血に刻まれた使命
―アステル領北部・黒霧の谷―
朝が来ても、光は差さなかった。
谷一帯を覆うのは、地の底から滲み出すような黒霧。
木々は枯れ果て、鳥の声すらない。まるでこの土地そのものが“死”を受け入れたようだった。
麗華はマントの裾を握り、足元を確かめながら進む。
湿った地面はぬかるみ、踏みしめるたびに泥が音を立てる。
その前を歩くアルトが、振り返りもせずに言った。
「この先はもう――“神々の領域”だ。足を踏み入れれば、戻れんぞ。」
彼の声は低く、霧の中で吸い込まれるように消えていった。
しばしの沈黙。
やがてカイルが肩をすくめ、苦笑を浮かべながら応じる。
「今さら何を言ってんだよ。戻る場所なんて、もうどこにもない。」
その言葉に、麗華の胸がわずかに痛んだ。
たしかに――彼女自身にも、“戻るべき場所”はもうない。
ギルドにとっては観測対象、王都にとっては脅威。
“紅の契約者”として生きる限り、彼女に平穏は訪れないのだ。
黒霧の中、バルゼンが無言で歩を進める。
黒衣の裾が風に揺れ、金属の小さな鈴がかすかに鳴った。
彼の視線は常に周囲を警戒しているが、その瞳の奥には別の光――“迷い”が潜んでいた。
そして――道の脇に、古びた石碑が現れる。
表面にはびっしりと古代文字が刻まれ、その上から赤い封印紋章が焼き付けられていた。
麗華が息を呑む。
「……これ、ギルドの紋章。」
確かに、そこには見覚えのある印が重なっていた。
フェルディナが持つ権限の証――《中央塔の印》。
セレナ:「誰かが先に……封印を解こうとしたのね。」
アルト:「いや、違う。観測だ。だが……奴らは、何を見ようとしている?」
バルゼンは無言のまま、手袋越しに岩碑へ触れた。
その指先に微かに反応する魔力の波。
彼は目を細め、わずかに顔を伏せる。
バルゼン(心中):「……フェルディナ。
お前は、どこまで見ている……?」
霧の向こうで雷鳴が鳴り、風が谷を抜けた。
湿った風に混じるのは、鉄のような匂い――血の香り。
麗華は思わず空を見上げる。
黒雲の奥で、紅く歪んだ月がぼんやりと輝いていた。
麗華(小声):「……血の月が、また……」
その瞬間、遺跡の方向から低い脈動音が響いた。
まるで、何かが“目覚め”を待っているかのように。
誰もが言葉を失う。
その沈黙の中、アルトだけが淡々と告げた。
「行こう。もう、“選ばれた”んだ。
俺たちは、この血の歴史に、踏み込んでしまった。」
霧の向こう――
かすかに、古代の石造りの門が姿を現す。
その先に待つのは、封印された文明の墓。
そして、“契約者の真実”だった。
―アステル北部・地下遺跡 第一層ホール―
黒霧の谷の奥、岩の裂け目を抜けた瞬間、世界が反転した。
そこは、果ての見えない地下空間だった。
無数の石柱が闇に伸び、天井からは結晶のような光が淡く滴る。
足元の床には、精緻な紋様が渦を巻き、血のような赤で描かれていた。
セレナが魔灯を掲げ、周囲を照らす。
その光が壁を舐めた瞬間――彼女は息を呑んだ。
「……なに、これ……壁一面に……魔法陣?」
それは“契約陣”だった。
幾重にも重ねられた古代文字、血脈を模した紋様が、まるで生き物のように脈動している。
そして、いくつかの線が、すでに淡く光を帯びていた。
「誰かが起動させた? ……まさか、私たちじゃない……」
セレナの声が震える。
その横で、麗華は立ち尽くしていた。
彼女の瞳には、陣が描く光がゆっくりと映り込んでいる。
「……いいえ。」
その声はかすれ、しかし確信に満ちていた。
「たぶん、“私”よ。」
瞬間、彼女の右手が勝手に動いた。
痛みが走る。
古い傷口が裂け、掌から赤い血が一滴、床へと零れ落ちる。
血が石に触れた瞬間――
遺跡が、息を吹き返した。
轟音が鳴り響き、空気が震える。
壁の陣が一斉に紅く光り、床の紋様が麗華の足元から広がっていく。
その光は彼女の足を、腰を、胸を包み、まるで“契約の鎖”が彼女を取り戻すかのように絡みついた。
カイル:「麗華っ!」
バルゼン:「下がれ! 魔力が暴走してる!」
だが、麗華はもう彼らの声を聞いていなかった。
視界が歪む。
音が遠ざかり、代わりに――聞き覚えのある“鼓動”が響く。
ドクン、ドクン、と。
それは、彼女の心臓ではなかった。
“遺跡そのもの”が、生きて脈打っている。
そして、紅い光が彼女の瞳を覆う。
気づけば――目の前の景色は、もう違うものだった。
暗闇は消え、代わりに黄金の光が溢れる。
白い石の祭壇。
円陣の中で、誰かが彼女の手を握っている。
その男の髪は銀、瞳は深紅――。
声(遠くで):「永遠の誓いを、この血に刻む。」
――千年前。
麗華の“前世”が交わした契約の記憶。
その一端が、今、彼女の中で呼び起こされていく。
――視界が、赤に染まる。
麗華は息を呑んだ。
瞬間、足元の感触が変わる。冷たい石の床ではなく、柔らかく、ぬめるような血の上。
頭上には空などない。ただ、幾千もの魔法陣が、空を覆うように渦を描いていた。
その一つひとつが命脈を刻み、まるでこの世界そのものが“契約”で形を保っているかのようだった。
「……ここは……?」
声が震える。答えはない。代わりに、赤い光の粒子が漂い、形を取り始めた。
やがてその輪郭は、麗華と同じ顔を持つ女となる。
淡い金髪に白い衣、瞳は紅玉のように燃えていた。
「ようやく来たのね……“私”。」
その声は、懐かしくも恐ろしく、心の奥を掴んで離さなかった。
麗華は直感した――彼女こそが、自分の“原型”。
かつてこの世界を契約で縛り、そして滅ぼした女。
リュミエール=アストレア。
リュミエール:「この血を以て、すべてを縛る。
それが、私たちが選んだ“秩序”だった。けれど……滅びの始まりでもあったの。」
彼女の足元から、幾百もの魔法陣が浮かび上がる。
契約の陣、封印の陣、誓約の陣。
その中心には、黒い“穴”がある――
蠢く闇、そして、そこから微かに漏れる“声”。
「……神よ、聞こえる? あなたの願いは、まだ果たされていない。」
その瞬間、麗華の胸が焼けついた。
心臓の奥で、何かが目覚めようとしている。
リュミエールの影が、まるで“血の記録”のように彼女の中へと流れ込んでいく。
――彼女の視界に映る、千年前の断片。
契約文明の崩壊。
赤く燃える都。
“神”を封印するため、自らの血を捧げた少女。
そして、裏切りの瞬間――“仲間”が刃を向ける。
リュミエール:「血は、契約。
契約は、呪い。
……あなたも、同じ道を辿るのかしら?」
彼女が微笑んだとき、世界が歪んだ。
麗華は息を吸う暇もなく、現実へと引き戻される。
視界が再び暗転し、冷たい石の匂いが鼻を突く。
遺跡の壁が震え、魔法陣が赤黒く光を放つ。
セレナが叫び、カイルが駆け寄る。
カイル:「麗華! どうした――返事を!」
麗華は唇を震わせ、血の滴る掌を見つめた。
その赤はもう、彼女の血ではなかった。
神と人との契約そのもの――
それが、彼女の中で再び脈打ち始めていた。
――息を呑む間もなかった。
麗華が目を開けた瞬間、空気が変わっていた。
遺跡の内部、第二層の儀式場。
さっきまで静寂に包まれていた石壁が、まるで脈打つように赤黒く光を放っている。
どろり、と血のような液体が壁面を流れ、そこに刻まれた契約文字が蠢いた。
やがてそれらはひとつに溶け合い、人の形をとって立ち上がる。
カイル:「……なんだ、あれは……!」
声が震える。
アルトが即座に反応し、杖を構えながら低く呟いた。
アルト:「“裏切りの契約者”の残滓……! 封印の番人だ!」
その言葉と同時に、儀式場の温度が一気に下がった。
息が白く凍り、血の匂いが濃くなる。
“それ”は人の形をしているのに、どこにも“顔”がない。
ただ、空洞のような穴の中で、幾千の声が囁いていた。
影:「血が……戻った……
再び、“滅びの契約”を紡ぐ者――」
言葉は呪詛そのものだった。
響くだけで、脳髄に針を刺されたような痛みが走る。
セレナが咄嗟に詠唱を始め、カイルが前へ出た。
セレナ:「〈光壁〉!」
カイル:「麗華を守れ!」
光の壁が展開する――だが、影はそれをすり抜ける。
光も、刃も、炎も、すべてを無視して進む“概念の影”。
バルゼン:「くっ……斬れねぇ、こいつは“形”がねぇ!」
剣が通らない。
影は、肉体ではなく、“罪”そのものを媒介にして存在していた。
そして、その“罪”の中心――麗華の血に、真っ直ぐに手を伸ばす。
影:「契約の継承者……おまえも、裏切るのか……?」
その声を聞いた瞬間、麗華の身体が震えた。
頭の奥で、リュミエールの声が甦る。
リュミエール:「逃げないで。あなたが“継承者”なら、血を受け入れなさい。」
“受け入れる”――?
だが、受け入れたらどうなる? 自分がこの影のように、滅びを呼ぶ存在になるかもしれない。
恐怖が喉を締めつける。
その一瞬の迷いを見逃さず、影が麗華の胸へと手を突き立てた。
痛みではなく、灼けるような冷たさ。
血と記憶が逆流し、彼女の瞳に紅い光が宿る。
――世界が二重に重なる。
目の前の影の中に、かつてのリュミエールの仲間たちの顔が浮かんだ。
笑っていた、誓いを交わした者たち。
だが、最後には刃を向けた者たち。
麗華(震える声で):「……あなたたちが……“裏切った”のね。」
影:「違う……おまえが……“神”を選んだのだ……」
悲鳴とも懺悔ともつかぬ声が、遺跡全体を震わせた。
儀式場の壁が崩れ、天井から赤黒い光が降り注ぐ。
その中心で麗華は、血の光に包まれ、ゆっくりと立ち上がった。
リュミエール(声だけが響く):「そう――それでいい。
“受け入れた者”だけが、契約を“上書き”できるの。」
麗華の掌に、古代文字が刻まれる。
それは“神との契約式”そのもの――
新たな契約の“鍵”となる印。
カイルが叫ぶ。
カイル:「麗華! やめろ、それ以上は――!」
けれど彼女は振り返らなかった。
その瞳にはもう、恐怖も迷いもなかった。
ただ、血に刻まれた使命だけが、彼女を突き動かしていた。
――息を呑む間もなかった。
麗華が目を開けた瞬間、空気が変わっていた。
遺跡の内部、第二層の儀式場。
さっきまで静寂に包まれていた石壁が、まるで脈打つように赤黒く光を放っている。
どろり、と血のような液体が壁面を流れ、そこに刻まれた契約文字が蠢いた。
やがてそれらはひとつに溶け合い、人の形をとって立ち上がる。
カイル:「……なんだ、あれは……!」
声が震える。
アルトが即座に反応し、杖を構えながら低く呟いた。
アルト:「“裏切りの契約者”の残滓……! 封印の番人だ!」
その言葉と同時に、儀式場の温度が一気に下がった。
息が白く凍り、血の匂いが濃くなる。
“それ”は人の形をしているのに、どこにも“顔”がない。
ただ、空洞のような穴の中で、幾千の声が囁いていた。
影:「血が……戻った……
再び、“滅びの契約”を紡ぐ者――」
言葉は呪詛そのものだった。
響くだけで、脳髄に針を刺されたような痛みが走る。
セレナが咄嗟に詠唱を始め、カイルが前へ出た。
セレナ:「〈光壁〉!」
カイル:「麗華を守れ!」
光の壁が展開する――だが、影はそれをすり抜ける。
光も、刃も、炎も、すべてを無視して進む“概念の影”。
バルゼン:「くっ……斬れねぇ、こいつは“形”がねぇ!」
剣が通らない。
影は、肉体ではなく、“罪”そのものを媒介にして存在していた。
そして、その“罪”の中心――麗華の血に、真っ直ぐに手を伸ばす。
影:「契約の継承者……おまえも、裏切るのか……?」
その声を聞いた瞬間、麗華の身体が震えた。
頭の奥で、リュミエールの声が甦る。
リュミエール:「逃げないで。あなたが“継承者”なら、血を受け入れなさい。」
“受け入れる”――?
だが、受け入れたらどうなる? 自分がこの影のように、滅びを呼ぶ存在になるかもしれない。
恐怖が喉を締めつける。
その一瞬の迷いを見逃さず、影が麗華の胸へと手を突き立てた。
痛みではなく、灼けるような冷たさ。
血と記憶が逆流し、彼女の瞳に紅い光が宿る。
――世界が二重に重なる。
目の前の影の中に、かつてのリュミエールの仲間たちの顔が浮かんだ。
笑っていた、誓いを交わした者たち。
だが、最後には刃を向けた者たち。
麗華(震える声で):「……あなたたちが……“裏切った”のね。」
影:「違う……おまえが……“神”を選んだのだ……」
悲鳴とも懺悔ともつかぬ声が、遺跡全体を震わせた。
儀式場の壁が崩れ、天井から赤黒い光が降り注ぐ。
その中心で麗華は、血の光に包まれ、ゆっくりと立ち上がった。
リュミエール(声だけが響く):「そう――それでいい。
“受け入れた者”だけが、契約を“上書き”できるの。」
麗華の掌に、古代文字が刻まれる。
それは“神との契約式”そのもの――
新たな契約の“鍵”となる印。
カイルが叫ぶ。
カイル:「麗華! やめろ、それ以上は――!」
けれど彼女は振り返らなかった。
その瞳にはもう、恐怖も迷いもなかった。
ただ、血に刻まれた使命だけが、彼女を突き動かしていた。




