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奴隷令嬢、最強への成り上がり  作者: 南蛇井


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解放証

夜明け前の森の薄明かりの中、麗華は焚き火の余熱に手をかざしながら、自分の手首に残る首輪の痕をじっと見つめていた。あの冷たい鉄の感触、鎖の擦れる音――逃げる間もずっと脳裏にこびりついて離れない。

「また、誰かの駒になるのか……」

胸の奥が締めつけられ、恐怖が全身を支配する。しかし同時に、現実の焦燥感も押し寄せる。追手はまだ遠くにいるかもしれない。ここでじっとしていたら、ただ追われ続け、終わりのない夜に取り残されるだけだ。

麗華は小さく息を吐き、震える手を握りしめた。心臓は早鐘のように打ち、呼吸が荒くなる。「……でも、動かなければ……終わるだけ……」

過去の屈辱と今の切迫感が入り混じり、恐怖と焦燥の渦が、麗華の胸を押し潰しそうになっていた。

麗華は森の小道に立ち止まり、地図を指でなぞりながら深く息をついた。目の前には、主人役候補たち――獣人傭兵のロウガ、冷静なジーク、豪放なダリオ、策士のカイル――の顔が思い浮かぶ。

「表面的な印象だけで判断してはいけない……」

過去の経験が、そう警告していた。誰も信じられないと思ったあの日々。だが今、逃げ回るだけでは未来は開けない。だからこそ、言動、態度、過去の行動、そしてちょっとした反応まで、あらゆるものを慎重に見極めなければならない。

一度契約を結べば、簡単に逃げ出すことはできない。もし間違った人物を選べば、今までの苦労が水の泡になる――その可能性は、胸の奥に冷たい警告として響く。

麗華は小さく唇をかみしめ、心の中で繰り返す。「慎重に選ばなければ……絶対に、間違えられない。」

その視線は、次に出会う者たちの一挙一動を鋭く捉えようと、自然と研ぎ澄まされていった。

麗華は夜明け前の森を見つめ、肩に力を入れて立ち尽くした。冷たい風が頬をなでるたび、過去の記憶――鎖に縛られ、誰かに意思を決められた日々――が鮮やかに蘇る。

「怖い……でも、もう、逃げるだけじゃダメ……」

心の奥で震える恐怖を押さえつけ、麗華は小さく拳を握る。自分で選ばなければ、また誰かの駒になるだけ。もう二度と、勝手に決められた鎖には繋がれない。

過去の屈辱と無力感が、今は逆に自分を突き動かす原動力になった。胸の奥に、かすかな希望の光が差し込む――自らの意思で未来を切り開く力が、ここから芽生えようとしていた。

「怖くても……私は、自分で選ぶ――!」

決意の声は風に溶け込み、森の静寂の中に力強く響いた。


――夜明け。森を抜けると、薄桃色の空の下に小さな街の影が見えた。

冷え切った夜風が頬をかすめるたび、麗華は背負った布袋を握りしめる。指先がこわばっているのは寒さだけじゃない。

(……誰を信じる? 間違えば、すべて終わる……)

胸の奥に刺さる恐怖は、決意を固めても消えなかった。けれど、止まるわけにはいかない。

街門に入る前、通りを行き交う人々の様子を観察する。荷馬車に積まれた荷を値踏みする商人、武具を背負って歩く冒険者。誰もが自分の利益のために動いている――そんな当たり前の現実を、麗華は改めて胸に刻む。

(情報を集めなきゃ。適当に選べば、本当に鎖をつけられる……)

街に足を踏み入れると、麗華は目立たぬようフードを深く被り、酒場や市場を回り始めた。

耳に入ってくるのは、討伐依頼をこなした冒険者の噂、雇われ傭兵の武勇伝、そして金に汚い連中の話。

(……まずは見極める。噂でも、行動でも……本当に信用できる人間かどうか。)

心臓が早鐘を打つ。決意は揺らがない――だが、不安は確かにそこにあった。

それでも麗華は、己の未来を賭けて、最初の一歩を踏み出した。


1. ロウガ(獣人傭兵)

――昼下がり。街外れの荒れ地に、獣の唸り声と金属音が響いていた。

麗華が足を止めると、草むらの向こうで一人の獣人が巨大な牙猪を仕留めていた。

ごつい腕で斧を振り抜き、あっさりと魔物を地に沈めると、彼――ロウガは額の汗を拭って豪快に笑った。

「へへっ、こいつぁ骨が折れたな! だが肉は上等だぜ!」

屈託のない笑顔。その場で獲物を肩に担ぎ、何の警戒もなく街へ戻っていく。

麗華は物陰からその背を目で追った。

(……あれがロウガ。噂通り、腕は確かみたい。でも――)

戦いぶりは見事だったが、行動に一切の計画性が見えない。危機感も、打算もない。

むしろ「裏表がなさそう」な雰囲気すらある。

(悪人には見えない。けど……軽すぎる。ほんとに信用して大丈夫なの……?)

胸の奥に慎重さと微かな期待が入り混じる。

麗華はそっとフードを深くかぶり、彼の足取りを追い始めた――。

街外れの訓練場。

まだ朝日が傾きかける前だというのに、地面を揺らすような掛け声が響いていた。

「おらっ!もっと腰を落とせ!そんな振りじゃオオカミに笑われるぞ!」

「は、はいっ!ロウガさん!」

大柄な獣人――ロウガは、仲間の若い傭兵たちの剣の稽古をつきっきりで見ていた。

豪快な声と共に、自ら木剣を取り、手本を見せるその姿はまるで兄貴分だ。

「おっと、そこだ!ほらよ!」

「ぐわっ!? う、腕が痺れ……!」

「ははっ、心配すんな、今の痛みは成長の証だ!」

……教え方は乱暴だけど、悪気はなさそう。

茂みの陰から覗いていた麗華は、思わず口元を引き結んだ。

午後になると、ロウガは酒場で仲間と肩を並べて飲んでいた。

酔いの回った仲間が「次の依頼、どうする?」と問うと、彼は豪快に笑った。

「決まってんだろ、面白そうなのを選べばいい!」

「え、でも報酬が安いぞ?」

「金なんざ後からついてくる! まずは暴れて楽しまねえと意味がねぇ!」

麗華はカウンターの隅で聞き耳を立てる。

――裏切りそうな雰囲気はない。仲間思いだし、義理堅い……でも。

心の中で冷静に線を引いた。

「無計画すぎる。私が振り回される未来が見える……。

力強いのは魅力だけど、鎖を握らせて本当に大丈夫なタイプか?」

麗華はカップを持ち上げるふりをしながら、視線をロウガから逸らした。

まだ判断を下すには早い。――もう少し様子を見る必要がある。

街外れの酒場、夜も更けて酔客がまばらになったころ。

麗華はカウンターの端で、冷めたスープに匙を沈めていた。

目の前の扉が乱暴に開き、獣人の男が豪快に入ってくる。

「はーっ、飲み足りねぇな! 親父、エールもう一杯!」

「お前さん、さっきの報酬ほとんど使い切ったろ?」

「細けぇこと気にすんなって!」

相変わらず無鉄砲な笑い声。

――でも、裏表はなさそう。

麗華はスプーンを置き、意を決して立ち上がった。

「……ロウガさん、ですよね?」

「ん? あんた、見ねぇ顔だな。誰だ?」

振り返った獣人の金色の瞳が、警戒も打算もなくこちらを見据える。

麗華は少しだけ緊張しながらも、まっすぐに言葉を選んだ。

「あなたに……頼みがあるの。」

「頼み?」ロウガは椅子を引き、ドスンと腰を下ろす。「面白ぇな。話してみろ。」

――どう切り出す? “主人役になってほしい”なんて、いきなり言えるわけがない。

麗華は一拍置き、視線を落として小さく息を吸った。

「……私、一人じゃ動けない事情があるの。冒険者として活動したいのに、登録ができない。」

「なるほどな。じゃあ誰かに保証人になってほしいってわけか?」

「……察しがいいのね。」

ロウガは豪快に笑う。

「俺は頭使うの苦手だが、人を見る目だけはあるつもりだぜ。」

――この人、本当に裏表がない。

でも、計画性なんてゼロ……。

「で、俺に頼みてぇのか? 別にいいぜ、困ってるやつを放っとけねぇ性分でな。」

「……え?」

あっさりすぎる答えに、麗華は思わず目を瞬いた。

「ただし!」ロウガはにやりと牙を見せる。「お前さんも退屈させんなよ。俺が保証人になるからには、面白ぇ冒険をさせてくれや。」

麗華の胸が、不安と安堵で複雑に揺れる。

――この男、信用できるのか。それとも危うい賭けなのか。

「……考えさせて。」

「おう、好きにしな。俺は逃げも隠れもしねぇからな!」

ロウガは再びエールをあおり、麗華は静かに席を立った。

怖い……でも、こういう真っ直ぐさは嫌いじゃない。





2. ジーク(騎士崩れ)


――夕暮れの酒場。ランタンの灯りに照らされ、ざわめく声が木の壁に反響している。

麗華は隅の席でフードを目深にかぶり、水の入ったカップを弄びながら耳を澄ませていた。

「見たか? この前の盗賊退治、ジークのやつ一人で片づけたらしい」

「さすが元騎士だな。……ただ、報酬の取り分をきっちり踏み倒さなかったか?」

「いや、あれは“契約通り”だとよ。交渉の鬼だな、あいつは」

噂の主――ジークは、カウンターで静かに酒を飲んでいた。

端整な顔立ちに無駄のない仕草、鎧の手入れも完璧。

視線が合いそうになると、麗華は慌ててカップに口をつける。

(……あれがジーク。冷静で理性的――だけど、金の匂いには敏感そう。)

麗華は胸の奥に冷たい感触を覚えた。

(利用価値がないと見れば、きっと迷いなく切り捨てる……そんな目をしてる。)

けれど同時に、確かに頼れる強さも感じる。

麗華は、噂話の続きを聞き逃さないよう耳を澄ましながら、そっと視線を彼に送った――。


酒場の隅。酔客たちの喧騒の向こうで、妙に静かな気配があった。

麗華は薄暗い柱の陰から、その男をじっと見つめていた。

黒い外套に身を包んだ青年――ジーク。

かつて騎士団に属していたと噂される男だが、今は雇われ剣士に過ぎない。

「――報酬は銀貨三十枚? 安すぎるな。」

「し、しかし……それ以上は……!」

「なら依頼を諦めろ。命の危険を伴う仕事に、値切りは通用しない。」

低く響く声。ジークは淡々と、まるで天秤で重さを量るように条件を計算していた。

依頼主が弱々しく視線を落とした瞬間、その瞳が鋭く光る。

「……ふむ。そこまで切羽詰まっているなら、銀貨五十枚だな。」

「ご、五十!? し、しかし……!」

「他に頼れる奴はいないんだろう? 時間を無駄にしたくない。」

有無を言わせぬ圧力。

麗華は息をひそめた。――この人、情では絶対に動かない。

実力は確か。でも……私が奴隷だと知ったら、迷わず売るはず。

理性的すぎて、裏切ることに一切の躊躇がない……。

ジークは交渉を終えると、短くうなずいて席を立った。

その背中は騎士らしい威厳を残しつつも、どこか冷たい影を帯びている。

麗華は柱の影から静かに視線を外した。

「――契約したら、確かに強力な“盾”にはなる。

でも、私が鎖の重さに耐えられなくなった時……容赦なく切り捨てる人。」

胸の奥に、ぞくりと冷たいものが走った。

昼下がりの酒場。

客足がまばらになった時間帯を狙い、麗華は慎重にカウンターの隅へ座った。

目の前に現れたのは、先ほど交渉を終えたばかりの青年――ジーク。

「……見ない顔だな。旅の途中か?」

彼はグラスを傾けながら、何気なく問いかけてきた。

麗華は一瞬だけ迷い、無表情を装って答える。

「ええ。……雇われの冒険者を探しているの。」

ジークの口元が、僅かに緩んだ。

「なるほど。金の匂いがする話なら歓迎だが……君みたいな華奢な子が雇う立場か?」

「腕は確かって噂を聞いたわ。報酬を払えば動いてくれるんでしょう?」

麗華は、相手の目をまっすぐ見返す。

ジークはその視線をしばらく受け止めた後、薄く笑った。

「……払えるなら、な。俺は善意じゃ動かない。」

彼の声は柔らかいのに、底が冷えている。

「もし――君が払えなかったら?」

「……さあ?」ジークはわざとらしく肩をすくめた。「その時は別の“価値”を探すだけさ。」

麗華の背筋に、かすかな寒気が走った。

――やはりこの人は危険だ。金や力で動く、冷徹なタイプ。

「安心しろよ、今は取引相手を脅すつもりはない。

ただ……俺と組むなら、裏切らない方がいい。俺もそうするからな。」

麗華は短く息を呑み、視線を落とすふりをして胸の鼓動を隠した。

信用してはいけない。でも、力は確か……。

「……覚えておくわ。」

冷静な声でそう返すと、ジークは満足げに笑みを深めた。




3. ダリオ(老練の商人兼冒険者)


――昼下がりの商業通り。

麗華は人混みに紛れ、荷馬車の横で交渉している壮年の男を見つけた。

白髪混じりの口ひげに落ち着いた物腰、背には商人らしい帳簿袋――しかし腰の短剣は使い込まれている。

「二十袋なら……相場より銀貨五枚は高いな。だが品質は保証しよう」

「さすがダリオさん、話が早い!」

取引相手の若い行商人が笑顔を見せ、しっかりと握手を交わす。

麗華は遠目にその様子を見て、胸の内で呟く。

(あれが噂のダリオ……老練な商人で、冒険者としても顔が利く。誠実そうだけど――)

男は最後に相手の背中を叩きながら、きっちり代金を数えて受け取った。

一切の抜け目も妥協もない、その姿に麗華は無意識に指先を強く握りしめる。

(話は通じる相手……でも、“私が自分で鎖を選んだ”ってことを逆手に取られそう。)

(計算高い人は、情じゃ動かない。契約の文字一つで首を絞められる……。)

その瞬間、冷たい風が吹き抜け、麗華はフードの影で小さく身震いした。


朝の市場は活気にあふれていた。

威勢のいい呼び声と値切りの声が入り混じる中、一人の老練な男が目に留まった。

――ダリオ。噂では商人でありながら冒険者としても活動し、かなりのやり手だという。

麗華は人混みに紛れ、彼のやり取りを静かに見守った。

「うちの薬草は質がいい、特別に安くしておくよ!」

露店の青年が声を張るが、ダリオは笑顔で首を振る。

「質は悪くないが、保存処理が甘いね。次の街に着く頃には半分は駄目になってる。……悪いが、別の店をあたるよ。」

口調は穏やかだが、情け容赦はない。

数歩進んだ先では、別の商人と笑顔で握手を交わしている。

「君の仕事は誠実だ。量も揃っているし、支払いもすぐにできる。」

取引相手が安堵の息をつくのを見て、麗華は確信した。

――この人は人柄こそ柔らかいが、利益にならない相手はきっぱり切り捨てる。

ギルドでも同じだった。

商談相手の過去の実績や信用度を細かく確認し、数字と事実で判断していく。

情や勢いでは動かない、本物の慎重派――まるで鎖の両端を確実に自分の手で握るような。

話は通じる。きっと裏切りはしない。だけど――

麗華の胸の奥に、冷たい感覚が広がった。

私が“奴隷”だと知れば、その立場を逆手に取られるかもしれない。

安全だけど、完全に主導権を握られる危険がある……。

市場の雑踏に紛れながら、麗華はそっと視線を伏せた。

「……慎重すぎる相手も、怖いものね。」

小さな呟きは、誰の耳にも届かずに消えていった。

麗華がダリオと直接会話する場面をラノベ調で作成しました。観察だけでは掴みきれない「老練さ」と「計算高さ」を、自然なやり取りの中に織り込んでいます。


昼下がりのギルドは、商談に訪れた商人や冒険者でにぎわっていた。

麗華は、帳簿を閉じて腰を伸ばすダリオの姿を見計らい、静かに近づいた。

「……少し、お話を伺っても?」

「おや、珍しい顔だね。見ない人だ。」

ダリオは目を細めて麗華を見上げる。笑顔だが、その視線は一瞬で彼女の足先から頭のてっぺんまでを測った。

「仕事の依頼かい? それとも、何か売りたいものでも?」

「いえ……あなたの評判を聞いて、ぜひ話をしてみたくなっただけです。」

「ほう。評判ねぇ。」

ダリオは顎に手を当てて、にやりと笑った。

「“誠実だが計算高い”――そんなところかな?」

麗華は一瞬、返事に詰まった。

図星を突かれたような感覚。だがダリオの声色は軽い。

「……そうかもしれません。」

「隠すことじゃないさ。商売も冒険も、結局は計算だ。

 情だけで動くと、後で損をするのは自分だからね。」

麗華は慎重に言葉を選んだ。

「もし――誰かの保証人になってくれるなら、その人はあなたにとって“損”になりますか?」

「ほう?」ダリオの目がわずかに細くなる。

「君、面白いことを聞くね。」

一瞬の沈黙。まるで麗華の心の奥まで覗き込むような視線だった。

「……条件次第だな。保証するだけの価値がある相手なら、俺は構わない。」

「価値、ですか。」

「そう。人を助けるのに善意はいらない。ただ、取引の釣り合いが取れてるかどうか、それだけだ。」

麗華は胸の奥がひやりとするのを感じた。

――この人は悪人じゃない。けれど、情だけで動く人でもない。

“鎖を選んだ”ことを、必ず秤にかけられる……

「なるほど……勉強になります。」

「はは、勉強代は高いよ?」

冗談めかして笑うダリオの目は、やはり抜け目なく光っていた。

麗華は軽く会釈して席を立つ。

背中に注がれる視線が、妙に重く感じられた。

――もしこの人と組めば、安全かもしれない。でも、完全に主導権を握られる。




4. カイル(若い魔術師)

――昼下がりの市場。

露店に香草や薬草の匂いが満ちる中、麗華は人混みの先に見慣れぬ青年を見つけた。

長めの前髪が目にかかり、肩には使い込まれた革の魔導書ケース。

彼は店主に何度も頭を下げながら、薬草の束を慎重に選んでいる。

「えっと……これと、これも……あ、すみません、やっぱりこっちで……」

優柔不断な声色に、店主は苦笑している。

麗華は露店の陰に身を寄せ、そっと彼の様子を観察した。

(あれがカイル……噂どおり、気弱そう。でも誰にでも礼儀正しい……)

青年は支払いの際、余分に銅貨を渡そうとして「釣りはいらないです」と慌てた様子を見せる。

悪意など微塵も感じさせない態度に、麗華の胸中で複雑な思いが渦巻いた。

(悪人じゃない……むしろ優しすぎるくらい。でも――こんな人に“主人役”なんて、務まるの?)

(私を守るどころか、逆に巻き込んでしまいそう……。)

通りを吹き抜ける風が、薬草の匂いとともに麗華のフードを揺らした。

彼女は無意識に唇を噛み、青年から視線をそらす。

昼下がりの市場は、行商人の呼び声と香辛料の匂いでごった返していた。

麗華は人波の中で、薬草の束を抱えた一人の青年を見つけた。青いローブの裾を踏みそうになりながら、商人に値段を吹っかけられている。

「こ、こんなに高いはずは……!」

「嫌なら他を当たるんだな!」

青年――カイルは困惑した顔で袋の口を握りしめる。

「……あの人、本当に交渉が下手。」麗華は物陰からそっと見ていた。

結局、倍近い値段で薬草を買わされると、今度は裏路地でならず者に肩をぶつけられた。

「おいおい、謝るだけじゃ済まねえぞ?」

「す、すみません! 本当にすみません!」

カイルは慌てて何度も頭を下げる。だが、手を伸ばされた瞬間、反射的に詠唱が口をついた。

「《フレア・スパーク》!」

小さな火花が弾け、ならず者が驚いて後ずさる。カイルは慌てて周囲に向かって叫んだ。

「ご、ごめんなさい! 脅かすつもりじゃ……!」

男たちは舌打ちして去っていく。カイルは額の汗を拭いながら、その場にへたり込んだ。

「……やれやれ。強いのか弱いのか分からない人ね。」麗華は苦笑を浮かべる。

彼の後ろ姿を目で追いながら、心の中でつぶやく。

――優しいけど頼りない。でも悪意はない。この人に鎖を握らせても……結局、私が守る側になるだけかもしれない。

夕暮れ時の市場の裏路地。人通りが少なくなり、さっきのトラブルで散らばった薬草をカイルが必死に拾い集めていた。

「落としたのはこれで全部?」

背後から声がして、カイルはビクッと肩を跳ねさせた。振り返ると、フードを深くかぶった麗華がしゃがみ込み、薬草の束を差し出していた。

「あ、ありがとうございます……!」

「危なっかしいわね。さっきのならず者、もう少しで財布まで取られるところだったわよ?」

「す、すみません……いや、謝ることじゃないか……」

カイルは苦笑しながら頭をかく。その様子に麗華は内心で小さくため息をついた。

――この人、本当に悪意がない。でも、この調子で“主人”なんて務まるの?

「市場の商人にもぼったくられてたでしょ」

「う……やっぱり見てました?」

「ええ。薬草の相場を知らないわけじゃないでしょうに」

「知ってはいるんですけど……断るのが苦手で……」

言葉を濁すカイルに、麗華はわざと距離を詰めるように一歩前へ。

「そんな調子だと、利用されやすいわよ」

「は、はい……気をつけます」

「でも……困ってる人を放っておけないタイプでしょ?」

「え?」

「さっきも、攻撃魔術で脅すだけで済ませてた。殺そうと思えばできたのに」

「だって……誰かを傷つけるのは嫌ですから」

その言葉に、麗華の瞳が一瞬だけ柔らかくなる。しかしすぐに視線を逸らした。

「……そう。あなた、面白い人ね」

「え、面白いって……」

「また会うかもしれないわね」

フードの陰から笑みをちらりと見せ、麗華は薬草の束を置いて去っていった。

カイルは呆気に取られながら、その背中を見送るしかなかった。

――麗華の内心

優しいけど頼りない。でも……少なくとも悪人じゃない。

この人に鎖を握らせても、私が守る側になるだけかもしれないけど……。



――一度でも契約したら逃げられない。見誤れば、奴隷に逆戻りだ。

 ――でも……誰かを選ばなきゃ、ここで終わる。

 麗華は街の雑踏の中で足を止めた。昼下がりの陽射しが石畳に反射し、人々の笑い声が遠く響く。だがその穏やかさは、彼女の胸の内には一片も届かない。

 背負い袋の紐を握りしめる指先に、うっすらと汗が滲む。

 ロウガ……あの豪快な笑い声。裏表はなさそう。でも……軽すぎる。

 ジーク……あの冷ややかな目。理性的で強い。でも、計算ずくで私を切り捨てるだろう。

 ダリオ……誠実そう。でも商人の笑顔の裏で、私を駒として値踏みしているかもしれない。

 カイル……優しすぎる。悪意はない。でも、あの人に鎖を握らせたら、守るどころか逆に庇う羽目になる。

 どの顔を思い浮かべても、不安の棘が胸に刺さる。

 市場の賑わいの中、ふと目が合った商人の笑顔にすら、「裏があるんじゃないか?」 と疑ってしまう自分がいる。

 ――本当に信じていいの?

 麗華の心臓がドクンと鳴る。

 笑顔一つ、沈黙ひとつ、わずかな目線の動き。その全部が罠に見える。

 だが、もう時間がない。背後を歩く旅人の足音にすら、追手の気配を感じてしまうほどに――。

 怖い……でも、自分で選ばなきゃ。

 麗華は唇を噛みしめ、足を再び前へと踏み出した。

――来てる。絶対に、来てる。

 麗華は街道を歩きながら、何度も後ろを振り返った。

 西日に照らされた森の木立、その奥で――確かに馬の影が動いた気がした。

 ただの旅人かもしれない。いや、そうだと信じたい。だが、首筋にまとわりつくこの寒気は何だ。

 私を探してる……?

 足取りが速くなる。

 夜、宿に泊まったときも落ち着かない。

 薄い板張りの壁の向こうで、鎧が擦れるような微かな音が聞こえた。

 こんな小さな宿に兵士が泊まることなんて、ある? いや、偶然かもしれない――けれど。

 胸の奥がざわつく。

 ――一度でも捕まれば、終わりだ。

 ――もう二度と、自分の意思で鎖を外すことなんてできない。

 窓の外に月明かりが差し込む。その光が妙に冷たく感じられた。

 麗華は剣の柄にそっと手を添え、眠れぬ夜をただじっと耐えるしかなかった。

昼下がりの市場。乾いた風に煽られた砂埃の向こうで、旅人と農夫が立ち話をしていた。

「――ああ、兵士が増えてるらしいぞ」

「逃げた奴隷を探してるとかで、検問をやるって話だ」

 何気ない噂話が、麗華の耳に鋭く刺さった。

 ……奴隷、か。

 心臓が一瞬で跳ね上がる。だが表情は崩さない。

 買ったばかりの果物を手の上で転がしながら、何でもないふりをする。

「旅人の身分を調べてるってさ」

「鎖を外した奴がいるらしい。見つかればひどい目に遭うぞ」

 背中に冷たい汗が流れる。

 検問……今夜、ここを出るべきか? でも動けば余計に怪しまれる……

 麗華は市場を離れるときも、足取りを崩さなかった。

 だが心拍は早鐘を打ち、胸の奥で警鐘が鳴り続けている。

 ――一度でも捕まれば、今度こそ終わりだ。


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