第九章 第一節:廃都への道
夜が明けた。
王都を包んでいた紅の月は、もうその姿を空から消していた。
代わりに、薄く金の色を帯びた朝日が街並みを照らし出す。
瓦屋根の上で光が跳ね、遠く鐘楼の影がゆっくりと伸びていく。
その街を背に、二つの影が歩き出していた。
麗華とアルト。
二人の足音が、まだ眠る石畳を静かに叩く。
肩に結んだマントを風が揺らし、麗華の黒髪が淡い光を反射した。
その瞳には、もう恐れも迷いもなかった。
代わりに宿っているのは――確かな覚悟と、微かな微笑。
麗華は立ち止まり、東の空を見上げた。
かつて紅に染まっていた夜空は、今や黎明の色へと変わりつつある。
光と影の境界線で、彼女は静かに口を開いた。
「紅の月の夜に生まれた契約は――
今、光へと変わる。」
その声は、朝風に溶けていく。
アルトは隣でうなずき、背負った剣を軽く握り直した。
「行こう。もう、恐れる理由なんてない。」
麗華は一歩、前へ踏み出す。
その瞬間、朝日が二人の背中を照らし、
長く続く街道の先を黄金色に染め上げた。
そして――
風に紛れるように、微かな“声”が響く。
「……共にあれ、契約の子よ。」
それは、どこからともなく聞こえた。
遠い昔、神々が言葉を持っていた頃のような、懐かしい響き。
麗華は目を閉じ、静かに微笑んだ。
その胸の奥で、“共鳴印”がまたひとつ脈を打つ。
新たなる契約の物語が、今――光の中で始まろうとしていた。
――風が、静かに吹いていた。
草原を渡り、遠くの山脈を越え、
そして新たな旅路へと続く街道をなぞるように流れていく。
その風の先には、二つの影。
麗華とアルトが並んで歩む姿が、小さく見える。
朝の光が彼らの後ろ姿を包み、やがてその輪郭を空に溶かしていった。
「契約とは、血ではなく、想いの証。」
かつて誰かがそう言った。
その意味を知る者が、今、確かにこの世界にいる。
紅の月が沈み、黎明が訪れた。
だが、終わりではない。
それは――“新しい始まり”の合図。
やがて再び、空に紅の月が昇るその日まで。
人と神とが歩む“共鳴の時代”は、静かに幕を開ける。
そして、画面はゆっくりと白く染まっていく。
浮かび上がる文字――
『終章 紅の月の下で ― 完 ―』
音もなく、タイトルが消える。
ただ、余韻だけが心に残る。
それは、確かに“契約”の鼓動だった。
沈黙に支配された廃都――グラーネル。
かつて“契約文明”の中心地として栄華を誇ったこの都市は、今や風の音すら遠慮がちに響く灰色の遺跡と化していた。
崩れた塔が傾き、舗道には古代の魔導回路がひび割れながらも淡く光を宿している。
風が吹くたび、石碑や祭壇に刻まれた古文字が、まるで呼吸するように一瞬だけ光の粒となって浮かび――すぐに消えた。
「……ここが、かつて神々と契約を交わした都……」
麗華は足を止め、灰色の瓦礫を見つめた。
その眼差しには、畏敬と痛みが混ざる。
隣でアルトが膝をつき、地面に埋もれた石板を指先でなぞる。
表面には、複雑な円と古い契約文――今は失われた“第三層言語”が刻まれていた。
「これは……“封印前の契約文”だな。」
彼の声は、淡い風の中でも確かに響いた。
「人が神に“管理を委ねた”証文の断片。神々が世界を律し、人がその秩序を受け入れた――その最後の記録だ。」
麗華はそっと手を伸ばした。
彼女の指先から流れ出す微光が、契約文の線に沿って走る。
――パリン。
乾いた音とともに、空気が震えた。
大気がねじれ、古文字の光が渦を巻いて浮かび上がる。
それはやがて形を持ち――光の獣へと変わっていく。
四足の体は淡い結晶のように透き通り、瞳の奥には古代の祈りが宿る。
しかしその動きには、意思も理性もない。ただ“記録”として存在する残響――。
「……契約獣だ。」
アルトの声に緊張が走る。
「人の願いと契約が、意識を失って形を保ったもの。ここはまだ“過去が生きている”。」
麗華は息を呑み、胸の奥で響く光を感じた。
自らの刻印が、契約獣の鼓動と呼応して輝く。
まるで――遠い記憶が、再び彼女を試しているかのように。
「……アルト、避けて!」
光の獣が咆哮を上げ、空気を切り裂く。
瞬間、砂塵の中で二人の影が交錯した。
紅の月の夜に生まれた契約。
その残響は、今もなおこの地に息づいていた。
沈黙に支配された廃都――グラーネル。
かつて“契約文明”の中心地として栄華を誇ったこの都市は、今や風の音すら遠慮がちに響く灰色の遺跡と化していた。
崩れた塔が傾き、舗道には古代の魔導回路がひび割れながらも淡く光を宿している。
風が吹くたび、石碑や祭壇に刻まれた古文字が、まるで呼吸するように一瞬だけ光の粒となって浮かび――すぐに消えた。
「……ここが、かつて神々と契約を交わした都……」
麗華は足を止め、灰色の瓦礫を見つめた。
その眼差しには、畏敬と痛みが混ざる。
隣でアルトが膝をつき、地面に埋もれた石板を指先でなぞる。
表面には、複雑な円と古い契約文――今は失われた“第三層言語”が刻まれていた。
「これは……“封印前の契約文”だな。」
彼の声は、淡い風の中でも確かに響いた。
「人が神に“管理を委ねた”証文の断片。神々が世界を律し、人がその秩序を受け入れた――その最後の記録だ。」
麗華はそっと手を伸ばした。
彼女の指先から流れ出す微光が、契約文の線に沿って走る。
――パリン。
乾いた音とともに、空気が震えた。
大気がねじれ、古文字の光が渦を巻いて浮かび上がる。
それはやがて形を持ち――光の獣へと変わっていく。
四足の体は淡い結晶のように透き通り、瞳の奥には古代の祈りが宿る。
しかしその動きには、意思も理性もない。ただ“記録”として存在する残響――。
「……契約獣だ。」
アルトの声に緊張が走る。
「人の願いと契約が、意識を失って形を保ったもの。ここはまだ“過去が生きている”。」
麗華は息を呑み、胸の奥で響く光を感じた。
自らの刻印が、契約獣の鼓動と呼応して輝く。
まるで――遠い記憶が、再び彼女を試しているかのように。
「……アルト、避けて!」
光の獣が咆哮を上げ、空気を切り裂く。
瞬間、砂塵の中で二人の影が交錯した。
紅の月の夜に生まれた契約。
その残響は、今もなおこの地に息づいていた。
風が、止まった。
廃都グラーネルの中心――崩れた広場の上で、光がひとつの形を成していく。
それは狼に似ていた。
だが、肉体は存在しない。半透明の躯の中には、幾千もの古代文字が脈のように流れ、輝きながらその身を巡っていた。
そのたび、低く鈍い音が空気を震わせ、足元の石畳がひび割れる。
麗華は息を詰め、胸の刻印を押さえる。
心臓の鼓動と同じリズムで、印が淡く光を放っていた。
まるで――その“獣”が、自分を呼んでいるように。
「……攻撃してくるわけじゃない。」
彼女の声は、かすかな風に溶けた。
「何かを――訴えてる?」
アルトは静かに頷き、腰の剣を抜く。
刃先から漂う魔力の残光が、周囲の空気を撫でるように揺らす。
「“残響”だ。」
彼は獣から目を離さず、低く呟いた。
「これは神じゃない。かつて人が作り、神が忘れた契約の残り香――“意思なき記録”さ。」
契約獣が、咆哮した。
音ではない。光が震え、風が鳴り、世界が一瞬だけ軋む。
その震動が、麗華の耳の奥で人の声へと変わった。
「……戻れ……共鳴の……座へ……」
その言葉が聞こえた瞬間、麗華の身体が強く反応した。
胸の印がまばゆい光を放ち、周囲の廃墟が一斉に共鳴する。
崩れた石碑に刻まれた文字が、再び淡く浮かび上がった。
「……“共鳴の座”?」
麗華は呟き、視線を遠くへ向ける。
古文書でしか知らなかった言葉。それは――神と人が“等しく誓いを結んだ”聖域の名だった。
アルトが彼女の横顔を見つめ、静かに言う。
「間違いない。奴が言っているのは“エル=ネスト”だ。俺たちが向かう場所。」
契約獣の姿が、再び光の粒へとほどけていく。
まるで使命を伝え終えたかのように。
その光が空へ昇ると、歪んだ空間のノイズが一瞬だけ穏やかになった。
麗華は、握った拳を見つめながら小さく呟く。
「神が忘れた契約……なら、私たちが思い出させなきゃ。」
――風が再び吹き抜ける。
廃都の空に、淡い朝の光が差し込みはじめていた。
夕暮れが過ぎ、夜の帳が静かに降りていく。
廃都グラーネルを後にした麗華とアルトは、
北方の山岳地帯へと続く古い街道を進んでいた。
風は冷たく、砂塵の匂いを運んでくる。
だが、あの戦いの後に残った世界のざらつきさえ、
どこか優しく感じられた。
遠く、空の端に紅の月が薄く浮かぶ。
かつて恐怖の象徴だったその色が、
今は淡い朱として、夜空をやわらかく染めていた。
「……また月が、出てる。」
麗華が呟く。
その声はかすかに揺れながらも、静かに前を見据えていた。
アルトが隣で微笑む。
「今はもう、怖くないだろう?」
麗華は頷いた。
その瞳に映る紅の月は、もはや“血”ではなく――“誓い”の光。
「うん。今は……誓いの証だから。」
風が彼女の髪を撫で、胸の共鳴印が淡く光る。
アルトはその光を見つめながら、ゆっくりと歩みを進めた。
夜の静寂の中、地平線の向こうで雷光のような光が一瞬走る。
世界のどこかで、また新たな“共鳴”が生まれているのだろう。
麗華の瞳の奥で、契約獣の残光が小さく瞬いた。
それはまるで、彼女の未来を照らす導きの灯。
紅の月の下――
二人の旅は、まだ終わらない。
むしろ、ここからが始まりだった。




