ここから――私の戦いが始まる
森の奥、ぽっかりと開けた小さな空間。
焚き火がまだ赤い火を宿し、ぱち、ぱち、と静かな音を立てていた。
夜の黒が少しずつ溶け、空が淡い青に変わりつつある。
梢の向こうで、ひと声だけ鳥が鳴いた。それが、夜明けの合図だった。
ついさっきまで響いていた怒号も、金属のぶつかり合う音も、今はもうない。
戦いの熱気は冷め、森を満たしているのは静けさと、焚き火の香ばしい匂いだけだった。
その穏やかさの奥で、胸のどこかがざわめく――ただ休めば終わりじゃない。まだ、旅は始まったばかりなのだ。
麗華は火の揺らめきを見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
冷たい空気が肺にしみる。けれど、それが今はなぜか心地いい。
隣でロウガが何事もなかったかのように火の番をしている背中が、妙に頼もしく見えた。
――ここから、何かが変わっていく。そんな予感があった。
森の奥で鳴いていた夜の虫たちの声が、いつのまにか遠ざかっていた。
代わりに――まだ眠そうな朝鳥のさえずりが、かすかに混じりはじめる。
焚き火は、戦いの余熱を映すように赤く揺れ、ぱち、ぱち、と乾いた音を立てて燃えていた。
火の勢いは少しずつ弱まり、焦げた木の香りが冷たい夜気に溶けていく。
麗華はその音に耳を傾けながら、ようやく張り詰めていた息を吐き出した。
静寂がこんなにも重く、そして優しいものだと、彼女は初めて知った気がした。
ロウガは焚き火の火を靴先で軽く崩しながら、何でもない調子で口を開いた。
「このままじゃ、また嗅ぎつけられるぞ。……もうちょい森の奥で休もうぜ。」
まるで散歩にでも誘うみたいな声色だった。
麗華は一瞬、躊躇してロウガを見上げる。
「……でも……」と言いかけて、言葉が途切れた。
反論する理由が見つからない。
何より、さっきの戦いを見たばかりの彼女には、この獣人の傭兵に逆らう勇気がなかった。
「ほら、行くぞ。」
ロウガは振り返りもせず歩き出す。
麗華は胸の奥にわずかな不安を抱えながらも、結局その背中を追うしかなかった。
森の奥へと続く細い獣道を、二人の足音が静かに並んだ。
夜明け前の淡い光が木々の間から差し込み、霧がうっすらと漂っている。
ロウガは肩に剣を担いだまま、振り返らずに気楽な声を上げた。
「お前さ、名前は?」
「……れ、麗華……」
かすかな声で返すと、ロウガは満足げに鼻を鳴らす。
「いい名前じゃねぇか。オレはロウガ。見りゃわかるだろ、狼のロウガな。」
彼はくつくつと笑いながら、意味もなく木の枝を蹴った。
「……」
麗華は視線を落としたまま、まだ距離を取るように歩いている。
「腹はもうマシになったか? さっきの肉、もっと持ってくりゃよかったなぁ。あーあ、腹減ってきた。」
ロウガが冗談めかして自分の腹をさすり、わざと大げさに呻く。
麗華は、思わず小さく息をもらした。――笑いかけた自分に気づき、慌てて顔を伏せる。
「……別に……まだ警戒してるから。」
「そりゃいい。警戒心は大事だぜ? でもな――腹が減ってる時にゃ、そうも言ってられねぇだろ。」
ロウガは振り返って片目をつぶり、にっと笑う。
麗華は言葉を返せず、その背中を追いながら胸の奥でほんの少しだけ緊張がほどけていくのを感じていた。
森の奥へ進む道すがら、麗華はロウガの背中を見つめていた。
広い肩。余裕のある歩幅。――その頼もしさが、胸の奥で妙なざわめきを起こす。
今まで……誰かに守られるなんて、考えもしなかった。
ずっと、利用される側だった。裏切られるのが当たり前で、優しさは罠だと思っていた。
だが、ロウガは何も求めなかった。ただ「腹減ってんだろ?」と笑って肉を差し出してきた。
その温かさが、恐怖よりも先に胸に染み込んでくる。
でも――甘えてるだけじゃダメ。私も強くならなきゃ。
鎖に繋がれた夜の記憶、冷たい視線、嘲笑う声――そのすべてが再び脳裏をよぎる。
けれど今は、ただ怯えるだけじゃない。
あの屈辱は、立ち上がる理由に変わっていた。
麗華は小さく息を吸い込み、背筋を伸ばした。
その瞳には、かすかな決意の光が宿り始めていた。
木々がこんもりと茂る奥に、小さな窪地がぽっかりと口を開けていた。
踏み跡も獣道もなく、人目につきにくい。
ロウガがぐるりと視線を走らせ、鼻をひくつかせる。
「……ふむ、ここなら大丈夫だな。」
低い声があっさりと断を下すと同時に、肩に担いだ大剣を軽く下ろした。
麗華は足を止め、思わず長い息を吐き出した。
ここまで来れば……少しは休める。
夜明け前の森は淡い青に包まれている。
東の空がわずかに白み始め、木々の影が静かに形を変えていく。
しんとした空気のなか、鳥のさえずりがかすかに混じる。
麗華は胸に手を当てて、自分の鼓動が少し落ち着いていることに気づいた。
赤黒い焚き火の残り香を背に、彼女は静かに夜明けの森を見つめた――新しい一日の始まりを告げる光が、枝葉の間から差し込み始めていた。
麗華は窪地の端に腰を下ろし、胸の奥で小さくつぶやいた。
――ここから、私の戦いが始まる。
ロウガはそんな彼女の決意など露ほども知らず、鼻歌まじりに焚き火の枝を組んでいた。
その背中は大きく、頼もしい影となって揺れている。
でも……守られてばかりじゃダメだ。
この人に助けられたままじゃ、きっとまた同じところに戻ってしまう――
胸の奥にわずかな熱が宿る。恐怖でも絶望でもない、別の感情。
それは、自分自身の足で立つための火種だった。
やがて焚き火がぱちりと音を立て、淡い光が二人を照らす。
麗華はその背中を見つめながら、静かに唇を引き結んだ。
この瞬間――彼女は“守られるだけの存在”ではいられないと、心の奥で強く誓った。
焚き火の赤い火がぱちぱちと音を立て、暗い森の奥で揺れていた。
その光に照らされる自分の手首を、麗華はじっと見つめる。かすかに残る鎖の擦り傷が、いやでも過去を思い出させた。
――どこへ行っても、私は“商品”のまま。
吐き出した息が白く凍り、夜風にすぐ掻き消される。肩をすくめても寒さは止まらない。それは気温だけのせいじゃない。
焚き火の温もりの外側は、ただひたすら冷たい闇。誰もいない、誰も助けてくれない。
足音ひとつで捕まるかもしれない緊張感が、胸の奥で重くのしかかる。
(逃げ続けるだけじゃ、どこにも辿り着けない……)
森の梢が風に揺れ、ひゅうと不吉な音を立てた。麗華は思わず身を縮め、膝を抱える。
焚き火の明かりが頼りない――それはまるで、自分の未来そのもののように思えた。
街道を歩く旅人の一団を遠くから見やりながら、麗華は茂みに身を隠した。
彼らの腰には旅券やギルドカードが光っている。持たざる者には、あの小さな札ひとつが越えられない壁になる。
――奴隷に権利はない。
首輪を外して逃げ延びても、鎖の代わりに法が絡みついてくる。
街に入るなら主人と一緒か、奴隷であると示す首輪を見せなければならない。
どちらも無理な今の自分は、門をくぐった瞬間に捕らえられるだけだ。
(見つかれば即拘束……下手をすれば、懸賞金までかけられる)
身分証がないから検問は通れない。ギルドで登録しようにも、身元を問われて詰むだけ。
宿に泊まることも、日雇いの仕事を請けることさえできない。
夜になれば野宿しかない。焚き火を使えば煙で居場所が割れるし、使わなければ凍える。
そのどちらかを選ぶしかない日々に、麗華は奥歯をかみしめた。
――このままじゃ、ただの逃亡奴隷で終わる。
――自分の足で立つことすら許されないまま……。
焚き火の火が、ぱちりと弾けた。
麗華は薪を足す手を止め、自分の指先を見つめる。剣を握り続けてできた硬いマメ。これだけの力があるのに、使い道がない。
(……ただ逃げてるだけじゃ、じり貧だ。)
追手を撒いたところで終わりじゃない。金が尽きれば野垂れ死ぬだけ。
街に入れなければ装備も買えず、魔物退治の依頼も受けられない。
「私には……戦える力があるのに。」
つぶやいた声が、夜風にかき消された。
冒険者として活動できれば、魔物を狩り、稼ぎ、自分の解放証を買う道が開ける。
それが唯一の目標――いや、夢に近い。
けれど、夢を夢のままにしておく時間はなかった。
今のままでは、次の街にたどり着く前に追手に捕まるかもしれない。
夜が明けるごとに、その危機は迫ってくる。
(悠長に策を練ってる暇はない……何か、抜け道がいる。)
焚き火の赤い光が彼女の横顔を照らす。焦燥がその瞳に影を落としていた。
焚き火の炎がゆらりと揺れ、麗華の頬に影を落とす。
指先で無意識に首元をなぞると、うっすら残る首輪の痕がひやりとした。
(自由になるには……解放証がいる。)
それは誰もが知る高額の証。奴隷身分を法的に無効化できる、ただ一つの手段だ。
けれど、必要な金額は庶民の生涯稼ぎを軽く超える額。
「……貴族やギルドの推薦があれば、少しは楽なんだろうけど。」
ぽつりと零れた声は、すぐに夜風にさらわれていく。
だが麗華には後ろ盾などいない。頼れる親も、力ある主もいない。
唯一の道は――自分で稼ぐこと。
魔物を狩る腕はある。剣の技量もある。
だがそのためには冒険者としてギルドに登録しなければならない。
……なのに、奴隷の身では登録が不可能。
(結局、冒険しなきゃ金は稼げないし……金がなきゃ解放証も買えない。
鶏が先か、卵が先か――笑えるくらい、どうしようもない状況ね。)
彼女の吐息が白く散り、焚き火の赤がその横顔を照らした。
瞳の奥に、諦めではなく、かすかな決意の光が宿りはじめていた。
焚き火がぱち、と小さく弾けた。
麗華は反射的に剣の柄に手をかける――そのくらい、神経が張り詰めている。
夜の森に響く、かすかな音。
馬の蹄が湿った土を叩く重い響き。
鎧が擦れ合う耳障りな金属音。
風に運ばれてくる、酒臭い笑い声と低い囁き。
(……まだ追ってきてる。)
彼女は息を殺し、焚き火を手早く踏み消した。煙の匂いすら足取りを辿られるかもしれない。
粗末な干し肉をかじる。口の中が乾いて、飲み込むだけで痛い。
薄い外套は夜の寒さを防げず、震えが止まらない。
昨夜もほとんど眠れなかった。枯れ枝が折れる音に飛び起き、剣を構えたまま夜明けを待った。
(誰も信じられない……信じれば、裏切られるだけ。)
(でも、このままじゃ餓死するか、捕まるか――どっちにしても終わりだ。)
彼女の視線が闇を貫き、かすかな光を帯びる。
(だったら――せめて、自分で鎖の持ち主を選ぶしかない。)
決意は、冷たい夜気よりも鋭く胸に突き刺さった。
麗華は濡れた手を震わせながら、小さな地図を広げた。
月明かりにかすかに照らされる街路と森の影。指先で、次に辿るべき街のギルドをそっとなぞる。
(偽りでも……いい……)
心の中で小さく呟く。
信じられる“主人”を、自分の意思で選ぶ――それだけが、今の私に残された道。
地図の上の街が、彼女の新たな決意を静かに受け止める。
夜明け前の森の空気が、少しだけ温かく、希望の香りを運んできた。
麗華は深く息を吸い込み、拳を固く握る。
(ここから――私の戦いが始まる。)
その決意が、次章で待つ主人役候補たちとの出会いへと自然に繋がっていく――。
森の奥、焚き火の赤い光が揺れるそばで、麗華はうつむき加減に地図を広げた。
「……そうか、私にも道はあるのかもしれない」
耳を澄ませば、遠くで鳥のさえずりが始まり、夜の緊張が少しずつ溶けていく。
彼女の目に映るのは、街の冒険者ギルド――そこには「主人が身元保証する従者登録」という制度があるという噂があった。
普通なら、奴隷の身分では一歩も足を踏み入れられない場所だ。
だが、この制度を使えば、法的には奴隷であっても、形式上「従者」としてギルドに登録できる。主人が身元を保証してくれれば、冒険者としての活動も許されるのだ。
「従者……か。なるほど、これなら私も自由を奪われずに、金も信用も手に入れられる……」
ギルド内では、従者はパーティの一員として扱われる。任務に参加し、報酬を得ることもできる。行動の制約はあるが、逃亡奴隷として彷徨うよりも遥かに安全で、未来への可能性が開ける。
麗華の胸に、微かだが確かな希望の光が灯った。
麗華は地図を指先でなぞりながら、心の中で作戦を練った。
「……独りじゃ無理。ギルドには絶対登録できない」
冷たい風が森を吹き抜ける。焚き火の光が揺れ、影が揺らめく。麗華はその中で、自分の決意を再確認する。
「信頼できる“主人役”を立てるしかない……でも、これはあくまで偽装。私の自由は絶対に奪わせない」
従者として登録すれば、冒険者としての活動が可能になる。報酬を稼ぎ、信用を積み重ね、やがて本物の自由を手に入れる――その未来を目指すための一歩。
麗華の瞳が微かに光った。夜明け前の森の中で、彼女の心は既に次の戦略に向かって動き出していた。
麗華は焚き火の揺れる炎を見つめながら、眉をひそめた。
「……でも、問題はそこよね」
従者登録の形式上は、主人役が守ってくれるはず。でも、裏切られたらどうなる? 表向きは保護でも、裏では本物の奴隷として扱われる危険がある。
「信頼できる人かどうか……それを見極められなきゃ、逆にもっとひどい目に遭うかもしれない」
麗華の胸がざわつく。逃亡生活の不安と比べても、この賭けは遥かに大きい。けれど、自由を手に入れるには、このリスクを取るしかない――その思いが、彼女の心をぎゅっと締め付けた。
麗華は地面に膝をつき、掌で顔を覆った。
「誰を信じていいのか……」
胸の奥で不安が渦巻く。裏切られれば、ただの逃亡者よりも悪い運命が待っているかもしれない。だが、それでも――目の前の道しか残されていない。
「……でも、これしかないのよね」
過去の屈辱や無力感が脳裏をよぎる。あの時、鎖に繋がれ、見下され、声を押し殺した自分。しかし、今の心には小さな光もある。未来を、自分の力で切り開く希望――その一筋の光が、恐怖と不安の中で確かに揺れていた。
麗華はゆっくりと息を吐き、視線を地図の上に置いた。
「信じられる……“主人役”を、探さなきゃ」
心の奥で覚悟を決め、次の街で出会う可能性のある人物たち――獣人傭兵ロウガ、剣士ジーク、魔導師ダリオ、盗賊カイル――の顔を思い浮かべる。
「誰なら……本当に、私を守ってくれるのかしら」
小さな不安と期待を抱えながら、麗華は夜明け前の森を抜ける足を進める。これから始まる観察と駆け引きが、彼女の自立への第一歩になることを、まだ知らずに。




