試練の始まり
朝靄がまだ街を覆う頃、冒険者ギルドの宿舎に一つのノック音が響いた。
重たい鉄扉の前で、伝令の少年が息を弾ませている。
「れ、麗華さんにお届けです! ギルド本部から……特別召喚の印が……!」
その手に握られていたのは、黒い封蝋に赤い線が走る封書。
赤線――それは、“特別扱い”を意味する。
だがこの場合のそれは、“栄誉”ではなく“監視対象”の烙印だった。
麗華は無言のまま封筒を受け取り、ゆっくりと指で封を裂く。
その動作に迷いも焦りもない。
だがロウガは、眉間に深い皺を寄せたまま、彼女の肩越しに覗き込んだ。
「監視下での審査、だとよ……完全に舐められてるな。」
封書には、短く冷たい文面が並んでいた。
『正式登録審査への召喚。対象:麗華(奴隷籍)――監視下で実施する。
期日:本日正午。場所:ギルド本部・試験広場前。』
まるで罪人の呼び出し状だ。
ロウガの拳がわずかに震える。
「チッ……あいつら、まだ“奴隷が冒険者を名乗る”のが気に入らねぇってわけか。」
対照的に、ダリオは静かだった。
朝陽が差し込む窓際に立ち、紙の質感を一瞥する。
「……だが、逃げる理由にはならん。
むしろ、これを乗り越えれば奴らは黙る。違うか?」
ロウガが不満げに舌打ちをしたが、麗華はもう封書を畳んでいた。
彼女の瞳には、わずかな熱が宿っている。
それは、怒りではなく“確信”に近い光。
「前例がないなら――私が最初になればいい。」
その一言に、二人の視線が吸い寄せられた。
ロウガは苦笑を浮かべながら頭をかく。
「……ははっ、やっぱりお前はそう来るか。」
ダリオもわずかに口元を緩める。
「全く……貴族でもない、騎士でもない、奴隷の身で“初”を狙うとはな。」
麗華は立ち上がり、ベッド脇に置いた黒革の鎧を身に纏う。
金属の留め具が“カチリ”と鳴るたびに、朝の空気が引き締まっていく。
「行こう。――この召喚、受けて立つ。」
窓の外では、街の鐘が遠くで鳴り始めていた。
それは新しい一日の始まりを告げる音。
そして麗華にとって、“奴隷”という過去を断ち切る鐘でもあった。
同時刻。
冒険者ギルド本部の最上階、重厚な扉の奥――
その一室に、権力を握る者たちが集っていた。
長大な円卓。
金縁の椅子。
壁に掲げられたギルド紋章が、朝の光を受けて鈍く光る。
中央に立つのは、副長 バルゼン・グラフト。
漆黒の軍服に銀の飾緒を巻き、剣よりも鋭い眼光で書類を叩きつけた。
「……“奴隷が冒険者を名乗る”。」
その低い声は、まるで鉄を削るようだった。
「我々が築き上げた秩序を、泥靴で踏みにじる行為だ。」
静まり返る室内。
幹部たちの視線が一斉に文書へと注がれる。
それは、“麗華”という名を記した召喚通達だった。
沈黙を破ったのは、銀髪を束ねた女官長――ミレーヌ・ヴァレリア。
清冽な声が響く。
「……ですが、副長。
ギルド規約に“奴隷の登録を禁ずる”条項は存在しません。
彼女はそれを読み、法の盲点を突いた。
むしろ――理にかなった判断では?」
バルゼンの口角が冷たく吊り上がる。
「理? あれは理ではない、傲慢だ。」
書類の上に手を置き、拳で“ドン”と打ち鳴らした。
「身分も持たぬ者が、同じ“冒険者”を名乗るなど笑止。
秩序を乱す芽は、早いうちに摘むべきだ。」
会議室に重苦しい沈黙が落ちる。
誰もが彼の権威を恐れ、言葉を飲み込んだ。
だがその中で、ひとりだけ――
無言のまま、静かに指先を机に打ち鳴らす男がいた。
**“観察官”**と呼ばれる存在。
どこの派閥にも属さず、会議の全てを監視する謎の人物。
彼の指が、机の表面を“コツ、コツ”と一定のリズムで叩いていた。
やがて、低い声がそのリズムを断ち切る。
「……彼女の首輪、見ましたか?」
バルゼンが眉をひそめる。
「奴隷の首輪など、ただの証だろう。」
観察官は薄く笑い、椅子の背に体を預けた。
「ええ――“普通の刻印”であれば、の話ですが。」
バルゼンの手が止まる。
ミレーヌがわずかに顔を上げた。
観察官の瞳は、光を映さない深い闇のようだった。
「……あの首輪には、旧時代の**魂刻印**が混在している。
制御者が存在しない限り、暴走する可能性がある。
――もし、あの女が“刻印に選ばれた者”ならば。」
空気が一瞬で凍りついた。
ミレーヌの瞳が揺れる。
バルゼンの表情には、僅かな警戒が走る。
「……貴様、どういう意味だ。」
観察官は答えず、再び机を“コツ、コツ”と叩いた。
まるで何かの合図のように。
「――まもなく分かりますよ。副長。
“誰が奴隷で、誰が主か”。」
その言葉が消えた瞬間、室内の温度が確かに一度下がった。
ギルド最上層で交わされたこの密議が、
後に“登録試験事件”として記録されることを、
その場の誰もまだ知らなかった。
ギルド本部、地下へと続く石造りの階段。
その最奥――正式登録候補者だけが挑む“試験広場”の前には、既に人だかりができていた。
ざわめき。
ひそひそ声。
揶揄するような笑い。
それらが、湿った空気のように麗華の足元にまとわりつく。
「見ろよ、あれが例の奴隷だ」
「まだ諦めてなかったのか。恥の上塗りだな」
「ま、せいぜい見世物になってくれりゃいいさ」
声の主たちは笑っていた。
だがその笑いの奥には、ほんのわずかに“恐れ”が混じっている。
前回の発表の場で、彼女が見せた“本気の目”――それを、誰もが覚えていたからだ。
それでも、人は弱者を見下さずにはいられない。
群衆の心理が、ひとりの少女を“晒し者”に変えていく。
麗華は、足を止めなかった。
長い黒髪が、背後のざわめきを切り裂くように揺れる。
そのまま試験場の前に立つと、彼女の前にひとりの男が歩み出た。
鋼鉄の徽章を胸に掲げた試験官。
表情は石像のように冷たく、声に一片の感情もない。
「麗華――登録審査は“単独受験”とする。
同行者の立ち入りは一切認めない。」
ざわ…と周囲が波打った。
「単独だと?」「他の受験者は補助員がつくはずじゃ…」
その中で、ロウガが一歩前に出る。
瞳の奥が、怒りで赤く燃える。
「ふざけんな。こいつを狙う連中がどれだけいるか、分かってて言ってんのかよ!」
試験官は眉ひとつ動かさず、薄く笑んだ。
「安全の保障は――“身分に応じて”行われる。
君たち奴隷には、保障など必要あるまい。」
その言葉に、ロウガの拳が震える。
隣のダリオが静かに剣の柄へと手を伸ばした――が。
麗華が、そっとその手を押さえた。
「いいの。」
静かな声。
しかし、その声には微塵の迷いもなかった。
ロウガが驚いて振り返る。
ダリオも、無言のまま目を見開く。
麗華は、わずかに微笑んで言った。
「これも……試練のうちよ。」
その一言が、広場の空気を変えた。
彼女の眼差しに、怒りも怯えもない。
ただ、“超える”と決めた者の確固たる意志だけが宿っていた。
試験官が冷たく頷き、背後の巨大な扉が重々しく開く。
奥から吹きつける風は冷たく――まるで、迷宮そのものが彼女を試すかのようだった。
ロウガが叫ぶ。
「……絶対、戻ってこいよ!」
ダリオは短く頷く。
「信じている。」
麗華は二人に一度だけ微笑みを返し、
そのまま、闇の奥へと歩みを進めた。
――扉が閉まる。
金属の音が響き、光が消える。
地上の喧騒は遠ざかり、
彼女の周囲には、静寂と己の鼓動だけが残った。
その瞬間――“屈辱”は、彼女を試すための刃から、“覚醒の鍵”へと変わった。
ギルド本部のさらに下層、封印された石の回廊。
空気は重く、ひとつ息をするだけで喉が焼けるようだった。
正面にそびえるのは、古代の魔術式が刻まれた巨大な石扉。
円環状の紋章が青白く脈動し、淡い光が迷宮の入口を照らしている。
その光は神聖でありながら――どこか、冷たく拒絶的だった。
試験官が前に出て、無感情な声で告げる。
「内部は監視結界下にある。
“魔石”が認めれば通過、拒めば資格剥奪――ただそれだけだ。」
言葉は形式的。
だがその裏にあるのは、“奴隷風情が通れるものか”という暗黙の嘲りだった。
麗華は、何も言わない。
ただ、手のひらを静かに握りしめる。
冷たい汗が、指先を伝って落ちた。
そのとき、背後から声が飛ぶ。
「行け、バカ正直な奴隷姫。」
――ロウガ。
いつもの豪快な笑みを浮かべているが、その目の奥は真剣だった。
「……信じている。」
――ダリオ。
短い言葉。しかしその一言に、剣士の全ての覚悟がこもっていた。
麗華は振り返り、二人に静かに微笑む。
その笑みは、儚さではなく――戦士の決意だった。
そして、扉の前に立つ。
光が強く瞬く。
古代文字が彼女の影を浮かび上がらせ、次の瞬間――
ガシャンッ!
重厚な音とともに、石扉が開いた。
青白い光が溢れ、麗華の身体を包み込む。
闇と光の狭間。
足を踏み入れた瞬間、背後の世界が閉ざされた。
――扉が、閉じる。
低い振動音とともに、静寂。
ただ、彼女の鼓動だけが響いている。
その胸元で、首輪の刻印が淡く赤く光った。
「……これは――」
微かに感じる脈動。
それはまるで、生き物のように、彼女の心臓と同じリズムで鼓動していた。
息を飲む。
だが、恐れではなかった。
むしろ、胸の奥に熱が生まれる――
それは、枷が力へと変わろうとする胎動。
“それは、試練の始まりにして――封印の胎動の始まりだった。”
静寂の闇の中で、麗華の瞳がゆっくりと開く。
その瞳には、光ではなく――“闇を切り裂く意志”が宿っていた。
薄暗い会議室。
窓の外は、すでに夜の帳が落ちていた。
照明は落とされ、卓上の水晶端末だけが青白い光を放っている。
バルゼンはひとり、静かにその光を見つめていた。
画面には淡々と文字が流れる。
――《正式登録審査:監視対象》
「……ふむ。やはり、こうなるか」
低く、湿った声が部屋に落ちる。
やがて彼は椅子の背にもたれ、指先で机を軽く叩いた。
「結果がどうであれ、処分は変わらん。
“異端”を許せば、秩序が崩れる。奴隷が頂に立つなど――神話への冒涜だ」
沈黙を破るように、扉がわずかに開く。
そこから現れたのは、黒衣に身を包んだミレーヌ。
彼女の瞳は、月光を映すように鋭く光っていた。
「あなた、本気で葬るつもりなの?」
その声は冷たいが、どこか震えていた。
恐れか、それとも迷いか――。
バルゼンはゆっくりと振り向く。
表情に、ためらいの影はない。
「……当然だ。
我らの秩序は“血と印”で成り立っている。
もし奴が頂を奪えば、全てが狂う。
秩序の崩壊――それだけは、許されん」
沈黙。
その静寂の中、どこからか“笑い声”が響いた。
ひゅう、と冷風が吹き抜ける。
背後の闇から、一つの影が滑り出る。
それは――仮面をつけた観察官。
いや、“奴隷商人”と呼ばれる存在だった。
白い仮面に描かれた微笑。
その裏から滲み出るように、声が漏れる。
「秩序、か……」
くつくつ、と喉の奥で笑いながら、
彼はまるで腐敗した果実を撫でるように言葉を続けた。
「だが――崩壊こそ、進化の始まりでは?」
バルゼンの瞳がわずかに揺れる。
ミレーヌは一歩、後ずさる。
そして、仮面の下の男が囁く。
「さて、“選ばれぬ者たち”の夜会を始めようじゃないか……」
闇が、笑った。
青白い光が、一瞬だけ赤に染まる。




