこともそこから乗り継いで帰るのも時間がかかるうえ、時間的にも安全かと問われれば決して頷くことはできない。


 私は馬鹿だ。

 彼らはちゃんとそういうことをわかっていたからこそのあの説得だったのだ。

 そしてただ自分の独りよがりの感情で頑なに断ろうとしていた自身に最後までこうやって大人の対応で寄り添ってくれているのだ。


 彼はその後も最近見た面白かった動画の話や仕事で行った先で起こった予想外の出来事などを話しながら笑い、時々助手席の私の方を見てはやさしく微笑んだ。


 私の心はそのたびに温かくもなり、痛みもした。


 なぜその左手の薬指にあるはずのリングがないのですか?

 なぜそんなに私にやさしくするのですか?

 なぜそんな風に私に笑いかけるのですか?


 あなたには奥様がいるのに‥‥‥


 そう思うだけで胸が苦しい‥‥‥


 それでも私はあなたへの思いは止められない。

 溢れるその思いも決して言葉にはできない。

 

 言わないのではなく、言えないのだ。


 そして誰にもあなたを好きだと知られてもいけない。


 私はあなたに好きと言えない‥‥‥

  



 

 

お読みいただきありがとうございました。

続きとなる話は別の短編として執筆中です。

またお付き合いいただけますと幸いです。

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