信じてもいいのかもしれない
森の木々がまばらになり、視界がひらけた場所に足を踏み入れたとき、麗華はようやく深く息を吐いた。
戦闘の余韻がまだ空気に漂っている。血の匂いと、倒れ伏した追手たちの呻き声が風に溶け、すぐに静寂へと吸い込まれていく。
夜空は薄い藍色に染まり、東の地平がかすかに白み始めていた。夜明けが近い。
ロウガは戦いの疲れをまるで感じさせず、大剣を肩に担いだままあたりを見回し、何事もなかったかのように笑った。
「よし、ここなら少し休めそうだな。」
そう言うと、彼は地面に腰を下ろし、火打ち石を打ち鳴らした。瞬く間に焚き火が赤く燃え上がり、冷え切った森に温もりが広がる。
パチパチと薪がはぜる音、風に運ばれる焦げた匂い。それが麗華の張りつめていた神経をゆっくりほぐしていく。
「お前、腹減ってんだろ?」
ロウガは背中の荷から肉の串を取り出し、炎の上にかざした。香ばしい匂いが漂い、麗華の胃袋が無意識に鳴る。
警戒の色を隠そうと必死に眉をひそめるが、空腹は隠せない。
「……報酬は?」
ようやく絞り出した声に、ロウガは目を瞬かせて首をかしげた。
「は? いらねぇよ。腹減ってる奴に飯やるのに、いちいち見返りなんかいるかよ。」
無邪気な笑顔に、麗華の胸の奥で何かがふっと緩む。
――人って……こんな優しさを見せるものだったっけ?
疑いと安堵が入り混じり、戸惑いのまま差し出された肉を受け取る。
「……ありがとう。」
かすかな声が唇からこぼれると、ロウガは子供のように明るく笑った。
焚き火の赤い光が、その笑顔をいっそう無邪気に照らし出していた。
森に漂っていた殺気が、ふっと途切れた。
地面に転がる追手たちはもう動かない。遠くに逃げた者の足音も、やがて風に消えていった。
ロウガは巨大な剣を軽々と担ぎ上げ、まるで散歩の後みたいに肩越しに振り返る。
「……終わりだ。あいつら、もう追ってこねぇよ。」
低く淡々とした声が夜明け前の森に響く。
麗華の胸に張りつめていた恐怖が、一瞬だけ緩んだ。
膝はまだ震えている。冷たい汗が背を伝い、喉はひどく乾いている。それでも――敵の気配が完全に消えたとわかると、呼吸が少しだけ楽になった。
「はぁ……っ……」
長く止めていた息が、漏れるように吐き出される。
けれど視線はまだロウガから離せない。彼が味方かどうか、まだ判断できないから。
ロウガは戦場の気配を振り払うように、大きく伸びをすると、腰の袋をごそごそ探った。
取り出したのは、肉の串。少し冷めているが、香ばしい匂いがすぐに麗華の鼻をくすぐる。
「ほら。」
焚き火に火を移し、ロウガは串を軽く炙る。油が滴り、じゅっと音を立てた。
「腹減ってんだろ? 食えよ。」
差し出された肉に、麗華の胃がきゅうっと鳴った。それでも、指先は動かない。
「……報酬は?」
かすれる声で、恐る恐る問いかける。助けてもらった代わりに、何かを差し出せと言われるのが当たり前だと思っていたから。
ロウガはぽかんとした顔をし、次いで豪快に笑った。
「は? いらねぇよ。困ってる奴ほっとけねぇだけだ。」
まるで当たり前のことのように言って、再び肉を差し出す。
麗華の胸に、不思議な温かさと戸惑いが同時に広がった。
焚き火の赤い光が、麗華の頬をじわりと温める。
炙られた肉の香ばしい匂いが、夜明け前の冷え切った空気に溶け込み、容赦なく鼻をくすぐった。
――ぐぅぅ。
恥ずかしいほど大きな音で腹が鳴る。麗華は慌てて腕でお腹を押さえた。
(だめ……油断したらまた、裏切られる……)
何度もそう言い聞かせるのに、焚き火の温もりがじわじわと胸に沁み込んでいく。
ロウガは無邪気な笑みを浮かべ、まるで小さな子に菓子を差し出すような調子で串を持ち上げた。
「ほら、食わねぇと倒れるぞ?」
――人って……こんな優しさを見せるものだったっけ?
麗華の脳裏に、今までの記憶が一瞬よぎる。冷たい視線。利用するだけ利用して、平然と背を向けていった人々。
だけど、ロウガの笑顔がその記憶を押し返すようにまぶしかった。
胸の奥で、何かが静かにほどけていくような気がした。
麗華はしばらく視線を落としたまま、差し出された串を見つめていた。
焚き火の火が、肉の表面をじりじりと焦がし、香ばしい匂いがいっそう強くなる。
迷いが胸を締めつける――でも、震える手が、勝手にその温もりへと伸びていた。
「……ありがとう。」
かすれた声でそう呟くと、ロウガはまるで何でもないことのように、にかっと笑う。
「おう!」
焚き火の赤い光が、その無邪気な笑顔を照らし出す。
ほんの少し――麗華とロウガの間にあった見えない距離が、ふわりと縮まった気がした。
夜明け前の森に、ただ薪がはぜる音だけが静かに響いていた。
焚き火の赤い炎が、ぱちぱちと小さな音を立てていた。
夜明けが近づいているのか、東の空がほんのりと薄紫に染まり始めている。
「ほら、もっと食えよ。まだあるぜ。」
ロウガが豪快に笑いながら、焼き色のついた肉の串を差し出してくる。
麗華はおそるおそるそれを受け取った。指先に伝わる温かさが、ひどく心地いい。
口に運ぶと、香ばしい匂いと塩気が舌の上で広がり、噛みしめるたびに脂がじんわり滲み出す。
冷え切っていた身体が、内側から少しずつ溶けていくようだった。
「……おいしい……」
思わず声が漏れた瞬間、自分でも驚いて息を呑む。
こんな風に素直に言葉が出るなんて、いつ以来だろう。
ほんの数時間前まで、鎖に繋がれ、ただ逃げることしか考えられなかった。
誰も信用できず、助けを求めることさえ怖かったのに――
目の前の獣耳の男は、笑いながら「報酬なんかいらねぇ」なんて言う。
「どうして……助けてくれるの……?」
小さくつぶやくと、ロウガは首をかしげて、焚き火の向こうから無邪気に答えた。
「困ってるやつ放っとけるかよ。なぁ?」
麗華の胸の奥に、何か温かいものがふっと灯る。
疑いも恐れも、完全には消えない。けれど――
(この人なら……信じてもいいのかもしれない)
そんな考えが芽生えてしまうほど、焚き火の匂いと男の笑顔はあまりにも優しかった。
焚き火の赤い炎がぱちぱちと弾けるたび、香ばしい匂いが漂った。
麗華は差し出された串焼きの肉をおそるおそる口に運ぶ。
……じゅわっ。
噛んだ瞬間、熱い肉汁が舌に広がり、冷えきった体の芯まで染み渡っていく。
ごくりと飲み込むたびに、指先まで温かさが届く気がした。
「……あったかい……」
無意識にこぼれた言葉に、自分でもはっとする。
ついさっきまで石のように冷たかった手足が、震えを止めていた。
焚き火の熱と、肉の旨味が、ぼんやりしていた意識を引き戻していく。
胸の奥で、何かがほっとほどける感覚――
それは恐怖でも緊張でもなく、確かに「生きている」という実感だった。
焚き火の炎がゆらゆらと揺れ、赤い光がロウガの横顔を照らす。
彼は肉の串を炙りながら、何事もなかったかのように鼻歌を口ずさんでいた。
麗華は無意識に唇を噛む。
――おかしい。こんなこと、ありえない。
これまで出会った人間はみんな、彼女を「物」としか見なかった。
助けるふりをしても、裏では必ず見返りを求めてきた。
「……どうして? なんで、この人は何も求めないの……?」
胸の奥で小さな声が響く。
視線を上げると、ロウガは焚き火越しにこちらを見てにかっと笑った。
その笑顔には打算も、下心も、影ひとつなかった。
むしろ「困ってる奴を助けるのは当たり前だろ?」とでも言いたげな無邪気さ。
心臓がどくんと跳ねる。
ずっと張り詰めていた糸が、少しずつ緩んでいくのを麗華は感じた。
焚き火のぱちぱちと弾ける音が、夜明け前の静けさにやけに大きく響いていた。
焼けた肉の香ばしい匂いが鼻をくすぐるたび、麗華の胸の奥に別の記憶がよみがえる。
――鎖に繋がれ、見世物のように台の上に立たされた夜。
――奴隷商人の太い指が顎を無理やり上げ、客たちの値踏みする冷たい視線が突き刺さる。
――「この程度の娘がいくらの値だ?」「どうせ長くはもたんさ」という嘲りの声。
あのとき感じた屈辱と、どうしようもない無力感。
必死に抗おうとすればするほど鎖が肌に食い込み、痛みだけが現実を教えた。
「……」麗華は無意識に自分の手首を握りしめる。まだそこに鉄の冷たさが残っている気がした。
けれど――。
「おう! 遠慮すんな、食えよ!」
ロウガの豪快な声が耳に飛び込んでくる。
その声は、あの冷たく濁った視線とも、嘲笑ともまるで違った。
見返りも求めず、ただ当然のことのように差し出された肉串。
焚き火の赤い光に照らされた彼の無邪気な笑顔が、過去の暗い記憶を押し流していく。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
――なんだろう、この感覚は。
怖いのに、嫌じゃない。
疑わなきゃいけないのに、信じたくなる。
麗華は視線を落とし、小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
声にならないほど弱い声で、けれど確かにその言葉は焚き火に溶けていった。
焚き火の炎が揺れ、ロウガの横顔を赤く染めていた。
巨躯に似合わぬ無邪気な笑顔――まるで山犬のような獣耳がぴくりと動くたび、彼が本当に生きている温かい存在だと実感させられる。
麗華は肉串を両手で抱えるようにして、小さくかじった。
噛みしめるたびに、心の中の緊張がほどけていくようだった。
まだ怖い。まだ警戒は解けない。
けれど――。
(……この人なら……信じてもいいのかもしれない)
その思いが胸の奥で静かに芽を出す。
ロウガの背中は大きい。あの恐ろしい追手たちを一瞬で吹き飛ばした強さがある。
でも、不思議なことに――その強さが、麗華には脅威ではなく、守られているという感覚をもたらしていた。
「おい、もうちょい食うか?」
豪快な声が焚き火の上で弾ける。
麗華は一瞬だけ迷ったが、こくりとうなずいた。
ロウガの笑みがさらに明るくなる。
その光景に、心の奥の氷がひと欠片、音を立てて溶けた気がした。
焚き火がぱちぱちと音を立てる。
夜明けが近いのか、森の向こうの空がわずかに白み始めていた。
麗華は串の最後の一欠片を口に運び、そっと息を吐いた。
胸の奥にこわばっていたものが、少しずつ解けていく。
「……ありがとう」
自分でも驚くくらい、小さな声だった。
ロウガは肩に担いだ巨大な剣を軽く揺らしながら、いつもの調子で「おう!」と笑った。
その無邪気な笑顔に、麗華の胸の奥がかすかに熱くなる。
(……この人なら……信じても……いいのかも)
恐怖は完全には消えていない。けれど、その奥にわずかな依存と――
言葉にできない尊敬のような感情が芽吹いていた。
焚き火の炎に照らされたロウガの横顔は、まるで「これから先も大丈夫だ」と告げているようだった。
麗華は気づかぬまま、その光景を記憶に刻んでいた。
――この小さな信頼が、やがて大きな絆となることを示すように。




