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奴隷令嬢、最強への成り上がり  作者: 南蛇井


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39/50

“試練”は真の意味で幕を開けた

 空間は沈黙に包まれていた。


 足音ひとつ、息づかいひとつさえ、すぐに虚無へと吸い込まれていく。

 “審判の間”――迷宮の最深、そして最終。

 数えきれぬ罠を越え、命を削るほどの戦いを潜り抜けてきた麗華の前に、最後の扉が開かれていた。


 床はまるで氷のように冷たく、純白の大理石にも似た質感をしている。

 それは円を描き、その中心に描かれた古代文字が淡く青白い光を放っていた。

 だが、どこから光が来ているのかはわからない。

 天井は存在せず、見上げればただ“空”があった。

 いや、正確には――何もない。

 そこに広がっているのは、空でも闇でもなく、“虚無”としか呼べない空間。


 風も音も、時間の流れさえも止まっているようだった。


 麗華はゆっくりと歩みを進める。

 靴底が白い床を叩くたび、空間がわずかに震えるような錯覚を覚える。


 ――ここが……最終層。


 心の中でつぶやいた瞬間、円陣の中心が静かに輝き始めた。

 そこに、巨大な鏡が浮かび上がる。

 縁も支えもなく、まるで重力から解放されたかのように、鏡は宙に漂っていた。

 鏡面は液体のように揺らめき、波紋が広がる。


 やがて、そこに“姿”が映る。


 それは――麗華自身だった。


 同じ顔、同じ髪、同じ瞳。

 だが、その笑みだけが決定的に違っていた。

 氷のように冷たく、慈悲の欠片もない。


 > 『ようやく来たのね、わたし。』


 声はまるで水面の底から響くように歪み、どこか懐かしい響きを孕んでいた。

 麗華は息を呑み、一歩、後ずさる。


 「……あなた、は……?」


 鏡の中の“もう一人”は、静かに唇を動かした。


 > 『わたし? 違うわ、麗華。わたしは――あなたの“影”。』


 その瞬間、鏡面がひときわ大きく波打ち、冷たい風が吹き抜けた。

 どこからともなく、囁き声が響く。


 ――おまえは、誰を救う?

 ――おまえは、何を捨てた?


 麗華は耳を塞いだ。しかし、声は頭の中に直接響く。

 足元の円陣が淡く光を増し、古代文字が脈動するように輝き始めた。

 鏡の中の“影”が、一歩、こちらに足を踏み出す。


 波紋が広がり――そして、境界が崩れた。


 液体のように鏡が割れ、“影の麗華”が現実の空間へと姿を現す。

 その足音は、現実に確かに響く。


 > 『さあ、審判を始めましょう。――わたしを超えられるかどうか。』


 冷たい微笑みが、虚空の光を反射する。

 麗華の喉が乾く。手が震える。


 だが、その瞳だけは、わずかに燃えていた。


 「上等よ……。自分に負けるつもりなんて、最初からないわ!」


 静寂を破るように、円陣が眩い光を放ち、二人の影が重なり合う。

 虚無の空間に、金属の音が響いた。


 “己との戦い”――それが、迷宮の真の審判だった。

鏡の奥から、冷ややかな笑い声が響いた。


 それは、自分自身の声――けれど、まるで他人のように聞こえる。

 “鏡像の麗華”は、ゆっくりと唇を吊り上げ、深い闇の底から這い出すようにその姿を見せた。

 黒い靄が足元から立ち上り、彼女の背後に絡みつく。


 やがて、靄は歪み、ねじれ、そして――形を持つ。


 それは、獣だった。

 六つの眼を持ち、鏡の破片のように鋭い鱗を全身にまとう“鏡の幻獣”。

 その瞳には、深い憎悪と悲哀が宿っている。


 麗華が息を呑んだ瞬間、鏡像の彼女が言葉を紡ぐ。


『お前は、奴隷として生きてきた。

誰かの命令に従い、逆らえず、ただ“存在”するだけ。

それを“生きる”とは呼ばない。』


 冷たい声が空間に反響し、虚無が震える。

 麗華の心臓がきゅっと縮む。胸の奥を、見えない手で掴まれたような痛み。


 「違う……私は――」


 かすれた声で否定を試みる。

 だが、鏡像はすぐに重ねるように言葉を突きつけた。


『何が違う? 力を求めたのは恐怖から。

支配される痛みを忘れたくて、壊す力を望んだだけ。

そんなものに、誰かを守れると思うの?』


 その瞬間、麗華の視界が揺らぐ。

 ――熱い。

 頬を伝う涙とともに、焼け付くような記憶が流れ込む。


 燃え盛る炎。崩れ落ちる家。

 母の悲鳴。

 そして、弟の小さな手が、炎の向こうに消えていく。


 『助けて!』――その叫びは届かなかった。

 彼女は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。


 麗華の膝が震え、床に崩れ落ちる。

 その前に、幻獣が低く唸りながら歩み寄る。

 巨大な影が覆いかぶさり、息をすることさえ許さないほどの圧が降りかかる。


『お前は弱い。だから、いずれまた奪われる。

自分の存在ごと、誰かに踏みにじられるのだ。』


 その言葉が、心臓をえぐるように突き刺さる。

 麗華は唇を噛み、血の味を感じた。

 震える指先が、首に刻まれた奴隷の刻印へと触れる。


 そこから――微かな光が漏れた。


 「……そうね。弱い。ずっと、そう思っていた。」

 麗華はゆっくりと顔を上げる。瞳の奥に、光が宿り始める。


 鏡像が、わずかに眉を動かした。


 「でも――もう、逃げない。」


 その瞬間、床の古代文字が輝きを増す。

 風が巻き起こり、麗華の髪が宙に舞う。

 彼女の手のひらに、淡い紅の魔法陣が浮かび上がった。


 > 『……反抗するつもり? “自分”に?』


 鏡像の声が低く唸る。

 幻獣の六つの眼が一斉に光り、牙が閃く。


 麗華は一歩、前に出た。

 その瞳は、もはや怯えではなく――決意の色。


 「たとえそれが、自分との戦いでも。

 私は、過去を超える。」


 光と闇が交錯し、“審判の間”全体が震えた。

 鏡の獣が咆哮を上げる。

 そして、麗華は光の刃を構え、真っ向からその影に立ち向かった。

麗華はゆっくりと立ち上がった。


 足元にはひび割れた床、宙にはまだ闇の残滓が漂っている。

 胸の奥で何かが弾けるように、心臓が熱く脈打っていた。

 頬を伝う涙が、ぽたりと白い床に落ちる――その瞬間、彼女の周囲に黒炎がふわりと立ち上る。


 けれど、その炎はもう、さっきまでのように荒れ狂うものではなかった。

 怒りや憎しみを燃料にした、呪いの火ではない。

 どこか温かく、柔らかな光を帯びて揺らめく。

 まるで、長い夜の果てに灯る祈りの炎のように。


 麗華は震える唇を開く。

 胸の奥から、魂の叫びがあふれ出た。


「私は奴隷じゃない!

誰かの影でも、憎しみの器でもない!

“生きる”ことを選んだ――麗華よ!」


 その言葉が虚空に響いた瞬間、彼女の首に刻まれた奴隷の印が、まばゆい光を放った。

 焼け焦げるような痛みとともに、刻印から黒炎が噴き出す。

 だがそれはすぐに白く変じ、純粋な光へと姿を変えていった。


 黒炎が白炎へと転じる。

 闇を焼くための炎ではなく、己の心を清めるための光。

 麗華の全身を包み込むように、白炎は柔らかく揺らめいた。


 鏡の幻獣が苦悶の咆哮を上げる。

 その身体を、純白の炎がゆっくりと侵食していく。

 爛々と輝いていた六つの眼が、次第に翳り、形を保てなくなっていく。


『……なぜ……消えない……私も……お前の一部のはずなのに……!』


 獣の声が、風に溶けるようにかすれていく。

 麗華は静かに目を閉じ、祈るように呟いた。


 「あなたも、私の中の“恐れ”だった。

  でも、もう――さようなら。」


 白炎が一気に膨れ上がる。

 鏡の幻獣が光の奔流に呑まれ、悲鳴とともに鏡面の奥へと吸い込まれていった。


 閃光が走り、そして――静寂。


 風が止み、虚空に漂っていた靄が消える。

 足元には、砕けた鏡の欠片が散らばっていた。

 そこに、ひとつだけ淡く光るものがある。


 麗華は膝をつき、その光に手を伸ばす。

 掌に収まったのは、小さな青白い結晶――“認証の魔石”。

 その表面には、彼女の名が古代文字で刻まれていた。


 「これが……正式登録の証……」


 麗華の瞳が潤む。

 光を放つ魔石を握りしめる手が、震えている。


 長かった試練の終わり。

 けれど、その光はただの終着ではなかった。


 それは――“始まり”の証。


 麗華は立ち上がる。

 白炎がふっと消え、代わりに澄んだ風が頬を撫でた。

 もう迷いはない。


「私は、この手で掴む。

  私自身の生き方を――」


 砕け散った鏡の欠片が、まるで祝福するように宙を舞う。

 その中心で、麗華は静かに目を閉じた。

 そして次の瞬間、白い光が彼女を包み込み――審判の間の扉が、ゆっくりと開かれていった。

空中に浮かぶ魔石が、淡い光を帯びて回転を始めた。

 その輝きは静かに脈打ち、やがて透き通るような女性の声が響く。


『――試練通過、確認。

受験者・麗華。

その魂、強靭にして純正。

此処に、“正式冒険者”として認証する。』


 光が一気に広がり、麗華の全身を包み込む。

 その身に刻まれていた奴隷の印が、白く燃え上がるように輝き――

 やがて、鎖のように絡みついていた紋様が、音もなくほどけていった。


 焼けるような痛みが一瞬、全身を駆け抜ける。

 それでも、麗華は逃げなかった。

 両手を胸の前で組み、ただ静かにその瞬間を受け入れる。


 パリン――。

 目に見えぬ鎖が砕け散る音が響く。

 重くのしかかっていた何かが、ふっと消えた。


 息を吐く。

 これまで感じたことのない、軽やかな空気が肺を満たす。

 足の裏から伝わる“自分の重さ”が、こんなにも確かなものだと知る。


 麗華は、膝をつきながら空を仰いだ。

 頬を伝う涙は、悲しみではない。

 痛みでも、屈辱でもない。

 その瞳に宿っているのは、揺るぎない“誇り”だった。


「……これで、やっと……自分の足で立てる」


 掠れるように呟いた声が、虚空に溶けていく。

 試練の間を包んでいた冷たい気配が、いつのまにか温もりに変わっていた。


 視線の先に、砕けた鏡の欠片が散らばっている。

 そこに映る自分の姿を、麗華は静かに見つめた。


 ――もう“奴隷”ではない。

 そこにいたのは、どこまでも真っすぐな瞳を持つ、一人の少女。

 名前を、麗華という。


 彼女はその場に立ち上がる。

 背中をまっすぐに伸ばし、握り締めた拳を胸の前に置く。


「私の戦いは、ここからだ。

 この力を、誰かのために使えるように――」


 光を放つ魔石が、ゆっくりと彼女の掌に降りてきた。

 その中心には、新たに刻まれた紋章――“冒険者の証”が輝いている。


 麗華はそれを大切に抱きしめると、崩れ落ちる審判の間を後にした。

 背後で、鏡の欠片が静かに光を反射する。


 その光はまるで、彼女の新たな旅立ちを祝福するようだった。

遠く離れたギルド上層――

 重厚な魔導結界に包まれた観察室の中で、三人の影が淡い光に照らされていた。

 中央の魔導水晶は、先ほどまでの激闘の映像を映し出している。

 光の中には、静かに立ち上がる麗華の姿。

 その背中には、確かな“決意”が宿っていた。


 しばしの沈黙ののち、バルゼン副長が腕を組み、低く呟く。


「……やり遂げたか。あの娘が、ここまで制御するとはな」


 彼の視線は鋭いが、その奥にわずかな驚愕と――微かな敬意が混じっていた。


 ミレーヌ女官長は静かに頷き、長い睫毛の影から麗華の映像を見つめ続ける。

 その表情は、感情を読み取れぬほど静謐だ。


「ええ。予想以上の制御力……。

 もはや“器”ではなく、“意思”を持つ存在。

 人の域を、ほんの少しだけ超えたわね」


 バルゼンがわずかに眉をひそめる。


「そんな危険な存在を、どう扱うつもりだ?」


 答えたのは、二人の背後から響く低い声。

 黒衣の仮面をかぶった“影の参謀”が、壁際の闇から歩み出ていた。

 その足取りは音もなく、まるで影そのもののようだった。


「フッ……扱う? 違うな。

 彼女はもう、誰の手にも負えぬ“歯車”だ。

 ――これで封印は完全に“動いた”。

 王国は、すぐに動くさ。」


 魔導水晶が淡く脈打ち、やがて光を失っていく。

 室内は一瞬にして闇に沈み、静寂が戻る。


 ミレーヌがその暗闇の中で、細く息を吐いた。


「動き出したわね……長き沈黙の“連鎖”が」


 誰も言葉を返さない。

 ただ、外の夜風が結界の隙間を抜けて、冷たく頬を撫でていった。


 その頃、麗華は知らずにいた。

 自らの勝利が、いくつもの陰謀を目覚めさせ、

 王国と魔王軍、そして封印の真実を巡る“運命の連鎖”を引き寄せていることを。


 ――それは、英雄への第一歩か。

 それとも、再び“封印”を呼び覚ます悲劇の始まりか。


 夜空の高みで、赤い月がゆっくりと姿を現す。

 その光は、街を血のように染めながら、ギルドの尖塔を照らした。


 やがて風が吹く。

 揺れる月光の中、遠くで微かに――鎖が鳴る音がした。


 そして、“試練”は真の意味で幕を開けた。

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