“試練”は真の意味で幕を開けた
空間は沈黙に包まれていた。
足音ひとつ、息づかいひとつさえ、すぐに虚無へと吸い込まれていく。
“審判の間”――迷宮の最深、そして最終。
数えきれぬ罠を越え、命を削るほどの戦いを潜り抜けてきた麗華の前に、最後の扉が開かれていた。
床はまるで氷のように冷たく、純白の大理石にも似た質感をしている。
それは円を描き、その中心に描かれた古代文字が淡く青白い光を放っていた。
だが、どこから光が来ているのかはわからない。
天井は存在せず、見上げればただ“空”があった。
いや、正確には――何もない。
そこに広がっているのは、空でも闇でもなく、“虚無”としか呼べない空間。
風も音も、時間の流れさえも止まっているようだった。
麗華はゆっくりと歩みを進める。
靴底が白い床を叩くたび、空間がわずかに震えるような錯覚を覚える。
――ここが……最終層。
心の中でつぶやいた瞬間、円陣の中心が静かに輝き始めた。
そこに、巨大な鏡が浮かび上がる。
縁も支えもなく、まるで重力から解放されたかのように、鏡は宙に漂っていた。
鏡面は液体のように揺らめき、波紋が広がる。
やがて、そこに“姿”が映る。
それは――麗華自身だった。
同じ顔、同じ髪、同じ瞳。
だが、その笑みだけが決定的に違っていた。
氷のように冷たく、慈悲の欠片もない。
> 『ようやく来たのね、わたし。』
声はまるで水面の底から響くように歪み、どこか懐かしい響きを孕んでいた。
麗華は息を呑み、一歩、後ずさる。
「……あなた、は……?」
鏡の中の“もう一人”は、静かに唇を動かした。
> 『わたし? 違うわ、麗華。わたしは――あなたの“影”。』
その瞬間、鏡面がひときわ大きく波打ち、冷たい風が吹き抜けた。
どこからともなく、囁き声が響く。
――おまえは、誰を救う?
――おまえは、何を捨てた?
麗華は耳を塞いだ。しかし、声は頭の中に直接響く。
足元の円陣が淡く光を増し、古代文字が脈動するように輝き始めた。
鏡の中の“影”が、一歩、こちらに足を踏み出す。
波紋が広がり――そして、境界が崩れた。
液体のように鏡が割れ、“影の麗華”が現実の空間へと姿を現す。
その足音は、現実に確かに響く。
> 『さあ、審判を始めましょう。――わたしを超えられるかどうか。』
冷たい微笑みが、虚空の光を反射する。
麗華の喉が乾く。手が震える。
だが、その瞳だけは、わずかに燃えていた。
「上等よ……。自分に負けるつもりなんて、最初からないわ!」
静寂を破るように、円陣が眩い光を放ち、二人の影が重なり合う。
虚無の空間に、金属の音が響いた。
“己との戦い”――それが、迷宮の真の審判だった。
鏡の奥から、冷ややかな笑い声が響いた。
それは、自分自身の声――けれど、まるで他人のように聞こえる。
“鏡像の麗華”は、ゆっくりと唇を吊り上げ、深い闇の底から這い出すようにその姿を見せた。
黒い靄が足元から立ち上り、彼女の背後に絡みつく。
やがて、靄は歪み、ねじれ、そして――形を持つ。
それは、獣だった。
六つの眼を持ち、鏡の破片のように鋭い鱗を全身にまとう“鏡の幻獣”。
その瞳には、深い憎悪と悲哀が宿っている。
麗華が息を呑んだ瞬間、鏡像の彼女が言葉を紡ぐ。
『お前は、奴隷として生きてきた。
誰かの命令に従い、逆らえず、ただ“存在”するだけ。
それを“生きる”とは呼ばない。』
冷たい声が空間に反響し、虚無が震える。
麗華の心臓がきゅっと縮む。胸の奥を、見えない手で掴まれたような痛み。
「違う……私は――」
かすれた声で否定を試みる。
だが、鏡像はすぐに重ねるように言葉を突きつけた。
『何が違う? 力を求めたのは恐怖から。
支配される痛みを忘れたくて、壊す力を望んだだけ。
そんなものに、誰かを守れると思うの?』
その瞬間、麗華の視界が揺らぐ。
――熱い。
頬を伝う涙とともに、焼け付くような記憶が流れ込む。
燃え盛る炎。崩れ落ちる家。
母の悲鳴。
そして、弟の小さな手が、炎の向こうに消えていく。
『助けて!』――その叫びは届かなかった。
彼女は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
麗華の膝が震え、床に崩れ落ちる。
その前に、幻獣が低く唸りながら歩み寄る。
巨大な影が覆いかぶさり、息をすることさえ許さないほどの圧が降りかかる。
『お前は弱い。だから、いずれまた奪われる。
自分の存在ごと、誰かに踏みにじられるのだ。』
その言葉が、心臓をえぐるように突き刺さる。
麗華は唇を噛み、血の味を感じた。
震える指先が、首に刻まれた奴隷の刻印へと触れる。
そこから――微かな光が漏れた。
「……そうね。弱い。ずっと、そう思っていた。」
麗華はゆっくりと顔を上げる。瞳の奥に、光が宿り始める。
鏡像が、わずかに眉を動かした。
「でも――もう、逃げない。」
その瞬間、床の古代文字が輝きを増す。
風が巻き起こり、麗華の髪が宙に舞う。
彼女の手のひらに、淡い紅の魔法陣が浮かび上がった。
> 『……反抗するつもり? “自分”に?』
鏡像の声が低く唸る。
幻獣の六つの眼が一斉に光り、牙が閃く。
麗華は一歩、前に出た。
その瞳は、もはや怯えではなく――決意の色。
「たとえそれが、自分との戦いでも。
私は、過去を超える。」
光と闇が交錯し、“審判の間”全体が震えた。
鏡の獣が咆哮を上げる。
そして、麗華は光の刃を構え、真っ向からその影に立ち向かった。
麗華はゆっくりと立ち上がった。
足元にはひび割れた床、宙にはまだ闇の残滓が漂っている。
胸の奥で何かが弾けるように、心臓が熱く脈打っていた。
頬を伝う涙が、ぽたりと白い床に落ちる――その瞬間、彼女の周囲に黒炎がふわりと立ち上る。
けれど、その炎はもう、さっきまでのように荒れ狂うものではなかった。
怒りや憎しみを燃料にした、呪いの火ではない。
どこか温かく、柔らかな光を帯びて揺らめく。
まるで、長い夜の果てに灯る祈りの炎のように。
麗華は震える唇を開く。
胸の奥から、魂の叫びがあふれ出た。
「私は奴隷じゃない!
誰かの影でも、憎しみの器でもない!
“生きる”ことを選んだ――麗華よ!」
その言葉が虚空に響いた瞬間、彼女の首に刻まれた奴隷の印が、まばゆい光を放った。
焼け焦げるような痛みとともに、刻印から黒炎が噴き出す。
だがそれはすぐに白く変じ、純粋な光へと姿を変えていった。
黒炎が白炎へと転じる。
闇を焼くための炎ではなく、己の心を清めるための光。
麗華の全身を包み込むように、白炎は柔らかく揺らめいた。
鏡の幻獣が苦悶の咆哮を上げる。
その身体を、純白の炎がゆっくりと侵食していく。
爛々と輝いていた六つの眼が、次第に翳り、形を保てなくなっていく。
『……なぜ……消えない……私も……お前の一部のはずなのに……!』
獣の声が、風に溶けるようにかすれていく。
麗華は静かに目を閉じ、祈るように呟いた。
「あなたも、私の中の“恐れ”だった。
でも、もう――さようなら。」
白炎が一気に膨れ上がる。
鏡の幻獣が光の奔流に呑まれ、悲鳴とともに鏡面の奥へと吸い込まれていった。
閃光が走り、そして――静寂。
風が止み、虚空に漂っていた靄が消える。
足元には、砕けた鏡の欠片が散らばっていた。
そこに、ひとつだけ淡く光るものがある。
麗華は膝をつき、その光に手を伸ばす。
掌に収まったのは、小さな青白い結晶――“認証の魔石”。
その表面には、彼女の名が古代文字で刻まれていた。
「これが……正式登録の証……」
麗華の瞳が潤む。
光を放つ魔石を握りしめる手が、震えている。
長かった試練の終わり。
けれど、その光はただの終着ではなかった。
それは――“始まり”の証。
麗華は立ち上がる。
白炎がふっと消え、代わりに澄んだ風が頬を撫でた。
もう迷いはない。
「私は、この手で掴む。
私自身の生き方を――」
砕け散った鏡の欠片が、まるで祝福するように宙を舞う。
その中心で、麗華は静かに目を閉じた。
そして次の瞬間、白い光が彼女を包み込み――審判の間の扉が、ゆっくりと開かれていった。
空中に浮かぶ魔石が、淡い光を帯びて回転を始めた。
その輝きは静かに脈打ち、やがて透き通るような女性の声が響く。
『――試練通過、確認。
受験者・麗華。
その魂、強靭にして純正。
此処に、“正式冒険者”として認証する。』
光が一気に広がり、麗華の全身を包み込む。
その身に刻まれていた奴隷の印が、白く燃え上がるように輝き――
やがて、鎖のように絡みついていた紋様が、音もなくほどけていった。
焼けるような痛みが一瞬、全身を駆け抜ける。
それでも、麗華は逃げなかった。
両手を胸の前で組み、ただ静かにその瞬間を受け入れる。
パリン――。
目に見えぬ鎖が砕け散る音が響く。
重くのしかかっていた何かが、ふっと消えた。
息を吐く。
これまで感じたことのない、軽やかな空気が肺を満たす。
足の裏から伝わる“自分の重さ”が、こんなにも確かなものだと知る。
麗華は、膝をつきながら空を仰いだ。
頬を伝う涙は、悲しみではない。
痛みでも、屈辱でもない。
その瞳に宿っているのは、揺るぎない“誇り”だった。
「……これで、やっと……自分の足で立てる」
掠れるように呟いた声が、虚空に溶けていく。
試練の間を包んでいた冷たい気配が、いつのまにか温もりに変わっていた。
視線の先に、砕けた鏡の欠片が散らばっている。
そこに映る自分の姿を、麗華は静かに見つめた。
――もう“奴隷”ではない。
そこにいたのは、どこまでも真っすぐな瞳を持つ、一人の少女。
名前を、麗華という。
彼女はその場に立ち上がる。
背中をまっすぐに伸ばし、握り締めた拳を胸の前に置く。
「私の戦いは、ここからだ。
この力を、誰かのために使えるように――」
光を放つ魔石が、ゆっくりと彼女の掌に降りてきた。
その中心には、新たに刻まれた紋章――“冒険者の証”が輝いている。
麗華はそれを大切に抱きしめると、崩れ落ちる審判の間を後にした。
背後で、鏡の欠片が静かに光を反射する。
その光はまるで、彼女の新たな旅立ちを祝福するようだった。
遠く離れたギルド上層――
重厚な魔導結界に包まれた観察室の中で、三人の影が淡い光に照らされていた。
中央の魔導水晶は、先ほどまでの激闘の映像を映し出している。
光の中には、静かに立ち上がる麗華の姿。
その背中には、確かな“決意”が宿っていた。
しばしの沈黙ののち、バルゼン副長が腕を組み、低く呟く。
「……やり遂げたか。あの娘が、ここまで制御するとはな」
彼の視線は鋭いが、その奥にわずかな驚愕と――微かな敬意が混じっていた。
ミレーヌ女官長は静かに頷き、長い睫毛の影から麗華の映像を見つめ続ける。
その表情は、感情を読み取れぬほど静謐だ。
「ええ。予想以上の制御力……。
もはや“器”ではなく、“意思”を持つ存在。
人の域を、ほんの少しだけ超えたわね」
バルゼンがわずかに眉をひそめる。
「そんな危険な存在を、どう扱うつもりだ?」
答えたのは、二人の背後から響く低い声。
黒衣の仮面をかぶった“影の参謀”が、壁際の闇から歩み出ていた。
その足取りは音もなく、まるで影そのもののようだった。
「フッ……扱う? 違うな。
彼女はもう、誰の手にも負えぬ“歯車”だ。
――これで封印は完全に“動いた”。
王国は、すぐに動くさ。」
魔導水晶が淡く脈打ち、やがて光を失っていく。
室内は一瞬にして闇に沈み、静寂が戻る。
ミレーヌがその暗闇の中で、細く息を吐いた。
「動き出したわね……長き沈黙の“連鎖”が」
誰も言葉を返さない。
ただ、外の夜風が結界の隙間を抜けて、冷たく頬を撫でていった。
その頃、麗華は知らずにいた。
自らの勝利が、いくつもの陰謀を目覚めさせ、
王国と魔王軍、そして封印の真実を巡る“運命の連鎖”を引き寄せていることを。
――それは、英雄への第一歩か。
それとも、再び“封印”を呼び覚ます悲劇の始まりか。
夜空の高みで、赤い月がゆっくりと姿を現す。
その光は、街を血のように染めながら、ギルドの尖塔を照らした。
やがて風が吹く。
揺れる月光の中、遠くで微かに――鎖が鳴る音がした。
そして、“試練”は真の意味で幕を開けた。




