領主邸の違和感 ― 血の契約の影
麗華たち一行が辿り着いたのは、王都北部――アステル領の中心に佇む“湖の館”だった。
鏡のように澄みきった湖面。その水上にまるで浮かぶように建つ白亜の館は、夕暮れの光を受けて神々しいほどの輝きを放っていた。
しかし、その静寂はどこか張りつめている。鳥の囀りも風の囁きも、まるで遠慮しているかのように控えめだ。
麗華は門前に立ち、ふと息を詰めた。
(……空気が、重い)
目には見えない。だが、確かに圧がある。
空間そのものが“意思”を持ち、外からの侵入を拒むような圧迫感。
隣でセレナが眉をひそめた。
「……この空気、妙ね。結界のような魔力が、館全体を包んでる」
彼女の紫の瞳が淡く光る。魔導士特有の魔力感知だ。
セレナの指先から放たれた微細な光粒が空間に溶け、すぐに霧散する。
「やっぱり。相当古い術式よ。……触れただけで、拒まれた」
ロウガが大きく肩を回した。
「気のせいじゃねぇのか? なんか胸が詰まる感じはするが、結界なんて見えねぇぞ」
セレナが小さくため息をつく。
「見るんじゃなく、感じるの。あなたみたいな筋肉では分からないかもね」
「なんだとぉ?」
「はいはい、落ち着け」
ダリオが制止しつつ、懐中の魔力測定端末を取り出した。
カチリと起動音。淡い光が円盤状の装置に灯る――が、すぐにノイズが走り、数値が乱れた。
「……ダメだ。波形がめちゃくちゃだ。普通の魔力じゃねぇ。何かが“反応を拒んでる”」
麗華は静かに辺りを見渡した。
館を取り囲む森は不気味なほど静かで、まるで外界と隔絶された異空間のようだった。
(ここが……アステル領。封印指定区域、ね)
胸の奥で、微かに首輪が脈動する。
血のような熱が、皮膚の下を通って首筋を焼くように走った。
「……行きましょう」
麗華の一言で、重い空気を押し割るように一行は歩き出す。
湖を渡る橋を踏みしめるたび、波紋が静かに広がっていく。
その足音が、どこか遠い“目覚め”の合図に思えた。
――そして、湖の底の“何か”が、微かに呼応する。
水面に、誰にも見えない紋章が一瞬だけ浮かび、消えた。
案内されたのは、湖の館の奥――まるで異世界に踏み込んだかのような大広間だった。
天井まで届く黒曜石の柱が左右に立ち並び、壁一面には古代語にも似た紋章が刻まれている。
無機質な光がその文様を淡く照らし出し、まるで文字そのものが呼吸しているかのようだった。
足音が床に響くたび、低く重い反響が返る。
空気そのものが“圧”を持つようで、ロウガでさえ無意識に背筋を伸ばした。
「……こりゃ、ただの貴族の館じゃねぇな」
「同感。建築様式が古すぎるわ。少なくとも数百年前の“契約期”のもの」
セレナが壁を見上げながら呟くと、ダリオが軽く頷いた。
「この装飾……王国史に載ってないタイプだ。記録外の文明、か」
そんな彼らの視線の先、広間の中央――
ひとりの青年が、黒曜の椅子に静かに座していた。
白銀の髪を後ろで束ね、深紅の瞳を持つ青年。
貴族としての品格を纏いながらも、どこかこの世の理から外れた存在感。
その姿を見た瞬間、麗華は胸の奥で何かがざわつくのを感じた。
――冷たい。けれど、どこか懐かしい。
「遠路ご苦労だったね」
青年はゆるやかに立ち上がり、微笑を浮かべた。
その声は穏やかで、よく通る。だが不思議と、空間の奥底にまで染み込むような響きを持っていた。
「アステル領へようこそ――特級冒険者、麗華・ヴァルグレイン」
その名を告げる声音に、微かな“探る気配”が混じる。
まるでその名の響きが、何かを呼び覚ます鍵であるかのように。
次の瞬間――麗華の首元の首輪が、淡く光った。
かすかな熱。皮膚を通して、血が震える。
(……反応した? どうして――)
麗華は無意識に喉元へ手を当てた。
だが、アルトはそれを見逃さない。
深紅の瞳が、彼女の動きを射抜くように追う。
その瞳には、ただの興味ではない“確信”が宿っていた。
「やはり……君の中に眠る“印”が、目覚め始めているのだね」
その言葉に、場の空気が一瞬凍りつく。
カイルが思わず剣に手をかけ、ロウガが低く唸る。
セレナとダリオは互いに視線を交わしながら、即座に結界展開の準備を取った。
しかし、麗華は動けなかった。
アルトの言葉が、胸の奥のどこか深い場所に突き刺さる。
(“印”……? この感覚を、知っている……?)
アルトはゆるやかに微笑み、背後の執事に指を鳴らす。
「緊張しなくていい。君たちは客人だ。……だが、今宵はゆっくり話そう。
――“血”に刻まれた真実について、ね」
その瞬間、黒曜石の柱に刻まれた紋章が一斉に淡く光を帯びた。
古代の呼吸のような響きが、静かに大広間を満たしていく。
そして麗華の首輪も、再び脈動を始めた。
まるで、それが“応答”しているかのように。
夜の帳が下りるとともに、湖の館は一変した。
無機質な昼の静寂とは違い、今は豪奢な光と音楽に包まれている。
金糸のカーテンが月光を反射し、天井のシャンデリアが宝石のような輝きを放つ。
長卓の上には香ばしい肉料理、艶やかな果実、蒸気を立てるスープ。
絵画の中の饗宴のように整えられた光景――
だが、麗華の胸には拭えぬ違和感があった。
給仕たちの動きは確かに洗練されている。
だが、その笑顔の奥に見えたのは“忠誠”ではなく、“恐れ”。
背筋を伸ばしても、どこか怯えたように目を伏せている。
この館には、笑ってはいけない何かがある――そんな緊張が漂っていた。
「……なあ、ここ、変じゃないか?」
カイルが声を潜めて呟いた。
「貴族の屋敷ってより……なんつーか、牢獄の中の晩餐って感じだ」
「気づいた?」とセレナが応じる。
「この館、結界で覆われてる。魔力が微細に巡回してて……まるで“監視”されてるみたい」
麗華は黙って頷いた。
背中に感じる、目に見えない“視線”。
それは空気の一部に混ざって、彼女たちの一挙手一投足を観察しているかのようだった。
「誰かが、見てる……ずっと」
呟いた瞬間、アルト・アステルが静かにグラスを置いた。
赤いワインが月光を受け、妖しくきらめく。
その色はまるで、血液のように濃く、粘り気を帯びて見えた。
「君の中に眠る“印”……」
彼の声が、晩餐のざわめきを切り裂く。
「やはり、目覚め始めているのだね」
麗華の手が止まる。
次の瞬間――首輪の奥から、焼けるような痛みが走った。
体の内側で、何かが蠢く。血流が逆流するような熱。
「う……あ……っ!」
息を詰まらせ、テーブルに手をつく。
首元の紋章が、まるで心臓の鼓動と連動するように光を放った。
「麗華!? どうした!」
カイルが立ち上がり、セレナがすぐに支える。
ロウガの拳が震え、ダリオは即座に警戒魔法を起動しかけた。
だが――アルトは微笑を崩さず、手を軽く上げた。
「大丈夫。……“反応”しているだけだ」
その声はまるで祈りのように静かで、確信に満ちていた。
「彼女の血が、我らの“契約”を覚えているのだよ」
「契約……?」
カイルの喉が鳴り、セレナが息を呑む。
アルトはグラスを置き、ゆっくりと立ち上がった。
彼の足元から、淡い赤光が広がっていく。
床に刻まれた古代の文様が呼応するように脈動し、部屋全体がわずかに震えた。
「この地は、かつて《血の儀式戦争》で滅んだ“契約者たち”の眠る場所。
君の中の血が反応しているのは――“ここ”が、彼らの故郷だからだ」
麗華の視界が滲む。
音が遠のき、代わりに――耳の奥で誰かの声が囁いた。
──【目覚めよ、継承者】──
瞬間、血紋が脈打ち、脳裏に紅い残光が走る。
それは知らぬ記憶の断片。かつてこの地で交わされた、誰かの誓約の残響。
「……やっぱり、ただの依頼じゃないわね」
セレナが小さく呟く。
「アルト・アステル……こいつ、何者だ?」
ダリオの目が鋭く光る。
アルトはその問いに答える代わりに、静かにグラスを掲げた。
「ようこそ、“契約の地”へ。
君たちの来訪は――運命によって定められたものだ」
その宣言とともに、晩餐の灯りが一瞬揺らいだ。
窓の外――湖面の光がゆっくりと紅へと染まり始める。
風は止み、音は消え、世界が息を潜めた。
そして――麗華の胸の奥で、
“何か”が確かに呼吸を始めた。
それが《血の契約》の再始動であることを、
この場の誰ひとり、まだ理解してはいなかった。
昇格式から、数日後。
麗華は呼び出しを受け、ギルド本部の最上階――上層会議室の前に立っていた。
分厚い扉の前で一度だけ深呼吸をし、ゆっくりと扉を押す。
重い音とともに開かれたその部屋には、張り詰めた空気が満ちていた。
長机を囲むように幹部たちが並び、中央には封蝋付きの依頼状。
赤黒い封蝋の表面には、不吉な紋章が刻まれている。
――“血の契約紋”。
それを目にした瞬間、麗華の胸がざわめいた。
どこかで、確かに見たことがある。
いや、もっと深いところで――“覚えている”。
副団長フェルディナが、低く響く声で口を開いた。
「この印……覚えているか? 古文書では“誓約の印”と呼ばれていた代物だ」
麗華は一拍の沈黙ののち、静かに頷いた。
「ええ。触れた者の“魂”にまで契約が刻まれる……そんな伝承が残っていました」
フェルディナは短く息を吐き、椅子の背にもたれかかる。
「依頼の内容は、アステル領での“古代遺跡の調査および護衛”。
一見すれば学術的な依頼だ。だが、実際には“観測”と“監視”を兼ねている可能性がある」
“監視”――その言葉に、麗華の眉がわずかに動く。
「監視、ですか?」
フェルディナの視線が、静かに彼女を射抜いた。
「お前の“血紋”が、前回の戦闘以降――王都の観測装置に反応を示している。
上層部は、それを偶然とは考えていない」
沈黙が落ちる。
時計の針の音さえ、やけに大きく響いた。
麗華は拳を握りしめ、唇を結ぶ。
「……つまり、私は“観測対象”というわけですね」
フェルディナは何も答えなかった。
その代わり、壁際に立っていた黒衣の男が一歩前に出る。
黒の外套が音もなく揺れる。
その姿は、影そのもののようだった。
「――そういうことだ」
低く、冷静な声。
バルゼンだった。
彼は麗華を真っすぐに見据え、無駄な前置きもなく告げる。
「今回の依頼は、表向きは護衛任務。だが実際には“接触任務”だ」
空気が一層、張り詰めた。
バルゼンの瞳に浮かぶ光は、まるで真実を切り裂く刃のように鋭い。
「アステル領の領主、アルト・アステル。
彼は古代の血統を継ぐ家系の末裔とされている。
何らかの理由で、“血紋”の反応を感知した可能性が高い」
麗華は息を呑む。
その名――“アステル”に、微かな既視感があった。
バルゼンは続けた。
「お前には、彼と接触してもらう」
「接触……ですか?」
「ああ」
淡々と頷く彼の声には、一切の感情がない。
「今回の任務は、上位会議直轄の“別命”だ。
俺たちですら詳細を知らされていない。
ただひとつだけ伝えられた――“血の契約”に関わる、と」
会議室の空気が、一瞬で凍りついた。
“血の契約”――それは王国建国以前に封印された禁術。
人と魔の血を混ぜ、魂ごと縛る、最古の誓約。
麗華の胸の奥で、痛みが走る。
首元の首輪が、淡く赤黒い光を宿した。
それを見たフェルディナの目が鋭くなる。
「……やはり、無関係ではないか」
麗華は深く息を吸い、わずかに俯いた。
「この任務……受けます」
その声には、覚悟が宿っていた。
フェルディナが眉をひそめる。
「自分が“監視対象”になるかもしれないんだぞ」
「それでも――確かめたいんです。
この“血”が、何を呼ぼうとしているのかを」
静寂。
そして、バルゼンがわずかに口角を上げた。
「いいだろう。ならば――行け、麗華・ヴァルグレイン。
これは、お前自身の“運命”への試練だ」
その瞬間、麗華の首輪がかすかに震えた。
まるで、遠くの誰かがその名を呼んだかのように。
――その呼び声が、再び“血の契約”を目覚めさせることになるとは、
まだ誰も知らなかった。




