これは――私が超えるべき壁
ギルド本部――その大広間は、熱気と緊張が渦を巻いていた。
昇格試験の合格発表を待つ受験者とその家族、そして彼らの前途を見届けようと集まった冒険者たちで、隙間もないほどに埋め尽くされている。
高い天井から吊るされたシャンデリアが煌々と輝き、石造りの壁にはギルドの紋章が厳かに掲げられていた。壇上には数人の試験官とギルド幹部が並び、まるで裁きを待つ法廷のような重苦しさを漂わせている。
――その空気に呑まれながらも、麗華は人混みの中で背筋を伸ばしていた。
周囲の視線は試験結果を待ちきれずに焦りと期待を帯びている。だが、彼女の胸中には別の不安が静かに渦巻いていた。
(私がここに立っていること自体、許されざることなのかもしれない……)
ギルド本部の大広間――それは希望を照らす場であると同時に、秘密が暴かれれば一瞬で奈落へ叩き落とされる場所でもある。
ロウガは少し離れた位置で腕を組み、鋭い眼差しを壇上へ注いでいた。彼の存在は周囲の冒険者たちをも萎縮させる迫力を帯びている。ダリオは落ち着きなく視線を彷徨わせ、今にも口を開きそうな取り巻き連中を警戒している様子だった。
ざわ……ざわ……。
人波の中で、誰かの小さな声が響いた。
「……なぁ、聞いたか? 奴隷が受験者の中にいるって話」
瞬間、周囲の耳がその言葉を拾い、波紋のように広がっていく。
囁きは次第に形を持ち、やがて誰もが顔を見合わせる中、一人の取り巻き系のクラスメイトが、わざとらしく壇上に声を張り上げた。
「そうだ! あいつだ! 麗華は奴隷なんだ! 奴隷が冒険者を装って受験してるんだ!」
瞬く間に大広間の空気が変わった。
期待と熱気は冷笑と軽蔑へと姿を変え、無数の視線が一斉に麗華へ突き刺さる。
「まさか……奴隷が……?」
「信じられん、そんな身分で……」
「冗談だろう?」
ざわめきは嵐のように広がり、麗華の心臓を締めつけた。
壇上にいたギルド職員の一人が険しい表情を浮かべ、冷たい声を響かせる。
「……事実か?」
麗華は一瞬、答えを失った。
しかし、その沈黙を待たずに職員は言い放った。
「奴隷身分である以上、正式登録は無効だ。規則に則り、冒険者としての資格は認められない」
その瞬間、大広間の空気は完全に敵対へと傾いた。
誰もが嘲り、誰もが遠巻きに見下し、麗華は人混みの中心で孤立する。
胸の奥に刻んだ「自由への誓い」が、いまにも踏みにじられようとしていた。
大広間に張りつめていた緊張は、ほんの一言で形を変えた。
「なあ、聞いたか?」
人垣の中から、不自然なほど通る声が響く。振り返ると、取り巻き系の男子がわざとらしく顎をしゃくり、周囲に聞かせるように言葉を続けた。
「――あいつ、奴隷だってよ。冒険者の皮を被ってるだけの」
一瞬、空気が止まる。
だが、次の瞬間には波紋が広がるように人々の表情がざわめきで揺れた。
「……え? 奴隷?」
「まさか……そんな奴が試験を?」
「冗談だろ、ギルドに奴隷なんて……」
ささやきは最初、半信半疑の響きを帯びていた。けれども、人から人へと伝わるたびに疑念は形を変え、やがて確信めいた声となって膨らんでいく。
麗華に向けられる視線が変わっていくのが、痛いほどわかった。
先ほどまで「誰が合格するのか」という期待で熱を帯びていた眼差しは、今では「奴隷がここにいる」という好奇と軽蔑に染まっている。
「見ろ、あの女……」
「そう言われれば、どこか雰囲気が……」
「なるほどな、奴隷にしては上出来だ」
ひそひそ声は耳を刺すように重なり合い、麗華を中心に渦を巻く。
(……やっぱり、こうなるのか)
心臓が胸を叩き、手のひらが冷たく汗ばむ。
頭では分かっていた。秘密はいつか暴かれる、と。
だが――よりにもよって、この場で。
壇上に控えるギルド幹部たちの顔にも、わずかな動揺が走っていた。
それは、ただの噂話として無視できる軽さではなく、「規則」という冷酷な刃が突きつけられる可能性を意味していた。
大広間を包むざわめきは、もう止まりそうにない。
視線――それは刃だった。
麗華の全身に、数えきれないほどの視線が突き刺さる。
冷たいもの、熱いもの、そしてただ愉快げに歪んだもの。
クラスメイトたちは勝ち誇ったように口角を吊り上げていた。
「やっぱりな」と言わんばかりのその笑みは、麗華の存在を「奴隷」という烙印で塗りつぶそうとしていた。
観客席の冒険者や家族連れの中からも、二種類の反応が広がる。
ある者は、あからさまに鼻で笑い、侮蔑の視線を投げつけた。
「奴隷が……冒険者を名乗るだなんて」
「身の程知らずめ」
また別の者は、興味深げに目を細め、見世物を前にした観客のように息を潜めていた。
「おい、どうなるんだ?」
「ギルドは認めるのか……? それとも追放か?」
静寂と喧騒が入り混じり、麗華の周囲だけがぽっかりと孤島のように切り離されていく。
人々は彼女に触れまいと距離をとりながら、まるで「異物」を観察するかのように取り囲んでいた。
――孤立。
その二文字が、麗華の胸に冷たく降り積もる。
けれど、彼女の瞳にはまだ揺らぎがなかった。
唇を結び、ただ真正面からその視線の嵐を受け止めていた。
(……結局、人は奴隷を奴隷としか見ないのね)
胸の奥で呟いたその思いは、痛みよりもむしろ静かな炎を宿していた。
麗華の顔は、氷の仮面のように動かなかった。
どれほどの嘲笑が浴びせられようと、どれほど侮蔑の視線が突き刺さろうと――その唇は震えず、目も逸らさない。
だが、その胸中は静寂ではなかった。
烈火。
燃え盛るような炎が、心の奥底で荒れ狂っていた。
(――これもまた、踏み台。嘲笑などどうでもいい。私は必ず這い上がる)
蔑まれ、孤立させられるほどに、その決意は研ぎ澄まされていく。
奴隷として押し込められた枠の中に収まるつもりなど、最初からない。
麗華は、冷ややかな瞳の奥で静かに誓った。
今を笑う者たちの声を、必ず未来で黙らせてみせると。
周囲のざわめきは熱を帯び、罵声すら混じり始めていた。
堪えきれずに前へ踏み出したのは、ロウガだった。
「ふざけんなッ! 麗華をなんだと思ってやがる!」
その声に続くように、ダリオも憤然と声を張り上げる。
「試験で示した力を無視して、身分だけで裁くなど――騎士の誇りにも劣る暴挙だ!」
二人の怒りが大広間に響き渡る。
しかし、その前に小さな手が差し出された。
麗華が、静かに制止していた。
「いいのです」
低く、しかし誰の耳にも届く確かな声音。
ロウガの怒声も、ダリオの憤慨も、その瞬間に凍り付く。
麗華の瞳は冷たく澄み、燃えるような意志を宿していた。
「これは――私が超えるべき壁。
奴隷であるがゆえに与えられた宿命なら、それすらも踏み越えてみせる」
その言葉は、観衆の心に深く刻まれる。
哀れむでも、嘲るでもなく。
ただ「異質な強者」として、少女はそこに立っていた。
その宣言こそが、麗華が「奴隷」であることを隠すのではなく、武器とし、頂点へ至ろうとする意思を鮮烈に浮かび上がらせた。




