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奴隷令嬢、最強への成り上がり  作者: 南蛇井


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脱走

夜の帳が街を包む裏通り――奴隷市場の喧騒は、ここまで届かず、ただ静寂と月光だけが支配していた。

石畳に落ちる白銀の光が、麗華の足元で長く影を伸ばす。細かなひび割れや凹凸までくっきりと浮かび、足音がひそやかに反響する。

両脇に立ち並ぶ建物の影は、まるで生き物のようにうごめき、隠れる場所をそっと示している。遠くの街灯や、閉じかけの店先から洩れる残り灯が、かすかな煌めきを添えて、路地に冷たくも美しい陰影を描き出していた。

静寂の中、麗華の心臓だけが、月明かりに照らされる石畳に共鳴するかのように、早鐘のように打ち続けていた。



夜闇に包まれた奴隷市場の裏手の路地。

石畳は月光にかすかに照らされ、建物の影が長く伸びている。

商人の視線が一瞬それた隙を、麗華は逃すまいとじっと見つめる。

目の前には馬車と檻付きの木枠が立ちはだかり、障害物として存在感を放つ。

風も静まり返り、路地には自分と影だけが残されているかのようだ。


鎖を思い切り引き裂く金属の擦れる音が、夜の路地に鋭く響く。

馬車の扉と檻付き木枠を力任せに押しのけ、麗華は勢いよく飛び出した。

体重をしっかりと地面に落とし、石畳に小さく反響する足音を耳で確認しながら、慎重に駆ける。

背後では、遠くで商人の怒声や物音が追いかけてくるのがかすかに聞こえる。

恐怖と覚悟が交錯する瞬間、麗華は必死に前へと進む。

「今なら……行ける!」

胸の奥で覚悟が一瞬燃え上がる。自由を取り戻す歓喜と、追手に捕まる恐怖が入り混じり、心臓は早鐘のように打ち、呼吸は荒くなる。

夜闇に包まれた路地の孤独感が、逃走のスリルを一層際立たせる。

麗華は恐怖に震えながらも、必死に前へと踏み出した。

商人の目が一瞬逸れたその隙を、麗華は見逃さなかった。

鎖を力任せに引きちぎる音――金属が擦れる鋭い残響が路地に響き渡る。

馬車の扉や木枠を押しのけ、体を勢いよく飛び出す。石畳に足を着地させるたび、心臓が早鐘のように打ち鳴る。

息を詰め、足音を忍ばせながら、麗華は夜闇に溶けるように路地を駆け抜けた。

月明かりに照らされ、路地の影が揺れるたびに、麗華の心もざわつく。

石畳を踏む感触が足裏に伝わり、鎖を引きちぎった金属の重みと微かな振動が腕や肩に残る。

冷たい夜風が肌を撫で、緊張と恐怖が全身を走り抜ける。

月明かりに照らされ、路地の影が長く伸び、建物や物陰が不気味に歪んで見える。

鎖を引きちぎった金属の残響と、自分の荒い息遣いだけが静寂を破り、孤独と緊張感を際立たせる。

暗闇の奥に追手の気配がないか、無意識に目を凝らしながら進む麗華の視線は、緊張で微かに震えていた。

街外れの小さな森。木々の間から差し込む月明かりが、白い斑点となって地面を照らしていた。

麗華は朽ちた廃屋の影に身を寄せ、膝を抱え込んで震えている。逃げ出してから一晩中走り続け、とうに足の感覚はなくなっていた。

「……こんなに……空腹なのに……」

声は自分でも驚くほどかすれていた。胃がきしむように痛い。冷たい夜風が吹き抜けるたび、薄い衣服の中まで容赦なく入り込んで体温を奪っていく。

手足の震えは止まらず、何度もまぶたが勝手に閉じそうになる。けれど眠るのが怖かった。目を閉じれば、そのまま二度と目を開けられない気がする。

周囲には風の音と、枝が揺れるかすかなざわめきだけが響いていた。人の気配はない。孤独が全身を覆う。

――それでも。

「……まだ……生きてる……」

自分に言い聞かせるように呟いた。恐怖と絶望の中に、ほんのわずかな希望があった。鎖を断ち切った瞬間に感じた、あの一瞬の自由の味がまだ胸に残っているから。

闇の森の中で、麗華は自分の心臓の音だけを頼りに、必死で意識をつなぎ止めていた。

森の小道にかすかな足音が響いた。

――複数人だ。

麗華の背筋が凍りつく。とっさに茂みの影へ身を潜めたが、乾いた枝が「パキ」と鳴った。音がやけに大きく響き渡り、自分の居場所を告げてしまった気がする。

「おい! このあたりだ!」

「逃げた女だ、見つけろ!」

低い怒鳴り声とともに、懐かしい――いや、恐ろしい声が森に響く。奴隷商人の手下たちだ。

(……いやだ……捕まったら……またあの鎖に……!)

胸の奥で恐怖が暴れ、心臓が破れそうなほど脈打つ。呼吸が荒くなるのを必死で抑えながら、麗華は木々の影を縫うように走り出した。

石畳のない森道に足が取られ、枝に頬をかすめられても構わず進む。背後で足音が近づいてくる。声が、罵声が、どんどん近い。

(お願い……もう捕まりたくない……! 自由に……まだ、自由に……!)

肺が焼けるように痛い。それでも止まれない。止まったら終わりだ――そう理解しているからこそ、恐怖が足に力を与えてくれる。

森の中に、麗華の荒い息遣いと、追っ手たちの重い足音が混ざり合い、不気味な緊迫感が響いていた。



 森の木々の間を縫うように走り抜ける麗華の視界は、もう霞んでいた。

 ――足が、重い。呼吸が、苦しい。空腹で指先が震える。

 夜明け前の薄闇。月明かりが枝葉の隙間から地面にまだら模様を描き出し、湿った土の匂いが鼻を刺す。

 背後では、松明の赤い光がちらつき、荒い足音と怒声が森を揺らしていた。

 「……見つけたぞ! 逃がすな!」

 その声が近づくたび、麗華の胸は早鐘を打つ。

 石畳ではない、ぬかるんだ道。足を取られて何度も転びそうになりながら、必死に立て直す。

 ――もう、だめ……でも、止まれない……!

 喉が焼けつくほど渇き、息を吸うたびに肺が悲鳴を上げる。

 前方がふいに開けた。木々が途切れ、月光が一面を照らす小さな広場。

 その瞬間、背後で松明の光が一層明るくなった。追手が距離を詰めてきている――。

 「捕まったら……また、あの鎖に……」

 麗華の視界が滲む。恐怖と疲労で足が止まりそうになる。

 ――お願い……あと少しだけでいい、動いて……!

 「……はぁっ、はぁっ……!」

 麗華の呼吸はもう限界に近かった。肺が焼けるように熱い。足が鉛のように重く、地面に引きずられていく感覚。

 枝に躓き、体が大きく傾いだ。あと少しで転ぶ――そう思った瞬間、必死に踏ん張り、膝に痛みが走る。

 だが、止まれば終わりだ。

 「……もう、だめ……」

 唇がかすかに動き、声にもならない吐息がこぼれる。

 背後で奴隷商人たちの怒鳴り声が響く。

 「逃げたぞ! 捕まえろ!」

 金属が擦れ合う音――剣か鎖か、耳に冷たく刺さる。

 麗華はふらつきながらも立ち上がり、再び走り出す。足裏に伝わる湿った土の感触が、現実の重みを嫌というほど突きつけてくる。

 ――倒れるな。止まるな。捕まったら、終わりだ……!

木々の影がざわめき、夜風に揺れる火の赤がちらついた。

 ――松明。

 「見つけたぞ!」

 男の叫びが闇を切り裂いた瞬間、麗華の背筋を冷たいものが走る。

 振り返ったその視線の先、松明を掲げた奴隷商人の手下たちが、獣のような目でこちらを睨んでいた。

 暗闇に照らされる彼らの輪郭が、異様に大きく見える。

 足が止まりそうになる。喉がひゅっと鳴った。

 ――だめ、立ち止まったら終わり。

 だが、恐怖で表情は凍りつき、足先の感覚が消えていく。

 火の粉が闇に散り、彼らの影が地面に歪みながら迫ってきていた。

 そのとき――。

 「……誰だ?」奴隷商人の手下の声が震えた。

 暗闇の奥から、低く唸るような声が響く。まるで獣の咆哮が人の形を借りているかのように。

 ガサリ、と茂みが揺れた。

 一歩、また一歩――月明かりの下に浮かび上がる影。

 現れたのは、狼の耳と長い尾を持つ巨躯の男だった。

 銀に近い毛並みが月光を受けて淡く光り、鋭い瞳が金色に輝く。

 その目は、まるで獲物を狩る猛獣のよう。

 麗華は思わず息を呑んだ。

 背後の追手たちですら、一瞬、足を止めてしまうほどの存在感だった。

「そこをどけぇぇぇっ!」

 奴隷商人の手下が叫び、剣を振りかざして突進してきた。

 ――しかし、その声が終わる前に。

 月光を受けて光る巨大な影が動いた。

 ロウガが背負っていた大剣を片手で引き抜き、風を裂く轟音と共に一閃。

 「――ッ!?」

 金属がはじけ飛ぶ甲高い音。

 手下たちの剣も槍も、まとめて弾き飛ばされ、木々の奥に消えた。

 続けざまに、巨躯が踏み込む。地面が揺れるような一歩。

 その剛腕が振るうたび、男たちが呻き声を上げて吹き飛ぶ。

 「うわぁぁぁっ!」

 「な、なんだこいつは!?」

 恐怖に駆られた追手たちは、剣を捨てて後退する。

 暗闇に逃げ散る足音だけが、森の静けさを切り裂いて響いた。

 剣戟の余韻がまだ森にこだまする。

 だが、麗華の耳には自分の鼓動の方が大きく響いていた。

 ――ドクン、ドクン、と。

 視界の端に映るのは、狼の耳と尾を持つ異形の巨躯。

 追手たちを一瞬で蹴散らした、その力はあまりにも圧倒的だった。

 「……え?」

 かすれた声が唇から漏れる。喉がひりつき、うまく息が吸えない。

 (この人も……私を捕まえにきた? それとも――)

 疑念と恐怖が一気に押し寄せ、足がすくんで動けない。

 自由を求めて逃げてきたはずなのに、また別の捕獲者に出会っただけかもしれない――そんな悪い予感が胸を締めつける。

 月光に照らされた男の金色の瞳は、獲物を見据える猛獣のよう。

 麗華の背筋に冷たいものが走った。

森に静寂が戻る。

 倒れ伏した追手たちの呻き声も、やがて遠ざかっていった。

 巨大な剣を肩に担いだまま、獣人の男がゆっくりと麗華の方へ振り返る。

 狼耳がぴくりと動き、長い尾がゆるく揺れた。

 「おい、大丈夫か?」

 低い声なのに、不思議と威圧感がない。むしろ軽い調子で話しかけるその様子は、命がけの戦いを終えたばかりの男とは思えなかった。

 麗華は息を詰めたまま、一歩も動けずにいる。

 ――でも、その金色の瞳は先ほどの獰猛さを失い、どこか人懐っこい光を帯びていた。

 男は腰の袋をガサゴソと探り、串に刺した肉を取り出した。

 「ほら、腹減ってんだろ?」

 あっけらかんと差し出される肉。

 麗華の視線が思わずそれに吸い寄せられる。

 この状況で、なぜか目の前の男だけが緊張感ゼロ。

 「……え?」

 拍子抜けした声が自然に漏れた。

 恐怖よりも先に、妙な戸惑いが胸を占めていく。

串に刺さった肉から、香ばしい匂いがふわりと漂ってくる。

 麗華の腹が小さく鳴った。

 ――どうして……助けてくれるの……?

 ――この人……何者なの……?

 疑念と警戒が胸に渦巻く。それでも、あの猛獣のような視線は今は穏やかで、敵意どころか妙な優しさすら感じられた。

 「……食わねぇのか?」

 男が首を傾げ、狼耳も同じようにひょこんと傾く。

 麗華は無意識に息を呑んだ。

 胸の奥で張りつめていたものが、少しずつ緩んでいく。

 恐怖も、疑いも完全には消えていない。けれど、目の前の男が差し出す肉の温もりが、不思議と心の壁を溶かしていくようだった。

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