貴族領の招待状
王都から北へ、五日。
霧と冷風に包まれた山脈地帯の奥、アステル領は静かに眠っていた。
街道を外れると、地面には複雑な魔導陣の痕跡が浮かび、
枯れた森の奥では、朽ちた石柱が無数に突き出している。
それらは、まるで“過去の祈り”が石の形となって残ったようでもあった。
この地は、千年前に起きた《血の儀式戦争》の終焉の地。
王国史では禁忌として扱われ、
いまも王命により“封印指定区域”として立ち入りが制限されている。
だが、その地表の下には――
無数の“古代遺跡群”が眠っている。
時折、発掘者や冒険者が迷い込み、二度と戻らぬという噂も絶えない。
アステル領の空は、常に曇りがちだ。
昼でも陽光は薄く、夜は月が血のように赤く染まる。
旅人たちはそれを“契約の月”と呼んで恐れた。
それでも、この地には多くの研究者や学者が足を運ぶ。
理由はひとつ――
この領には、“失われた契約文明”の痕跡が残されているからだ。
古代の碑文には、こう記されている。
――〈血を以て契りし者、法を越え、命を繋ぐ〉
その言葉の真意を知る者はいない。
だが、今まさに。
王国の静寂を破るように、ひとつの依頼が発せられた。
その封蝋には、赤黒く滲む紋章――
“血の契約紋” が刻まれていた。
昇格式から、わずか数日後。
麗華はギルド本部の最上層――幹部専用の会議室へと呼び出された。
厚い扉を押し開けた瞬間、空気が変わる。
金と黒を基調にした重厚な室内。
長机の上には、蝋で厳重に封じられた一通の書状が置かれていた。
淡い灯火の中、封蝋に刻まれた紋章が妖しく輝く。
――“血の契約紋”。
麗華の視線がそれを捉えた瞬間、背筋に冷たいものが走る。
副団長フェルディナが、沈んだ声で口を開いた。
「……この印。お前も知っているはずだな、麗華」
彼の前に置かれた古文書が、ぱらりと風に揺れる。
そこに描かれた紋様は、目の前の印章とまったく同じだった。
「古記録では、“誓約の印”とも呼ばれていた。
触れた者の魂に、契約を刻む――血の文明時代の遺物だ」
麗華は静かに頷く。
「……確か、千年前の《血の儀式戦争》のとき、
契約魔法の極致として使われたと……」
フェルディナは短く息を吐き、椅子の背にもたれかかる。
その目は、どこか疲弊していた。
「依頼の内容は“アステル領での古代遺跡調査および護衛”だ。
一見すれば学術的な任務……だが、実際には違う。
王国上層部は、この依頼を“観測任務”と位置づけている」
麗華は目を細めた。
「……観測、ですか?」
「そうだ」
フェルディナの声が、低く、重く響く。
「お前の“血紋”が、前回の戦闘以降、王都の観測装置に反応している。
上層部は“偶然”とは見ていない。
――お前の中に、“何か”が目覚め始めていると考えている」
会議室の空気が、一層冷たくなる。
麗華はゆっくりと拳を握りしめ、唇を噛む。
「……つまり、私は“観測対象”でもあるということですね」
その静かな言葉に、フェルディナは何も答えない。
ただ、深く、長い沈黙が落ちた。
やがて、壁際に立っていた黒衣の男が一歩前に出る。
重い靴音が、まるで空気を割るように響いた。
「……話はそこで終わりだ、フェルディナ」
鋭い声音。
ギルド直属の特殊任務部隊――“影隊”の指揮官、バルゼン。
銀の瞳が暗闇を射抜き、麗華を見据える。
「任務は確定した。アステル領への派遣部隊を編成する。
――麗華、カイル、セレナ、ロウガ、ダリオの五名。
お前たちは“表向きは調査隊”。
だが実際には、王国の“監視の目”でもある」
麗華は視線を上げ、真正面からその瞳を受け止めた。
その奥に、冷たい炎のようなものが宿っている。
「……了解しました。どんな任務であれ、私は受けます」
その瞬間、バルゼンの唇がわずかに動いた。
笑みか、それとも哀れみか――判断はつかなかった。
フェルディナが静かに立ち上がり、言葉を添える。
「アステル領は、かつて“契約文明”が繁栄した土地。
だが、いまは封印指定区域だ。
――そこへ足を踏み入れるということが、どういう意味か、分かっているな?」
麗華は小さく頷いた。
心の奥に、ざらりとした感覚が残る。
まるで、運命の糸が静かに絡まり始めたような――そんな予感。
“血の契約紋”が呼び覚ますものは、果たして遺跡の秘密か、それとも――
それが、麗華たちの新たな旅路の始まりだった。
重苦しい沈黙の中、バルゼンが前に出た。
その銀の瞳は、氷のように冷たく、何一つ感情を映さない。
「……この依頼、表向きは“護衛任務”。」
低く、抑えられた声が室内に響く。
フェルディナも麗華も、その先の言葉を待った。
「だが実際には、“接触任務”だ。」
その一言が、会議室の空気を変えた。
まるで、張り詰めた弦が鳴るような緊張が走る。
「アステル領の領主――アルト・アステル。
彼は、古代の血統を継ぐ家系の末裔だと言われている。
そして……おそらく、“血紋の反応”を感知したのも彼だ」
麗華の瞳がわずかに揺れた。
“血紋の反応”。それは彼女の中に眠る、あの不穏な脈動。
フェルディナが眉をひそめる。
「まさか……上層部の“別命”か?」
バルゼンは無言のまま、一拍置いてから頷いた。
その仕草には、ためらいのような影が差していた。
「……ああ。
今回の任務は、王国上位会議――“円卓評議”の直轄だ。
俺たちですら、詳細を知らされていない。
だが一つだけ、明確に伝えられている。」
彼は机の上の書状を指先で叩いた。
その瞬間、蝋封に刻まれた“血の契約紋”が、ぼうっと赤黒く光る。
「――“血の契約”に関わる任務だ、とな。」
その名を口にした途端、会議室の温度が一気に下がる。
誰もが息を呑み、空気が凍りつく。
“血の契約”――それは王国が建国されるより前、
《血の儀式戦争》の根源にあった禁術。
人と魔を結びつけ、力と命を交換する。
代償は、血そのもの。魂を代価にした“誓約の儀”。
千年前、それを使った王と七人の魔導士が、
国ひとつを滅ぼしたと伝えられている。
麗華の胸の奥で、微かな痛みが走った。
――ドクン、と。
胸元の下、肌に直接触れる銀の首輪が、淡く赤く脈動する。
まるで何かが呼応するように。
フェルディナがその変化に気づき、思わず声を上げる。
「麗華……それ、今……?」
麗華は小さく息を呑み、首元に触れた。
冷たいはずの金属が、熱を帯びている。
「……感じます。呼んでいるような……何かが」
バルゼンの目が細められる。
その光には、戦士の警戒と、管理者の冷徹さが同居していた。
「やはり、そうか。
“血の契約”はお前の中で、すでに反応を始めている」
麗華は拳を握りしめ、俯いたまま呟く。
「私の中に……まだ、あの“力”が……?」
「確認はアステル領で行う」
バルゼンが言い切る。
声には一切の情がなく、命令としての冷たさだけがあった。
「麗華。お前は任務の中心だ。
アルト・アステルとの接触、そして“血紋”の真実を探れ。
もしそれが“再起動”に繋がるなら……」
言葉を切り、バルゼンは一瞬だけ目を伏せた。
そして、誰にも聞こえないほどの小さな声で続けた。
「……俺たちが、止める」
その宣告は、刃のように鋭く、静かに胸を突いた。
麗華は顔を上げ、まっすぐにバルゼンを見据える。
その瞳には恐れも迷いもなかった。
「――わかりました。どんな結果になろうと、受け入れます」
バルゼンは無言で頷き、踵を返す。
重い扉が閉じる音が、会議室に響いた。
残された麗華の胸元では、なおも首輪が淡く光を放っていた。
まるで、“契約”そのものが、再び目を覚まそうとしているかのように。
バルゼンは指先で机の上の依頼書を軽く弾いた。
乾いた音が室内に響く。
それだけで、誰もが次に続く言葉を悟る。
「――同行者は、こちらで指名済みだ」
淡々とした声。
その冷静さの裏に、妙な緊張感が滲んでいた。
バルゼンは書類の一部をめくり、名を読み上げる。
「カイル・レインズ、セレナ・ヴァルロア、ロウガ・ストレイド、ダリオ・フェイン。
お前を含めて五名で編成する」
麗華は静かに頷いた。
その名を聞くたびに、胸の奥に懐かしい情景がよみがえる。
剣を握り、仲間の背を守ってくれたカイル。
冷静沈着で、時に厳しい助言をくれる魔導士セレナ。
豪快に笑いながら敵陣を切り開くロウガ。
常に一歩引いて戦局を読む、頭脳派のダリオ。
――そして自分。
“封印戦”の地で、共に生き延びた仲間たち。
フェルディナが眉を寄せる。
「なぜこの面子だ? 全員が前回の“封印戦”関係者じゃないか」
バルゼンはほんの僅か、口角を動かした。
笑ったのか、それとも皮肉なのか、誰にも分からない。
「偶然だろう」
短く言い捨てるようなその言葉。
だが、麗華にはその奥に“意図”の影が見えた気がした。
――偶然ではない。必然として選ばれたのだ、と。
麗華は目を閉じ、深く息を吸う。
そして小さく微笑む。
「……全員、あの時を知ってる。だからこそ、行く価値がある」
その声には、迷いよりも覚悟があった。
フェルディナはそれを見て、わずかに口元を緩める。
「そうか。ならば止めはしない」
彼は背もたれに深く沈み込みながら、低く付け加える。
「ただし――この任務で見聞きしたことは、報告書以外に口外するな。
いいな?」
「了解しました」
麗華は立ち上がり、静かに敬礼した。
その仕草に、フェルディナも軽く頷く。
バルゼンはその様子を無言で見つめていた。
彼の銀の瞳には、一瞬だけ人間らしい“感情の揺らぎ”が見えた気がした。
だが、それも束の間。
彼は踵を返し、淡々と命令書を机に置く。
「出発は三日後。装備の準備を整えておけ。
目的地は――アステル領・第七封印遺跡群。
そこが、全ての始まりだ」
重い扉が閉じる音が、静かな会議室に響いた。
麗華の胸元では、あの銀の首輪がわずかに光を帯びる。
まるで、これから始まる“運命の呼び声”に応えるかのように。
夜の風が、屋上を通り抜けていった。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った王都。
遠くの街灯が瞬き、まるで誰かが見守るように淡く揺れている。
その屋上に、五人の影が並んでいた。
カイルが両手をポケットに突っ込み、ぼんやりと夜空を仰ぐ。
「なあ、今回はなんか……空気が違うよな」
隣で、セレナが長い銀髪を風に揺らしながら答える。
「依頼書の印章、あれ見た? “血契紋”。
普通じゃないわ。王都の上層部が動くなんて、滅多にない」
ロウガが大きく伸びをし、豪快に笑う。
「へっ、上等だ。今度はどんなヤバいもんが出るか楽しみだな」
ダリオはため息をつき、肩をすくめる。
「笑いごとじゃない。下手すりゃ戻れねぇぞ、ロウガ」
「はっ、そんなこと言ってたら冒険者なんて務まらねぇよ」
ロウガが笑う声が、夜風に溶けていく。
麗華はその少し離れた場所で、黙って空を見上げていた。
黒い髪が風に流れ、月光に照らされる首元。
そこに輝く銀の首輪が、ふと淡く光を放った。
カイルが気づき、声をかける。
「……麗華、どうした? また光ってるぞ、それ」
麗華はわずかに首を押さえ、首を振る。
「大丈夫。ただ……少し、胸騒ぎがするの」
夜空を横切るように、稲光が走った。
北の空――アステル領の方角。
セレナがその光を見つめ、表情を引き締める。
「……雷、ね。天候じゃなく、何かの“前兆”かもしれない」
麗華の胸の奥が、再び脈を打つ。
痛みとも違う、呼びかけのような熱。
(……アステル領。
あの地に、何が眠っているの?)
答えは、まだ誰も知らない。
けれど――その夜、確かに“何か”が動き始めていた。
血の契約に導かれるかのように、
北の空で鳴り響く雷鳴が、運命の鐘の音のように響いていた。




